Vol.01 仁井田巡り自動車唱歌(昭和7年)

20160716胡

 

■認定理由

 大正12年ごろには久礼港から窪川台地へ物資の往来に貨物自動車や、相前後して野村組自動車(後の県交通)の乗合自動車が走るようになった。昭和26年11月土讃線窪川駅の開通まで役割を担った。この年不詳の自動車唱歌は、当時の窪川から仁井田までの車窓の風景が映しだされ、仁井田米・香り米の掛け合い漫談にもにた軽妙な喋りもよく、仁井田界隈の風俗が描かれており地名文化財第1号に認定する。 

※この「仁井田巡り自動車唱歌」を引用した近藤日出男著「まぼろしの稲を訪ねて(p28)」には、昭和7年は交通上の大変画が生じた、バスが窪川をはしりはじめたのである。このバス運行をもじって、自動車唱歌に香り米がうたいこまれている。とある。

※大正12年ごろの交通事情は「窪川町史(昭和45年刊/p197)」によった。

 

■地名文化財第1号

仁井田巡り自動車唱歌(曲:鉄道唱歌 / 作詞:替坂紫水生)」

 

一 警笛一声窪川を 早我が自動車は離れたり 茂串山に入り残る月を旅路のときとして

二 右に高き暗谷山 左に見えるは根元よ 大奈路越えを過ぎ行けば 早平串の橋見えて

三 渡ればなつかし仁井田村 此處ぞ郷土の南端よ、川上遥かに中の越 見えねど同じ我が里よ

四 仁井田の五社の大鳥居 左に見えて走り行く ブチが峠もほど近く スピード出せや 我がカーよ

五 昔人切り強盗の出し出路も楽々と バク音高く越え行けば ブッブー

車掌:只今カーは頂上のカーブに差しかかりました。稍々右舷にローリングします。乗客は吊り皮をお召し下さい。ブーブッブー 海は見えねど濱の川

六 窓より近く近く小向の人家も見えて此處彼處 遥かの彼方にうす霞む 山は興津路八千数

バアーン「あれーー猪岳さんおたすけー」

車掌:「エー只今カーのフロントホイルが戀しに乗り上げまして、タイヤがパンクしました。御乗客の皆様三十日間辛棒をお願い申し上げます」

車掌:「長らくお待たせ致しまして恐縮です。今すぐ発車致します。」 ブーブーブッブー

七 ヒミチが谷をまっしぐら 過ぐれば早や仁井田町 此處ぞ郷土のキャタピルである商店軒竝べ

八 東又村松葉川に通ずる道の分岐点諸事の発着絶え間無き 高南一の重要地

車掌:「此處は本町一丁目喜美屋旅館であります。約二時間停車致しますから、御中食をおとりになる方はご案内します。

台地の仁井田のヘンドヨリのご飯と来たら、そりゃあ、もう美味しうて、あごを手拭で吊って置かねばなりません。

第一ビタミンBが豊富で肉が引きしまりそれに頭が非常によくなるからネー」

乗客婦人:「あらまあそうー、仁井田米ったら、土佐代表十名産の一つだったわネ。頂かせてもらいませう」。

車掌:「十名産も何ですぜ、第二位ですからネー。ヘン近頃こんな事が流行って居ますよ『香ふお米で育てた娘他所へはやらぬと親心』なんて、それから、一で須崎のふじこましゆりんの御主人もネー『一度食べたら忘れぬ味よ、他にゃあるまい仁井田米』

それから『娘やるなら仁井田へやろぞ、匂ふお米の金の波』なんてネー云って居ました。

それで私は『娘下さい苦労はさせぬ、匂ふお米で末長く』って云ってやりましたよ。又こんなのも有ります。『仁井田娘はなぜ色白い、匂ふお米で太るもの』なんてネー。

婦人乗客:『オホ、まあ本当にそうですわネー。宅にも一人娘が居ますが、仁井田のような、好い所へ、と思っていますのー。どうかよい口がありましたらお世話願いますよ。お一人ですの奥さんは?』

車掌:「へーまだその何んでございます。一人でー」

婦人:「あらそう。でしたら、何ですわまあこの色男車掌さんに、あの娘さえ気に入りますなら・・・」

 

十七 旭の川道にザオザオと 降るや夜雨にしょんぼりと 誰をまつのかくるくると、人まち顔なる水ぐるま

婦人:「あれーもしもしそないな言云って居たら亦小石に乗り上げますよ、今度は大物のー」

車掌:「イヤ大丈夫で御座居ます。甲種免許の紫水ですからネー。二度と戀しに乗り上ぐなんて事はいたしませんよ。ブーブーブー

 

■地名の解説

自動車唱歌にでてくる地名は窪川から仁井田までの順であげると

「窪川」→「茂串山(後)」→「暗谷山(右)」→「根元(左)→「大奈路越え」→「平串の橋→「仁井田村(南端)」(「川上遥かに中の越」)→「井田の五社の大鳥居(左)」→「ブチが峠→「濱の川」(「小向」・「興津」・「八千数」)→「ヒミチが谷」→「仁井田町」→「本町一丁目喜美屋旅館→「旭の川」

※この自動車唱歌には「呼坂トンネル」がでてこないのが不思議である。「呼坂峠は高知と宿毛を結ぶ往還道の要衝として重要な位置」と窪川町史にも書かれている難所。この呼坂トンネルの起工が昭和5年(1930)昭和7年3月の開通となった。呼坂を越えたのであればその難渋さを、呼坂トンネルを通ったのであればその快適さを歌ってるはずであるのだが。

※この自動車唱歌を引用している「まぼろしの稲を訪ねて(近藤日出男著p28)」にも制作年は記されていない。

※「暗谷山」は「天日山(天一山)」のことか。テレビ中継塔の林立するやまのことか。

※「井田の五社の大鳥居」が平串橋を渡って左に見えるとあるが、どこに大鳥居があったのだろうか。 

※「ブチヶ峠」とは平串から仁井田(浜ノ川)へ越える「鞭カ坂(鞭の坂)」のことか。

※「ヒミチが谷」

※「仁井田本町1丁目喜美屋旅館」

 

■仁井田米・香り米

 仁井田は長宗我部地検帳にもでてくる中世以来の地名である。窪川台地(高南台地)でとれる米は仁井田米と呼ばれる。

コシヒカリやあきたこまちといった全国ブランドの品種であるが、仁井田米は品種ではなくこの地でとれたお米の総称といえる地域ブランド。品種でもないのできちっとした定義はないと思うが、「香り米」のブレンドに特徴がある。この仁井田の自動車唱歌にも「台地の仁井田のヘンドヨリのご飯と来たら、そりゃあ、もう美味しうて、あごを手拭で吊って置かねばなりません」と歌われている。この香り米の一つ「ヘンドヨリ」を選りすぐった人が市川幾治(烏手出身)で別名「幾治ヨリ」とも呼ばれる。民俗学者の近藤日出雄氏の『何を食べてきたのだろう』に詳しくのべているが、愛媛県生涯学習センターWeb「えひめの記憶→遍路のこころ」にも記載されているので一読願いたい。

 

■仁井田川

昭和の50年代までは四万十川と呼ばれるのは一般的ではなかった。旧大正町に渡川建設という土木会社があったが、ここいらでは大川や渡川が一般的で、大正から窪川に向けてが仁井田川、梼原に向けては梼原川と呼ばれた。

瀬里轟に架かるJR予土線の橋は「仁井田川橋梁」と書かれているし、江戸中期の紀行文や古地図にも「仁井田川」と書かれているものが多い。

 

 

未定稿