『文化高知』2020年7月号

<高知市文化振興事業団>

 

「高知の地名の歩き方」を寄稿

今宵しも夢にもみつる故里を

  胡井志の里に草枕して

 

十五の春は、それまで育った「胡井志」を離れ中村市京町五丁目の近藤のおばさんの家が新しい下宿となった。布団と机だけの三畳間だが、時空の全てが自分のもので満たされていた。いつしか友達となった江戸アケミと二人で土曜日は見知らぬ地への冒険となり、バス停で「草枕」となった。高校一年の終わりには二人で鳥取砂丘まで寝袋をもって歩く旅をした。とんがった少年時代だった。

あれから五十年。尖りは丸くなり転がる石となった。仕事を辞めたときに長老から「働くは“端が楽”という意味。生活のための“稼ぎ”から解放された今からこそ“働く”生き方を」と隠居の極意をいただいた。人生百年時代。藤沢周平の三屋清左衛門残日録的な生き方をと考えたが一月で退屈。あと四十年をのんびりとは幻想であり刑罰でしかない。シーシュポスの神話のようで意味のない労役の繰り返しの毎日のように思えてきた。

そうだ、「六十の春」は、もう一つの人生だ。これからの四十年、じっくり向きあえることを探そう。好きなことなら続けられ、少しは周りに役に立つ。そんな思いは、少年時代の歩く旅にヒントがあった。

それは川村与惣太の「草枕」であり、伊能忠敬の「生き方」であり、松浦武四郎の「記録」あった。土佐を歩く三巨人の真似事である。

 

■ 川村与惣太生誕三百年

冒頭の和歌は、土佐一国を東は甲浦から西は宿毛の松尾坂までくまなく見聞した川村与惣太の紀行歌集の一首。「胡井志」とは私の故郷・四万十町小石であり、実家のすぐ下にあった茶堂で「草枕」したのであろう。

今から、二百五十年前、与惣太は西寺(金剛頂寺)の別当職を辞して土佐一国の辺地紀行の旅にでたのが五十二歳だった。理由は記されていないが隠居の身として土佐一国を吟遊したいというのが本来の願いと考える。当時の滝や古城跡の名所のほか川や山、集落の地物地名が五百五十八カ所記されている。

この「安永の土佐風土記」ともいえる『土佐一覧記』を広く世に知らしめたのが山本武雄氏(室戸市在住)である。氏は『校注土佐一覧記』を出版するにあたり「はじめに」として、この歌碑を写真に載せ、旧大正町には三つの与惣太の歌を石に刻んでいると紹介している。

その五百五十八カ所を、田中陽希の日本三百名山一筆書きのように繋いでいったら一月もあれば踏破できる。ただそれでは面白くない。五百六十九首から、旅した季節、山や浜辺の地形、風や露や雨などの自然現象、詠みこまれた動植物をデータ処理して頻度分析から風土の復原を試み、記された地名の変化を千七百年代の土佐の地誌である『土佐州郡志』と相関してみる。そんな大人の道草をしていたら四年が過ぎてしまった。それでも甲浦から安芸郡を巡り、香美郡までは辿りついた。野根山街道や塩の道も訪ね歩いた。その途中に、見つけたのが佐喜浜や赤岡に残る伊能忠敬の測量碑であった。

 

■ 伊能忠敬没後二百年

根っからの旅好き、地図好きである。それでも伊能忠敬の理解は日本地図を完成させた人という寂しい次第。測量碑の発見をきっかけに井上ひさしの『四千万歩の男』と先述の山本武雄著『伊能測量隊土佐をゆく』を読んだ。

一身ニシテ二生ヲ経ル

下総・佐倉の伊能家へ養子となり庄屋として再興し、五十歳で隠居。同時に天文・測量の勉強を江戸ではじめ、五十六歳から十七年間日本を歩き尽くし日本地図を完成させた。人生を二つしてやったようなもので、退職者の鏡となるような生き方である。

地図と地名。これを学ぶことを「二生」にしようと決めた。そのときに出合った人が松浦武四郎である。不思議なことに伊能忠敬が没した文政元年(一八一八)が生誕年となる人である。

 

■ 松浦武四郎生誕二百年

よほどの歴史ファンでもない限り松浦武四郎は知らないであろう。蝦夷地から北海道に改称されて百五十年の節目。最近になって脚光を浴びるようになり、NHKドラマ「永遠のニシパ~北海道と名付けた男 松浦武四郎(大石静作・松本潤主演)」も放映された。

明治新政府の役人でもない彼が、未開の蝦夷地を六度にわたり踏査して見聞と野帳をもとにまとめた膨大な著書と地図。アイヌ語を習得しアイヌの人との交流の中でその土地の名前や暮らしや文化を日常の細部にわたって描写したにが『石狩日誌』など。地域ごとに絵師による図を入れ読みやすい工夫を加え刊行した。圧政に苦しむアイヌの実情を『近世蝦夷人物誌』で世間を喚起したり、蝦夷地がどこにあるか子どもにもわかるよう『絵双六』を発刊するなど「伝える技術」も卓越している。

武四郎は十六歳で江戸に遊行し連れ戻され、親の許しを得て一両の路銀を渡され西国の旅に出たのが十八歳。途中「一小冊を懐にして日々の順路、村名、里程をしるし」て四国遍路を通し打ちし、《歩く・見る・聞く・記録する・本にする》という旅のスタイルを確立するに至った。

歩く記録装置とも言える武四郎のまねごとをしたいと始めたのが『四万十町地名辞典』のホームページの開設と『奥四万十山の暮らし調査団』の小地名と民俗の集落調査である。

 

■ 地名は歴史の語り部

地名は大地に刻まれた歴史の語り部である。それは単なる位置を示す符号ではない。『魏志倭人伝』に記された対馬や一支(壱岐)は今でも使われる。モノなら文化財として大切にされるが、地名は日用雑器のようなぞんざいな扱われようである。

地図にも記載されにくく口頭で伝承されてきた「小さな地名」。山海川の土地を積極利用していた時代には、地名は生活に欠かせないものだった。地元の人しか知らない小さな地名が、現代では小字の不使用や集落の限界集落化で、伝承・記録されることなく、忘れ去られ、消失してしまっている。加えて、集落や土地の伝承、生活の記憶も同じである。

高知県下には最小の公称地名である「小字」が十万カ所以上ある。

その多くは『長宗我部地検帳』にも記録される中世以前からの地名である。この小さな地名から当時の暮らしを復原することができる。また、類似地名の県内分布から本来地名のもつ意味を読み取ることもできる。

この作業に欠かせないもが地名や地物が持つ位置情報である。

自治体が保有する公物管理の公共データ(小字・河川・橋梁・頭首工)は市民の財産、公共財である。阪神淡路大震災はこれらの位置情報の公開の有用性が認知され、地理空間情報活用推進基本法が発足した。しかし、10年たった今でもGIS上のデータベースの提供に積極的でないのが自治体。この対応の遅れがコロナ禍でも明白となった。

このGIS上に人文地理学、歴史学、民俗学、言語学、方言学の識見者がレイヤーを重ねれば地名から「あぶりだし」のような新たな発見となる。

『土佐民俗』は通巻百号でその歴史を閉じたが、地理空間情報というツールは、土佐民俗の次のページを開くと期待したい。

ただし、ビックデータを得たとしても基本は「歩く」こと。その土地の匂いや音を感じ、その地の人に問いかけることで、共に綴る記録となる。Webを使った伝える技術も磨かなければならない。また、アイヌ先住民を否定し開拓を進める新政府のやり方に異論を唱えた武四郎ように、民の側に立った記録をする姿勢を忘れてはならない。

さー。一緒に高知を歩こう