Vol.06 五郎丸という 山の話

奥州「羽黒山」の石畳
奥州「羽黒山」の石畳

 20150915初

20160601胡

 

■「丸」は徳島県特有の山の名称

 

 ラグビー日本代表の快進撃は、世界を驚かせたばかりでなく「Japan Way」の取り組みが日本人の誇りにもなっていった。そのなかでも有名になったのは五郎丸の所作で、子供たちだけでなく、大人まで真似する手のしぐさとなった。それにあやかり、「五郎丸」という山が徳島県と高知県の境にあるとテレビが放送していた。

 丸は徳島県特有の山を意味する名称ゆえか、徳島県側からは登り口があるという。今頃は登山客で賑わっていることだろう。

 他に接尾語としての丸の使われ方は、男の幼名(牛若丸)、船名(明神丸)、本丸の城郭(二の丸)などがある。


 丸のマルはモリの転訛であろう。

 森が山そのものを指す例は東北地方に最も多く、それに次いで四国地方(愛媛県と高知県)だという。東西相隔たって集中分布がみられるのは「周囲残存分布」といわれるもので、太古に山をモリという用法が全国的にあったものが、東西に分かれて残存したものである(民俗地名語彙辞典下p385)。

 森という語は本来、鎮守の森からきたもので、それが普通の木立の意味にも使われるようになったーと解される。「モリ」はフロ、ムロ、ヒムロという語と共に、おそらく神祭りをする神聖な樹林を指したものであろう。古くは「神社」をモリと訓ませており、「杜」という字が「社の森」に由来することがうなずける(同書下p386)。

 

 徳島にある「丸」の山名は、貧田丸、湯桶丸、吉野丸、神戸丸、天神丸、塔丸、旭ヶ丸、五ノ丸山、日ノ丸山などがある。

 詳しくは、橋田庫欣氏が土佐史談203号「森と丸」に際しく解説している。

 

▲「富士山」は山の呼称を語る
 山を意味する名称は「山(やま・さん・せん)」や 「丸(まる)」や「森(もり)」の他、「岳(たけ)」、「峰(みね)」、「駒(こま)」、「嵓(ぐら)」、「仙(せん)」などたくさん見られる。
 日本人にとって山といえば富士山である。日本の超一流名クライマーであり地名研究者である古川純一氏(1923-)は「日本超古代地名解p81」でこう述べている
アイヌ語で山をフチと言い、それが富士山の語源であるという。駿河国風土記では福地と書いてフジである。富士山の「サン」は山の呼称としては、大陸から伝わった新しい呼び名である。常陸国風土記では「駿河國の福慈の岳に至り」とある。岳は西アジアのウル国のウル語でダカンであり、それが紀元数千年前に沖縄人によってもたらされた。沖縄本島の山の呼称は岳が40で山が4のみである。対馬では岳は7で山が42となり、佐渡ヶ島ではついに岳は0になり、山が41、山(さん)が6、峯が3になる。山と岳は日本に渡来した時期がことなっていることの証明
日本の山の呼称は古い順に書くと、峯(ね)、根(ね)、峯(みね)、岳(だけ)、やま、山(さん)であるが、「富士山」にはこの全部の呼称があり、古くから親しまれてフチ、フジの呼び名があったことになる。
 
 「山の名称は、地名のうちでも、いろいろな地名学分野においてたいへん重要な意義をもっている。山に因むさまざまな名称は、人間生活の広い領域にわたってかかわりあいをもつからである。山谷からきた名や祀られた神仏の名からきたもの、そこの地域名との関連、水源地としての役割、境界的性格を示すもの、また山そのものをさす名称の多様性、山名の分布から見た地域的差異、交通路に関するもの、動植物の関係、気象現象とのかかわり、あるいは語源的に外来語との関係を考える上にも、山名は特異の対象ともなり、その地名的性格は複雑である」(松尾俊郎著/地名の探求p85)と松尾氏は山国日本の生活を考えるうえで山の持つ地名の意味を説明している。
 「山」は一般的ではあるが、その読みはヤマかサンかザンと違ってくる。四万十町ではヤマと呼ぶのが大部分で、サンと呼ぶのは「枝折山」しか思いつかない。
 四万十町の主だった山を挙げてみる(電子国土Webに掲載している山名)。
 山の紹介文は、ぼちぼち追加していく。
▲「山」の山名
地蔵山(じぞうやま:標高1,128m:愛媛県鬼北町△大道)
※【参照】当HP森下画伯の絵地図』の「日本最古の複層林 小椎尾山さんさくマップ
 四万十町と愛媛県との境に位置する、標高では四万十町の最高地点。国有林野名でいえば「小椎尾山」となる。伊予側と土佐側に二体の地蔵が祀られている。頂上付近は、クマザサに被覆されたブナの森に抱かれている。久保川から久保川谷を遡上して大道の番所谷に向かうが、途中の丹念に手入れされた棚田の畔や石垣には十和の愚直な生き方を学ぶことになる。登山口は番所谷から林道に入るとすぐに表示がある。仁井田又との稜線を左右に登り、地蔵山に続く笹平山(標高1,034.8m)との稜線のタオにたどりつけばもう一時である。
②不動山(ふどうやま:標高780.5m:四万十市△大正・つづら川)
③大小権現山(だいしょうごんげんやま:標高693.0m:中土佐町△川ノ内・奥呉地)
④枝折山(しおりさん:標高806.3m:窪川中津川△米奥)
⑤大又山(おおまたやま:標高620m:久保川△昭和・北ノ川)
▲「森」の山名
鈴ヶ森(すずがもり:標高1,054.1m:日野地△梼原町・中土佐町)
※【参照】当HP森下画伯の絵地図』の「鈴ヶ森山歩きルートマップ」・「松葉川山物語
 旧窪川町の最高地点。2013年高知県展の洋画部門特選になった「森の回廊・巨大アカガシの森」で脚光を浴びた森下画伯が愛する山。春分峠からの稜線づたいは三町境の急登はあるが「照葉樹の葉っぱにきらめく光はまるで太平洋のさざ波のように見える」と森下画伯はいう。近年、トレイルランの愛好家が注目。下山すれば松葉川温泉もあるので是非おこしあれ。
城戸木森(きどきもり:標高908.35m:大正中津川△折合)
※【参照】当HP森下画伯の絵地図』の「森の道 城戸木森山系マップ」・「折合~成川往還物語」
 四万十町には一等三角点が2カ所あるがそのひとつ。点名は城戸木森(しろとぎもり)で、山名は城戸木森(きどきもり)である。土佐州郡志の中津川村の四至として『東限幾登幾』とあることから「きどきもり」と読むのが正解であろう。大正町史には「いくのほりいくもり」とルビを振っているが出典根拠は示していない。一等三角点ではあるが、地形図には山名の記載がなく不名誉な取り扱いとなっている。大正中津川側の登り口は中津川林道を小松尾峠に向けて進み23支線を過ぎて大きなヘアピンを曲がり終えたころにあり、4024林班と4028林班の境に位置し、登り口の標識がある。そこから窪川中津川との境稜線まで登りつめてからその稜線を南下すると窪川中津川の枝折山への稜線別れとなるので西に向い、幾分登ると城戸木森の頂上となる。視界は良くない。これより南下すれば折合のヒノキやオヒソの森にも行ける。往路は間違って枝折山に向い遭難しかけた人もいるので要注意。詳しくは森下画伯の絵地図をご覧あれ。折合側の登山口ももちろんある。
 キトキとは面白い山名である。キは樹木のほか城や集落の意味もある。大正中津川集落から登り北東側に降りると窪川中津川集落となる。それも大正の森が内集落の大アザメから登り窪川側に降りるとそこも森が内集落ではないか。平成の町村合併で旧大正町の中津川と旧窪川町の中津川は大字名称の調整をおこなったが「森が内」は今もしっかりその名をそのまま主張している。
堂が森(どうがもり:標高857.4m:四万十市△野々川  )
 一般的には「堂ヶ森」となっているが国土地理院の地形図では「堂が森」。四万十市と四万十町野々川地区にまたがる四国西南山地に座する山。四万十川が左回りに蛇行する中心軸に位置する。古くは応仁2年(1468)、一条教房が土佐中村庄に下向するとすぐ街道工事に着手したが、その一つが中村~蕨岡~竹屋敷~上山郷への道で、そのときに地蔵を鎮守したことからこの山名となった。現在でも西土佐藤の川地区や野々川地区の住民が大切に保存し、奉納相撲も行っている。全国的に人気の高い「四万十川ウルトラマラソン」は堂が森の峠を越え四万十川に沿って下るコースとなっている。同じ山名で石鎚山系二の森に西座する堂が森(標高1,689.4m)がある。
火打ヶ森(ひうちがもり:標高590.5m:道徳△ 中土佐町)
 四万十町と中土佐町の境にある山。土佐州郡志(1704-1711宝永年間に編纂した土佐藩中期の村別地誌)には仁井田郷道徳村の四至に「火打之森」とあり、久礼村には「燧之森山」とある。秀麗な山容は中土佐町からは尚よい。隣接する五在所ノ峯、大小権現山ともに修験の山と云われる。いかにも霊験漂わす山の姿である。
 民俗地名語彙辞典(下p256)では「三角形のトンガリ状を呈する山を三角山とか火打山という。昔の発火用具であった火打(燧)は三角形の火打袋にいれた。建築で、組み合わせた二材を強化するための射材を取り付けたがその設置した形状が三角形であるためヒウチの名を用いた。」と三角の形状がヒウチの語源であるという。
 尾瀬には百名山「燧ヶ岳(ひうちがだけ)」がある。この山のピークが柴安嵓(しばやすぐら、2,356m)、次のピークが難解地名の俎嵓(まないたぐら)。この嵓は山名というより切り立った崖となる山頂の形状名称であろう。
▲「峰(峯)」の山名
五在所ノ峯(ございしょのみね:標高657.96m:金上野 黒潮町)
※【参照】四万十町地名辞典HP森下画伯の絵地図』の「霊峰 五在所の森」
 四万十町にある二つの一等三角点の片方が、この五在所ノ峯である。また、全国48点しかない「天測点(八角形の柱)」がある。
 窪川の人々が愛する山として親しまれてきた。初日の出をここから望むと眼下、興津の海に拝むことができる。金上野登山口となるカロウトウには大きな看板もあり、小一時間で登れる。佐賀の市野々側からみるとその山の姿は美しく修験の山と思わせる。
 南路志には「文武天皇大寶の初年に役小角土佐に来りて、清浄無垢の峠にて小角来りて国家鎮護の修法せし所なれはとて、高岡・幡多二郡の山伏集ひ来りて先例の護摩有とそ。(同3巻p310)」と書かれ、東の横倉山とともに古来より土佐の修験の山として有名で、頂上付近には修験場の跡もある。別名を降在所山とも云われる。信州の上高地が神降地に転訛したものと同じ意味か。(上高地オフィシャルサイトは「上高地は古くから、神降地、神合地、神垣内、神河内などとも呼ばれ、神々を祀るにもっともふさわしい神聖な場所とされてきました。」としている。古川純一氏はアイヌ語・コッ(チヒ)の意味の窪みとしての河内であるとしている。)
 山名の由来は、山頂から五つの在所(人里)が見渡せる峰であることから「五在所の峰」と言われている。五つの在所とはおそらく仁井田五人衆(東・西・窪川・西原・志和)、五社(東大宮・今大神宮・中宮・今宮・森ノ宮)、五羽の瑞鳥(孔雀・白鷺・雉子・鳩鴿鳥・金鳥※南路志③p310)などから仁井田五人衆の領地を意味するものだろうが、「降在所山」を後の者が五人衆にあてはめ「五在所山」と読みかえたのではないかと推理する。
吹の峰(ふきのとう:標高700.2m:津賀西ノ川 江師)
 津賀の川と西の川と銚子の川の源流点。江師寄りの双耳峰には地蔵二体が祀られている。国有林野地内。昭和の時代まではしっかりとした防火帯も設えていたが今は荒れている。近年、江師・オートトキャンプ場ウェル花夢から稜線沿いに遊歩道を江師もくもくクラブが整備している。
 早春、葉の伸出より先に花径が伸びだすそれを「ふきのとう」というが、吹くと峰の合成であることから「ふきのとう」を意味するものではない。
 この吹の峰は、南流する梼原川と西流する四万十川の合流付近の比較的高い山として、雨雪や風向など気象の変化する地帯である。地元の人もこの山頂の雲の変化を見て農作業の判断をしていることから「吹の峰」と呼んだのではないかと推論する。
 
 
【蛙鳴蝉噪】
 五郎丸のルーチンとしてする手のしぐさ。密教の修法者が手指によって表す印契のように見えるがどうでしょう。十の指に自分の顔を加えて十一面となり、どの方向にも顔を向けて人々を病苦・苦悩などから救おうという印が、十一面観音印。あらゆる方向を意味する十方にチームのチカラをあわせキックする、その所作は美しい。

 


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