大正北ノ川

たいしょうきたのかわ


 20150422初

20170808胡

【沿革】 

 長宗我部地検帳には「喜多川」「北川村」とあ。慶長地検帳の冊表紙には喜多川村、瀬里村、下岡村、上岡村、四手川村とあり、上宮、弘瀬、市ノ又、烏手、相去、折合をまとめる核となる村であったようだ。 

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)ともに「北野川村」とある。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、北野川村は大字北ノ川となった。

 大正3年(1914)1月1日、幡多郡東上山村は、 村名を改称し「大正村」となった。

 昭和22年(1947)8月1日、幡多郡大正村は、町制を施行し「大正町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。合併時、町内に同名の大字があることから、調整され名称を北ノ川から大正北ノ川に改めた。

 地区内の班・組編成は、下組・中組・上組となっている。

 

【地誌】

 旧大正町の南東部の中心地。東は弘瀬峠の稜線を境に窪川地域、北東は烏手、北は市ノ又、西は上岡・打井川に接する。南境は四万十川で、対岸は上宮。四万十川は湾曲して西へ流れ、集落の中央で相去川が合流している。合流点および流域に水田・集落が立地、農林業が盛ん。右岸沿いに国道381号が通る。バス運行1日7便。北ノ川小学校・北ノ川中学校・北ノ川保育所・北ノ川多目的集会所・北ノ川郵便局・高知はた農協大正支所・農協野菜集出荷場・北ノ川消防分団詰所・四万十町森林組合北ノ川土場があり、自動車修理工場・運輸建設会社、商店がある。社寺に、河内神社、枝林神社、曹洞宗観喜寺があり、中世の豪族上山出羽左衛門の城跡がある。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真上段中央、四万十川に右岸流の相去川が合流する地点が大正北ノ川)

 

 

【地名の由来】

 

 方向の「北」でなく、河谷に沿う高い台地「ケタ」が転訛した「キタ」

 「北ノ川」は、北という方位とノという接続詞に地形地名の川が付された地名と考えるのが普通であるが、北ノ川そのものがこの地域の中心地であるので方向地名とするには無理があるようだ。

 長宗我部地検帳には「喜多川」「北川村」とある中世以前の地名で、上山氏が領地した上山郷の東端(仁井田郷境)にあたるこの地は、防御としての城も構えられていた拠点でもある(同地検帳に「古城詰ノタイ、古城二ノ段」のホノギがある)。現在でも、旧大正町の東部の中心地として栄え、北ノ川保育所、北ノ川小学校、北ノ川中学校、北ノ川郵便局、JA高知はた大正支所がある。

 

 「北」が方向地名でないとすると、何を意味するのか。

 民俗地名語彙辞典では「土佐で崖の上の平地。ケタから転訛(地形名彙)。河谷に沿う高い台地。崖の上などと訳される(綜合日本民俗語彙)。」とある。土佐方言辞典にもキタの意味の一つに③岸の上(梼原)とある。

 大正町史資料編にも「地名は川岸にできた土地によるとみられる(p12)」とある。

 キタ(北)は、いわゆる河岸段丘を示すケタの転訛で、毛田、桁などと書かれ高知県山間部に多い。後背の山から地滑った土が、麓に堆積してケタをつくるなどというケタの転訛であると考えれば納得がいく。

 

 

 北ノ川の地名は、四万十町に3か所、この大正北ノ川(大字)、松葉川地域の東北ノ川(大字)、昭和地区の北の川(集落)がある。さぞかし全国にあるかと思えばそうでもなく、国土電子Webで検索したら和歌山県新宮市熊野川町北ノ川、和歌山県田辺市北ノ川谷、高知県四万十市蕨岡北の川、佐賀県有田町北ノ川内、長崎県大村市北ノ川内、大分県臼杵市北ノ川だけである。

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

  青木、アヲギ山、イガミガ谷、石ノモト、石ハラヒ、石ハラビ山、一ノセ、一ノ瀬ダ、イデノ谷、イデノ谷山、イラズ、イラス谷口、岩ノモト、岩ノモト山、丒松山、梅ノモト、エノキノモト、大タ、カシツケ、カシノモト、カタキ、カタギ山、カヂヤシキ、カミ竹ノハナ、北ソイ、九代田、クエキシ、楠ノ木谷口、クボフン、栗ノ木原、栗ノキ原山、ゲンタイ谷、コイ野々、コシ道、コシ道ノサコ、コシ道山、古城三ノ丸、小森崎、小森サキ山、コヤノ畝、櫻ノダバ、ササ山、三反ギレ、シイノキ、シクジ谷、シモイガミ山、シモ畝、シモ畝ハナ、シモ谷、シモ谷口、シモ谷ヤシキ、シモヤブ山、次郎右エ門、次郎右エ門山、シンガイ、新ヤシキ、新林、タカノス山、竹ノハナ、竹ノモト、谷本、谷本山、太夫次郎、太夫次郎山、タルガ谷口、ツヱノ畝バナ、ツエノ谷口、堤ノ本、ツボゼ山、ツルイノ谷、ツルキ谷、寺井田、寺井山、寺道ノモト、ドヲノモト、中畝﨑、ナガサコ、ナガサコ山、ナカ田、中谷、中谷口、中ヤシキ、西谷、西谷口、西ノダン、西ホヲロク、西ホヲロク山、ハカノ畝、ヒカケ田、東畝、東ホヲロク、ヒゲソ谷、ヒツヲ、ヒトギノ川口、ヒラ山、船渡ノ越、古ヤシキ、フロガ谷、ホコヲダ、ホトケザキ、ボヲズ田、松ノモト、松ノモト山、松原、丸田川縁り、道田、南ヤシキ、ミノフチ、宮ノ瀬、宮ノフチ、宮ヲヤシキ、ミヨレン口、ムカイ畑、ムシキ、ムジギ山、明レン、ヤナギサコ、ヤナギセ、柳田、柳ノサコ山、ヤナバタ、ユノコエ、ユノコシ畝バナ、ユノコシ山、ユノシリ、弓場、弓場越シ山、弓場ヤシキ、ヲキノキレ、ヲクガクシ、ヲクガクシ谷口、ヲゴシ、ヲヲサコ、ヲヲサコ山、ヲンヂ田、ンバタ【136】

※土地台帳に松山とあるが、丑松山の誤記ではないか

 

(土地台帳・切絵図番順)

1シモ畝ハナ、2シモ畝、3柳田、4西谷、5ヒカケ田、6西谷口、7ムカイ畑、8松ノモト、8松ノモト山、9ナカ田、10ナガサコ、10ナガサコ山、11梅ノモト、12ツルイノ谷、13コヤノ畝、14ムシキ、14ムジギ山、15ヒツヲ、16石ハラヒ、16石ハラビ山、17太夫次郎、17太夫次郎山、18次郎右エ門、18次郎右エ門山、19ハカノ畝、20コシ道、20コシ道山、21コシ道ノサコ、22古ヤシキ、23ササ山、24ボヲズ田、25石ノモト、26ヒトギノ川口、27エノキノモト、28竹ノモト、29明レン、30岩ノモト山、31ミヨレン口、32ミノフチ、33ホコヲダ、34ヤナギサコ、34柳ノサコ山、35ヤナギセ、36中谷、36中谷口、37ホトケザキ、38大タ、39道田、40ヤナバタ、41西ホヲロク、41西ホヲロク山、42栗ノ木原、42栗ノキ原山、43東ホヲロク、44シモイガミ山、45ヒラ山、46ヲヲサコ、46ヲヲサコ山、47タカノス山、48イガミガ谷、49ゲンタイ谷、50新林、51シモ谷口、52中畝サキ、53シモ谷、54丑松山、55イデノ谷、55イデノ谷山、56シモ谷ヤシキ、57中ヤシキ、58九代田、59クエキシ、60ツルキ谷、61寺井山、62カシツケ、63新ヤシキ、64北ソイ、65●、66ヲンヂ田、67宮ノフチ、68東畝、69中谷、70宮ヲヤシキ、71宮ノ瀬、72コイ野々、73カタキ、73カタギ山、74松原、75ユノコシ畝バナ、76ユノコエ、76ユノコシ山、77ユノシリ、78一ノセ、79一ノ瀬ダ、80ヲゴシ、81小森﨑、81小森﨑山、82弓場、82弓場越シ山、83カヂヤシキ、84寺道ノモト、85弓場ヤシキ、86ンバタ、87竹ノハナ87カミ竹ノハナ、88ドヲノモト、89シイノキ、90カシノモト、91三反ギレ、92竹ノハナ、93シンガイ、94ヲキノキレ、95クボフン、96南ヤシキ、97古城三ノ丸、98西ノダン、99フロガ谷、100ヒゲソ谷、101丸田川縁り、102シクジ谷、103谷本、103谷本山、104櫻ノダバ、105●、106楠ノ木谷口、107青木、107アヲギ山、108ツヱノ畝バナ、109ツエノ谷口、110堤ノ本、111イラズ、112タルガ谷口、113イラス谷口、114船渡ノ越、115ヲクガクシ谷口、116ヲクガクシ

※切絵図では「4西谷山」とあるが「4西谷」の誤記か

※切絵図では「29明シン」とあるが「29明レン」の誤記か

※切絵図では「44シモイガミ谷」とあるが谷か山か不明

※切絵図では「58丸代田」とあるが「58九代田」の誤記

※切絵図では「61幸井山」とあるが「61寺井山」の誤記

※切絵図では「94ヲキノキシ」とあるが「94ヲキノキレ」の誤記

※切絵図では「101丸田ベリ」とあるが「101丸田川縁り」の誤記

※切絵図にシモヤブ山、ツボゼ山、寺井田の記載がない。

 

【ホノギ】(喜多川村/枝村:北川村・一のまた村・北川カラステ村・北ノ川村・北川ヒルハシ村・東また村

一のまた村は市ノ又で、北川カラステ村は烏手で、北ノ川村・北川ヒルハシ村・東また村は相去で記述)

〇喜多川村(土佐国幡多郡上山郷御地検帳:幡多郡上の1p1~2・p14~25/検地:慶長2年1月28日~2月6日)

 ▼北川村(p1/1月28日 ※大正北ノ川の四万十川右岸の打井川境

 シトキノ川ホカウト大タ

※ホカウトの転訛としてホコヲダが比定できるか?

※シトキノ川の転訛としてヒトギノ川と比定できる。 

 ▼喜多川村(p14~19/2月1日)

 ツホセマルタ、寺中、西村、古城詰、古城二ノ段、北本内外、屋敷田、山もとやしき、ソイトノやしき、竹のはな、スカサキ、将監タ、柳ノ窪

(2月2日)

 大川ヒラ新開、下谷、北上本十代地、桜ノ木、トウノス 

 ▼喜多川村(p23~25/2月3日)

 小井ノ野竹ノはなミヤのせ、東ノクホ、キシノ下、コイノノタ、ユノダハ、シヲウツ、ユイチノ川、小井ノ野、ホリ明、カタギ山コモリノシタイチノセ、本十五代地、ヲウダハ

 

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809大正北ノ川・集成図.pdf
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【通称地名】

 

 

 【山名】

 

 

【河川・渓流】

 

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

 

 

【ため池】(四万十町ため池台帳)

 

 

【城址】

 

     

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

河内神社/29かわうちじんじゃ/鎮座地:東畝 ※村社

(旧:弓場神社)/29.3ゆみばじんじゃ/鎮座地:小森崎山

(旧:山津見神社)/29.4やまづみじんじゃ/鎮座地:丑松山

枝林神社/30えだはやしじんじゃ/鎮座地:谷本山 ※村社

 


現地踏査の記録


地名の疑問

1)ン音から始まる地名。「ンバタ」

 切絵図では「弓場ヤシキ」と「カミ竹ノハナ」の間に「ンバタ」という字がある。

2)城郭地名と「フロノ谷」

 大正北ノ川は、四万十川と相去川の合流点に集落を形成し、この集落の東の山の尾根(現在は果樹園と山林)に中世の古城となる北ノ川城址がある。調査によると「構成は詰の段、二ノ段、空堀の跡」となっている。

 上山郷を本拠とする土豪田那邊及び上山氏の居城(城主・上山出羽左衛門)が由来で、長宗我部地検帳の喜多川の段に「古城詰ノタイ、古城二ノ段」とある。 また、土佐州郡志には「壘址 喜多野川出羽者居之」とあり、 『高知県大正町和田林城跡(p8)』によると「標高170m前後の地点にあり、現状は畑と山である。頂上には500~600㎡の詰があり、南に1段、北に2段にわたる郭状地形があり、一部竪堀状遺構も存在する」とある。現在の字名にも「古城三ノ丸」、「西ノダン」、「弓場」、「弓場ヤシキ」という城郭地名が隣接してあることから、中世の山城があったことは確かであろう。城郭地名とは、山城の防御施設として設えた曲輪、切岸、堀切、竪堀、虎口、横矢、土橋、土塁などが含まれる地名であり、近世の平城である丸、土居、木戸、弓場といった構成要素も含め城郭地名という。

 それらの城郭地名の南側直下に「フロガ谷」の字がみえる。

 筒井功氏は「風呂と日本人」で高知県の小字一覧からひろった88箇所の風呂地名を現地踏査して「フロガ谷」、「風呂ノ谷」、「フロノモト」、「不老谷」などの風呂地名と城郭地名との関連性を指摘している。

 町内の城郭の調査記録と風呂地名についての関連性について、現地踏査する必要がある。

 

 

 


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1597慶長2年)

(地検帳幡多郡上の1p1~2・p14~25/検地:慶長2年1月28日~2月6日)

 慶長地検帳の冊表紙には喜多川村、瀬里村、下岡村、上岡村、四手川村とある。

 地検帳記載のホノギ欄には、北川村、上宮村、ハリ木村、広瀬村、喜多川村、一のまた村、北川カラステ村、北川村、北ノ川村、北川ヒルハシ村、東また村、北川折相村とあり、地高として「喜多川一村高」本田と出田で55町7代とあることから、上山分の領地としてくくられていたのであろう。

 検地は、「シトギノ川(大正北ノ川と打井川の境となる四万十川右岸流、字名にヒトギノ川口がある)」から始まり、いったん上宮村、広瀬村を検地し、再び四万十川右岸の弘瀬境のホノギ「マルタ」「古城二ノ段」「竹のはな」から始まる。再び一のまた村に入った後、北ノ川の「小井ノ野」「ミヤのせ」「コモリノシタ」「イチノセ」とすすみ、カラステ村となる。

 地検帳にみられる寺社は、歓喜寺がある。 

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p329)

 北野川村として四至は「東限高岡郡仁井田秋丸西限打井川南限上宮村大川北限烏手村有谷川流過東西一里南北十三町戸凡二十」

 寺社に、歡喜寺、川内大明神、大明神

 古蹟に、「壘址 喜多野川出羽者居之」とある。

 

■寛保郷帳(1743寛保3年

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高112.964石、戸数19戸、人口84人、男43人、女41人、馬24頭、牛7頭、猟銃3挺

 

■南路志(1813文化10年:③p627)

251北野川村 地百十三石二斗二升七合

川内大明神 正体五 祭礼十一月廿七日

 末社六十四社 幣三、稿ニ包スポ神ト唱 祭礼十一月廿五日

弓場大明神 祭礼十一月廿七日

宝積山歓喜寺 禅宗洞家五松寺末

 本尊薬師 願主上山郷領主田那部出羽左衛門重正・・略

 

■掻き暑めの記(1984昭和59年)

 ・シンガイ(上p139)

明治6年以降、各村のほぼ中央部に元標が建設された。北野川村の元標は字しんがい(公民館前旧道別道梅の木のあったところ)に設置されていた。

 ・ホトケ崎(上p150)

漂流から11年目にして故郷に帰った中浜万次郎は帰国後土佐藩の士分に取り立てられ幕府にも招聘された。明治4年(1871)ロンドンから帰国後、44歳の時に軽い脳溢血で倒れその後は静かに暮らしたという。万次郎が、明治9年(1876)頃に上山郷を通って高知に出たことがあるという。北ノ川で宿泊する予定の万次郎を上宮の人たちはホトケ崎で迎えたという。上宮の対岸で北ノ川の南端、ここで大きく西に迂回する。

 ・カシツケ(上p197)

明治の初め、北ノ川村字カシツケの庄屋家を利用して小学校を開校した。

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

p34:大正北ノ川、四万十川、相去川、市ノ又川、タカノス川、北の川谷川、北ノ川新橋

北の川橋、市ノ又橋、宮ノ瀬新橋、北ノ川中学校、北ノ川小学校、北ノ川保育所、北ノ川郵便局、歓喜寺、北ノ川山元貯木場

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

大正北ノ川、四万十川(渡川)

 

基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

市ノ又(四等三角点:標高442.95m/点名:いちのまた)北ノ川字太夫次郎526-1

 

■高知県河川調書(2001平成13年3月:p57)

相去川(四万十川1支川相去川)  ※大正北ノ川が合流点となる四万十川の右岸流

左岸:相去字タンロ847番地の1地先

右岸:相去字新田842番地先

市の又川(四万十川1支川相去川2支川市の又川)  大正北ノ川が合流点となる相去川の右岸流

左岸:市ノ又字ウスギ山320番地先

右岸:上岡字シデノ木山639番の35地先  ※右岸上岡は誤記載ではないか

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

北ノ川橋(不明/大正北ノ川字)

宮ノ瀬橋(不明/大正北ノ川字)

宮ノ瀬新橋(不明/大正北ノ川字)

市ノ又口橋(不明/大正北ノ川字)

梅ノ本橋(不明/大正北ノ川字)

西谷橋(不明/大正北ノ川字)

 

■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名)

ボウロク(明レン522-1・ボウロク谷川)

ヒトギの川(ササ山351・ヒトギの川)

 

■四万十町広報誌(平成20年6月号)

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ぶら〜り散策0809【大正北ノ川】20080601.pdf
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