黒潮町(くろしおちょう)


 

伊与木【いよき】438

古城【こじょう】439

 

黒潮町伊与喜

33.106300,133.096576

 

伊与喜(伊与木郷/校注一覧記p305)

此所より過ぎこし方をかえりみて

伊与木弥平次居之 

さらでだにへだたる物を旅衣 たちこし方の山の夕霧

此所に旅寝し侍る時 草枕かりの宿りの芦すかき

 

▽伊与喜

 一般的には現佐賀町のうち佐賀地区を除いた地域で、州郡志には戸数280余とあり、享和元年の『西郡廻見日記』には戸数243・人数1,146・馬231・猟銃57が記載されている (校注土佐一覧記p305)。

 

▽古城

 伊与木城はフルシロにあり、文明11年(1479)に築城され藤原信隆が京都から招かれ、城主となり伊与木氏を名乗っていた。一条氏没落後、元親の四国平定に武功をたて、また五代の弥平次は強弓でならし、豊後戸次川、文禄の役に出陣し痘瘡で病死している。 

(山本武雄著『校注土佐一覧記』p305)  

 


土佐一覧記を歩く⑤伊与木」『大形』324号、大方文学学級、2021.9

 伊与木での詞書には「此所より過ぎこし方をかえりみて」として、二首詠んでいる。

 

さらでだにへだたる物を旅衣

たちこし方の山の夕霧

草枕かりの宿りの芦すかき

ふしにしくとも何か恨みん

川村 与惣太

            

 素人の勝手読みでは、前の歌は「そうでなくても歳を重ね病葉のようになってしまった。この夕霧と同じように明日は消えてしまうのだ」。後の歌は「今日も草枕となった。芦を拝借して寝床としたが何も恨まれることはない。芦も私も時が来れば消えてしまうものなんだ」といったとこか。

 与惣太の墓は室戸市元から二十六番札所への山のへんろ道に入るところにあるが、この歌のように草となり消えていく寸前であった。

 この歳になると「こし方」といった言葉が気になってしまう。たぶんに与惣太もそうであったことだろう。東寺(金剛頂寺)の別当職を五十二歳(一七七二)で辞し土佐一国の行脚をして、まとめた書物がこの『土佐一覧記』である。四国遍路が退職者の通過儀礼となっているが、与惣太も「隠居」という分岐点でこし方を見返り、趣味の詩歌を楽しむための旅となったのだろう。ただ、泊った場所や何を食したのかなど旅の詳しい内容は記録されておらず、旅の姿も歌の中から読み解くことしかできない。

 この二首ともに「旅衣」と「草枕」と詠まれているが、「東海道五十三次」のイメージとは程遠く、土佐路はへんろ道筋であっても宿泊所は十分整備されていない時代である。僧籍の与惣太にとって頭陀袋と旅むしろを身に着けた旅姿であったことだろう。民俗学者の柳田国男は「タビという日本語は、或はタマワルと語源が一つで、人の給与をあてにして歩く点が、物乞いなどと一つであったのではないか。英語などのジャーニーは「その日暮らし」ということであり、トラベルはフランス語の労苦という字と本一つの言葉らしい。」と述べている。

 「草枕」は草を結んで枕とする旅寝をあらわし、わびしい宿泊や仮の宿を暗示する。『土佐一覧記』には多くの「草枕」の歌が詠まれているが、伊与木でも野宿となった。

 与惣太の記した「伊与木」は中世以前からの「伊与木郷」であるが、この地をぶらり歩けば地名の名づけが面白い。国道に架かる歩道橋には「JR伊与喜駅」「黒潮町伊与喜」の表示板がある。川は本流が「伊与木川」で小谷の「伊与喜川」がここで合流する。この「伊与木川」に架かる橋は「伊与喜橋」とあり、住む人は「伊与木」と複雑でどう読んでもイーヨキである。

 私の所属する「奥四万十山の暮らし調査団」は二年にわたって上山郷(四万十町大正地域)と伊与木郷を結ぶ往還道について調査を行った。一次調査では楠瀬慶太が『佐賀越の民俗誌』で「佐賀越は伊与木郷と上山郷を結ぶ第一級の“流通の道”であり“軍事の道”、“信仰の道”でもある」と述べ、「佐賀越の古道(峠道)を介して山村―農村―海村―都市がつながる“海山経済圏”とも言える経済流通圏が機能していたことが想定できる」と経済史的視点で交通網が整備されていない社会においての“峠道”の役割を検証した。二次調査では、私が『続・佐賀越の民俗誌』でその信仰の道として上山郷の郷社「熊野神社(鎮座地・四万十町大正字ウログチノ上ヱ)」の「潮汲みの祭事の道」について現地踏査した内容を報告している。(どちらもhp「四万十町地名辞典」で閲覧ができ、公立図書館には当報告書を納本している)。

 伊与木郷の郷社「熊野神社(黒潮町熊井字法泉寺山鎮座)」の縁起と相関性が強く、熊野浦に向かう「潮汲みの祭事の道」もおそらく八百年の連綿とした祭事であったことだろう。

 伊与木郷の熊野神社が鎮座す「熊井」について、片岡雅文は『土佐地名往来』で南路志や地元の伝承を紹介し「熊野の神の居ますところ」と呼ばれそれが転じて熊井となったと説明する。熊居は熊野別当湛増が居を構え熊野神社を勧請したと言いたいのだろうが名づけに無理がある。また、高知の民俗学者の桂井和雄は高知市の久万、春野町弘岡下の久万、中土佐町大野見の久万秋などを挙げ川沿いの平地の称としている。熊野のクマ(隈)は、奥まった所、辺鄙な所の意味の他、クマ(曲)の意味する河川の湾曲部分も考えられる。地形図で見れば一目瞭然、伊与木川が熊井で大きく屈曲していることがよくわかる。私は「神田」地名が各地にあるように「クマイ」は、中世神仏にお供えするための米を耕作する田「供米田(くまいでん)」ではないかと推論する。

 伊与木郷の「イヨ」は全国に分布する。高知市から荒倉トンネルを抜け春野に入った集落が「伊予川」である。土佐清水市には「伊予駄場」もある。樹木が高いさま、そびえるさまを表す「イヨ」で一般的には深い谷に多い地名。深い谷を意味する地名に同類のイヤ(祖谷・伊谷・伊屋・弥谷)がある。ただ当地「伊与木」は海岸線からは近く深い谷のイメージはないので、国名伝播によるものかもしれない。

 今回は地名逍遥で終わってしまって申し訳ない。

 ともあれ、「前に進め」で一生懸命だった明治からの「近代」。多少の失敗も前に進むことで帳消しにしてきた流儀も、だんだんほころびがめだってきた。口でごまかす政治も実体のない経済もコロナワクチンの開発もできない科学も情けない。希望のない世界となったいま、「三歩進んで二歩さがる」では解決できない深刻な近代の末期症状だ。

(武内文治)