Vol.12:土佐の旅人(1)松浦武四郎


20160611胡

1844年(弘化元)「四国遍路道中雑記」

 松浦武四郎著

四国遍路の紀行記録 

△高嶋村から四万十川を望む「四万十川之圖」のスケッチ(四万十市竹島)

  

旅に生きた小さな巨人 松浦武四郎 

  幕末から明治時代にかけての探検家・松浦武四郎。蝦夷地を六度も踏査した「北海道」の名付け親でもある。

 

 武四郎は、御師(おんし)にひきつられた伊勢詣・そのメインストリート松阪に生まれた。連日、諸国の御国訛りが行き交う賑わいに武四郎少年は不思議な異国の世界に思いを馳せたことだろう。

 

 16歳に東海道を江戸へと旅立ち、国元から彼を連れ戻しにくると承諾しつつ、帰国の途には中仙道を進み戸隠山、善光寺、御嶽山と遊行している。

 再び諸国歴訪にでたのは武四郎、17歳であった。金が尽きたら帰るであろうと父の思いの一両と野帳と矢立を持ち歩き地名、出来事、景色や風物など事細かく絵も入れながら記録している。北は陸奥から南は薩摩まで歴訪は、先々で篆刻での路銀稼ぎをしたという。対馬から朝鮮半島へ渡ろうとしたが叶わなかった。 

 

 天保7年(1836)に四国八十八箇所の霊場めぐりをし、8年後の弘化元年(1844)に『四国遍路道中雑誌 三巻』として記録している。旅にあたって当時の遍路の案内書である「四国徧礼名所図会」を読み、四国の旅に出たのであろう。武四郎は200以上の書物をまとめ、100点以上を出版したというから驚きである。

 

※天保7年といえば、坂本龍馬の生まれた頃であり、伊能忠敬が没して20年近くたっている。当時の旅人の健脚には感心する。当時の歩き方、右手と右足、左手と左足をそれぞれ同時に出して前に進む「ナンバ歩き」がいいのだろうか。武四郎の歴程は龍馬の上である。  

 

 この四国遍路道中雑誌の原本を校訂編集したのが次の書籍である。

 

「松浦武四郎紀行集(中)」   

富山房発行/吉田武三編/昭和50年12月 

 

 その他参考資料を示す

・NAGI凪 47号(2011-12冬) 特集松浦武四郎の歩き方

副タイトルに「見る聞くメモる本にする」

「日本の旅人」全15巻(淡交社)  「14巻 松浦武四郎」

偉大な探検家。北海道の踏査記録が主

・「青年・松岡武四郎の四国遍路」木下博民著  旅の様子がよくわかる

・高知新聞(2008年11月17日付)連載「土佐 歴史細見」

シリーズ13「松岡武四郎と四国遍路」 片岡雅文記者の署名記事

(県立図書館の高知新聞データベースで閲覧)

 

 

 また、松岡武四郎のミュージアムなどはここ

松浦武四郎記念館  (三重県松阪市)

静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)  (世田谷区岡本) 

武四郎が収集した古物資料約900点が保存

 

  

 

『松浦武四郎の四国遍路をたどる』

  (2021年9月30日発刊/リーブル出版)

 

 編集子・武内文治が、松浦武四郎生誕200年を記念して武四郎の著書

『四国遍路道中雑誌』に記された地名を訪ね、地名と遍路の変容をルポルタージュした内容です。

 簡潔に松浦武四郎の人となりを説明し、遍路の楽しみ方を紀行文として書いたもの。

 詳しくは

 当サイト→奥四万十山の暮らし調査団叢書へ

 

 

松浦武四郎の歩いた記録 四万十町床鍋~峰ノ上

(そへミヽ坂 越て)

とこなべ村 并て

かげの村 越而

かいの村 并て

六たんじ村 此邊皆田畑多き處故ニ農家とミたり。少し行て

かミあか村 并て

川井村 少しの坂を越て廣地へ下りしばし行て

うしろ川 手前の岸ニ堂有。此處大水の節は是ニ納む。引船有。

然し急流にし而大水ニは留る也。此處に荷物を置また此處に打もどる也。

渡りて

仁井田村 農家少し。茶店有。止宿するニよろし。鳥居の傍本坊有。

しゆろう堂、茶堂有。入て

卅七番五社 従青龍寺十三り。高岡郡仁井田村ニ有。本社は五社明神。

其外社内末社多し。別當岩本院と云て是より十餘丁之久保川町ニ有。

本堂  本地阿彌陀如来。薬師如来。地蔵菩薩。観世音菩薩。不動明王。

并て大師堂。其外堂舎多し。

詠  六つのちり五の社あらハして

ふかきにゐだの神のたのしみ

扨川を渡りもどりて十丁にして  ※「扨」は、サテと読む。

久保川村 少しの町也。茶店有。止宿するニよし。越而

おほさき 越而

古市川 船渡し。過て

 有。下りて

峯のうへ村 越

かた坂 下りて

(一ノ瀬村)  

【解説】

 武四郎は、中土佐の添蚯蚓坂から床鍋に入っている。「かいの村」は替坂本のことであろう。六反地、神有、「少しの坂」を越えて平串とある。

 「うしろ川」は本河川に対する支流の側河川の呼び名だろう、中村にも後川とある。

 武四郎は当時の四国徧礼名所図会をもって旅したのだろう。

 四国遍禮繪圖(1763年)では、四万十町では床鍋から記録され、浜ノ川(カキノキムラ)から峠を越えて平串に入り計り場を越へ辷道から仁井田川(ウシロ川)を根々崎に渡り、そこから四万十川(大河)を宮内に渡って五社へと向かった。とある。また、この繪圖には、大きく河川の形状を書き入れ「四万十川」と明記している。

 武四郎の記録では、「川井村」→「うしろ川」→「仁井田村」→「卅七番五社」→「本堂」→「久保川村」となっているが、二つの川を渡る経路が正確ではない。「うしろ川」は本流ではないが、本流の記述もない。「うしろ川」の正式な河川名称は「渡川水系四万十川1次支川仁井田川」、つまり仁井田川である。

 ちなみに、下流の大正では本流を仁井田川と云っていたし、轟崎のJR予土線の橋梁は仁井田川橋梁とある。当時の遍路絵図によっては、仁井田川、大川とかいった記述もある。 

 

 武四郎の旅姿を「青年・松岡武四郎の四国遍路(p37)」ではこう述べている。

四国遍路は、宗教心というよりも、とにかく弘法大師にあやかって四国の辺地を旅しようという気負。出立は「莎笠(すげかさ)」、「札挟(ふだばさみ)」、「杖(つえ)」、「一小冊」。

遍路には上中下がある。上遍路は、日々家々の前にたって経を唱え、一手一銭の功徳を受けて回る。中遍路はひたすら自分の脚で巡拝する。下遍路とは、強力をつれてこれに荷物を負わせて巡拝する者、とある。武四郎は中遍路だろう。

 


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