打井川

うついがわ


20150422初

20170221胡

【沿革】 

 長宗我部地検帳には「宇津井川村・宇津井河村」とある。

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)は「打井川村」、南路志(1813)は「宇津井川村」とある。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、打井川村は大字となった。

 大正3年(1914)1月1日、幡多郡東上山村は、 村名を改称し「大正村」となった。

 昭和22年(1947)8月1日、幡多郡大正村は、町制を施行し「大正町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。

 大字内は3地区の行政区があり、各地区の班・組編成は、口打井川地区はひとつであるが、中打井川地区は下・中・上、奥打井川地区が下組・中谷・宮組・奥組に区分されている。

 

【地誌】

 旧大正町の南東部。三方を標高500m級の稜線で囲まれ、北部を四万十川が西流。北東は大正北ノ川・上宮、東は弘瀬、南東は黒潮町、南は四万十市、西は希ノ川、北西は上岡に接する。大部分が山地。集落の中央を打井川(全長約8.5km)が蛇行しながら北西に流れ、四万十川に合流する。流域に水田と集落が立地。上流から奥打井川・中打井川・口打井川の地区に分れ、主要地方道55号大方大正線が通り、奥打井川で分岐する県道367号住次郎佐賀線は標高509mの鳥打場の裾を通り、四万十市に通じている。奥打井川まで通学バスが1日2~3便運行される。四万十川と打井川の合流点付近の口打井川の地域は、四万十川の両岸に集落が分かれ、右岸には国道381号が通り、商店がある。バス運行1日7便。左岸にはJR予土線が通り、打井川駅がある。口打川・中打井川・奥打井川の各地区に河内神社があり中打井川には民間信仰の馬之助神社、奥打井川には尊良王の忠臣・秦道文を記る道文神社があり、ともに他地区からの参拝者が多い。町無形民俗文化財の打井川盆踊り(エジマガエシなど) がある。奥打井川にあった旧打井川小学校体育館は、海洋堂創業者の宮脇修氏の取り組みにより平成23年には「海洋堂ホービー館四万十」、平成24年には「かっぱ館」がオープンし「へんぴなミュージアム」として県下有数の観光拠点となった。(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真上部、西流する四万十川の左岸流・打井川の流域が打井川地区)

 ウィキペディア【打井川駅】

 

【地名の由来】

 四万十町史資料編には『地名の「ウツ」は狭い谷を意味し、「ウツ」は「ウド」と同義であるところから「奥深い狭い谷川」という意味で地名が付けられたという説と、昔、家地川より移り住んできた「影井」という人が苗字を「宇津井」に変え、この地を開いたことから地名が付いたという説がある』と二説を併記している。

 多賀一造編「大正のむかし話」の『打井川の始まり(p148)』に詳しく書かれている。江戸期の墓をみると「宇津井」から「討井」に変わり、明治になって今の「打井」になったとある。現在、打井川には打井や宇津井の姓はないが、打井川から山を越えた黒潮町市野々川には打井の姓が4軒ある。

 高知新聞連載コラム「土佐地名往来(No293)」では打井川の由来を地形を表す語”うつ”にあるとして「険しい山々に挟まれた凹状の地形を”うつ”と言い、そのあいだを流れる川を”うついがわ”と呼んだ。」と打井川の由来を紹介している。

 

 「奥深い谷川」をウツというなら、土佐の山間はウツだらけになってしまう。また、「ウツ」の地形地名の説明はあるが、「イ」の説明がされていないのが不自然でもある。民俗地名語彙辞典もイの説明にとして「②たんにイを表わす表音文字として使われる。向の向井、境の坂井、酒井になるのもこの例」とある。その解釈からウツだけの説明となったのか、編集子は水関連の「井」と理解したい。

 

 「イ」は暮らしの生命である。香川県民は高知県民の集いでは必ず「高知県の水」に感謝の言葉を述べることを枕詞にする。その早明浦ダムには「四国のいのち」と溝渕知事の揮毫による記念碑が建っている。水は日常の暮らしと水田にとって必須であり、その利用が地名として命名され、新田開発と灌漑技術の向上とともに地名も変化してきた。

 イは井であり、泉、井戸、用水溝、水路、井堰のことで新井・井の頭・井上・井関の地名がある。

 長宗我部地検帳にもセイモトやツルイがよく見られる。セイは土佐で山中の谷合、モトは本。ツルイは、小谷、それに近接する地点の泉である。

 四万十町に見られる長宗我部地検帳のホノギ・ツルイは、ツル井ノスソ(高野村)、ツル井ノモト(若井川村)、ウスツル井(宮内之村)、ツル井ノモト(宮内之村)ツル井ノシタ(神之川ノ内永野地之村/口神ノ川)、ツル井ノ本(天川之村)、ツル井ノモト(番中之内井細川川口之村内チヨカイチ/南川口)、ツルイノ本(陰山村/本在家)、ツルイノモト(西松ノ村/西影山)、ツルイノハラ(小野川村川)、ツル井ノスソ(中村之村)ツルイノクホ(市生原村)、ツル井ノモト(藤之川之村)、ツルイノモト(興津村)、大ツルイ(上宮村)、ツルイノクホ(広瀬村/弘瀬)、ツルイノモト(西川村/西ノ川)、カミツルイ(下道村)、ツルイノスソ(大井川村)、ツルイノスソ(小野村)、ツル井ノ谷(大道村)

※比定される字は強調青字にした。

 四万十町に見られる字名は、ツルイガスソ(家地川)、ツルイガ谷(志和分)、ユル井ヶ谷(柳瀬)、鶴井谷(上秋丸)、鶴井ノ平(上秋丸)、下ツルイ(上宮)、ツルイノ谷(弘瀬)、ツルイノ谷(大正北ノ川)、ツルイ谷(相去)、ツルイノ本(大正中津川)、クボツルイ(下道)、ツルイノ谷(津賀)、ツルイノ奥(昭和)、ツルイノ谷(昭和)、ツルイ本(河内)、釣井ノ口(地吉)、奥釣井(地吉)、シモツルイ(十和川口)、ツルイ畑(広瀬)、ツル井ノヒタ(井﨑)がある。

 井出の谷、イデノ谷、出ヶ谷もツルイ若しくは井に関連した地名であろう。

 

 「イ」にについては明確な解説がなく釣瓶井戸(つるべいど)の略したものが主流であるが、その解釈について異論を述べたのが下村效氏の「長宗我部地検帳のツルイ(土佐史談194号)」である。

 氏はホノギ「ツルイ」を悉皆調査し、ツルイは①小谷、それに近接する地点の泉②水位は高く、井底は浅い③個々の屋敷の敷地外にあり、共同井として利用されていた➃山から掛樋で引いた水を貯めておく水槽・水瓶、水場をさす場合もあるとまとめている。井戸ではないた論文を土佐史談194号に発表している。

 川野茂信氏も「長宗我部地検帳のホノキギについて(高知高専学術紀要3~9号)」で水利に関するホノギの解説と分布図を示しているので是非本文を参照して理解を深めていただきたい。

 

 打井川の地名由来が「井」の話となったが、地名は暮らしを刻んだ文化遺産。水利用の変遷を探ることは重要なことである。ツルイ等の水場に関する四万十町内の分布図を下村氏の期待に応え今度まとめることにする。

 ちなみに、「打井」を電子国土Webで検索したら、「打井(和歌山県有田川町)」「打井畑岡山県真庭市)」があった。また、中国語では「打井」は井戸掘りのことであるという。夏の夕方、玄関先の「打水」は、編集子にとって一日好日のルーティンである。 

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 赤岩、赤瀬、アシカサコ、アシカバ、アヲ木、石神、石神越、イダワタゼ、市ノ又、市ノ又山、イヅ川、一本松、イデン谷、猪ガ奈路、井ノ谷、井ノ谷向、井ノダバ、猪原、井ノ又、植松、ウドワラビ、ウバカ谷、馬ダバ、大ウ子、大サコ口、大田大平大弘瀬、大松、大向、沖ダバ、オソ越、カイガイシ、柿ノ木ダバ、影平山、カゴブチ、樫谷、カドタ、上谷、上トビノス、川原田、喜蔵屋敷、行司田、京殿、キリノ木サコ、クイノシガキ、楠ノ木谷、クスノサコ、口カイガシ、口日ノ谷、栗サコ、栗ダバ、栗ノ木サコ、黒尾、コウゲダバ、幸次郎、幸助谷、コエカキダ、コサデ、越エ、コシタ、小ナル川、小畑、コビガ谷、コメコヤ、小森、コヤカ谷、コヲゲダバ、コング、コンダ、サウダ、佐賀越、佐賀道、三升蒔、シブチ、治部藪、下モホキ、下向ヒ、下モダバ、下モホギ、ジヤギレ、ジヤノ川、猩々口、シヨカ、新猩々山、スカ、扇子ダバ、鷹ノス、タキモト竹屋敷、ダバ、駄場崎、ダバダ、タヲノマエ、茶堂前、忠助屋敷、ツエジリ、寺谷、寺ノ奈路、寺ノ前、土井ダ、堂ガ谷、所林、トシ、トビノス、トヤ、中ゴヤ、永サコ、永サコ口、中谷、中谷口、中谷中、永野、中屋敷、ナシノ木ダバ、ナラカシ、ナルカイチナル川、奈路山、新家、西ケ奈路、西谷口、西谷山、西本、ニッチ、ヌタノダバ、登リ尾、登尾谷、登尾谷口、灰床谷、萩ノシガキ、萩ノナロ、バショヲバ、畑ケ谷、畑ケ谷口、八升蒔田、春ワラビ、春ワラビ谷、番上ヲ屋敷、東イノ又山、東谷、東日ノ谷、東屋敷引カクシ、ヒダカ、日ノ谷、日ノ平山、ヒラ、平ザンバタ、弘町、札張場、札松、古川古屋敷、マシガ谷、マシカ谷口、松カダバ、松ノナロ、豆カ谷、宮ガ谷、宮ノ谷、宮ノ奈路、宮ノ脇、向黒尾、向竹屋敷、ム子田、柳ノ奈路、横山、ヨジカ谷、ヨジ谷、六代地、若薮、渡り上り、ヲク越、ヲソ越【175】

 

(土地台帳・切絵図番順)

※土地台帳の調査は中打井川集落(奥打井川境)の打井川右岸「萩ノシガキ」から始まり、四万十川合流点まで下り、口打井川の四万十川右岸、左岸と進み、あらためて打井川の左岸を奥打井川の黒潮町境まで上り詰めたあと右岸を中打井川境まで進み終了する。

1萩ノシガキ、2幸次郎、3黒尾、4弘町、5スカ、6ヒラ、7若薮、8古川、9中ゴヤ、10楠ノ木谷、11登尾谷、12登尾谷口、13萩ノナロ、14植松、15永サコ口、16永サコ、17栗ノ木サコ、18石神越、19茶堂前、20春蕨谷、21春蕨、22登リ尾、23西ケ奈路、24西本、25宮ノ脇、26大サコ口、27永野、28川原田、29一本松、30大向、31畑ケ谷、32畑ケ谷口、33猩々口、34新猩々山、35下モホキ、36キリノ木サコ、37大弘瀬、38八升蒔田、39ウバカ谷、40ム子田、41バショヲバ、42井ノ谷向、43タキモト、44井ノ谷、45行司田、46寺谷、47寺ノ前、48カドタ、49松ノナロ、50大平、51トビノス、52上トビノス、53井ノダバ、54柿ノ木ダバ、55向黒尾、56樫谷、57市ノ又、58六代地、59ヒダカ、60コヲゲダバ、61石神、62喜蔵屋敷、63コメコヤ、64トヤ、65カゴブチ、66ニッチ、67市ノ又山、68ヌタノダバ、69所林(ところばやし)、70猪原、71ナシノ木ダバ、72小ナル川、73ナルカイチ、75忠助屋敷、76西谷口、77西谷山、78ナル川、79ヨジ谷、80イデン谷、81赤岩、83横山、84向竹屋敷、85クスノサコ、86イダワタゼ、87クイノシガキ、88登り尾、89中谷口、91扇子ダバ、92ウドワラビ、93札松、94東イノ又山、95鷹ノス、96東谷、97小森、98中谷、100ツエジリ、101アシカバ、102上谷、103古屋敷、104三升蒔、105下向ヒ、106コエカキダ、107日ノ谷、108コヤカ谷、109タヲノマエ、110東日ノ谷、111口日ノ谷、112番上ヲ屋敷、113ウバカ谷、114豆カ谷、115コサデ、116井ノダバ、117マシカ谷口、118マシガ谷、119松カダバ、120沖ダバ、121越エ、123トヤ、124ヲソ越、125ナラカシ、126ジヤギレ、127シヨカ、128赤瀬、129佐賀道、130馬ダバ、131下モダバ、132栗ダバ、133新家(にいや)、134ダバ、135引カクシ、136平ザンバタ、137札張場、138日ノ平山、139大松、140堂ガ谷、141大田、142イヅ川、143灰床谷、144東屋敷、145寺ノ奈路、146奈路山、147宮ガ谷、149猪ガ奈路、150柳ノ奈路、151宮ノ奈路、152京殿、153小畑、154中屋敷、155井ノ又、156大平、157アヲ木、158口カイガシ、159影平山、160コビガ谷、161治部藪、162カイガイシ、163大ウ子、164竹屋敷、165駄場崎、166幸助谷

 ※切絵全図の「20春越谷」は「春蕨谷」、「24西藪」は「西本」、「27長野」は「永野」、「34猩々山」は「新猩々山」、「59ヒクカ」は「ヒダカ」、「68スタノダバ」は「ヌタノダバ」m「69トコロバエ」は「所林」、「101アシカサコ」は「アシカバ」、「112上ヲ屋敷」は「番上ヲ屋敷」、「129佐賀越」は「佐賀道」、「152小畑」は「152京殿」の誤記

切絵全図の74番、82番、90番、122番、148番は欠番。

切絵全図の「99上井ダ」は土地台帳になく不明。

切絵全図に「京殿」の記載がなく、「155大平」と「156大平」が重複している。

※「井ノダバ」、「ウバカ谷」、「登リ尾」、「トヤ」、「大平」の字は、地内に2カ所ある。

※土地台帳にある「アシカサコ、オソ越、栗サコ、コウゲダバ、コシタ、コング、コンダ、サウダ、佐賀越、シブチ、下モホギ、ジヤノ川、ダバダ、土井ダ、トシ、中谷中、宮ノ谷、ヨジカ谷、渡り上り、ヲク越」の所在が不明

 

【ホノギ】宇津井川村・宇津井河村/枝村:なし

 ▼宇津井川村(土佐国幡多郡上山郷御地検帳p59-70/検地:慶長2年2月2日)

※検地は奥打井川集落最奥「ジャノ川」から始まり、口打井川集落の四万十川右岸で終わる。

 シヤノ川ヒキカクシ大タミソ、大タヤシキ、ひかしやしき、にしやしき、名本ヤシキ、こやしき、うはの谷口番匠屋しき、ホウセンアン、興泉寺中、クホタ、ヲモヤノ南、コヱカキタ宮ノなろシモムカイ、、六■マキタ、■シカウ谷、ナカボリタ、■カイタ、イノマタ、イノマタセイモト、大ヒラ竹ヤシキナロカイチ、■■川谷、ナロ川イチノマタクロヲムカイクロヲフル川、ミ■タ、中小や谷ハキノナロ、ミソ下、はかわらひまつのなろ、のほりくも、かとた、とゐヤシキ、なかマヤシキ、吉祥庵寺中、西モト、■ヤウシタ、井ノ谷タキノモト大ヒロ瀬、■ノ川、■サチ、■■カイ

 宇津井河村(土佐国幡多郡上山郷御地検帳p84/検地:慶長2年2月10日) ※切畑を後段にまとめて記録している。

(切畑)

二ノマタ、中谷ナル川、フルトイ、にしノ谷、にし谷クチ

※寺社は、興泉寺と吉祥庵とある。検地の流れから「興泉寺」は奥打井川集落の寺ノ奈路。現在は道文神社の横に堂があり、奥泉庵とあるがここに移され「興」が「奥」に転訛したのではないか。「吉祥庵」は口打井川集落の中心となる西ヶ奈路附近と推定される。

 

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 【通称地名】

 

 

 【山名】

 

 

【河川・渓流】

 奥打井川

オオシ谷、カイガイシ谷

ナカ谷、ヒヨシ谷、ヒガシガ谷

宮ノ谷、カヂガ谷

ヒノ谷

イヌ川

イチノ川

マシガ谷、キレイリ谷、ウツボ谷、アカセ谷(エンコ谷)、ジャノ川

 

【瀬・渕】

奥打井川

ドウブンブチ、カタブチ、ダイノフチ、水神ブチ、エンコウブチ、シモジャブチ、カミジャブチ

 

【井堰】

 

 

【城址】

 

  

【屋号】

 奥打井川(奥打井川には、大部分に屋号があった。奥から順に)

オタカヘヤ、シンタク(本山富久宅)、ウマハタ(秋田守、秋田信雄、秋田敏幸宅の三軒)、マツバガバ(本山雪美宅)

アバタ(秋田宅:休み宿)、イヌダバ(秋田幸則宅)、シンヤ(本山博文宅)、カンダバ(小畑孝雄宅)、ヒクガク(    )

ドンガ(秋田二男宅)、ナラシ(秋田正男宅:別名ヘヤ)、ヤカ(秋田昇宅)

上ボリ(    )、中ボリ(田中穣宅)、下ボリ(    )

テランコイ(谷脇延香宅)、ナカヤシキ(小畑耕一宅)、キョウデン(本山昌良宅)

ウエコバタ(小畠正宅)、シタコバタ(    :庄屋三良左衛門)

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

河内神社/39かわうちじんじゃ/鎮座地:宮ノ脇 ※村社

(旧:皇子宮)/39.3おうじぐう/鎮座地:西ヶ奈路

(旧:大元神社)/39.4おおもとじんじゃ/鎮座地:ナシノ木ダバ

道文神社/40どうぶんじんじゃ/鎮座地:京殿 ※奥打井川集落(奥分)

河内神社/41かわうちじんじゃ/鎮座地:宮ノ奈路山 ※奥打井川集落(奥分)の産土神

(旧:六十余社)/41.3ろくじゅうよしゃ/鎮座地:横山 ※成川集落

※神社明細帳に「馬の助神社」が掲載されていない。 

※ゼンリン社p46の中打井川集落に神社記号が記している。 

 


現地踏査の記録

20160310胡(道文さんの当屋さんたち)

・奥打井川集落には屋号が多い。シンタク(本山富久)、ウマハタ(秋田守、秋田信雄、秋田敏幸の三軒)、マツガダバ(本山雪美)、アバタ(熊野さんの神事であるお水取りの途中の泊宿)、イヌダバ(秋田幸則)、シンヤ(本山博文)、カンダバ(小畑孝雄)、ドンガ(秋田二男)、ナラシ・ヘヤ(秋田正男)、ヤカ(秋田昇)、上ホリ、中ホリ(田中丈三)、下ホリ(谷脇光明)、ナカヤシキ(小畑耕一)、ウエコバタ、シタコバタ(庄屋・三良左衛門)

・上山郷田野々と佐賀との往還道は、熊野神社の由縁か山の幸、海の幸の往来が盛んであった。

・この佐賀越えの道には「アバタ」という休み宿があった。もう一つ佐賀側にもあった。この佐賀道往還の峠は地蔵峠(首なしのしむか地蔵のある峠)という。佐賀への道はジャノ川を登りきった野重峠越え(馬之助の生まれたあたり)もある。

・農耕は黒牛が中心で豊かな農家は馬もいた。

・戦後10年を過ぎると黒牛は赤牛に代わった。当時の馬喰に「儲けいうかよ」と聞くと「もうけりゃせん。色を変えただけよ」といいよった。

・宮の駄場の谷脇光明さんところの上段に宮床がある。今は道文神社の脇に奥泉庵の祠がある。

 


地名の疑問

1)コウゲ

 「コウゲ」とは、四国の愛媛から中国地方に広く使われる語彙。多くは短い草の生えた土地で、水田はもとより畑にも開き難い所。それ故にしばしば芝の字が宛てられている(綜合日本民俗語彙②p536)。一般に高原の草地の水流に乏しい所。芝、高下、広原などの地名。カゲに同じ(民俗地名語彙辞典上p345)

 

2)シガキ

 「シガキ」とは、猟をするとき身を隠す場所。鹿や猪のよく通る道筋で待ち構えるのに都合のいいところ。山口、福岡、長崎、鹿児島、高知など西日本の地名(民俗地名語彙辞典上p438)。隠れ場所を竹木で構えるため柴垣、猪垣とも字に書く(綜合日本民俗語彙②p677)


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1597慶長2年)

(土佐国幡多郡上山郷御地検帳・幡多郡上の1p59~68・切畑p85/検地:慶長2年2月2日~10日) 

  慶長時代のこの部落の村名は、”宇津井川村”と表現され、枝村はない。

 検地を行ったのは慶長2年2月2日(1597年3月19日)

 検地は、上山郷の北ノ川(打井川境)から上宮・弘瀬・北ノ川から相去を終えた後、打井川となっている。

 打井川地区は、「ジャノ川」から「引キカクシ、大田、東屋敷」と奥打井川集落の最奥から進められ、「中屋敷、井ノ又」と鳥打分かれの「大平」橋まで下り、ホビー館の「竹屋敷」で奥打井川を終える。小成川に入り、宗崎半島の「黒尾」からカッパ館周辺の「市ノ又、向黒尾」から「古川、中ゴヤ、萩ノナロ」と中打井川集落の検地を行い、口打井川集落の中心となる「春蕨、松ノナロ、カドタ、西本、井ノ谷」から四万十川右岸の「大向(地検帳では虫食いでカイだけ判読)」に渡り、打井川地区を終えて、田野々村へと移っている。

 この検地簿冊に「此紙新帳を以写書入但八枚之内」と7枚を差し替えているが、その箇所すべてが「扣」である。仕直検地で「抱」としたのを「扣」に一部を差し替えたのは謎である。 

 検地高は本田と出田で12町6反とある。

 検地役人は、重松勘衛門尉 光、久万左兵衛 俊、田多又衛門尉 直房、近沢伝衛門尉 信とある。 

 脇書の所有関連に鍛冶藤左衛門、舟右衛門扣、ホノギに番匠屋敷とあるなど、鍛冶、舟、大工など多様な生産関連が読み取れる。この打井川の川筋は佐賀越えの道筋であり、熊野神社の佐賀・熊の浦への若水取り、塩の道、秦道文神社の信仰など人と物の往来の多い往還道であったのだろう。

 地検帳にみられる寺社は

・寺院

興泉寺(興泉庵)、吉祥庵

・神社

特に記載なし。

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p329)

 打井川村の四至は、東限上宮村西限上岡村南限伊與木界北限北之川■東西二町南北二里戸凡四十七其土黒

 山は、石蕨山・具串山(在村北)、少々山・井股山(在村南西)

 寺社は、吉祥庵、興善庵、川内大明神、天神とある。 

※貝串山は、町有林、診療所の森となる「カイガイシ」に転訛したものか

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、宇津井村として「石高126.49石、戸数56戸、人口324人、男163人、女161人、馬40頭、牛0頭、猟銃15挺」

 

■南路志(1813文化10年:3巻p620)

「214宇津井川村 地百廿六石六斗二升七合」 

西ノ本(王子宮)、谷口(高治明神)、宮カ谷(高治明神)、道文社

 

■皆山集(第8巻地理編p)

スカ(第十六区上山郷上分の打井川村の元標の設置場所)

 

■掻き暑めの記(1984昭和59年)

 ・製造駄場(上p54)

中打井川にあるホノギ。昔「スリツケ」といってマッチの軸木を製造していたという。

 ・車越えの坂(上p57)

口打井川の車越への坂を越して上宮の下船戸から川を渡り北ノ川へ向かう。

 ・スガ(上p140)

 明治6年以降、各村のほぼ中央部に元標が建設された。宇津井川村の元標は字スガに設置されていた。

 ・市ノ又山(上p202)

 窪川宇和島線の県道が開通するまでは佐賀港が唯一の木炭販売ルートであった。佐賀港においては阪神方面より木炭業者が入り込み来り佐賀村内及東上山村内方面に生産する木炭の品質優良なるに目をつけてそれを一手に取り引きする為に出張所が設けられていた。そんな事情で東上山村東部地区よりは盛んに木炭が生産されて佐賀港へ搬出されたのである。打井川市ノ又山には中村の人の経営する木炭山、上岡の奥ばんじようの中森山、四手の木山には佐賀港の伊勢屋の経営する木炭山があった。

佐賀村の伊与喜、熊井、中角方面から市野々川を経て、地蔵峠を越し、毎日30頭位の駄賃馬が来た。

 ・ウツボ(上p250)

 奥打井川、佐賀越の坂の手前に「ウツボ」というホノギがある。大昔四海波(大潮)に海の魚のウツボがはねあがってきたことからホノギとして伝承されているという。

 ・お安淵(上p281)

 医者に勧せることをはずかしがって、独りなやんだあげく我身の将来をはかなみ死を決意して、打井川谷の柳の木え自分の着物をしばりつけ死後の形見として残こしおき、ついに淵え身を投げて若い身空で死んで仕舞ったのである。

村の人達はその死をあわれに思い、お安の手織りの麻布で施餓織をつくり、年々旧七月十五日には青竹の棚をつくり、蕨のお笠や初物を供え香を焚き、鉦をたたいて南無阿弥陀を唱え施餓鬼を行ないその冥福を祈っておる。

 ・堀り口、戸樋口(上p286)

 打井川村の一ノ又口現在宗崎義信氏宅のしも手に堀り切りの溝がある。クロー一体約二町歩を灌漑している。この掘り切りを「掘り口」とも「戸樋口」とも呼んでいる。

 ・トイノ畝(上p286)

 此の堀り切りのあるところの対岸の山林のホノギを「トイノ畝」と名付けられている。この山から松を伐って戸樋をクッテ使用した。その行事に因んで明治の地租改正時に命名した。

 ・おう人の足跡(上p333)

 打井川宮ノ谷の奥、家地川との境の野山の嶺にある、直径十米位の足跡のように窪んだところ

 ・地蔵峠(上p393)

 打井川道文神社の祭典の当日に、古来からの習慣で海岸方面から、お参りにくる男達は腰に山刀などをぶちこんできた。そうして道文様へ参拝がすんで帰える山道、佐賀越えの地蔵峠有井川越えの伴太郎坂山中越えの鳥打場の坂道で山刀をつかって道ばたの立木を伐りかけにして倒し、或は杭を打ちこんで柵をつくり、大石を落して並べるなど人馬の通行できないようにした。道文が、京殿において追手のために切り殺され悲惨な最午を遂げたのをあわれんで、こうして追手を防いだなれば道文も早やく京え向うことができたのであろうと、有井川方面縁故の参拝人たちが、道文を弔いのために取り行なうことになったのであると、つたえられた。

 ・蛇ノ川谷(下p334)

 蛇ノ川口の左の畝に地蔵峠という旧坂道あり市野々川、伊与喜に出て佐賀港に達する往還あり。昔から駄賃馬の通行はげしく、上山郷から猪、三シ又、松煙、木炭、根木、櫓木等を盛に搬出した主要往還であった。

蛇ノ川谷を奥に登って大方郷との山境伴太郎越に達する坂道がある。伴太郎を経て上川口港に、又有井川方面にも出る旧山道がある。

 ・奥泉庵(下p335)

禅宗(奥打井川字寺ノ越在)

 ・興善庵(下335)

禅宗(口打井川字門田在)

 

幸次郎谷、シトギノ川口、京殿、カイガヤシ谷、地蔵峠、伴太郎坂

 

 ▼打井川

 現在は口打井川、奥打井川、中打井川の三つの部落に別れているが登記はされていない。昔は宇津井川村と称して一つの村であった。打井川谷は水の流れが三里もつづくと言われて、人家があまりに広域に散在して居るので口、奥の二つに分けて治められて来たものであろう。而し九郎権前神社に寛政六甲寅年(1794)の棟札によると口宇津井川村と記してあるところから察すると相当昔から奥、口とに分かれていたものと推察される(p330)。

 東 佐賀村市野々川、窪川村家地川

元国有林重木山に続いた山嶺弘瀬及上宮とも、山続きの分水嶺を以て境となる。

 南 入野村伴太郎、山中村三ッ又、常六、片魚の各部落に傍ヶ森山系の伴太郎坂より元国有林烏打場山から干丈オロシ山嶺、拘子山に連続して境を為しておる。

 西 四手ノ川、上岡に接し

 北 四万十川を跨いで上岡の一部と北ノ川ノー部に続いておる。

 周囲八里何づれも峰から峰に続く山を以て囲まれ、部落の中央を打井川谷が南から北に向って貫流している(p330)。

 佛ヶ森山系伴太郎越の麓、蛇ノ川の奥より水源を発して部落の中央を北流し西ケナロにて四万十川本流に合流して居る(p331)。

 佐賀港へは三里にて達し、地蔵峠一つ越して佐賀村市野々川である。

 中村町へは大平より烏打場山を越せば常六であるが六里にて中村町に達す。

 入野村上川口港へは蛇ノ川より伴太郎坂を越して四里にて達す。

 窪川町へは寺の越より坂を越して家地川、若井坂を経て三里にて達す。何れも旧坂越えの道であって徒歩による。窪川町を経て高知市方面及宇和島方面に行くには西ケナロまで出て県道、窪川l宇和島線により三里にて窪川に達し宇和島市へは二十里にて達す。

 大正町役場所在地田野々へは三里にて達し、何れも終戦後は省営バスの便あり(p331)。

 河内神社下から旧道が右に左に谷を跨ぎ坂を越して地蔵峠に通じていた。其間に戸田の下から打井川谷を渡って胴松の畝を登り「切れ入りのたお」から「ガンドー越」に坂道がある。

中打井川九郎の「一ノ又口」から「梨の木駄場」の畝を登て「干丈嵐の峠」に出る「ガンドー越」に至る旧道がある両方から登ると山道が合同して「水呑場のタオ」の休場がある。

口打井川下組の人達は胴松ノ畝から刈り上って、同中組の人達は一ノ又口梨ノ木駄場から刈り始めて道刈りをした。

九郎からは坂道を耳切れのたをに登って上宮並に弘瀬越しの近道があった。林浅次氏のシモからは「車越へ」と称する坂道あり、上宮方面より駄賃馬を通ずる唯一の道であった(p332)。

 カイガヤシ谷には窪川から若井坂を越し来たり家地川「川表て」を経て弘瀬の重木山国有林の下を通つぐちて宮ノ谷坂を越してカイガャシの奥におりて谷を右、左に何回か渉り、ガイガャシロに出て打井川谷を少しのぼり大平から与次郎谷を這上り、鳥打場国有林を越して山中村の常六におりつく(p334)。

 

■大正のむかし話(1989平成元年)

竹屋敷、地蔵峠、鳥打場、寺の越、奥泉庵、春蕨、野重峠、日の谷口、地蔵峠、まし川、蛇の川谷、蛇渕、のまず水、おそん渕、カイガシ谷、野重峠、地蔵峠、大が渕、サマン駄場、大平、東イノマタ山

 

■鎮守の森(2009平成21年) 

 河内神社、馬の助神社、道文神社  

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

口打井川、打井川橋、四万十川、予土線、打井川(河川)、中打井川、奥打井川

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

岩殻(三等三角点:標高464.27m/点名:いわから)タカノス638

※点の記では、中打井川の林利重宅南30mから山の背沿いに約700m登るとある。

一の又四等三角点:標高496.36/点名:いちのまた)一の又1610

※点の記では、中打井川の馬之助神社へ林道終点から南麓を登る。

宮ケ谷四等三角点:標高497.70m/点名:みやがたに)宮が谷1697-1

※点の記では、奥打井川の河内神社から谷を北側に入る。

 

口打井川四等三角点:標高384.65m/点名:くちうついがわ)コウチダバ1604-ロ

※点の記では、馬之助分岐から500m進み宗崎悟宅から北方の小径を200m登る。

打井川四等三角点:標高/点名:)札松1636-18、ヨジク谷1625-15

※点の記では、奥打井川の大平橋を渡り鳥打場に向けて250m進みコンクリート橋たもとを北西へ登り詰める。

奥打井川四等三角点:標高404.63m/点名:おくうついがわ)ヘイザン畑1673-10

※点の記では、奥打井川の小畑俊雄宅東側の小路を南方へ150m登る。

大正四等三角点:標高539.12m/点名:たいしょう)東谷1639-6

※点の記では、海洋堂ホビー館から東進約1500mの大カーブの電柱打井分線141から南方の山を登る。

 

■高知県河川調書(2001平成13年3月/p57)

打井川(うつい/四万十川1支川打井川)

左岸:豆カ谷955番地先

右岸:堂ガ谷1886番地先

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

カドタ橋(不明/打井川字)

柿ノ木橋(不明/打井川字)

馬の助橋(不明/打井川字)

トコロバエ橋(不明/打井川字)

スダノダバ橋(不明/打井川字)

クスノサコ橋(不明/打井川字)

中谷橋(不明/打井川字)

こさて橋(不明/打井川字)

マシガ谷新橋(不明/打井川字)

マシガ谷橋(不明/打井川字)

馬畑橋(不明/打井川字)

成川1号橋(不明/打井川字)

成川2号橋(不明/打井川字)

赤瀬橋(不明/打井川字)

 

 ■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名)

  ・口打井川

ハヤシ(寺谷158-18・寺谷川)

行司田(井ノ谷1574-4・ 井ノ谷川)

ショジョ谷(ショウショウロ1560・ショジョ谷川)

 ・中打井川

大谷(幸次郎14・大谷川)

喜蔵屋敷(キゾウヤシキ645・市の又川)

楠ノ木谷(楠ノ木谷1523・楠ノ木谷川

ウエマツ(植松165-1・植松谷川)

 ・奥打井川

マシガ(マシガ谷113・マシガ谷川)

馬ハタ(佐賀道1671-14・ウツボ谷川)

奥切(引カクシ1189・引川)

灰床(灰床谷1263・イヅガ谷川)

東日の谷(東日の谷918・日の谷川)

宮ヶナロ(宮ケ谷1324・宮ケ谷川)

上谷(上谷1645・足川)

鳥打場(東井ノ又1637・井ノ又川)

影平山(影平山1448・カイガイシ川)

ナル川(ナル川724・ナル川)

小ナル川(小ナル川1618・小ナル川)

 

■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)

 ・ 39県道大方大正線

 県道大方大正線は、JR打井川駅前の国道381号線から四万十川を渡り、打井川から四万十市境の鳥打場を経て黒潮町上川口(旧大方町)に至る道である。また、途中から黒潮町佐賀(旧佐賀町)へ向かう県道住次郎佐賀線に分岐している。鰹漁の町として知られる佐賀は、藩政期には御蔵米を保存する蔵があり、中世から幡多地域の重要な港であった。

古来より打井川と佐賀との間には「佐賀道」と呼ばれる往還があり、四万十川中流域と太平洋沿岸を結んでいた。この道を通り、大正地域で生産された林産物が佐賀港から廻船で高知や京阪神に、また、佐賀港に陸揚げされた日用雑貨・呉服類・海産物が大正地域に運ばれた。 

 打井川と太平洋沿岸とのつながりを示すものに、県道住次郎佐賀線に鎮座する「道文神社」がある。道文神社は、元弘の変(1331年)で土佐に流された孝良親王の臣下で、親王の命を受けて上京の途中この地で病死した「秦道文」を祀っている。腰から下の病にご利益があると言われ、佐賀や大方からこれらの道を通り多くの参拝者が訪れた。県道大方大正線が四万十川を渡る場所は、かつて渡し舟で往来していたが、沈下橋の時代を経て抜水橋が架けられた。地域住民の生活道であるとともに「道文神社」の参拝道として利用される重要な道である。

 

■高知県防災マップ

中ゴヤ谷川(422-81-202)

一本松谷川(422-74-208) 

大向谷川(422-74-207) 

 

■四万十町広報誌(平成19年12月号)

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知っているようで知らない私たちの町0806【打井川】20071201.pdf
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806大正町史編さんだより(打井川).pdf
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