戸川

とがわ


20150630初

20170817胡

【沿革】 

 長宗我部地検帳「土佐国幡多郡上山郷地検帳」に「十河内戸川村」とあり、脇書には「中ヤシキ」、「林村」がある。十川村地検帳として一村分の地高がまとめられており、当時は十川村の枝村として戸川村は位置づけられていた。十川村には本村の大野村(十川)のほか、枝村にこの戸川村(戸川)と今成村(十和川口)・烏村(古城)・川口村(十和川口)・地吉村(地吉)・白川村(十川)がある。

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)南路志(1813)ともに「戸川村」とある。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡大野村、地吉村、烏村、川口村、戸川村、井崎村、広瀬村の7か村が合併し「十川村」が発足し、戸川村は大字となった。

 昭和32年(1957)8月1日、幡多郡郡昭和村、十川村が合併し新設「十和村」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。

 地区内の班・組編成は、下組(しもぐみ)、中組(なかぐみ)、影平組(かげひらぐみ)、奥組の4組となっている。

  

【地誌】

 旧十和村の北部西寄り。北は愛媛県鬼北町(旧日吉村)、東は十川、西は古城に接する。中央部を戸川ノ川(中平川)が南流する。北に愛媛県境の戸川地蔵山、南にたかの山、東に熊のとうげ山、西にほり切り山がある。戸川ノ川右岸沿いに町道が通り中心部の十川に結ぶ。当地から十川まで車で10分、愛媛県宇和島市へは50分の地。集落は戸川ノ川の両岸に沿って開け、奥組、中平、中組がある。生業は茶・シイタケ栽培、稲作が中心で農閑期には土建業に従事する者も多い。地内には生活改善センター・製材所・黄幡神社がある。神社の秋の大祭には、おなばれ、花取踊り、牛鬼の行列が行われる。年中行事としては、地蔵祭・石鎚祭・御施餓鬼・お茶屋上げなどが行われる。県境の戸川集落の鎮地蔵尊には愛媛県側のジイガ森の地蔵尊が並び、ジイガ森では、昔、杣人が木を切っても切っても朝になるともとのとおりに戻っていたので、その精霊を鎮めるために地蔵尊を勧進したと伝える。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央を南流する戸川ノ川流域が戸川地区)

 

【地名の由来】

 「トカワの地名には、戸川・砥川・外川・十川・富川・止川など、土地によっていろいろのものがあり、砥川・砥部・砥山の地名で砥石を産するところは多い。四国石鎚山系の西方一帯の山地は古来砥石の産地であった(伊予砥石)」と松尾俊郎氏は述べる(日本の地名p70)。

 十川の字に「戸石ノサコ」がある。戸川や十川の音は「砥」川であり、砥石の生産地であったのではないか。

 四万十町内の「砥石」に関係する地名は、土佐州郡志に若井の山として「砥石之川山」とあり、字名・ホノギでは「トイシノ本(中村)」とある。

 

 戸川の字を地図に落としていく作業と並行して次の書籍を読んでいると、不思議な発見をした。

 産業考古学に詳しい谷有二氏の著書『日本山岳伝承の謎ー山名にさぐる朝鮮ルーツと金属文化ー』である。

 同書は、全国のタタラ製鉄や鉱業の歴史を調査する中でタタラ製鉄遺跡周辺に残る関連地名を統計的にまとめその論考を表している。そのキーワードの一つに「一つ目伝説」があると書いている。

 一ツ目の神である天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)は鍛冶の神で、鍛冶の神が一つ目である神話伝承は、ギリシャ神話のキュクロープスなど世界によくあることという。それにまつわる山が、窪川市街地から北東の山稜が天一山であるし、戸川の長宗我部地検帳にはみあたらないが、戸川地内の字名として「一ツ風呂」がある。

 木を道具として農耕に使用していた昔、鍛冶の発達・伝播による鉄の鍬や鋤の出現は画期的な産業革命となったことだろう。現在のトラクター普及以上の農業生産性向上に寄与したことは確かで、農耕にかかる信仰として天目一箇神(天一)を祭ることは当然のことといえる。氏は、天目一箇神は民間信仰にも息づき「ひょっとこ(火男)」「鎌倉権五郎景政の片目伝説」などにも関係するという。

 井上氏は、タタラ製鉄遺跡周辺に残る関連地名として先の「一ツ」の他、次のキーワードをまとめている。

鍛冶:カジ・梶・夏地/鍛冶は重要な職業名。上山郷地検帳にも鍛冶・かち・番匠(大工)・筏乗・筏はでてくる。

タタラ:日本古来の製鉄法。炉に空気を送り込むための道具・鞴(ふいご)がタタラと呼ばれていた。

フイゴ:タタラは鉄を溶かすため高い熱が必要でそのため踏鞴(ふいご)で風を送るのは欠かせない重労働

番子:ばんこ/替わりバンコの番子。フイゴ踏みを番子という。

:ユ/溶かした鉄がたまる池

:トウ・フジ/藤吾、藤七など製鉄伝承には炭焼きに藤の付く名前が多い。製鉄には火力として炭が大量消費

逆川:逆流する川谷(逆川の河川名)は全国に分布。経験則から製鉄と関連付けている。

穴釜:アナガマ/沢筋の傾斜地に横穴を掘ってつくる釜。各地に関連地名が残る。

吹・福:フク・福/火男が吹く動作。福は音の転訛。タタラ製鉄を「タタラ吹き」ともいう。

刀・雁・刈・軽:カリ/谷川健一氏もカリを朝鮮語の刀(kal)として地名に当てたという。焼畑のカル地名も

妙見宮:妙見(北極星)は天から金属を地上に降らせたといわれる。十川の郷社は星神社

虚空蔵菩薩:明けの明星(金星)は虚空蔵菩薩の化身になぞる。虚空蔵信仰の定着過程で、金属との関りが深まる。

久保・ホト・佐古・間歩(まぶ)・ブドウなど・・・

 

 妙見山、虚空蔵山が金属にかかわるのは、金属鉱脈の見立て技術を身につけた山岳修験者が全国を移動して金属の山々に、自分たちが信仰する妙見神・虚空蔵神を祀ったためであると谷有二氏は言う。

 この妙見を祀るのが十川の旧郷社・星神社で旧社名は妙見大明神である。前段が長くなったが戸川の字と金属地名との関連を探してみた。

※戸川地内で金属関連地名かと思われる字名を拾ってみた。十和村教育委員会が発行している「ふる里の地名」の解説を読んでみても金属地名と関連がありそうには書かれていないので、とりあえず谷氏が述べる金属関連地名を列記する。

・一ツ風呂:

・鍛冶屋林

ホドヲ子

藤九郎山

古カヂヤ

ノツチ山:

 

 

【未定稿】


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 赤岩山、穴神、アライバ、イクシ畑、イクジ畑、石ノ子、イセ畑、市畠、イナクボ、犬伏山、今ザイケ、岩瀬戸、岩松ケ峯、牛ケ作、牛熊山、牛ノダバ、牛ノダバ山、上御堂、大小路、大滝山、黄幡、黄幡ノ向、大平、大平山、大屋式、岡ノ上、岡ノ前、岡ノ向、カイデ、カイデ山、カキノキザコ、カゲヒラ、カゲヒラ山、鍛治屋林、カヂヤノサキ、上大平、上大屋式、カミカゲヒラ、上カツロ、上久保、上熊ノ峠、上シャウユウ、上高野、上タキツメ、上橋ケ谷、上屋式、キク畑、北大平、クスノ谷、久保田、久保林、久保ヒラ、久保屋式、久保山、熊ノ峠、熊ノ峠山、クル石又山、源佐小家場山、ゲンバサコ、コダツメ、コノイデ、小畑、サイマ、坂本、坂本屋式、坂本山、サセゴザコ、下大屋式、下カツロ、下久保、下熊ノ峠、下サイマ、下サコ、下サコクチ、下セイ谷、下田、下高野、下瀧詰山、下田ノ上、下橋ケ谷、下ヒビラ、下御堂、下向、下屋式、下ヨコトリ、シャウユウ畑、庄五郎山、白皇、白皇山、白岩山、新大滝山、シンカイノ上、新屋式、新林山、スクノ谷、スクノ谷口、セイ谷、セイ谷口、瀬戸頭、瀬戸ノ上、高野山、滝詰山、タキノ上、滝山、茶堂ノ上、千良林堂、ツエノスソ、釣切山、天神ノ奥、ドイノヲキ、藤九郎、藤九郎山、トク畑、ドヲドヲ、トヲドヲチ、中カツロ、ナガサコ、中タキツメ、中ノ川山、中畑、長畑、中畑山、中林、中屋式、中屋敷山、西大小路、西大平、ニロヲ子、子キワラ、野口、野口山、野路畠、ノツチ山、登リ尾、登尾口、ノボリヲ、ハイノハダ、ハゴ山、ハサ、橋ケサコ山、橋ノ下、ハシ畑、東カツロヒキチ、ヒキチ屋式、ヒキチ山、一ツ風呂、ヒノ口、兵五郎山、日吉、平畠、古カヂヤ、古田、ホソリ、ホトケドヲ、ホドヲ子、ホリキリ、ホリ切谷口、堀切山、ホリ田、マキ山、松ノ平、松ノ平山、水口山、南大平、宮ノ瀬、宮ノ谷宮ノ向、宮ノ向山、メツチ山、モリノ山、モン畑、山田、横取山、横畑、ロンデン、若林、若林山、若山、ヲク大平、ヲチウド、ヲンヂウ子、ヲンヂウ子山【183】

 

【ホノギ】

〇土佐国幡多郡上山郷地検帳・上山郷十川村地検帳(幡多郡上の1/検地:慶長2年3月11日)

 ▼十河内戸川村(p329~335)

 藤九良分、仏堂、下むかひホトウ子ヒノクチ下タカノ、ワリ山谷、タカノ、東光庵寺中、スリノ谷サセフサコカキノマサコ、ミナクホ

 ▼十河内中ヤシキ(p335)

 中ヤシキ

 林村(p336)   ※「林村」は烏村の枝村では?

 コンシキヤシキ、川渕

 戸川村(p336~345)

ノクチ宮ノ谷、池ノ上、ミ子、セイタニ宮ノ向、ヒソ山、大ヤシキノヒラ、コウロ島、土ノヤシキ、与一ヤシキ、白王、ハイノモト、ヒウラク、カツロヒキチ谷ハシ谷口、シラヲウ、カケウラ、クホタ、マタツメ、クホヤシキ天神ノ前

 

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【通称地名】

 

 

【河川・渓流】

 

 

【谷川】

 

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

  

【ため池】(四万十町ため池台帳)

 

 

【城址】

  

 

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

黄幡神社/49おうばんじんじゃ/鎮座地:黄幡 ※村社・中組集落

日吉神社/50ひよしじんじゃ/鎮座地:日吉 ※中組集落 

河内神社/53かわうちじんじゃ/鎮座地:白皇山 ※中平集落

天満宮/54てんまんぐう/鎮座地:上屋式 ※奥組集落

神明宮/55しんめいぐう/鎮座地:石ノ子 ※中組集落

八幡宮/56はちまんぐう/鎮座地:若林 ※下組集落

 

 


現地踏査の記録

1)戸川・十川は砥石の産地? 「砥川」

 戸川は、土佐州郡志では「戸凡五十五」とあるように、大野村(現在の十川)の「戸凡四十餘」より多く、伊予との交易往来の往還道として当時は栄えていた。周辺の村は、烏村(現在の古城)が「戸凡五十八」、地芳村(現在の地吉)が「戸凡四十五」、川口村(現在の十和川口)が「戸凡四十六」、小野村が「戸凡五十」、十和地域では大井川村が一番大きな村で「戸凡一百餘」となっている。

 「トカワの地名には、戸川・砥川・外川・十川・富川・止川など、土地によっていろいろのものがあり、砥川・砥部・砥山の地名で砥石を産するところは多い。四国石鎚山系の西方一帯の山地は古来砥石の産地であった(伊予砥石)」と松尾俊郎氏は述べる(日本の地名p70)。

 十川の字に「戸石ノサコ」がある。戸川や十川の音は「砥」川であり、砥石の生産地であったか現地踏査で確かめたい。

 四万十町内の「砥石」に関係する地名は、土佐州郡志に若井の山として「砥石之川山」とあり、字名では「トイシノ本(七里・中村)」とある。

 

2)十河内戸川村の「十河内」の範囲は

 「土佐国幡多郡上山郷地検帳」の表紙には「十川内」として「大野村 今成村 川口村 戸川村 烏村 地吉村 白川村」の七か村を連署している。

 ホノギ別の記載では「十河内大の村、十河内鍋谷、十河内川口村、十河内吉野、十河内戸川口、十河内戸川村、十河内中ヤシキ、十河内島村(※ママ)、十河内白井川、十河内白井村、十川内白井川(※ママ)」とあり、村名の冠に「十河内」を加えた記録とそうでない記録が混在している。今成村、地吉村には十河内の付記はない。

 十和村史では、「十和地域が、検地当時四区として行政的区分が行われていたのではないか(p265)」と推定し、十川、小野、大井川と東部の黒川等の区域の4区分としている。この「十川分」がこの地検帳の冊子となる。

 つまり「十河内」の区域を現在の地区で示せば、十川・戸川・古城・地吉・十和川口の5地区となる。

 ちなみに「小野内」の区域を現在の地区で示せば、河内(細々)・小野(鍋谷含む)・久保川・井﨑(ホキ村、井﨑村、鮎古村、柳瀬村)・大道の5地区となり、

 「大井川内」の区域を現在の地区で示せば、大井川(荷田村、クヽ付村)・昭和(北川村、中又村、大また、大サ江ノ村)・広瀬の3地区となり、

 「黒川等」の区域を現在の地区で示せば、里川(黒川村)・浦越(平串村、藤上ノ村、轟村)・茅吹手(家谷)・津賀・野々川(戸口村(※現在は昭和分)、奥野々川村)の5地区となる。

 

また、十和村史には長宗我部地検帳による慶長2年2月25日から十和地域の検地が始まりその経路を「黒川→平串(浦越、茅吹手、轟)→津賀→野々川→細々(河内)→窪川→小野→鍋谷→井崎→鮎古(相後)→柳瀬→井崎→大道→北の川→四手→荷田→大井川→広瀬→大野→鍋谷→今成→川口→古野→戸川口→戸川→烏(古城)→小城(古城→地吉→大野(戸川)→白井川(十川)」(p259)としている。「大野(戸川)」としているが誤記載か。

 

 


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1597慶長2年)

(幡多郡上の1p329~345/検地:慶長2年3月11日)

 戸川口の後「十河内戸川村」の検地に入る。枝村として「中ヤシキ」、「林村」とある。

 戸川の下組のホノギ「藤九良」、「下むかい」「ホトウ子」「ヒノクチ」「タカノ」を終えて上流に向け進む。「中ヤシキ(中組)」の手前からスクノ谷川を上り「サセフサコ」、「カキノマサコ」の切畑を検地。

 「中ヤシキ」「ノクチ」「宮ノ谷」から黄幡神社の向となる「宮ノ向」「「セイタニ」となる。

 ホノギ「大ヤシキノヒラ」あたりが中平集落となるか、上には「白王」があり、ザクロ谷川の奥にホノギ「カツロ」、上のヒキチ谷川には「ヒキチ谷」の切畑がそれぞれある。

 それから奥組の「ハシ谷口」「クホヤシキ」「天神ノ前」の各ホノギを検地し戸川村を終え、烏村に移る。 

 地検帳にみられる寺社は、東光庵。関連するホノギは「山神主神田」「白王」「シラヲウ」「天神」

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p333)

 戸川村の四至は「東限佛峠西限高野南限番屋北限御堂東西一町南北七十町戸凡五十五其土黒」

 山川は、戸川谷(自北流南)

 寺社は、東光庵、白皇社、山神社、黄幡社

 関梁に、蛸店(在村南豫洲界)とある。

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高99.213石、戸数54戸、人口247人、男130人、女117人、馬7頭、牛3頭、猟銃12挺

 

■南路志(1813文化10年)

228戸川村 地九十九石二斗

山神王 ヲカノマヘ 祭礼十一月十二日 末社若宮山王神

河内大明神 野口 正体木形十四

関所 番人 森野関次

東光庵 退轉、大野村真光寺末

 

■ふる里の地名(1982昭和57年)

▽戸川の地名の伝承など(p42~)

【中平】

白皇山、白王:白皇神社を祀っていたが、神社があったため白皇と字名をつけたもの

カゲヒラ、カミカゲヒラ:西の方あたって影浦で、日当りの悪い土地であるため。

ナガサコ:滝が多くけわしい山である。

モリノ山:土地がこんもりした森になっていることから、森の山と字名がついた御宮があり、大元神社の祀り現在もお祭りしている。大井川の大元神社をむかえて来て祀りを始めた。約二百年前(中平伸エ門、中平喜久の先祖)がむかえてきた。氏子23名いた。

コダツメ:山の奥の端でコダツメと字名がついた。

堀切山、ホリキリ:下の方に堀切りがあり、上の方に山が続いているため其の附近の山一帯堀切りと言う。

赤岩山:岩石が全体的に赤いため字名をつけたものと思われる。

中ノ川山:大竜山とハゴ山との間にある山で中ノ川山となったものと思われる。

滝結山:山の上の方で、山の結めであることから結め山と字名がついた。奥の端方である。

 

【奥組】

天神ノ奥:昭和初期まで天神神社を祀っていたが、現在は合祀されている。天神様を祀っていた処で天神と字名をつけたものと考えられる。

上御堂、下御堂:薬師堂を近くに祀っていたため、上記の字名をつけたもの昭和30年位までは耳の悪人達の参拝者が多かった。薬師堂の300年祭をした記念碑がある。昭和3年9月記念祭を執行した。

坂本:日吉村に通ずる道の起点を坂本と言う事から坂本と字名がついた。日吉村が楮、三椏等をもって運搬し十川の南商店に販売のため、交通が盛んであった。また一般の商品の買物にも奥藤川、中藤川方面が良くきた。楮、三椏については、戸川の個人宅へも直接売買された。

 

【下組】

カイテ、カイデ山:水田に使用される関があり、水路が通じている水関があるためカイデ其の上の方に山があるためカイデ山と字名を付けた。

※カイデが水路水関の意味とは。川井出(かわいで)・掛樋(かけひ)・峡井出(かいいで)?

新開ノ上:新しく畠を開いたことにより、新開字名付け呼ぶようになったもの。昔は、旧番と呼ばれとばれ関所があり旧番役が登記制度が出来て初代の番役、森野信四郎であったと言われる。

茶堂の上:県道十川~吉野生源と村道戸川~日吉線の分岐点に茶堂があり、昭和15年頃一日6月21日~7月21日まで各戸順番制で茶、粶(※はぜこめ)、とうもろこし、大豆等を炒って持参し通交人に接待した。茶堂の上に山があるため、茶堂の上と字名をつけたものである。

瀬戸ノ上:自然に岩石で出来た瀬戸があると、のろしの上にあたり瀬戸ノ上と言う。

ドウドウ:牛馬の休み場及び日夫の休み場。(昔は、楮、三椏、塩、木管、日用品、雑貨品を日吉、吉野間の交易街道であった)

ツエスソ:ツエが落ちて来て座った所。

下田ノ上、下田:字名を付ける時、戸川においては一番川下に当るためつけた字名。

下高野、上高野:下高野は山、上高野は畠である。山が下にあって上が畠になって野になっていることから、上記の字名となったものである。

下向:林安章氏宅、宅地から見て下向いになる。戸川部落宅地で一番古い宅地にあたるその宅地から位置さしたものであることから下向となった。

滝山、滝ノ上:谷間に急な滝状になっていることから滝山。

登リ尾口、登り尾:古城越の街道の登り口である。

新林山:焼き山を止めて林になったため新しい林と言う意味である。

ゲンバサコ:ゲンジと言う人が畠として開いたところ。

カヂヤノサキ、鍛治屋林:旧鍛治屋の宅地前がカヂヤノサキの後が鍛治屋林。

樋ノ口:樋の水口、字オドオネの水田へ取水するための樋口となっていた。

若山、若林、若林山:焼山を止めて山林になった時、新林より後になったので若と言う文字の字名になった。(つけた)

 

【中組】

岡ノ前、岡ノ上、岡ノ向:岡と言われる宅地があったと思われる。この岡を中心として岡の上、岡の前、岡の向(対岸)、岡ノ沖がある。

ヲチウド:ツエが落ちてそのツエが座り其の上が窪みになっている。

牛熊山:牛馬の墓場で熊が牛死ガイを掘にきたことから、この地名がつけられた。

イナクボ:稲荷神社に参拝途中の休み場。土地が窪地になっている。古城から山越に参拝に来る途中の休み場。岡の上に稲荷神社の社地かあり現在合祀されている。

カキノキザコ、サセブサ:サコの口に柿の木あった。またサコの口にサセプの木があった事からつけたものである。

一ツ風呂、卜ヲドヲチ:谷で水がドウドウと落ちていたため、ドウドウオチと呼れ其の下に渕にできて、エンコが水風呂に入っていたことから一ツ風呂と言われるようになった。

アライバ:昔、大道から戸川を通って古城へ向けてにげる人がいて、それを関所役人が斬ってころし、刀を洗ったところからアライバとなった。

 

【中平】

中屋敷山、中屋敷:戸川部落の中央に当るため中屋敷山、中屋敷と呼ばれるようになって字名がつけられた。(位置をさしたもの)

上屋敷、下屋敷:御堂菓師を中心にして上、下を指したものである。御堂菓師は戸川で一番古い氏神である。当時戸数7戸であったと言われる。

大小路、西大小路:里道、山道の交差点。大小の路が交差していた。

シヤウユウ畑:庄屋が直接耕作していた畑。六一~六八大平と呼ばれる土地は昔の御畠山であって、その地租は庄屋の報酬となっていた。個人々一年契約で其の土地を小作にあてて作らした。

牛ケ作:(No71)牛ヶ作(No73)イクジ畑(No74)トク畑(No75)ハシ畑(No76)モン畑(No77)キク畑は所有者人名がそのまま地名となったものである。中林この中の一部で耕作できない山である。

上シヤウユウ:庄屋の持ち山。

ヲンジウ子山、オンシユ子:湿地子、混地質の山、または畠。

白岩山:石が白石で、とぎ石にされているような岩や石があることから白岩山と言われるようになった。

※戸川の地名は全国に分布し砥川と同じく砥石の産地。この現地踏査は戸川での砥石生産を物語るが文献史料を発見する必要がある。

ヒキチ屋敷、ヒキチ山:昔、部落出役管理するイ関があってこれを稼出関と言われ、谷を稼出谷と呼ばれている。関が出来て水田が出来る様になったために其の土地をうばいあったため引地の地名がついたと言われる。

※「引地」が土地を奪い合う意なのか。引地地名は全国に分布するが地名語彙にみあたらない。桂井和雄土佐民俗選集Ⅱに「この地名の由来は、旧藩のころ、村役人のために、公役を免除した土地の称であった。」と土佐藩農業経済史を引用している。引地で有名なのは高知松山間の国道33号線の中間点「引地橋」。道の駅もない時代、立ち寄って名物のおでんを食べたものだ。【引地(米奥)、下道引地山(下道)、引地山(七里)】

下権ケ谷、上権ケ谷:明治初年、地籍簿作成のため下権ヶ谷から奥は宮地であったため実際の位置よりか奥に変更させた通称の権ヶ谷と公簿上の字名とは別位置である。

ニロヲ子:人名。

ハイノハダ:桜島噴火により、火山灰で地肌をおおったことからこの地名がついた。

※災害を記憶する地名。町内分布等、詳しく調査する必要がある。

岩瀬戸:小谷に大きな岩名の瀬戸がある。

※「セド」「セミチ」はよく耳にする地名語彙。瀬と漢字をあて解釈も川の流れを意味している。瀬戸は狭い潮流域でここのトは海のこと。セ・ドはどちらも狭い意味でドは岩のゴツゴツした狭さをイメージする。

※家の裏を指す言葉で童謡「里の秋」にもある「背戸」

静かな静かな 里の秋

お背戸に木の実の 落ちる夜は

ああ 母さんとただ二人

栗の実 煮てます いろりばた

上タキヅメ、タキヅメ、下竜結山:(No146)滝結に石槌神社を祀ったところに岩石山があり、奥の端の結めりこれをとり滝結めと字名がつけられたものであると思う。

兵五郎山:兵五郎と言う人の屋敷及び山林であったもの。

 

【中組】

新屋敷:分家の屋敷跡。

黄幡ノ向、宮ノ向上、宮ノ向:戸川の黄幡神社の対岸を言う。

セイ谷口、セイ谷、下セイ谷:伊予勢と土佐勢がこぜりあいをしたところからセイ谷と言われるようになった。

釣切山:処刑の場所。(意味は解らない)

石ノ子:昔の石切り場で臼や墓石等の原石を取ったところ。

古カヂヤ:鍛治屋の屋敷跡。

熊の峠:牛馬の墓場で熊が掘りにきて往来した峠。

日吉:日吉神社の社地(山の神を祀っていた)。現在は黄幡神社に合祀している。

宮の瀬:日吉神社の下ての山で、下の川が瀬になっていることからつけた字名である。

木ドヲ子 戸川から谷本に越る歩道で牛馬は往来を禁止されていた。これは仏堂があるため牛馬の往来が禁止となっていたもの。

義九郎、義九郎山:昔、義九郎と言う人がいて、其の人の所有地であった。

ホトケドヲ:昔、無縁仏(行き倒れ)の供養ための道念仏の終点に堂があったため、仏堂と字名がつけられた。道念仏起点が戸川口の前から仏堂の山道で年に一回これを行い供養した。

庄吾郎山:庄吾郎と言う人の持地であった。十川字小野田へかかる水路の関があるところ。戸川に入って始めの関である。

源佐小家場山:昔、行倒れを部落で養った。その家を戸川人家の奥の端の人家のはなれた山に小家を建て住ませ世話をした。其の人の名前が源佐の一言人であったため、源佐小家場と呼ばれるようになった。

久保山:城の用水池あって其の跡が窪みになっていたため久保山を字名つけたものと思われる。

 

▽戸川むらを考える(徳弘勝氏の特別寄稿)

 戸川は、戸と川の合意。トガワと発音する。中平川ぞいに集落が奥組、中組、下組、陰平(かげひら)とあって、地区名「河川」を生み、川口に近く「戸川口」をつくり、十川むらに至る。

 町内大明神きた「河口大明神」をあがめている。

 戸の字音はコ。この音は「戸によって室内を護(まもる)する」ところからきた。意味は、

(1)とくち。家の出入口。

(2)家。一家(戸主、戸籍)。

(3)コ。家の数をかぞえる助詞(一戸建て、二戸、三戸、四戸)。

(4)飲む酒の分量。(上戸、下戸)。

 川はセンと発音される。中国音はキュアン=KiuanH=であった。黄河のように「型ときに」型に行ったりはしない。くねくねと山野を縫って流れる。

 おとなしく、せせらぎながら流れる。それが川だと考えよう(藤堂明保「言葉の系譜」)。

 地名があれば家名(苗字)ができる。姓氏の一つに戸川秋骨(とがわ・しゅうこつ)と戸川残花(とがわ・ざんか)をあげるととができる。動物作家の戸川行夫。 

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

 p8:戸川、中平、中組、戸川の川、ヒキチ谷川、ザクロ谷川、林谷川、橋ヶ谷川、セイ谷川、スクノ谷川、カヂヤ谷川、横畑橋、古田橋、日吉神社、黄幡神社、出雲神社幡多教会

p5:戸川、奥組、戸川の川、ヒキチ谷川

p11:戸川、下組、戸川の川

p10:戸川、戸川の川、新戸川橋、

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

 戸川、奥組、中平、中組、戸川ノ川

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

※左端の「点名」をクリックすると位置情報が、「三角点:標高」をクリックすると点の記にジャンプ

十和(四等三角点:標高512.45m/点名:とうわ)戸川字ハゴ山1179-20番地

 

■高知県河川調書(2001平成13年3月:p54

戸川ノ川(四万十川1次支川長沢川2次支川戸川ノ川)

左岸:戸川字坂本屋式703番地先

右岸:戸川字白皇523番地先 

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

古田橋(/戸川)19.50

横畑橋(/戸川)19.00

カイデ谷橋(/戸川)5.10

下向1号橋(戸川の川/戸川)14.60

下向2号橋(/戸川)11.90

中の川橋(/戸川)6.60

 

■四万十町広報誌(平成23年7月号)

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ぶら〜り散策0913【戸川】20110701.pdf
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