どい(土居)【大字土居、土居・土居屋敷ほか多数各地】
土居といえば、野良時計で有名な安芸市の土居地区。国土地理院地形図にも、大字土居には安芸川の川辺に城山があり廊中・西木戸・長屋・溝ノ辺などの集落地名が付してある。
安芸市立歴史民俗資料館には、県内の「土居郭中図」五か所(安芸・本山・佐川・窪川・宿毛)を所蔵している。
この「安芸土居構之図」を見てわかるように、戦時における要害地としての山城と、平時における山城の麓に設えた御殿屋敷(五藤家)と石垣や堀とそれを囲む武家屋敷がある。年代は家来の住居区が未整備のことから江戸時代初期の状況を示しているといわれる。これら五か所の「土居郭中図」は、中世(混沌)と近世(安定)を一体にした「土居」が描かれている。
柳田国男の『地名の研究』では「土居の昔」の章を設けて「堺などの置土をドイと云ふことは西部諸国一般の風である。(略)中国から四国へかけて土居と云ふ字大字が甚だ多い。」と述べている。中四国に土居地名が広く分布し、地名の成り立ちは、「士族の居住する区域」を土塁などで囲ったことによると説明する。土居が土井や土囲の漢字が当てられるのも防御としての形状によるものだろう。ただ、「土居は決して取囲むことを要せず、単に武家の屋敷と云ふに過ぎぬ」とも述べる。
柳田は歴史的経過として
田舎の領地内に作り置き農事事務所とも名づくべき用に供したもので、古くは政所(まどころ)とも云ったものである。(略)土佐などでは近い頃まで此政所を御土居と呼んで居た。
と、中世、荘園における政所と武家社会における土居との混交を述べている。基本的には土地を支配する者の屋敷地とその利益に集まる市町をあわせて土居と名付けたものと思われる。
四国の土居地名を『角川日本地名大辞典』の各県の付録字一覧を採取した結果、四国で七百五十九か所。高知県の六百四十か所は群を抜いて多く、次いで愛媛県の七十三か所、香川県の三十四か所、徳島県の十二か所となる。
高知県内の土居地名の小字六百四十か所の語彙構成をみると全体の意味付けが理解できる。土居屋敷が百二十六か所、単独の土居が百十か所、となっている。接頭語・接尾語の語彙を集計すると
方向語彙:二百六十六か所(前66・後10・西41・東28・南12・北8・上ヘ20・下タ17・上ミ21・下モ13・奥11・沖3)
地形語彙:九十三か所(山26・谷24・畑9・峰8)
時系語彙:古土居22・新土居2・今土居2
その他の語彙:土居ノ内14・土居丸6
これら、「土居」地名に接辞する方向語彙が多いことからも土居が集落の基準となる地名であることがわかる。
「土居」地名は、行政地名の一つである。律令時代における「郡家・大領」、荘園経営の「政所・庄司」、中世から江戸期にかけての「名本・庄屋」などの行政地名と合わせてその位置情報の変遷を見ることで村落経営の景観を復元することができる。
どうがもり(堂が森)【野々川△四万十市西土佐藤ノ川△四万十市竹屋敷/標高857.4m】
どうめん(堂免)【】
とがわぐち(戸川口)【十和川口地区の集落】
とぐち(戸口)【昭和地区の集落】
昭和地区の轟集落の下流隣の集落。
ところばやし(所林)【打井川】
土佐藩の輪伐制度を提案したのは小倉小助である。「当国第一の富源は山林にあり」と藩主山内忠義に進言したのは元和3年(1617)、小助が参政として赴任してからである。以来、野中兼山にも引き継がれた持続可能な林業政策であった。「所林」は土佐藩の林業政策における山林の種目の一つ。「御留山林の一種で、村々で支配するものである。その村が困窮した場合には渡世即ち生活手段として部分的に解放される。立木10本につき3本を残置する慣例がある。公有林」と平尾道雄の土佐藩林業経済史(p70)で述べている。
四万十町内で山林種目として字名に付されているのは、井林(イバヤシ/作屋/田役道具や材料用として残置された山林。公有林)、旧井林山(日野地)、宮山(ミヤヤマ・ミヤバヤシ/上宮/神社林。伐採禁止)がある。
とどろ(轟)【昭和地区の集落】
昭和地区にある四万十川流域最大の川中島「三島」を渡りぬけた四万十川の左岸集落。
とどろざき(轟崎)【大正地区の集落・行政区】
とどろのうえ(轟の上)【浦越地区の集落】
とびのす(鳶ノ巣)【打井川】
とびいりち(飛入地)【窪川、根元原、宮内、東川角、八千数、土居、黒石、本堂、大正大奈路、広瀬】
とめば(トメ場・留場)【安田町正弘、土佐清水市鍵掛】
トメ場は、江戸時代において、一般の人 の狩猟や漁労を禁じた場所。「留」は御留山と同じ禁止の意味を持つものだろう。
とり(鳥・戸里)【】
とりうちば(鳥打場)【打井川△四万十市】
とりおち(鳥落)【】
(20170727現在)
■語源
■四万十町の採取地
■四万十町外の採取地
