Vol.07 四万十川の名称の由来

穿入蛇行する四万十川
穿入蛇行する四万十川

20151010初

20160620胡

 

 

■ その川は「大川」

 

 その昔、井戸と川を区別する理由がないように、そこに流れる大川は、大川であり特に固有の名称を付ける必要もなかったことだろう。今でも日常的に「大川」と呼んでいる人は多い。

 ただ、四万十川の名称の由来が定かでないのは不思議である。

 

 土佐の小京都といわれる中村(現四万十市)に流れる四万十川。室町時代後期応仁の乱の勃発により一条家領のあった幡多庄・中村に下向した一条教房が、京の都を偲んでまちづくりをしたという。大川を桂川、後川を鴨川に見立てたということであるが桂川が元はなんと呼ばれていたかという記録は残っていない。暴れ川である四万十川は、過去の記録も消し去ったものであろうか。

   

  川の語源は「河水流ルル音カ、がはがは」と大言海は述べている。ゴウゴウ音を立てて流れるから、その音の擬音語だという。

 民俗地名語彙辞典では川について『井戸のことをカワというのは、沖縄、九州、中国、四国の愛媛県あたりまでという。自然の流水をそのまま利用する「井戸」に「川」と同じ名称が与えられた。九州では「川」はナガレガワ、沖縄ではカーラ。「井戸」と「川」とは、日常生活のうえでも、語形のうえでも区別されなかった時代(もしくは地域)があったのではないか。』と述べている。暮らしに近い水の利用は自然流水の「井戸」であり、沖の「大川」は水運や漁獲、ものを広げ干す川原など生産利用としての性格を持っているのではないか。  

 

 

■四万十川は古来からさまざまな説

 

 その四万十川をメジャーにしたのはなんといっても「NHK特集 最後の清流四万十川」の番組放映だろう。

 それ以来、多くの名称由来が説かれてきたが、一番新しい説は野本寛一氏が述べた木材石数説である(「四万十川民俗誌」(p18)/1999平成11年/雄山閣)。

 氏は、紀州熊野の筏師から聞いた話として、川に流材する石数を計るのに○万〇川という数え方、つまり江戸時代には十万石の木材を十回流す流送量を十万十川と称したというのであると紹介し、四万石を十回流す流域山地の流送可能材木数をもって「四万十川」と別称されたと、新説を述べている。

 四万十川流域の豊かな「木の資源」にスポットをあてた、現地踏査する氏ならではの説ではあるが、今一度、田辺市の関係者に十万十川なる史資料を見せていただきたいし、材積計算の詳細もこの本だけでは理解できないものである。平尾道雄氏の労作「土佐藩林業経済史」からこの木材石数説を考察し、後日報告したい。 

 

 

 その前に、予備知識として、四万十川の名称の由来の各説をあげてみる。

  1. 四万十の流れを集めた/1789天明9年/宮崎八野右衛門の説
  2. 上流の四万川と中流の十川とを合わせた/1858安政5年/防意軒半開の説
  3. 上流の四万川と下流の渡川とを合わせた/1811文化8年/岡宗泰純の説:1998平成10年/大崎光雄の説
  4. アイヌ語シマ説/1897明治30年/寺石正路の説
  5. アイヌ語シ・マムタ説/1928昭和3年/寺田寅彦の説
  6. アイヌ語シマト説/1953昭和28年/建設省渡川工事事務所の誤写説
  7. アイヌ語シマム・トー説/1997平成9年/大友幸男の説
  8. 四万石を十回流す流域山地の流送可能材木数説/1999平成11年/野本寛一の説
  9. 四魔(曼)・渡(十)川の吉田孝世による文学的創作説/1999平成11年/腰山秀夫の説

 

 編集子は、四万十川の川名が初めて出典された「土佐物語」など、それぞれの出典事例となる文献史料を時系列で整理し、その後「土佐史談」などで四万十川の名称由来の論争を俯瞰してみることとした。
 それを踏まえて、これまでの四万十川の命名各説は論じられているが、川の命名にあたっての人の作為を検証した発表がないので、西日本を中心とした命名の傾向、動機を河川別に論じて統計的な処理を行い、確立による推計を図ることとした。
 地名とは「二人以上の人の間に共同で使用せらるる符号」と柳田国男氏が示すように、地元では「大川」で十分用が足り、城下の役人には総称した呼び名も必要であったろう。為政者が付した名称は時代に淘汰されるにしても、古より呼ばれてきた音としての地名は、いくらかの転訛はあったにしても地名に刻まれた歴史を語ることとなる。
 その地名に耳を傾けると悠久とした歴史を感じることができるし、それぞれの説に資史料をあてて推理することは学ぶことの楽しみでもある。
 四万十川の名称に関し、柳田国男氏の東北以北のアイヌ民族説を教条的に支持し「アイヌ語説」をかたくなに否定する人は多い。方言を含めた地元の言葉で地名を読み解けない段階で、あえて上代語や、アイヌ語、縄文語、古朝鮮語などの音で推理することも科学的思考のひとつである。
 四万十川流域の縄文期の遺跡にはこの地域で産出しないサヌカイト(香川県)や黒曜石(大分・姫島)が発掘されている。
 瀬戸内文化と九州文化との交易往来があった縄文文化は狩猟とともに淡水漁撈も暮らしの重要要素となっていたことであろう。その漁撈の場である川を何と呼んだか。今では源流域の地名をあてる河川命名手法は多く、梼原町四万川地区から「シマカワ」と呼ぶのは考えられるが、縄文当時は不自然である。そういった意味では大友幸男氏のいう「シマム・トー(西の大川)」はより支持したい考えである。縄文語と云っても無文字時代の話で、以来文字で示された初出が「土佐物語」であり「土佐州郡志」である。
 以下、出典事例で説明する。
 
■ 四万十川の出典事例(古い順に掲載)
 
▼『長宗我部地検帳』1589天正17年/大川・大河(上流域)、渡川(中村・不破村)
太閤検地の前に長宗我部元親が土佐一国を検地した記録。
 不破村、中村の築地口、蕨谷で「渡川道ノ南」、「渡川下出来」などのホノギ若しくは川名とみうけられる記載がある。ただし、渡川の記述は隣接村にもない。
▼『元親記』高島孫右衛門著/1631寛永8年渡り川(中村)
元親の家臣で長岡郡江村郷に領地がある。高島氏が元親の三十三回忌に著したもの。
 「幡多渡川合戦の事  渡り川より西、渡り川の向、渡り川にて」とあり、いずれも渡り川と記している。
▼『四国遍路道指南』真稔著/1687貞享4年大河(窪川・中村)
原本現代訳<105>【教育社新書】
 四国遍路を十数回巡った真稔は、遍路の利便のためにと「四国遍路道指南」を刊行した。初めて出版された遍路案内記は、遍路の定着・普及に貢献したという。札所の本尊の解説はもとより、札所から札所への道案内を札番の経路ごとに村名、峠、坂、浜辺、川、橋、舟渡し、舟賃、道の曲り、荷物置き場、堂屋、茶屋、名称など詳しく記している。遍路ガイドブックであることから、地名については丹念に聞き取り、現地での呼び名を記録している。
 真稔は三十六番青龍寺から三十七番五社までの経路に「かわゐ村、標石あり。この間に少し山越、後ろは川、引舟がある。これはねねさき村善六が遍路のためにつくり置いたもの。過ぎて大河。洪水の時は手前の山に札納めどころがある、水がない時は五社へ詣る。」(同書p282)とあり、また三十七番五社から三十八番金剛福寺までの経路に「○いでくち村、この間に小川、坂あり。○たかしま村、大河、舟渡し、さね崎村天満という所に引船あり。○ま崎村、薬師堂あり。つくらふち村、この間いつた坂」(同書p285)と書かれ、いずれも簡単に「大河」とだけ書き、四万十川とは記述されていない。
 かくも詳細に地名採取した『四国遍路道指南』に四万十川を大河とだけ表現しているのは不思議である。私見ではあるが、真稔の聴き取り調査の結果、地元の人の呼び名が「大河・大川(おおかわ」であり、その地名が普通名詞でなく、固有名詞として呼んでいたと理解すれば納得もいくものである。
 上流域の四万十町では、今でも「大川に鮎をとりにいく」という。
 真稔は土佐路の川について次のように記録している。
 
  1. 奈半利川  大河
  2. 安田川   安田川
  3. 伊尾木川  いおき川
  4. 安芸川   あき川
  5. 物部川   物部川
  6. 仁淀川   二淀川
  7. 新荘川   すさき川
  8. 四万十川  大河(五社)
  9. 吹上川   ふきあげ川
  10. 蛎瀬川   かきせ川
  11. 四万十川  大河
  12. 松田川   うしのせ川
【四万十町の掲載地名】
 そえみみず坂/とこなへ村/かけの村/かい坂村/六たんじ村/かみあり村/かわゐ村/ねねさき村/くぼ川町/くほ河村/おかざき/ふる市/きんしよの村/みねのうへ村/かた坂  
▼『四国偏礼霊場記(しこくへんろれいじょうき)』寂本著/1689元禄2年五社あたり仁井田川・中村では大河
原本現代訳<105>【教育社新書】
 真稔は『四国遍路道指南』の案内記に満足せず高野山の寂本を訪ねその編集を求めたという。この『四国偏礼霊場記』は、高野山のエリート学僧が書き表しただけあって霊場の由緒は詳述されているが、真稔の遍路道ガイドブックのように道案内や地名の記述は少ない。
 四万十川に関しては「五社」の記述のなかに「前に大河があって、仁井田川と呼ぶ。仁井田は庄の名で、当社の別当は岩本寺という。社から十町余り離れた久保川の町にその寺がある。」(同書p283 )とあり、この川を「大河、仁井田川」と呼んでいる。寂本のすぐれた画技による札所の配置の見取図五社図」にも「仁井田川」とある。
▼『土佐州郡志(とさしゅうぐんし)』緒方宗哲編/1704-1711宝永年間/大川・津野山川・仁井田川・
土佐藩中期の村別に調査してまとめた全27冊の地誌
▽仁井田郷(旧窪川町)
大川
 仁井田郷の各郷村の四至では栗ノ木村、中津川村、本村、作屋村、一斗俵村、越行村、西影山村、沖之野村、志和影山村、東川角村、大奈路村、大向村では「大川」と記し、単に「有川流」とだけ記録している四万十川沿川の郷村もある。
▽上山郷上分(旧大正町)
津野山川・仁井田川、合流して大川
 上山郷上山村上村(※ママ)惣十八村本村の四至に「津野山川在西仁井田川在南過合流」とある。現在の四万十川第一支川梼原川を津野山川、四万十川を仁井田川と呼んでいる。
 梼原川沿線の郷村では「津野大川」と記してる場合が多い。
▽上山郷下分(梼原川右岸と旧昭和村)
津野山川・仁井田川、合流して大川
 上山本村下分の山川として、「津野山川 過村西入大川 仁井田川 自東至西合流津野山川」とある。現在の用法では、仁井田川が津野山川に合流とあることから、当時の本流は津野山川と推論する。
▽上山下村惣二十四村大野村(旧十川村)
大川
 上山郷下分では全ての郷村の四至で「大川」と記されている。大野村(今の十川地区)の四至には「南有大川自高岡流出過村」とあり、大川は高岡から流れてきているとあるが、津野山川の津野山郷なのか仁井田川の仁井田郷なのかは判別できない。
 仁井田郷の四至では土壌の状態を記しているが戸数は記録されていないが、上山郷では戸数は記録しているが土壌の状態は記録されていないなど、記録手法が違っている。
▽下山郷二十一村(旧西土佐村)
大川・三間川
 下山郷二十一村の四至に「村中多小川合大川南流」とあり各村々の四至にも大川とあり、長生村の四至には「川流出下田浦此間十一里」とある。
▽具同村(旧中村市/右岸)
渡川(側流を中筋川)
 具同村の四至に「東限渡川西限楠島南限中筋川北限入田村」とあり、山川にも「渡川」と「中筋川」の記録がある。
▽真﨑村(旧中村市/右岸)
大川
 真﨑村の四至に「有大川出自豫洲界流過村」とある。
▽中村郷(旧中村市/左岸)
渡川・後川・四万十川
 中村郷の山川として「渡川 在村西宿毛往還路源自津野山與豫洲川合是四万十川之下流過村入下田浦」、「後川 在村東北亦流入下田浦」と渡川と後川を記述し、渡川は四万十川の下流としている。ここにも、四万十川の源は津野山としていることから、当時の川の本流は津野山川で源流域は四万川ということである(今でいう四万十川の源流・不入山ではない)。
不破村津崎村(旧中村市/左岸)
四万十川・後川
 不破村津崎村の四至に「四万十川後川合流處・・」とある。
 土佐州郡志での説明では
  • 四万十川の源流は津野山で、津野山川(今の梼原川)が本流である。
  • 河川の名称は、総じて「大川」と呼び、合流地点において区分した名称となっている。
  • その命名法は、「何処より流れ来たか」に主眼が置かれている。例えば「三間川 源出豫洲三間口」というように源流域を命名根拠としている。後川は側流の意による。
  • 掲載されている四万十川流域の河川名称は「四万十川」のほか、「津野山川」、「仁井田川」、「三間川」、「渡川」、「後川」、「中筋川」がある。
  
 四万十川の名称の根拠として多くの研究者は「土佐物語」を引用している。
 確かに出版年により判断すれば戦記物語としての「土佐物語」が先ということになるが、四万十川に「わたりかわ」と読みを付していることから現在の名称論議の混乱が始まっているのではないか。
 同時代を記録した二つの書物ではあるが、綿密な現地踏査に基づき編集された地誌である「土佐州郡志」といわゆる読み物としての「土佐物語」を比較検証すれば、おのずと土佐州郡志が四万十川の名称の文献史料としての価値があると考える。
 明治以降幾多の河川名称混乱は、出典年代の早いということで「土佐物語」を引用することに原因があるのではないか。国土交通省が頑なに渡川水系としているが、やはり地誌として現地踏査した「土佐州郡志」の先人に学ぶ謙虚さがほしいものだ。
 
▼『土佐物語(とさものがたり)』吉田孝世著/1708宝永5年四万十川(わたりかわ)
土佐の戦国大名・長宗我部氏の盛衰とその合戦を記録した戦記物。
 四万十川の川名の初出典とされている。
 文明10年一条殿下向から元和元年長宗我部氏亡滅に至るおよそ138年間の史蹟をきろくしたものである。原本は存在せず6種類の写本がある。写本により「四万十川」に「わたりかわ」とふりがなを付けてあるものもある。
 国立国会図書館デジタルコレクション『土佐物語』には「土佐物語巻第九 四万十川(わたりがわ)合戦の事」とある。
 また、同書巻第三「久禮礼陣井仁井田五社の事」では「此仁井田の郷と申すは、東はしへみらすとて、久禮の大山なり。嶮しき坂の間、数十町上つて、上は浩々たる平地なり、床敷・柿の木・濱の川・窪河などといふ村あり里あり、田あり、畠あり、川流れたり。南は、志和・興津などという所へ下る事又數十町 北は大野見半山・津野山に続きたり。西は片坂とて、高岡・幡多の郡堺にて、磐折に下る事も、又數十なり(中略)又五社は、仁井田五人の衆の氏神と申候。西・東・志和・窪川とて、五人の領主、是を五人衆と申すなり。西とは河内の城主西田彦太郎宗勝、東はてんにちの城主福良助兵衛宗澄、志和は志和の城主南波勘介宗茂、西原は西原城主西原摂津守貞清、窪川は窪川の城主山内備後守宣澄、今の五人衆是なり。(後略)」とある。
 また、次項の「槿花の宮の事」では、容姿無雙の美人・志和城主の息女の不思議な物語が語られている。
 高知県内の河川で土佐物語に記録されているのは、
  1. 石清川(いわし):巻第二坂折山合戦附工文遅参の事/国分川支川笠ノ川川 (南国市岡豊町八幡)
  2. 贄殿川(によど):巻第三大平山城守敗績の事/仁淀川「国中一の大河なり」
  3. 窪津川:巻第八蹉跎山井加久見が形見の石の事/室津川(室戸)(宿毛)
  4. はらひら川:巻第八蹉跎山井加久見が形見の石の事/別頁でははらひ川・見当川
  5. 物部川(香美郡にある川として「かがみ川」という説あり):巻第八所々一見の事/物部川
  6. かがみ川:巻第八所々一見の事/新荘川(須崎)
  7. 四萬十川(わたりがは):巻第九四萬十川(わたりがは)合戦の事/四万十川
 
【四万十町の掲載地名】
巻第三「久禮礼陣井仁井田五社の事」 
 仁井田/床敷/柿の木山/濱の川/窪河/志和/興津/片坂/大鳥井村/五社/河内/てんにち/西原
▼巻第九「四萬十川(わたりがは)合戦の事」
 田の野(上山出羽左衛門重正)
▼巻第九「釉鏡の事」
 興津(興津網又興津のとき網)/大鶴津/小鶴津/志和   
 
▼『土陽淵岳誌(どようえんがくし)』植木挙因(うえききょいん)著/1746延享3年四万十川
3巻399項目の土佐博物誌 
 「三十一  幡多郡四万十(ワタリ)川ノ河原ニ盆石多シ寸法能叶ヘル石也油石ニテ極テ見古又也近年ハ好事ノ者取ツクシテ念頃ニ求サレハ得難シト云」と四万十川に「ワタリ」とフリガナを振っている。(同書p52)

【四万十町の掲載地名】
▼十七 槿花ノ宮(同書p10)
「土佐物語」ニ見ヘタリとして槿花ノ宮の物語を引用
▼七 与津浦(同書p47)
「強キモノニテ大浪ニモキルヽ事ナキ故ニ船ノ綱ニモチユル」とトキ網について説明する。土佐州郡志にも土産として「土岐曽綱」とある。
▼四十一 高岡郡仁井田郷 足跡岩(同書p54) 
▼五十五 槿花宮 仁井田郷(同書p56) 
「仁井田郷堂原ニアリ」とあるが、『堂原』との位置は推定できない。
▼百三十二 志和浦漁人談 
「幡多郡志和浦漁人幽霊伝吉の話」
▼『四国遍禮繪圖』細田周英敬豊著/1763宝暦13年四万十川
真稔の「道指南」や寂本の「霊場記」の刊行を契機として四国遍路は大衆化し、その案内本に続き遍路図(地図・絵図)が出版された。その遍路図として年代が明らかで最古のものが、この細田周英敬豊著の四国遍禮繪圖』である。
 
 三十七番札所五社周辺の村や峠、川の地名は次のとおりである。
 四万十町では床鍋から記録され、浜ノ川(カキノキムラ)から峠を越えて平串に入り計り場を越へ辷道から仁井田川(ウシロ川)を根々崎に渡り、そこから四万十川(大河)を宮内に渡って五社へと向かった。
 この四国遍禮繪圖には、大きく河川の形状を書き入れ「四万十川」と明記している。
 〇トコナベ→〇カゲノ→〇カイサカモト→〇六タンチ→〇カミアリ→〇カキノキムラ→Λ コトウケ→〇カワイΛ 小トウケ→ウシロ川舟ワタシ→〇子ヽサキ→大河→〇ミヤウチ→ 卅七 五社 Λ 小トウケ→谷川→〇クボ川町 二井田ノ別當岩本寺アリ→〇オカサキ→〇フル市→〇キンジヤウノ→谷川Λ 小トウゲ→〇ミ子ノウエΛ 小トウゲ

▼『仁井田郷談』甲把瑞益(がっぱずいえき)著/1770明和7年以降四万十川
高岡郡仁井田の歴史や地理についてまとめた地誌。幡多庄と仁井田の関係、仁井田各村の由来など。
土佐国群書類従⑧や南路志③にも収録されている。
 本庄本在家郷十二ケ村の説明に「或川筋といふハ四万十川(ハタリ)の上なる故なり」とある。
 
▼『土佐一覧記』川村與惣太(かわむらよそうた)著/1775安永4年四万十川
土佐一国を東の甲浦から西の松尾坂までくまなく歩いて書き綴った紀行歌集
室戸の郷土史家山本武雄先生の労作「校注土佐一覧記」を引用した。
 中村について「何処ぞと問わずとも知れ前うしろ二つの川の中村の里」とある。
 四万十川の項では「四万十川 此川土佐国中の大川なり」
 ※フォトギャラリーに土佐一覧記の原板となる「土佐国道之記」
(土佐山之内家宝物資料館蔵)
 この土佐一覧記には、576首の歌が詠まれ、うち四万十町22地区、25首ある。
①藤川(藤ノ川)
咲かけてうつろふからに紫の 色なほ深き藤の川なみ
②天川(天ノ川)
数あまた影をうつして天の川 もゆる蛍や星と見ゆらん
③柿木山(仁井田)
山里は夕入雲にうづもれて 柴の煙の末もわかれず
④茂串・古城
世の業のしげくしあれば心にも まかせぬ中ぞうとくなりにき
⑤小松村(東川角)
姫小松うつし植てや今日よりは ふせ屋のつまに千代を契らん
⑥仁井田五社
此山の五つの社あとしめて 国やすかれと守る神がき
土佐に今いよの御神の跡たれて 二名の島の昔をぞ知る
⑦窪川・古城
のがれては市の住居も山里も 空し心のかくれがにして
さらでだに距たる物を旅衣 たちこし方の山の白雲
⑧西原・古城
夕ごりの雲かとみればたく柴の 煙ぞくゆる遠の山里
⑨寺森(寺野)
杣木こる斧のひゞきはそことしも いかでことふる谷の山彦
⑩川口
さらでだに流れてはやき月影を 川瀬の水に映してぞ見る
⑪秋丸
さびしさは草のは山に置く露の 玉も乱るる秋の夕風
⑫埜地(野地)
よなよなの露の宿りもいかならん 秋風そよぐ野地の萩原
⑬若井
真柴たく煙にもみつ山賊の 世渡る業の心細さは
⑭峰の上
越て行くをち方人の跡見へて 折敷のこす峰の椎柴
⑮志和
ぬぎ更る別れもつらし花染の 袂を春のかたみと思へば
はづかしなよその見る目も老楽の おもてによする志和の浦波
⑯鶴(大鶴津・小鶴津)
行末は千代に八千代に相生の 松によはひを契るとも鶴
⑰槿花宮(志和)
咲いづる花もやつみて朝顔の 名におふ神のぬさに手向けん
⑱茶臼森(仁井田)
風はやみ時雨て行くか瓦越 茶臼が森に雲ぞたなびく
⑲上山(大正・田野々)
山里の物さびしさはま柴焼く けぶりも雲にまがふ夕暮
⑳矢立森(下津井)
かり人の矢立の森を分け行けば 妻こもるとや鹿ぞ鳴なる
㉑止止路岐(昭和・轟)
そよふけに夢も結ばず嵐吹く 夕とどろきの里の旅寝は
㉒胡井志(小石)
今宵しも夢にも見つる故郷を こひしの里に草枕して
▼『土佐幽考』安養寺禾麿(あんようじのぎまろ)著/1734享保19年/
郡郷・山川・名所など土佐国地誌

▼『土佐國白湾往来』卷之上  乾(皆山集8・9地理編p553)/四万十川(水源を四万川村)

『四万十川又渡川水源四万川村下田村ニテ海ニ入ル支川八流あり曰』
 ①仁井田川 船戸ヨリ発シ田野々ニテ本川二入
 ②久保川 大道発シ久保川ニテ入
 ③川口谷川 烏村二発シ川口入
 ④吉野川 一名伊与川伊豫國宇和郡北川村発シ下山ニテ入
 ⑤目黒川 伊豫宇和郡目黒村ニ発シ津ノ川ニテ入
 ⑥奥屋内川 奥屋内二発シ口屋内ニ合入
 ⑦後ロ川 三ツ又発シ井澤ニテ入
 ⑧中筋川 中山ニ発シ坂本ニテ入

 梼原川を本流とし、支流は8つあり、船戸から田野々までの支流を仁井田川としている。
▼『今村楽歌文集』今村楽著/1804文化元年四万十川・わたり川
 「水上より川下まで僅かの小流も残さず数えたりとて四万十川あるべきようやはある。いつの代にか、かかる暇ある人ありて数へたてけんとさへ思ひなされて、あなおかし」と一笑に付し四万十川と渡川の名称について次のように述べている。「今村楽歌文集p340」
 「仏説に見えたる三途川を、『四万十川』とかける、その義さだかには知られねど、もし仏経の内に、四万十川を経て三途川に至るなどいふ説はみえざるか。しからば、九十九と書きて『つくも』とよめる謎書の例によりて、『四万十川』もすなはち『わたり川』と詠まるるなり。こは浮きたる考へなれど、それ西方は十万億土と説けるたぐい、仏経の常なれば、必ずしもあるまじきにあらず、その道の人に尋ぬべき事になん。」

▼『伊能忠敬測量日誌』伊能忠敬著/1808文化5年5月29日四万十川
忠敬50歳に隠居。そのごに自身の足で全国を踏破し「大日本沿海輿地全図」を完成。
 忠敬64歳のとき四国路を測量。5月29日の記録に「下田浦へ行き同所止宿にて中食し、それより同浦川口向[四万十川という。当国の大河又渡川という。巾二三町]間崎村枝郷名鹿ノトウ崎より初め」と記され四万十川と呼びまたの名を渡川と言っている。
 測量の記録は伊能忠敬に同行した隊員の一人が記録した日記「伊能測量隊員旅中日記」もあるが、四万十川の記録はない。
 この測量日誌に記録された土佐国の川名は、次の三河川
①吉野川:名称のみ
②仁淀川:「仁淀川あり、旧名贄殿川」
③四万十川:上記のとおり
 また、土佐藩先遣役として先導した奥宮弁蔵正樹の「測量日記」には、四万十川の記録はないが藩内の次の河川が記録されている。
①物の部川:「いと荒川にて流れさかし。韮生郷の山々志たた里の流れ集てかく大川と那れ」
②安喜川:「安喜川東西とて二処有り。常はかち渡りなるを此度は水まさりたりとて船・・」
③安田川:「安田川船にて渡り一里の松原を過て田野村」
④奈半利川:当国第一の荒川也。船にて渡る」
⑤羽根川:「羽根川船にて渡る。ここも例のかち渡りの地なれど例の水まして船も猶危げ也」
⑥ならし川:「元村と浮津との境にならし川と云ちいさき流れの・・」
⑦元川:「元川渡りて又ちひさき川有り。これなんかのならし川と云。」
⑧ならし川:上記のとおり
⑨浮津川:「浮津川渡りて室戸の湊など見つつ行。」
⑩崎浜川:「崎浜川水まして渡り場たど〵しき・・」
⑪市の瀬川:「領石の駅比江より一里と云。市の瀬川かち渡り也。」
⑫よしの川:「かのよしの川に添て行。上関村船渡り・・」
⑬魚梁せ川:「魚梁せ川仮はし懸く。・・」
⑭赤磯川:「半里斗り過て谷川有り。赤磯川と云。
⑮新居川:「森山を経て西畑に至る。しばし小休して新居川の渡り船にて渡りて宇佐坂」
※西畑から渡船とあることから「新居川」は「仁淀川」のことであろう。
 と15の河川を示している。奥宮は、5月25日、幡多の佐賀の地で先遣役を終え高知へ引き返しているため、四万十川の記述はないのが残念である。
 
▼『南路志』武藤致和と平道父子共著/1813文化10年四万十川
土佐一国に関する諸記録と地誌の一大叢書
 「渡川、四万十川末流也」
 「四万十川と書きて、わたり川と読むことその故を知らず」
▼『四国遍路道中雑記』松浦武四郎紀行集中p253/1836天保7年四万十川
蝦夷を知り尽くす探検家であり北海道の命名者。武四郎18歳の紀行文
 卅七番五社から出口村、高しま村を過ぎ「四万十川 川巾壹りといへり。船せん壹人前廿四文より大水のせつは百文位までとなる。」と四万十川の名を付し、高嶋村から四万十川を望む「四万十川之圖」のスケッチを描いている。
▼『幡多郡紀行(はんぐんきこう)』防意軒半開著/1858安政5年3月7日~3月25日四万十川
土佐藩士で俳人の防意軒半開の幡多路ヘ吟行した安政5年(1858)3月の紀行文。
 この俳諧紀行集は、橋田残丘氏によって活字起こしされ土佐史談(119号、120号、122号)防意軒半開「幡多郡紀行」に公開しているので詳細はそちらで。
四万川と十川の合名地名説 
 防意軒半開は「本国の大川也、四万十川といふ事は数流落集るが、中にも津野山郷の四万川と上山の十川と流れ合ふを以てかく云へるとぞ。」と書き、四万川と十川の合名地名説を採っている。また、磯の川の店屋で赤岡浦から流人にあい「罪あって渡川限追放せらる」と憐れむ段がある。また、廿一日の記録には「是より右家来渡り川にて切腹」とある。
 防意軒半開は四万十川を渡川とも併記しているが、平成6年の河川法改正で一級河川の名称を「渡川流域四万十川」と改名した判断と同じ悩みからであろうか、歴史は繰り返される。
 
 防意軒半開の「幡多郡紀行」は三月七日に始まる奥の細道土佐版にあたる俳諧紀行集である。三月九日には幡多路の途中に窪川本村で宿し、翌十日には五社を詣でている。が、「五社大明神参詣、町を放れ山を越へて往事十八丁、川有、橋を渡りて御旅所在」と、四万十川を「川」とだけ記し、「橋ありと云う景色なり春の水」と吟行している。前日の九日には「平串村より河井川を渡、大奈路村より呼声坂を越す」などと、詳細に現地の地名を記録しているのに、五社詣での難所である大川を「川」とだけ記したのは、不思議である。
 
 ちなみに、幡多郡紀行では、棒端川、浮津川、後川、四万十川、渡川、宿毛川、二淀川、岸切川の川名が記されている。
 
【四万十町の掲載地名と俳句】
 ○往路
 床鍋(とぼとぼによき家蔵や辛夷咲/床を得て鍋も借りたし山桜/労れたる足を養ふさくらかな)/影野/加江坂本/六反地(五六反地面もしきて山桜/怠りし畑に見事な蕨哉)/柿木山/与津浦/鞭坂/平串村/河井川/大奈路村/呼声坂(呼ひ声もほしき山路や呼子鳥)/窪川本村(雉子啼や野山もわかぬ霧の中)/東光寺/五社(橋ありと云ふ景色なり春の水/匂ひ鳥とも知らぬ鄙住)/久保川村(日の午時や宮居長閑に賑はしき)/金上野/からふど坂/峯の上/片坂峠(坂限り住ふ人あり呼子鳥)
 ○復路
 片坂/峰上(醤油にひたして出すや三月菜)/かろうと越/久保川/呼声坂(見れば嬉しけふ呼坂の遅桜(耕泉)/我恋やまた花ありて呼声坂(半開))/河井川/五社/久保川町/柿木山(木高くて猶ひるかえれ梨の花)/床鍋村  
■ 四万十川の名称の研究(古い順に掲載)
 
▼『土佐史談 渡川と四万十川の語源について』山崎進著 △四万川・十川合名説
125号/1970昭和45年3月
 四万十川の語源について土佐史談誌上ではじめてまとめられたのは、山崎氏である。
 当時の所説を論じつつ、四万十の流れを集めた「宮崎八野右衛門の説」を退け、四万川と十川を合せた「防意軒半開の説」に一定の理解を示し、「アイヌ語起源説」を危ういと却下している。その上で「四万十川の語源は永久の謎」と述べている。
 氏は、土佐物語当時から二つの名称があったのであって、四万十川をワタリガワと読むかのに受け取るのは、昔は(カッコ書き)を用いることがなかった時代背景を理解すれば間違いであると指摘している。
 また、渡川の名称の流布について「渡川の名は中村の『わたり』から起こり、次第に有名になり、ついには四万十川全体の別名として通用するようになったことは確かだ」と結論付けている。
 これをベースにして25年後に橋田氏、岡村氏、腰山氏の論陣につながっていった。
▼『土佐史談 四万十川ーその名称と変遷上・中・下』橋田庫欣著
199号(上)/1995平成7年8月
200号(中)/1996平成8年1月
201号(下)/1996平成8年3月
 橋田氏の論調を箇条書きにしてみる。
  • 長宗我部地検帳には、大河、大川、渡川は出てくるが、四万十川の名はまだでてこない。
  • 四万十川と呼ばれだしたのはおそらく元禄2年(1689)の中村三万石断絶以後のことであろう
  • 宝永8年(1708)の土佐物語が、絵図以外の文献では今の所一番古い文献である。
  • 土佐物語には四万十川(わたりがわ)と記されていることから「四万十川一名渡川」のように二つの名があった。
  • 一条氏時代に中村では渡川と称したことが確実であることから、一条氏時代にはまだ四万十川の呼称は生まれていなかった。
  • 土佐州郡志の中村の項で「渡川 是四万十川之下流」とあるので渡川が川全域をさす名称ではなく、中村付近のみをいう名称である。
  • 土佐州郡志での呼称を地図にしてみると、多くの地域で「大川」と呼ばれていた。
  • 天和頃以降、土佐藩の追放刑の制度も次第に整って、渡川限西への追放刑も多くなり、渡川の名は藩内全域に知れわたり、川全域の名称のように思う者も多くなった。
  • 伊能忠敬の測量により「四万十川又渡川」と併記されることにより、両論併記が明治へと継承された。
  • 昭和3年10月18日内務省告示により渡川が正式名称となった。

橋田氏は、昭和3年の渡川の名称決定について「ボタン一つの掛け違い」と当時の内務省の決定を指摘

※また氏は、土佐物語を初出の文献としながらも、土佐州郡志における四至等の記録をもとに論点を整理
※本流は津野山川であること、仁井田川を引用していないこと、大川の呼称説明はしているが、江戸初期の土佐藩における河川命名法を論じていないことに不満が残るとこである。
▼『土佐史談 四万十川ー名称の由来 上・中・下』橋田庫欣著  四万川と十川の合成地名説
202号(上)/1996平成8年8月
205号(中)/1997平成9年8月
207号(下)/1998平成10年3月
 大川は県下の大河川の一般名称
 橋田氏は、長宗我部地検帳・土佐州郡志にみられる県内の川の名称をすべて拾い上げ「高知県下でも四万十川をはじめとして、大きな川すべてが大川と称されていた」とし「大川という名称は、支流の小さな川に比べて大きいから大川と称したまでで、その川だけの固有名詞ではなく、各地の大きな川すべてに使われていた一般的な名称である」と結論づけている。
 また、渡川は中村付近の局所的名称であるとして「長宗我部地検帳(1589頃)並びに土佐州郡志(1722)をみると、中村付近だけが渡川で、上・中流と最下流は大川と称されていたことがわかる。」と考察している。
 
 渡川は一条氏入国以後の名称 三途の川説はおかしな説
 四万十川の別称である渡川については「常設の渡守(舟渡しの職人)が設置された一条氏入国以後のことで、その史料は長宗我部地検帳が唯一のものである」と名称の由来を述べ、三途の川異称説を史実に即しない想像と否定した。
 三途の川異称説とは、「京をしのぶあまり、辺境の地にある川を三途の川、つまり渡川と呼ばれた」という説で当時の建設省渡川工事事務所発行の『綜合渡川史』にも引用されている。氏は、古代の遠流の配流地は幡多でも大方であり、土佐藩の追放刑(渡川限西追放)と混同していることから三途の川異称説を「極めておかしな説」とした。
 「平安期から室町時代前期を通じて四万十川のことを三途の川、或は渡川と称したという史料はなく、渡川と称したのは一条氏時代以降のことで、その史料は長宗我部地検帳が唯一のものである。『綜合渡川史』の史論は、それらの史実を無視した全くの想像のみの史論である。」と昭和3年の内務省決定の愚行を弁明する史論を土佐の法令と史料にもとづき論破した。
 橋田氏は、四万十川の語源について江戸期の説と明治以降の説の二つに分けて説明し、消去法で一つの説を支持している。
 また、仮説として「渡川は三途の川のことであり、中村三万石断絶(※1689元禄2年)がこの渡川という名のためだと考えた人々が、縁起のよい大きな明るい新しい名と考えた末の結論が四万十川であった」と考察し、四万川と十川の合成地名説を示している。
 また、橋田氏は土佐史談125号に掲載された山崎進氏の説を次のように引用している。
 「土佐物語や仁井田郷談の記事の中にも、四万十をワタリと振り仮名をしていることである。そのために四万十をワタリと読むかのように受け取られたのではあるまいか。現代的に書けば、四万十川(わたり川)、すなわち四万十川はワタリ川ともいうとの説明をしたのかもしれない。昔は()を用いることがなかったから。(山崎進)」
 ■江戸期の説
  • 四万十の流れを集めた/1789天明9年/宮崎八野右衛門の説

「済川(わたりかわ)はその源遠く豫洲より出る。その流れ悠々、四万十川集合して海に入る。因って俗に四万十川という。」

 

 歌人・今村楽はこの説について「水上より川下まで僅かの小流も残さず数えたりとて四万十川あるべきようやはある。いつの代にか、かかる暇ある人ありて数へたてけんとさへ思ひなされて、あなおかし」と一笑に付し四万十川と渡川の名称について次のように述べている。「今村楽歌文集p340」

 「仏説に見えたる三途川を、『四万十川』とかける、その義さだかには知られねど、もし仏経の内に、四万十川を経て三途川に至るなどいふ説はみえざるか。しからば、九十九と書きて『つくも』とよめる謎書の例によりて、『四万十川』もすなはち『わたり川』と詠まるるなり。こは浮きたる考へなれど、それ西方は十万億土と説けるたぐい、仏経の常なれば、必ずしもあるまじきにあらず、その道の人に尋ぬべき事になん。」

 文化二年、友人に連座して幡多路に追放となった楽にとって渡川とは三途の川であったことだろう。と竹村義明氏は同書の解説をしている。

 

  • 上流の四万川と中流の十川とを合わせた/1858安政5年/防意軒半開の説

 「四万十川という事は、数流落集るが中にも津野山郷の四万川と上山の十川と流れ合ふを以てかく言へるとぞ」(『幡多郡紀行』より)

 

 橋田氏は、十川は大野村他六村の総称であり、川の名称ではない。四万川も川の名称でなく昔シマガヤが生い茂っていたことを由来とする村名である。として防意軒半開の記述には誤りがあるとしている。

 しかし、「四万川という村に源を発し、中流にある十川村を過ぎて海に入るので四万十川」と川を村に読み替えたうえでこの説を「一番はっきりしてよいように思う」と、当時の四万十川の名称由来の説から消去法で「上流の四万川と中流の十川とを合わせた」説を支持したものである。

 

 数字の地名は、謎めいていて、多くの人に愛される要因でもある。40010は四万十流域の人に支持され、メールアドレスの一部に採用する人は多いことだろう。そういった意味で四万川と十川の合成地名が出現したと考えるのは理解できるが、その地名が流布され、認知され定着するには、あまりにも説得力がないのではなかろうか。氏の支持する理由が今一つ理解できない。

 また、この当時、四万十川の源流が津野山川(四万川)であると理解している点について、氏から史料の提示と説明がないことは残念である。

 

  • 上流の四万川と下流の渡川とを合わせた/1811文化8年/岡宗泰純の説

 「四万渡川」と記しているだけである。

 橋田氏は渡川をトガワとしている点を指摘し、渡川はワタリガワであり、トカワと読めば音と訓とを混ぜた重箱読みになるとこの説が流布されなかった理由としている。

 

 ■明治以降の説

  • アイヌ語シマ説/1897明治30年/寺石正路の説
  • アイヌ語シマト説/1953昭和28年/建設省渡川工事事務所の誤写説
  • アイヌ語シ・マムタ説/1928昭和3年/寺田寅彦の説

 橋田氏は、「シ・マムタとか四万十とか言われたと仮定しよう。そうすると、その後の何千年間も、シ・マムタとか四万十とか呼ばれたはずであるが、古代及び中世にかけてそれらの資料が皆無であり、長宗我部地検帳にさえそれが出ていないのはどうしたころであろうか」とアイヌ語とは結びつかないと断言している。

 昭和58年9月12日、NHKの「土佐四万十川」の放映以前には、四万十川流域において四万十川は「暴れ川」「恐ろしい川」であっても、「清流」とか「美しい川」といった言葉はなかった。シ・マムタの「はなはだ美しい」といった詩情あふれる言葉が、メディアにとって最高の絵になる枕詞となっていった。

 話題としてのシ・マムタと四万十川の名称の由来とは、分けて話したほうがいいと考える。

 結論として、「四万十川の語源は永久の謎」と山崎進氏の言葉を引用しつつ、あえて挑戦したのが今回の研究であったとこの労作を締めくくっている。

 

  

▼『アイヌ語・古朝鮮語 日本の地名散歩』大友幸男著 「シマム・トー」アイヌ語「西の大川」説

1997平成9年/三一書房

 大友氏は岩手日報学芸部長を経て地名や岩手の歴史に関し数々の本を書かれています。

 氏は「地名に関する先人の業績に多くを学びながら、いわゆる「通説」と呼ばれるものには白紙の立場をとりたい」と古地名で盲点になっていた部分に「道草」と称して果敢に挑戦する本書です。

 「日本の古地名の中には、はるかな縄文時代というような時点でつくられたものが、相当の割合で残ってきているという視点に立って、縄文時代人たちが用いていた言葉こそ、北海道や千島に残ってきた近世アイヌ語の祖語にあたるような古代語のようなもの」として、思考停止した国語学者や民俗学者に対し「道草」と称して論考を進めています。

 大友氏は四万十川について次のように書かれています(p17)

なぜ「四万十」や「四万」などがついたものか、地元ではどのように伝えているものでしょうか。あて字であることは疑いありませんが、「シマント」や「シマン」は「大和語」ではどうにも解きようがありません。

従って古くから伝えられてきた可能性がありますが、アイヌ語の「シマム」は「西」で、「東」は「メナシ」です。はるか古代に「大川」も「トー」(海・沼)と呼んだ可能性があることは後述しますが、「シマム・トー」は「西の・大川」になります。

 大友氏の「西の大川」説は、寺田虎彦のシマムタ説にくらべ地味であるためか、四万十川の地名由来として一度も紹介されたことがない。今後の研究課題となろう。

 シマント(西の・大川)と古くから伝えられてきた可能性があると推理する

 

 

▼『土佐史談 四万十川の名称』岡村憲治著 吉田孝世の文学的造語説

205号/1997平成9年8月

 

 岡村氏は、土佐物語の著者が「四万十」の文字を故意に使用してた点について「文学的要素の極めて高い史書っで、歴史に取材した創作」として事例をあげ論考し、
 「四万十川の名称は、宝永5年(1708)の『土佐物語』吉田孝世の文学的造語に由来したものである。したがって、この河川名称がアイヌ語より来ているという説は当たらない。」と結びで述べてる。

 

▼『四万十川民俗誌』野本寛一著 四万石を十回流材できる森林資源賦存量説

1999平成11年1月/雄山閣出版p18

 近年の新しい説は野本寛一氏が述べた木材石数説である(「四万十川民俗誌」(p18)/1999平成11年/雄山閣)。

 

 氏は、紀州熊野の筏師から聞いた話として、川に流材する石数を計るのに○万〇川という数え方、つまり江戸時代には十万石の木材を十回流す流送量を十万十川と称したというのであると紹介し、四万石を十回流す流域山地の流送可能材木数をもって「四万十川」と別称されたと、新説を述べている。

 

 

▼『土佐史談 四万十川の語源』腰山秀夫著 「島ん+渡川」に数字を当てた吉田孝世の文学的創作

211号/1999平成11年8月
 腰山氏は、四万十川名称の二つの説として「上流の支流四万十川と、江川崎付近の支流十川の川名を合わせたもの」とか「江川付近の十川の川はなく、どの範囲の川をいうのか全く不明である」として「四万十川・十川の合成説は、根拠のない憶測といえる。」と結論付けている。
 氏は、この四万川と十川の合名説を論ずるに、この説の出典となる『幡多郡紀行(防意軒半開著)』の「本国の大川也、四万十川といふ事は数流落集るが、中にも津野山郷の四万川と上山の十川と流れ合ふを以てかく云へるとぞ。」を引用しないで説明しているところに多くの誤解を生んだ原因があるのではないか。津野山郷の四万川を四万十川としたり、上山郷の十川を明治22年の町村制によりる新村名でありそれまで十川の地名はなかったといったという説明は、単純な誤解であり、これまで土佐史談で論じられた橋田氏の長宗我部地検帳・土佐州郡志をもとに論考してきた内容と異にするものである。
 また、アイヌ語説については「アイヌ語ではなく四万十の字音にアイヌ語の単音を充てたに過ぎないと述べている。腰山氏は「アイヌの定住地」と「縄文時代に続く人々」について「今日では東北地方の蝦夷といわれた人々もアイヌではなく、縄文時代に続く子孫、といわれている」としつつアイヌと共通の言葉はあったにしてもこの地域にアイヌが命名した地名川名はないと結論付けている。
 腰山氏、橋田氏ともにアイヌ語語源説は否定しているが、アイヌ語で解釈することの危うさの理由を指摘してはいないのが残念である。有名な科学者である寺田寅彦氏のロマンあるシマムタではあるが、かえって地名学としての根拠に薄いとところからアイヌ語による解釈を嫌う傾向をうえつけるに至ったようだ。
 地名学の第一人者鏡味明克氏は「地名の語源を考えるためには、その地名が命名された当時の国語にもどって、その語形で考えなければならない。日本の地名の歴史的に負ってきた宿命は、漢字の複雑な使用による原地名の変形の歴史という点にある。ゆえに語源を云々する場合の筋道としては、漢字によって変えられてきた歴史を元に解きほぐして、原形の文字、発音を復元することが先決問題である」と述べている。
 地名が語る地形や歴史や暮らしを読み解くには、「その地名が命名された当時の国語」によることは当然であるが、それだけで読み解けない地名が多いのも事実で、それを「わからない」で終わらせていいものか。日本古語、縄文語、アイヌ語、蝦夷語、古朝鮮語、シュメール語、チベット語などの言語の伝播と混交、方言変化など多様な考えを根拠を示しつつ論考し多くの批判を受けて昇華させていくことが学ぶもののあるべき姿と考える。
 四万十川の地名の成立時期を中村三万石断絶(1689元禄2年)以降の土佐物語(1708宝永5年や土佐州郡志の編纂時期(1704-1711宝永年間頃)とすれば、アイヌ語による解釈そのものが過ちとなる。長宗我部地検帳は唯一無二の当時の地名辞典でもある。この地検帳に四万十川の記録がないというアリバイ(不在証明)を重く受け止めないと、地名学を拠り所としない単なる言葉遊びに陥ってしまう。
 腰山氏は、四万十川地名の初出となる『土佐物語』の著者・吉田孝世が、並行して山内家の正史『御家之記録』編纂や長宗我部地検帳の校合を命ぜられた、時代背景を詳しく述べ、かつ同時期に『土佐州郡志』も編纂されていることなどから、緒方宗哲氏が四万十川を当てた中村・不破・津崎と吉田孝世氏が示す四万十川合戦の戦場地との関連性については両者の合議も必然的なものと推理している。この土佐州郡志と土佐物語の関係性は面白いところである。
 氏は、元親の四万十川合戦当時の時代背景から「四魔(煩悩魔、陰魔、死魔、天子魔)」、「四曼(真言密教四種曼荼羅)」と川の特徴から「島ン」に渡川を合わせた呼び名に漢字数字を当てた渡川の替字『四万十川』を、吉田孝世が文学的創作により命名したと推察している。
 四万十川名称の伝播と伝承の項で「地名の基本は地検帳にあることから、土佐藩の公的文書、書籍等に見られるこの川の名称は、すべて『渡川』となっており、この名称が、明治以降も公的機関に継承されて、今日に至った経過がある。」と結論付けているが、史資料の明示がなく残念である。この点については橋田庫欣氏が『四万十川ーその名称の変遷 土佐史談199号・200号・201号』誌上に出典史料とその内容を簡潔に示されているので参考にしていただきたい。
 四万十川の名称論議は、土佐史談の誌上で論考が重ねられ、現段階では1999年に発表された腰山氏の「四万十川の語源」が最終報告となっている。ただ、腰山氏も野本寛一氏の「木材流送」説や岩手在住の大友幸男氏の「西の大川」説など最新の発表内容は紹介されていない
 

▼川の命名 

川の名称が、どのような由来で命名されてきたか。文化の流れとなる近隣の九州文化圏、瀬戸内文化圏の有名な河川名称(一級河川)の事例を示し検証してみる。参考資料は「日本全河川ルーツ大辞典(略:河川ルーツ)」
▽為政者統一地名
①筑後川(ちくご/福岡県ほか):利根川(坂東太郎)・吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川のひとつと言われ、筑紫次郎の別名で呼ばれる。上流部では田の原川・杖立川・大山川・三隈川とも呼ばれる。過去には、千年川(ちとせがわ/今でも地元では使用)、一夜川(いちやがわ/室町時代に初見。洪水で豊穣地が一夜にして荒れ地)、筑間川(ちくまがわ/筑前、筑後の中間を流れる)とも呼ばれていた。
 1636年(寛永13年)に江戸幕府の命によって河川の名称を「筑後川」に統一せよという幕命が下った。この評定では「筑前川」というところを誤って「筑後川」といったという逸話がある。しかしこの名称は筑前・筑後・肥前三国の国境を流れる河川に付けられた名称であり、上流である豊後国内では呼ぶことなく今でも三隅川である。国土地理院地形図でも日田市に入れば「三隅川」「大山川」でもっと上流に行けば小国町・杖立温泉の「杖立川」である。
 1636年の評定で口が滑らなかったら多分「筑間川(ちくまがわ)」となったことだろう。(河川ルーツp851ほか)
▽下流域の地名
遠賀川(おんが/福岡県):古事記に記されている岡の水門。今の芦屋浦で海に注ぐので岡川を遠賀川と書き呉音で坊主読みしてオンガ。流域の石炭を運ぶ五平太船は最盛期6千5百隻といわれた。石炭を洗って真っ黒になった鮭も上らないかつての川も、今では本来の川に戻り九州で唯一鮭が遡上する川となった。(河川ルーツp859)
駅館川(やっかん/大分県):古代駅馬制の宇佐駅に関連する。山間部から宇佐平野に出て海にそそぐ。古くは宇佐川(うさがわ)とも呼ばれ、「景行記」には莬狭川(うさがわ)。かつて治水の困難なことからやっかい川の異名もある(河川ルーツp920)。 古代、駅路に置かれた駅家(えきか、えっか)が転じて「やっかん」となり、駅館という字が当てられたという説(司馬遼太郎)【古代の駅家】
番匠川(ばんじょう/大分県):番匠とは中世の大工のこと。江戸時代の佐伯城下への関門に当たる川岸に番匠の集落がある。この付近から河口までを番匠川という。いま、上、中流部を占める本匠村(ほんじょうむら)は合併のさい番匠川の本であるの意で名付けられた(河川ルーツp910)【職能区域】
大分川(おおいた/大分県):遠く湯布院町の水分峠から発し、別府湾に注ぐ大川。大分とは古くは碩田(おおきた)と書き、大きい田の意。一説には豊前と豊後に大きく分けたことによるという(河川ルーツp914)
 古くは堂尻川、寒川とも呼ばれた。豊後国風土記には「大分河オホキタガハ在郡南」とある。
太田川(おおた/広島県):河口部は顕著な三角州で通称本川と呼び、古代安芸・佐伯郡界。太(ひろ)い田の意。上流域で柴木川、滝山川など(河川ルーツp754)
 2004年(平成16年)10月1日 、平成の大合併で山県郡加計町、戸河内町、筒賀村が一緒になり安芸太田町が成立するが、もとの太田川に因んでつけられた町名である。【下流域の地形形状】
大淀川(おおよど/宮崎県):鹿児島県曽於郡末吉町北西部の山地に源を発し、宮崎市に於いて日向灘に注ぐ。県内最大の川。大阪府淀川と同義、淀む川河川ルーツp934)。名称の地形形状から下流域の地名に区分
肝属川(きもつき/鹿児島県):肝属郡の名をとっている。現在の肝属郡は大隅半島の三分の二を占めているが、古代の肝属郡は南部に限られていた。田代町に君付(きみつき)という地名があるが、肝属はこれと関係があるかもしれない(河川ルーツp946)【郡名】
川内川(せんだい/鹿児島県):下流の川内市の名から起こった。川内は古くは、千台、千代、仙台などとも書かれた。川内市の昔国分寺や国府のあった所は台地で、下台部落や台という姓もある。千台という地名はこの台地から起こったのでは(河川ルーツp950)
▽中流域の地名
大野川(おおの/大分県):大分市の広大な原野をうるおす文字通りの大川。源流は遠く直入郡萩町(現在の竹田市の一部)から発する(河川ルーツp911)
 天平12年(740年)頃の『豊後国風土記』に「悉皆原野也因斯名曰大野郡」とあり豊後国の8つの郡のひとつが大野郡とある。大野郡の名は、大部分が原野であったことから名付けられたとされる。大野郡の源流域に直入郡があることから中流域の命名意図とした。【郡名】
菊池川(きくち/熊本県):阿蘇の外輪山西北麓である菊池市深葉を源に、菊池・鹿本の平野をうるおし、玉名に入り、有明海に注ぐ。流域には古墳や遺跡が多く古代に豊かな文化が栄えた。山鹿川、高瀬川など別名も多い(河川ルーツp894)【郡名】
▽上流域の地名
那珂川(なか/福岡県):魏志倭人伝にもある奴国(ナ)のカー(川の古音)の意。後世カーの語意を忘れ更に川が加えられた。肥前国境に源を発し福岡市内を流れ海に入る。(河川ルーツp855)【古代の国名】
山国川(やまくに/福岡県・大分県):名勝耶馬溪(やばけい)に発し、沖代(おきだい)平野をうるおす。耶馬溪は山さかしいところで、古くから山国という。河口で中津川と分かれる(河川ルーツp919)【古名】
 江戸時代は河口近くの村名から高瀬川。古くは御木川(みけがわ/流域をミケ郡(後に上毛・下毛に分割)
白川(しら/熊本県):阿蘇の麓から発し、白水村を通り、熊本市で島原湾に入る大河。川名は白い清冽な水の色を示す(河川ルーツp890)。南阿蘇村湧水群の一つに白川湧水(阿蘇郡阿蘇村大字白川)があり「白川吉見神社」境内から湧く名水百選。上流域で「黒川」と合流、熊本市では「緑川」があるなどカラフル。【源流域の地名】
▽河川の地形・景観地名
五ヶ瀬川(ごかせ/宮崎県):延岡市で日向灘に注ぐ川。古来、五つの急な瀬があったのでこの名称がおこったといわれる。上流は景勝高千穂峡(河川ルーツp928)。源流域に宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町があるが1956年に発足した昭和の合併自治体名称(鞍岡村・三ヶ所村)【地形の形状】

▽不明

小丸川(おまる/宮崎県):椎葉村南部山地に源を発し、高鍋町に於いて日向灘に注ぐ。(河川ルーツp931)

河口の高鍋町に小丸という地名がある。地区名と河川名称のいずれが先かは不明。

 
 
 
■ そのたHP等の四万十川の名称の由来
 
▼『Wikipedia-四万十川』(2015.9.10現在の解説)
 江戸時代には「四万十川」と書いて「わたりがわ」と呼ばれていたこともあるという。また「四万渡川」と書かれることもあった。これが省略されて「渡川」の名称が発生したものと思われる。宝永5年(1708年)の土佐物語には「四万十川 わたりがわ」と記されているという。 
  • 徳川250年の期間を「江戸時代には四万十川と書いてわたりがわと呼ばれていた。」と説明しているが、四万十川をわたりがわと呼んだのか、二つの名称があったのかは不明。
  • 「四万渡川が省略されて渡川の名称が発生した」という説明は、誤認。渡川名称の初出の史料は長宗我部地検帳(1591年/中村郷地検帳)で、それ以降の土佐物語(1708年)が四万十川名称の初出史料である。
  • この流域解説の項に「ダムの水は黒潮町へ流れる伊与木川(伊与喜川)へ放流されている。ただ、このダムの存在により、四万十町の下水を含んだ水がほとんど下流に流れず、下流域の清流を保っている要因となっていることも事実である。」とある。この解説はいただけない。減水区間の瀬切れ問題、家地川ダム撤去運動、津賀ダム撤去運動など地域住民の環境権・親水権の取り組みに一切触れないで「下水が流れていないから、下流域の清流を保っている要因」とは科学的な説明になっていない。

 

▼『教えてGOOhp
NTTレゾナントが運営するQ&Aコミュニティサービス
 ①やはり、アイヌ語説が有名の様ですね。
「土佐異聞録」と言う中で説を唱えた出版物があるようです。
 ②水源の四万川と中流の十川(トウカワ)を合わせて四万十川という別説
吉田茂樹「日本地名語源事典」に説があるらしい。
 ③四万十川のシマントの名前は、アイヌ語のシ・マムタ〔はなはだ美しい〕
と云う説と、上流の支川である「四万川」と「十川」の名称を併せたという説があります。
などいくつかの説が紹介されています。
自主管理のQ&Aコミュニティーサイトの現状です。間違っていても一定の説が拡散されれば、定説になりかねない危惧がある。
 
▼『国土交通省中村河川工事事務所hp
四国地方の古地図に関する調査報告書http://www.skr.mlit.go.jp/kasen/data/hitotokawatonomonogatari.pdf
(平成15年3月発行/国土交通省四国地方整備局・国土交通省国土地理院)
3-5 四万十川
 TOPICS<四万十川と渡川>

 四万十川は元々渡川と呼ばれていました。河川法制定時(昭和39 年当時)に登録された正式名称は、渡川水系渡川でした。現在でも河川法上の呼び名は渡川水系四万十川となっています。元々、下流の中村市周辺では渡川と呼んでおり四万十川は通称でした。しかし、四万十川ブームにより地元から名称変更の希望が起こり、平成6725 日に変更がなされました。

 

 「四万十川」という名前の由来は、上流部の梼原町の支川「四万川」と十和村の支川「十川」の河川名を併せたというもの、アイヌ語の「シ・マムタ」(はなはだ・美しい)から、あるいは同じくアイヌ語の「シマト」(砂礫の多い所)からきたもの等、いろいろと言われています。

 一方渡川とは、昭和初期に刊行された「大言海(だいげんかい)」という国語辞書によれば、三途の川の意味であると解釈されています。また、古今集には、小野篁(おのたかむら:802延暦21年~852仁寿2年)が詠んだ「(いもうとの身まかりにける時よみける)泣く涙雨と降らなむ渡り川水まさりなばかへりくるがに」が収められています。この歌の解釈は、「私の涙が雨となって降ってくれたならば、三途の川が増水して渡れず、妹はもう一度こっちの世界に帰ってこれるのに」という意味のもので、やはり渡川とは三途の川を指していたと言えます。また、土佐では人を罰する際に、川より西の具同や中筋の方面に追放する「渡川限り」という罪名があり、明治初頭まで続けられたと言われています。このほか、中村は古くから交通要衝であって往来も多く、川は渡船によって交通が行われていたので、渡川と言われたという説もあります。 

 

  • この報告書の説明不足のところは①四万十川を通称と位置づけていること②地名命名当時の地誌を引用していないこと③建設省当時の1953年に発行した『綜合渡川史』をそのまま引用し、学術的な進歩に対応していないこと④小野篁の和歌の恣意的な引用などがある。
  • ①通称とは、公称地名でないことを指しているかはわからないが、明治以降の公文書でも示されたもので、「二つの名称」がバランスある理解ではないか。
  • ②四万十川の初出の史料は土佐州郡志や土佐物語であることは周知のこと。津野山郷、上山郷の付記は加えるべきである。当時も今も十川という河川はなく、河川管理者として正確な記述を願いたい。
  • ③、④小さな報告書ですべての史料を掲載しての説明は困難であるので、土佐史談の誌上における四万十川の名称に関する論文は紹介するなどの取り扱いはあっていいのではないか。

▼『環境省hp』

 

①シ・マムタ(大変大きく、美しい川の意)というアイヌ語説

②梼原町の支流四万川と旧十和村の地名の十川の合成語説

③多くの谷や支流を集めた川という形状説

④四万石の木を10回、流送する森林があったという林業説

などいくつかの説があるが、定説にはなっていない。

④の説は、野本寛一氏が「四万十川民俗誌p18」で仮説として紹介したのを引用したのではないか。

 

氏は、和歌山県東牟婁郡本宮町土河屋で、熊野川最後の筏師山中上喜代種さんから聞いた話として「十万十川と称して、江戸時代、十万石の木材を十回流したことがあったという。」を紹介し「木を伐採し、それを川に入れて流送する方法の単位として『〇万〇川』という、大きな数え方あったのである。その川の流域山地の流送可能材木石数をもって『四万十川』と別称されたことが考えられる」と結論づけている。これまでにない新しい説であが、詳しい史料の提示がなく判然としない。

 

 

 

▼『公益財団法人四万十川財団hp
トップページ>四万十川の姿>四万十川のプロフィール>語源
語源 シ・マムタ(大きく、美しい川)、四万川と十川、多くの支流があるなど
 
「四万十なんでも辞典」(平成15年7月第5刷発行)p19
 四万十川の名称由来
 「四万十川の名称由来については、次のような幾つかの説がありますが定説になってはおりません。
 ①シ・マムタ(大変大きく、美しい川の意)というアイヌ語説
 ②梼原町の支流四万川と十和村の地名の十川の合成語説
 ③多くの谷や支流を集めた川という形状説
 ④四万石の木を十回、流送する森林があったという林業説
 ⑤渡川を文学的に昇華させた造語説(四萬渡川)
 
▼『四万十市hp

 四万十市HPに収録されてる「四万十川の概要」では、四万十川の名称の由来や経緯は一切触れられていない。


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