大井川

おおいがわ


20150630初

20170621胡

【沿革】 

 長宗我部地検帳には「土佐国幡多郡上山郷地検帳」の小野村と大井川村の簿冊に大井川村地検帳として記録されている。検地では、大井川一村分として地高がまとめられており、当時は本村の位置づけと思える。大井川村の枝村は四手村(昭和)・中又村(昭和)・大また(昭和)・大サ江ノ村(昭和)・荷田村(大井川)・クク付村(大井川)がある。

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)南路志(1813)ともに「大井川村」とある。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡四手村、大井川村、野々川村、轟村、津賀村、茅吹手村、浦越村、黒川村、小野村、久保川村、大道村、細々村の上山郷下分12か村が合併し「西上山村」が発足し、大井川村は大字となった。

 昭和3年(1928)11月10日、幡多郡西上山村は改称し「昭和村」となった。

 昭和32年(1957)8月1日、幡多郡郡昭和村、十川村が合併し新設「十和村」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。

 地区内の班・組編成は、岡(おか)、沖内(おくうち)、西和(せいわ)、宮添(みやぞい)、奈路(なろ)、落田(おちだ)、八木(はちぎ)、駄場(だば)となっている。

  

【地誌】

 旧十和村の中央部。東から北は昭和、北西は河内に接し、境を四万十川が西流する。西は井﨑、南東は野々川に接し、南には国有林が広がる。主に農業地帯である。四万十川の対岸には国道381号が通り、昭和を抜水橋の昭和大橋が結ぶ。四万十川左岸を県道332号昭和中村線、町道が通り、小野や野々川などに通じる。また峰越しの町道は井﨑経由で西土佐地域への近道であるため利用者も多い。地内は、落田、奈路、くぐつけ、奥内、沖内、岡、駄馬、折付、八木、中島、宮添集落からなる。四万十川流域はアユ漁の好漁場地。水田面積は十和地域内では他に比べて広く、地域の穀倉地帯と呼ばれている。豚・牛の畜産業も盛ん。またビニールハウスでイチゴ栽培も行われているが、規模は小さい。児童館・隣保館・災害用ヘリポートなどがある。社寺に大井河神社・曹洞宗宗福寺がある。中世、中平隠岐守重熊の支配下にあったとされる古城跡が中央部・東部・西部に3か所ある。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央部、西流する四万十川の左岸で、曲線切断の円環状地形が大井川地区)

 

【地名の由来】

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 アガリ、洗場、庵ノ谷、池ケ谷口、池ケ谷向、池田、井才越、石フシ西、石フシノ東、一本木、井手谷口、井手ノ谷山、井戸ケ谷、居納屋、巳家駄場、鰻渕、姥ケ懐梅ノ木谷漆谷、漆谷林、王蔵駄場、大首、大平、大本、岡、岡林、沖川、沖重、沖重林、沖駄場、沖林、奥鉢木、奥古屋落田ノ上林、折ケ谷、折付、尾首林、柿ノ木ソリ、鍛治ノ前、片ゾオ、蔓藪、鎌下田、上ミ一本木山、上岩穴、上ミ落田、上ミクグツケ、上ミ窪、上クララ、上中串、上古屋、上防泰、上ミ又口、烏田、唐松谷口、唐松山、カロヲト山、川平山、ノ越、九畠、京ケ森、九才谷九才谷口、九才谷林、楠元平ラ、クナ岩口、窪、倉本、クララ、五十田、細々向ヲ山、坂本、坂本林、鷺ノ巣猴打、三六屋敷、下池ケ谷、下居納屋、下モ岩穴、下モ沖、下モ落田、下モクグツケ、下モ窪シモ込ミ、下モダバ、下中串、下モ野々串、下モ鉢木、拘子駄場、寿徳壽徳林、上口、新開、新通、新通山、水神谷、砂田、曽利、高筧上、高筧奥、瀧山、竹窪、立目口、田ノ向イ、田ノ向イ林、駄場、駄場竹、丁子渕、手箱谷、手箱林、寺屋敷、藤次田、堂駄場、徳根カサコ、戸崎、戸崎ハナ、鳶ノ子、鳶ノ子口、トヲショヲ岡、中居納屋、中串中串林、中久保、中嶋、長カ田、中谷山、中ノ越、長畑、中鉢木、中古屋、中古屋林、七ツサコ、奈路奈路脇、西ケ谷、西田、西立目、西立目林、西谷口、西田林、西野々串橋詰、橋詰上ヘ林、鉢木、蜂ノ山、日表山、東串、東野々串東又口、東又山、平野、平野駄場、弘瀬ガマ、古駄場、古屋古屋谷古屋林、防泰保登峠又口、松ケ奈路、松ノハザ、松原、三ツ串、宮越、宮添、宮添林、宮ノ上、宮ノ向イ、向イダバ、向ヘ林、ムクノキダバ、目細井口、目細井山、森ノ駄場、矢来ノ元、弥久谷、弥久谷山、山口、山下タ、横尾林、横道下、横道ノ向イ、横道山【184】

 

(地番順)

 下モダバ、川平山、長カ田、松ノハザ、クララ、上クララ、長畑、下モクグツケ、上ミクグツケ、沖林、井手ノ谷山、井手谷口、シモ込ミ一本木、上ミ一本木山、池田、鍛治ノ前、宮添林、宮添、楠元平ラ

 又口古屋、上ミ又口、古屋谷古屋林、中古屋、中古屋林、上古屋、奥古屋、横尾林、三ツ串、中越、坂本林、坂本、鷺ノ巣、下モ沖、防泰、上防泰、大首、田ノ向イ、大本中嶋、宮越、寿徳壽徳林、梅ノ木谷、田ノ向イ林、尾首林、西立目林、西立目、立目口、井才越、折付、向イダバ、松ケ奈路、蜂ノ山、保登峠、鰻渕、ヤ久谷、弥久谷山、蔓藪、中谷山、西野々串、東串、下モ野々串、西ケ谷、西谷口、庵ノ谷、山口ノ越、堂駄場

 駄場、沖駄場、、戸崎、戸崎ハナ、鎌下田、松原、九畠、中串林、森ノ駄場、橋詰上ヘ林、橋詰、烏田、西田、西田林、丁子渕、アガリ、沖重、曽利、下中串、上中串、倉本、窪、竹窪、王蔵駄場、柿ノ木ソリ、岡、上口、猴打、岡林、唐松山、唐松谷口、矢来ノ元、東又口、新通山、駄場竹、漆谷林、漆谷、新通、折ケ谷、向ヘ林、姥ケ懐、沖重林、洗場、沖川、九才谷九才谷林、九才谷口、三六屋敷

 京ケ森、高筧上、手箱林、手箱谷、高筧奥、平野駄場、寺屋敷、平野奈路脇、砂田、奈路新開、瀧山、下モ窪、中久保、上ミ窪、下モ落田落田ノ上林、鳶ノ子、トヲショヲ岡、鳶ノ子口、上ミ落田、五十田、徳根カサコ、片ゾオ、水神谷、東又山、目細井山、横道山、目細井口、奥鉢木、中鉢木、井戸ケ谷、下モ鉢木、池ケ谷口、池ケ谷向、カロヲト山、下池ケ谷、クナ岩口、横道下、横道ノ向イ、古駄場、石フシノ東、石フシ西、上岩穴、下モ岩穴、拘子駄場、巳家駄場、ムクノキダバ、七ツサコ、弘瀬ガマ、山下タ、居納屋、中居納屋、下居納屋、宮ノ向イ、宮ノ上、大平、日表山、細々向ヲ山

(藤次田、中串、鉢木、東野々串が未記載)

 

【ホノギ】

〇土佐国幡多郡上山郷地検帳(幡多郡上の1/検地:慶長2年、月日不詳)

 ▼荷田村・大川荷田村(p268~269)

 上ノクホ、三島神田、上ノ谷、家ノモト、三島大年神田、カタサキ、三島霜月十九日神田、三島神田九月九日神田、北川端、西クホ田

※十和村史にも「荷田村」については、検地の順として「四手→荷田→大井川」とあるだけで具体な説明はない。「シテノサキ」から「上ノクホ 荷田村」となっている。次のホノギが「カタサキ」となり、「ヲキシンカイ川内神田 大井川村」となっている。四手崎から大川を渡り現在の落田集落(大井川地区)へと検地は進んだのではないか。カダがオチダに転訛した記録はない。長宗我部地検帳の写本や刊本時に「落」の漢字を「荷」に誤植したのではないかと考える。

 ▼大井川村p269-301)

 ヲキシンカイ川内神田、なら、ならやしき、平のやしき、なろわき道かけて、トウシヤウフン、川内神田、西田、なろ田、手箱さこ、平ヤウジフチ、ハシツメ、コシリカハ、松ノ前、クサイ谷掘明、ヤマメタ、橋爪、クホノ向、ヲンチタサルウチ、ミソノフチ、新開、クホノマエ、地蔵田、松ノ前、アカリやしき、かちやのまえ、名本ヤシキ、西ノサカリ、中クシ、寺ノ廻、寺中、権現修理田、風呂ノ段、野中、山クビ、トキヤノ下、ツルイノスソ、ヲウサウ、ツチハシ、本サハ、キシ、タハカチヤ、さくらの内、ヤマクチ寿徳ホウタイハシツメ中シマ大モト田向ヤシキ尾クヒサキノスミツクシ古屋中谷南ノ上、マタクチヲンチタ、ホリタ、又口、宮ノハサ、九日テン、仁井田神田、ヤシキノ廻、一本木、中の南、中野、カマケタ、北ヲク、カウツイサイ井サイエノ西下、岩穴、イサ井■■ノ下、西谷ノ下、タソメ、ノロ、ウハカフところ東マタ、ヲリカ谷ウルシ谷口、タハ畠東また西ノヒラ、ひかしまた、ユノ木、ノノコシ、南ノ谷、西ノ谷、ミヤウ木ノ谷、カツラ蕨谷新開、ヤキヤウ谷、ホトノトウ、ミヤウ木谷ノ口、下コミウマキ谷

 ※ホノギ「ノノコシ」の転訛が字「野々串」か。越えの転訛が串とある。クシは長く連なった丘状地形

 

 ▼大井川内クヽ付村p301)

 中川ツイサイ、下ツイサイ

 

ダウンロード
907大井川集成図(くぐつけ).pdf
PDFファイル 154.8 KB
ダウンロード
907大井川集成図(荷田).pdf
PDFファイル 156.8 KB

【通称地名】

 

 

【山名】

山名(よみ/標高:)

 

【峠】

峠(地区△地区) ※注記

 

【河川・渓流】

大井川(河川調書)

 東又川(ゼンリン社)

 シンジウ谷川(ゼンリン社)

 曽利谷川(防災マップ425-73-213)

 久才谷川(ゼンリン社)

 中串谷川(ゼンリン社)

山口川(河川調書)

 折付谷川(防災マップ425-73-210)

 立目谷川(ゼンリン社)

 古尾谷川(ゼンリン社)

井崎谷川(河川調書)

 百ソウ谷川(ゼンリン社)

落田谷川(防災マップ425-73-008)

 

【瀬・渕】 

 

 

【井堰】 

 

 

【ため池】(四万十町ため池台帳)

三ツ串池

田ノ向イの池

九畠の池

 

【城址】

 

 

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

 大井河神社(旧:仁井田神社)/81おおいがわじんじゃ(にいだじんじゃ)/鎮座地:中串

(旧:河内神社)/83かわうちじんじゃ/鎮座地:新開

(旧:又口神社)/85またくちじんじゃ/鎮座地:又口

(旧:岡神社)/87おかじんじゃ/鎮座地:竹窪

(旧:沖神社)/89おきじんじゃ/鎮座地:曽利

(旧:大本神社)/90おおもとじんじゃ/鎮座地:大本

(旧:琴平神社)/91ことひらじんじゃ/鎮座地:寿徳

(旧:神明宮)/93しんめいぐう/鎮座地:松原

(旧:八幡宮)/94はちまんぐう/鎮座地:西田林

奥内神社/95おくうちじんじゃ/鎮座地:(沖ノ社)

※電子国土Webには「沖重」に神社記号を付している。

※ゼンリン社p34・G5位置に「宇陀神社」の記載がある。 


現地踏査の記録


地名の疑問

1)「荷田村」は「落田」に転訛

 

 

2)「ククツケ」と「クララ」

 

 

3)「カロヲト山」には空洞はある?

 

4)「沖重」は「奥内」と「沖内」の合併地名と言うが由来は?

 


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1597慶長2年:幡多郡上の1p269~301)

 大道村の検地を終え「是ヨリ大井川村」として北川村(北ノ川口)から、大井川村(カミホキ)、四手ノ村(竹カイチ)、中又村、大また(大また日ノチ)、四手村、大サ江ノ村(タキ山)、四手村(松マエ)、四手島(シデサキ)から左岸に渡り、大井川へ。荷田村(上ノクホ。荷田は落田の誤植と思われる)、大川荷田村(カタサキ)を経て「ヲキシンカイ川内神田」のホノギから大井川村となっている。その後「大井川クヽ付村」で終了し、広瀬村に移っている。クヽ付村は、大井川の下流「くぐつけ」

 寺社は、宝寿寺、宝秀寺、惣福寺、三島神田、権現修理田、川内神田、仁井田神田がある。

 職名として「番匠弥介給」「坂者扣」「かち■■(※鍛冶)」「筏藤介作」とある。

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p339)

 大井川村の四至は「東限日野峠西限白皇奈路南限尉之皺畝北限大川東西六十町南北四十五町戸凡一百餘其土赤」

 山は、中串山、鉢之森山、日裏山、東股山(皆村邉出薪)

 川は、野牛谷、東谷(自東南流北)

 寺社は、宗福寺(号多宝山)、十王堂、仁井田大明神社

 古蹟は、城跡(皆不知何人之所居)とある。

 

■寛保郷帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高370.155石、戸数109戸、人口520人、男276人、女244人、馬29頭、牛11頭、猟銃5挺 

 

■南路志(1813文化10年)

221大井川村 地三百七十石一斗四升

仁井田大明神 ミヤノソエ 正体九座 祭礼十一月廿三日

河内大明神 ヲキシンカイ 正体四座 祭礼十一月三日

亦口権現 ホウタイ 無正体 祭礼十一月二日

同   同   正体五座 木形長五寸四歩、脇立五寸

多宝山宗福寺 禅宗洞家五松寺末

本尊阿弥陀

 

■ふる里の地名(1982昭和57年)

徳弘勝氏の特別寄稿

 ・大井川(p84)

 イデ(井堰、用水路)がとびぬけて多いのでオウイカワ集落だろう。人口も多い。沖神社を氏神とする。 

 ・防泰

 大井川村のホノギとして知られる。ホノギは田の一区画の名前。「高知県地名辞典(※RKC・高知新聞)」には「ボウタイ」。地検帳には「ホウタイ 大井川村」。

 「ホウタイ」とは何だろう。「南路志」は次のようにしるす。

 「亦口権現 ホウタイ 無正体 祭礼十一月二日」

 仏教語辞典では「法体(ほうたい)」①法そのもの②万有の本体。実体

 名を称えるだけで極楽浄土に往生することができると説かれる。阿弥陀の阿を省略して、弥陀と呼ばれることが多い。解けたホウタイのナゾは、この辺りにあるのではなかろうか。

※南路志では各村々の石高の次に寺社の名称と所在地と祭礼日、信仰の対象・宝物等を書く順となっている。ここでは「亦口権現」の所在地を「ホウタイ」としているだけである。徳弘氏は「ホウタイ」を仏教用語の「法体」に関連した地名と推理しているが、論拠が不明である。

亦口権現」は「マタクチ」と呼んだのであろう、通称宮添の防泰の下流域にホノギ、字、共にある。 

 ・宮添というわけ(p87)

 宮添林(ミヤゾエ・バヤシ)ができてのち宮添という集落ができたと思われる。宮は宇賀御魂命(ウカノミタマノミコト)を祀る仁井田神社であった。ソエ(添)の古形は、ソヒ(添ひ・沿ひ・副ひ)くわしく言えば、線条的なもの、あるいは線条的に移動するものに、近い距離を保って離れずにいる意。

※仁井田大明神は大正4年に仁井田神社に改称し、その後大井河神社に改称した。 

 ・曾利をよみとりたいけれど(p90)

 大井川の小字をソリという。山の根の走りの突起をイソネ(石板)と方言はいい、イソネの「イ」 が脱落したソネ回のうちで、少し高くて用水のかかりにくい田を島根県大田市付近でソリタといった。

 この仲間だろうか。高知県では乾田地帯をアゲ、低地をクボ。クボのなかの高いところをソリとよんだ。

 ついでながら焼畑に関係がある話にソリ・ソウリ・ゾウレがあります。

※ソリ地名は四万十町にも多く分布する。大井川のソリも環状丘陵の南側の河岸段丘を隣保館付近から上がったところにある、まさに「クボのなかの高いところ」となっている。町内のソリ地名は、高野、宮内、仕出原、飯ノ川、若井川、烏手、芳川、江師、戸川、地吉、井﨑にある。 

 ・中シマをめぐって(p97)

 地検帳に、「中シマ 大井川村」。四アールばかりの地域を「中シマ」と呼んでいる。大井川むらの小字であった。

 いわゆる部落をシマとよんでいる例なら、たくさん指摘できる

 沖縄県でシマは村落を意味し、海にかこまれた島は、「ハナレ」とよんでいるらしい。

 「私のシマ」とか、「私の村」といいますが、これは集落をさし、現在の行政上の村ではありません。限られた区域をシマとよぶのは、共同体意識のつよいアカシ(証)といえるかもしれない。(仲松弥秋氏)

※シマの地名語彙は理解できるが、中シマの記述がない。

※中嶋は、国土地理院集成図にもある大井川地区内の集落名称である。地検帳からは「ホウタイ」「中シマ」「大モト」と続いて検地され、大井川でも上田中田が多い地帯である。 

 ・沖重とのかかわりで(p100)

 大井川の沖重(おきじゅう)は、沖内(おきうち)と奥内(おくうち)が合併して成立した地名で「重」は漢字音の借用。家中、村中というような意を表示する国語にほかなるまい。 

 ・八の字型にみえる小字のハチギ(p101)

 まわりに垣を構えめぐらして、内と外とを区切った所。敵を妨ぐためのもの。または墓所。奥つ城(き)などのキ(城)に通じる「ハチギ」と見れば、小字名を説明することになりましょうか。

※城のキは中世以前は「柵(キ)」。どこから八の字型に見えるかは不明 

 ・寿徳(ジュトク)というところ(p101)

 寿(トシ)寿命。年令だからトシと訓むけれど以外ゆえジュと漢音する。

 「徳」はトコへの当字。「トコ」は所。場所。窯トコ。寺トコ(寺のあった所)など例示できる。その小字よかれと祈る気持で名「徳」はトコへの当字。付けたのでしょうか。

※長宗我部地検帳にもでてくる中世以前の地名。寿徳とは 

 ・カマケタ(p102)

 林業用語で、雑木林をカマヤマといった。

 スミ(木炭)を焼くからでしょう。ケタは峰(みね)。

 ”あのケタへ雪が廻うたら暖うなるぜよ”

※「カマケタ」は長宗我部地検帳にもある中世以前の地名。現在の字名は「鎌下田」とある。 

 ・五十田 ゴジュウタ(p102)

 ゴジュウダ。天正以前、田んぼの面積を表わす単位にちなむ五十田であろうか。仏語のゴジュウ(五宗)田からきているだろうか。みなさんで追求ねがいます。結論がでましたら教示ねがいます。

※仁井田郷や上山郷の地検帳には、八斗蒔田とかいった田の広さを表現する命名はあっても、単に数字、「面積数値+田」の例はない。

※「五十田」は地検帳にはみられないことから、天台・華厳(けごん)・法相(ほつそう)・三論・律の五宗はあてはまらないだろう。「コーズ」は川の石地をいうし、「ゴソ」は草むらをいう(民俗地名語彙)。「ゴーソ」はいたどりの枯れ残った茎、「ゴートー」は雑木など生えふさがった渓谷(高知県方言辞典)。いずれにしても田としては劣悪な環境にあるように思えるので、現地確認が求められる。 

 小丘のすそを岡と呼んだ(p103)

 大井川の小字をオカと呼んでいる。標高206メートルのすそにたたずむ小字をそう呼んでいる。一般的にオカ(岡・丘)は、峰処(をか)の意といわれる。土地の小高くなった所。低い山。台地になった所とあるが、十和村のそこの場合、台地になっている所をオカといったのであろうか 

 ・折付は信仰からだろうか(p104)

 うしろの標高210メートルにしずまる社(やしろ)へ往来するうち生れた小字の折付だったかと思う。おりい(折居、下居)坂を下りたところ住居の意。おりぐち(折口)も当て字で、下口とか降口と書く。おりたて(折立、下立)とは坂を下りたすぐのところの意。

※社への往来というより、大井川から八木をとおり、井﨑から伊予へ行く、いまでも近道の車道がある。当時は主要な往還道であったことだろう。頻繁な往来が「折付」の地名となったことだろう。 

 ・姥ヶ懐というところは(p104)

 母に代わって、子に乳をやり、また育てる女を姥(うば)といった。大井川むらの沖重林と向へ林にかこまれた地域をウバガフトコロ(姥が懐)という。

 諸国に多い地名で、多くは没落の武士の若殿と姥とが住んでいたという伝説を伴なっている。

 ウバノフトコロは方言で日当りのよい暖かい所となっている。南をうけた日だまりの地。

※ウバガフトコロは四万十町内にも多くみつけられる。 →詳しくは「ア行 う 姥ヶ懐」をクリック

 

 ■ゼンリン社(2013平成25年)

 p34:大井川、沖内、駄馬、岡、折付、中島、大井川、久才谷川、中串谷川、山口川、古尾谷川、東又橋、大本橋、大井河神社、庄屋中平屋敷、大井川尋常小学校跡

p26:大井川、くぐつけ、四万十川

p27:大井川、奈路、四万十川、大井川、山口川、県道昭和中村線、昭和大橋、大井川橋、大井川ヘリポート

p35:大井川、落田、四万十川、県道昭和中村線

p40:大井川、八木、井崎谷川、百ソウ谷川、八木トンネル、山口川、東又川、シンジウ谷川、立目谷川

p41:大井川、シンジウ谷川

※ゼンリン社の記述に「沖内」はあるが「奥内」がない。

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

 大井川、落田、奥内、沖重、岡、駄馬、折付、中島、宮添、奈路、くぐつけ、八木

※電子国土Webの記録に「奥内」「沖重」はあるが「沖内」がない。

※沖重に神社記号が表記されているが所在は?

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

※左端の「点名」をクリックすると位置情報が、「三角点:標高」をクリックすると点の記にジャンプ

大井川(四等三角点:標高276.30m/点名:ひらがな)河内字向山2413-15番地

落田(四等三角点:標高231.53m/点名:おちだ)大井川字九才谷林2323番地

八木(四等三角点:標高422.87m/点名:はちぎ)大井川字横道山2394番地

目細イ山四等三角点:標高500.20m/点名:めぼそいやま)大井川字横道山239457番地

東又山三等三角点:標高569.18m/点名:ひがしまたやま)大井川字東又山2388-91番地

 

■国土交通省・渡川水系河川整備計画/高知県河川調書

大井川(四万十川1次支川大井川)

左岸:大井川字矢来ノ元1270番地先

右岸: 大井川字折ヶ谷1302番の1地先

山口川(四万十川1次支川大井川2次支川山口川)

左岸:大井川字壽徳561番地先

右岸: 大井川字中谷山2200番の5地先 

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

大井川橋(大井川/大井川字シモ込ミ)10.00

八木橋(/大井川)6.50

奥内橋(/大井川)2.10

駄場橋(/大井川)5.90

折付橋(/大井川)6.50

九才谷橋(/大井川)7.40

東又橋(大井川/大井川字猴打)8.50

山口橋(/大井川)4.80

大元橋(折付谷川/大井川字大本)5.10 ※ゼンリン社では「大本橋」

宮添橋(/大井川)5.50

西のオキ橋(/大井川)5.70

折付橋(/大井川)2.50

引地橋(/大井川)5.00

宮添1号橋(/大井川)8.30

宮添2号橋(/大井川)9.90

 

■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)

 ・37仙花紙(泉貨紙)製作所

 仙花紙(泉貨紙)は、純楮製の厚紙で、藩政期から昭和期にかけてこの地域で漉かれた特産物で、伊予から伝わったとされる。戦国時代末期の天正年間、現在の愛媛県西予市(旧野村町)の武士、兵頭太郎右衛門が隠とん後、工夫して発明したと言われている。漉くときに二枚の和紙を一枚に合わせるのが特徴で、強靭な強さが備わるため戦前まで帳簿用紙、戸籍用紙、土地台帳用紙などとして大量の需要があった。 

 山間部に位置する四万十川中流域は、耕地が少なく農業を主体としながらも副業に生業を求めなければならなかった。そのため、十和地域では古くから農閑期や四万十川の渇水期に晒の工程で四万十川を利用した紙漉きが行われていた。明治期には生産額で木炭とともに首位を占めていた仙花紙の製造も、大量生産の紙に押されて途絶えていたが、大井川で再開され漉かれている。 仙花紙は、和紙の世界でも始期が明確な紙として知られ、今に伝わる貴重な楮紙である。四万十川中流域における農山村集落の生業を理解するうえで重要である。

 ・41県道昭和中村線

 県道昭和中村線は、大井川から野々川を経て堂ヶ森を越え中村(四万十市)へ至る道である。十和地域から中村へ通じる最短の道で、下田港へ至る旧往還があった。

 中村は、藩政期に郡奉行所、明治期に郡役所が置かれた幡多地方の中心地で、旧往還は公的権力への連絡道であった。しかし、昔の道は幅員が狭く牛馬での荷物の搬送は困難で、この道を利用した物資の運搬のほとんどは人力であった。このため生活物資や林産物の輸送・搬出よりも中村への所用や筏流しに携わった人々の帰路、製紙材料の買付に利用されることが多かったという。

 これは、四万十川を利用した河川流通の発達や、活発な伊予(愛媛県)との往来を理解する上で重要である。 現在は、道路の整備が進み自動車の通行が可能となり、十和地域と中村とを結ぶ生活道や産業道として利用されている。

 ・42町道大井川西土佐線

 県道昭和中村線は、大井川から野々川を経て堂ヶ森を越え中村(四万十市)へ至る道である。十和地域から中村へ通じる最短の道で、下田港へ至る旧往還があった。 

 中村は、藩政期に郡奉行所、明治期に郡役所が置かれた幡多地方の中心地で、旧往還は公的権力への連絡道であった。しかし、昔の道は幅員が狭く牛馬での荷物の搬送は困難で、この道を利用した物資の運搬のほとんどは人力であった。このため生活物資や林産物の輸送・搬出よりも中村への所用や筏流しに携わった人々の帰路、製紙材料の買付に利用されることが多かったという。 

 これは、四万十川を利用した河川流通の発達や、活発な伊予(愛媛県)との往来を理解する上で重要である。 現在は、道路の整備が進み自動車の通行が可能となり、十和地域と中村とを結ぶ生活道や産業道として利用されている。

 

■四万十町広報誌(平成21年5月号)

ダウンロード
ぶら〜り散策0907【大井川】20090501.pdf
PDFファイル 271.8 KB


フォトギャラリー