にいだまた(仁井田又)【奥大道地区の集落】
奥大道地区は、楠野(くすの)・番所谷(ばんしょだに)・入谷(いりたに)・仁井田又(にいだまた)・向畑(むかいばた)の5組となっている。その組の一つが仁井田又。
又(マタ)について桂井和雄氏は「山村の道路や谷川の分岐点の状態を説明したことばが、そのまま地名となっているものに又のつく地名がある。」と説明する。井﨑には一ノ又、二ノ又、三ノ又とある。
にいだしょう(仁井田庄)【中世以前の広域地名。旧窪川町の範囲】
元久3年(1206)頃、鎌倉幕府時代、九条兼実が後鳥羽上皇から幡多庄を荘園として賜り、その44年後に九条家から一条家に譲られて以来、現在の旧窪川町は幡多庄仁井田というようになった。甲把瑞益の「仁井田郷談」には、幡多県仁井田、仁井田庄の名称を用いている。中村一条家の所領。慶長6年(1601)山内一豊土佐藩主の入国後、土佐国内巡視後に仁井田郷と名称が変わる。仁井田庄は、仁井田庄七(八)郷八番と言われた。新在家郷12か村(新在家番・東番)、本在家12か村(後番・川筋)、井細川郷6か村(下番)、窪川郷13か村(上番)、久礼郷10か村(大奈路筋)、志和郷7か村、神田郷4か村(南部郷・作野番・奥番)、蹉跎分2か村(神願番・神願分)となる。なお、與津村(郷分・浦分)は一条家の御政所が設置される直轄地である。と仁井田郷談には述べられている。
概ね平成の合併前の窪川町の区域で、秋丸(上秋丸村)、窪川中津川(中津川村、日野地(日野地村)は津野・大野見村に属し、大向は若井村(若井)の枝村、根々崎は宮内村(宮内)の枝村、六反地は加地坂本村(替坂本)の枝村、小向は柿木山村(仁井田・本田あたり)の枝村、東大奈路は川井村(平串)の枝村、向川は藤ノ川村(藤ノ川)の枝村であった。
仁井田と呼ばれたのは、仁井田(大字)の段に詳しく述べる。
にいや(ニイヤ・新屋・仁井屋・仁イヤ)【ニイヤ(金上野・南川口・古城)、新屋(高野・本堂・与津地・打井川)、仁井屋(床鍋)、仁井屋敷他多数】
分家の意味か。打井川には屋号が多く見受けられるが、ニイヤ、シンタク、ヘヤなど分家となった屋号であろう。
にしのかわ(西ノ川)【大正地域の大字西ノ川、松葉川地域の大字作屋の西ノ川集落】
西ノ川や北ノ川など方向地名は各地にある。平成の合併で四万十町が誕生するときも、旧窪川町と旧大正町に大字北ノ川があり、名称変更で調整した。窪川が東北ノ川、大正が大正北ノ川となった。西ノ川も窪川と大正にあったが窪川の西ノ川は大字でなく集落であったため合併調整する必要がなくそのままとなった。
方向地名は基準とする地点からの方位から付けられる場合が多く、その基準となる地区が歴史により変遷することから方向地名の年代を判断することができる。また、自治体の合併で同じ大字を解消するため地名を改める場合は、それぞれの地名の位置関係から方位をつけられる場合もあるので注意が必要となる。
大正の西ノ川の場合は、梼原川と中津川が合流する大正大奈路が流通往来の要のところであり、その西側の集落(川)から「西ノ川」
窪川の西ノ川の場合は、松葉川の中心地、七里から見ると西にあたる(辻重憲「史談くぼかわ5号」引用)
にしみねやま(西峰山)【大正大奈路・古味野々△大正中津川/標高718.3m】
によどがわ(仁淀川)【】
今や四万十川を越えるような人気の川。「仁淀川ブルー」が代名詞となっているのが仁淀川。
仁淀川の概説として、片岡雅文の『土佐地名往来』(高知新聞連載コラム)を紹介する。古くは〝みわがわ=神河〟と呼んだらしい。祭事の神酒をつくる水にこの川を使った(土佐風土記逸文)。これとは別に「によどがわ」の川名も昔からあったとして片岡は二つの由来説を述べている。①贄殿川説は、この川で取れた鮎を朝廷へ献上することによる。「贄(にえ)」は天皇に捧げる魚や鳥のこと。「贄殿(にえどの)」は国から送られてきた贄を納める殿舎で、仁淀川は鮎の名産であることから「贄殿川」が転訛したもの。「贄」地名は各地に散見される。②似淀川説は、高岳親王が入唐の途中、高岡に立ち寄り、山城国の淀川に似ていることから「似淀川」と名付けたというもの。片岡は諸説あるなかで「贄殿川」が根拠はないものの妥当ではないかという。
『土佐州郡志』には「ニ淀川」と記される。山城国で淀川とは言ったというのは、淀川が下流域の川名であることから疑わしい。贄殿川について『延喜式』の巻二十四、二十五の主計寮の部(全国の庸調の割当、全国の特産物が記録)を当たってみたが、土佐からの献納品に堅魚(カツオ)とともに年魚(鮎)を見ることができた。が、贄・贄殿から仁淀川由来の意図を探すことはできなかった。全国の「贄」地名を見ても、長野の「贄川」は温泉があった時代は「熱川」と書かれたが、温泉が枯れて「贄川」の漢字を当てたという。三重県の「贄浦」は伊勢神宮と深い関係にあり神饌の魚をこの地から持ち込んだという。はたして仁淀川の鮎が贄として地名になるほどの由緒があるようには思えないし、贄殿との関連性は何もないように思えるが、仁淀川の研究者に教えてもらいたいものだ。
江戸初期に澄禅が四国八十八箇所を巡拝し、その日記『四国辺路日記』には「新居戸ノ渡」と記している。新居戸が二淀に転訛したものとも考えられる。
松浦武四郎『四国遍路道中雑誌』には、ニ淀川の段で「「舟渡し。此川を四萬八川とも云えり。川源阿波、讃岐、伊予辺より来る故に水深く、諸流落合而くるがゆえに四萬八川と云へり。船せん廿四文。」と説明するが実際は、大河ではあるものの伊予国の石鎚山系を源として土佐に流れる四国第三の川である。武四郎は仁淀川の別称として「四萬八川」を挙げている。
武四郎の「四萬八川」説は初めて聞くが、「諸流落合」どことなく四万十の支流を集めた四万十川の由来に似ている。武四郎に川名を聞かれた地元の人がひょうきんに「四万八川」といったのか、上流の仁淀川第一支上八川の下流だから「しもやかわ」と冗談で言ったのを「四萬八川」と書き留めたのかもしれない。
アイヌ語での解釈は寺田虎彦の四万十川=シマムタ説は有名だが、この「仁淀川」にもアイヌ語説がある。「この仁淀川はアイヌ語の”ni・ot・nay”が音韻変化した形としての「niyotnay」からの転訛で、その意味は、=”流木・多く寄り集まる・川”と解される」とある。
どうだろう。江戸初期に澄禅が「新居戸ノ渡」の新居戸が二淀に転訛したのが音韻変化では一番近いような気がする。
(20251125現在)
■語源
■四万十町の採取地
■四万十町外の採取地
