平成の土佐一覧記

 

与惣太の旅した地名を探しながら平成のその土地を編集人が歩き、その地の250年の今昔を文献史料と現在発行されているパンフレット、下手な写真等により「考現学」としてまとめようとするものです。

 また、編集人だけでなく閲覧者の確かな目でほころびを直し、外から見た「土地」のイメージを描こうとするねらいもあります。

 掲載する内容は

①自治体の概要(公式HPから引用・振興計画・観光パンフレット等)

②旅人の記録

③地名【ちめい】000掲載順No(校注土佐一覧記)

④所在地

⑤所在の十進座標 ※クリックすると電子国土Web表示①掲載地名の現在の地名と景観(地名の入った写真)

⑥与惣太の短歌 (校注一覧記掲載の地名と郷村名と掲載ページ)

⑦地名の由来等、既存の文献史料(一部)をまとめ

編集人のつぶやき 

※一定の時期が来たら、郡ごとに編集して冊子にして公表します。

香南市(こうなんし)

 

役所所在地:高知県香南市野市町西野2706番地

郵便番号:781-5292

電話番号:0887-56-0511

FAX:0887-56-0576

メールアドレス:

URL:http://www.city.kochi-konan.lg.jp/


■香南市HP「地勢・概要」から

 

■地勢・概要

▶位置・面積

 香南市は、平成18年3月1日に、高知県の香南5町村(赤岡町、香我美町、野市町、夜須町、吉川村)が合併して誕生した新しいまちです。

 高知市の東部約20~30キロメートルに位置し、東西約20キロメートル、南北約15キロメートルの広さを持つ面積126.46平方キロメートルのまちとなります。(国土地理院の平成30年1月31日公表により、面積が126.48平方キロメートルから126.46平方キロメートルに変更となりました) 

 平成14年7月には土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線が開業し、さらに高知市と安芸市を結ぶ高知東部自動車道の整備など、将来的に広域交通網の強化が期待できる地域です。

 

▶地勢・気候・自然

 香南市は、南部地域は太平洋に面する海岸部と肥沃な平野部が東西に広がり、中部地域は低山が連なる中で里山環境が広がり、北部地域は標高約300~600mの四国山地の一部を構成しており、四国山地を源流にする物部川、香宗川、夜須川などが流れるなど、豊かな水と緑に包まれた地域です。

 気候は、南海型の気候区分に属し、温暖な気候に加え、年間降水量は県下でも少ない地域となっています。この地域では温暖で雨が少ない気候を利用して、古くから野菜の早出し栽培に取り組み、ハウス栽培を中心とした野菜園芸が発展してきました。 

 香南市周辺は、龍河洞県立自然公園などの緑豊かな森林環境と手結住吉県立自然公園などの変化に富む海岸など、多様な自然環境に恵まれています。

 

▶歴史

 平成18年に香南市としてスタートした旧5町村の各地域では、古代までの遺跡や古墳が多数確認されており、地域内の随所に条里制遺構も残されています。 

 古代から中世にかけては、荘園化が進み、京文化の影響を受けながら推移し、近世では、野中兼山による地域開発もなされ発展してきました。 

 近世以降、赤岡では交通の要衝として、香宗川の舟運も活かして商業が栄え、近年まで周辺地域の産業・交易の中心地として賑わいました。 

 先人たちが培ってきた歴史・文化は、現在も脈々と生き続けており、多数の埋蔵物や史跡・建造物、工芸品などの文化財をはじめ、江戸期の絵師・絵金の作品が並ぶ絵金祭り、県指定の文化財に指定されている若一王子宮獅子舞、手結盆踊りなどのほか、端午の節句にはこの地方特有の風習であるフラフが多くの家ではためいています。

 また、昭和の合併期には、昭和28年10月1日に施行された「町村合併促進法」に伴って、香我美町、野市町、夜須町が誕生しました。赤岡町、吉川村は、明治時代に合併が行われ、そのまま平成18年の合併に至っています。

 

■文化・観光

  • 絵金蔵と弁天座
  • どろめ祭り
  • 土佐凧
  • ヤ・シィパーク

■計画等

ダウンロード
39201香南市振興計画(2017~2026).pdf
PDFファイル 17.8 MB


旅人の記録

1687年(貞享4年)

「四国徧禮道指南」

真稔著

▼手井山(手結)

▼手井村

▼手井浦

▼やす濱(夜須)

▼きしもと村(岸本)

▼あかおか村(赤岡)

▼のいち村(野市)

▼しるし石

▼大たに村(大谷)

▼廿八番大日寺

▼ぼたひじ村(母代寺)

▼ぶやうし村(父養寺)

▼物部川

※ものいのルビ

 

1808年(文化5年4月27日・28日)

▼「伊能忠敬測量日記」

▽「伊能測量隊旅中日記」

伊能忠敬著

▼手結浦

▼夜須村

▼岸本浦

▼赤岡浦

▼吉原村

▽野市村

▽物部川

 

1808年(文化5年3月25日・4月27日)

「奥宮測量日誌」

奥宮正樹著

▼野市村

▼平井山

▼赤岡の町

▼岸本

▼月見山

▼夜須村

▼や須川

▼七板橋

▼手結浦

▼てい山越

▼女夫岩

 

▼赤岡(4/27)

▼野市村

 1834年(天保5年)

「四国遍路道中雑誌」

松浦武四郎著

▼手井山

▼手井村

▼ミなと村

▼やす濱

▼きしもと村

▼赤岡村

▼のいち村

▼大たに村

▼二十八番法界山高照院大日寺

▼菩提寺村

▼ぶやうじ村

▼ものい川 

2003年(平成15年)~

「土佐地名往来」(高知新聞)

片岡雅文記者

▼仏が崎 (ほとけがさき)

▼羽尾(はお)

▼備後(びんご) 

▼添地(そえじ・そいじ)

▼出口(いでぐち)

▼命山(いのちやま) 

▼手結(てい)  

▼舞川(まいかわ) 

▼簾 (すだれ) 

▼徳王子(とくおーじ)  

▼岸本(きしもと) 

▼須留田(するだ)

▼赤岡(あかおか) 

▼兎田(うさいだ)

▼冨家(ふけい)

▼香宗(こうそう)

▼兄弟橋(きょうだいばし)

▼アゴデン(あごでん)

▼三又(みつまた)

▼烏川(からすがわ)

▼ごすいでん

▼野市(のいち) 

▼政処(まさどころ)

▼吉原(よしはら) 




物部川絵図(安芸歴民館所蔵)
物部川絵図(安芸歴民館所蔵)

香我美のみちしるべ

 

 与惣太が土佐国内を訪ね『土佐一覧記』に記録した地名は557カ所。今回は香美郡の57カ所を紹介することにする。

 香美郡は高知工科大学が所在する地であり、同大学がフィールドサイエンスとして香美市土佐山田町佐岡地区の里山再生プロジェクトを展開するなど地域連携の進んだところである。2016年12月システム工学群・高木方隆教授の協力を得て多業種間での地理空間情報を利活用する「高知歴史環境GIS研究会」(事務局長楠瀬慶太) を設立。博物館学芸員、埋蔵文化財研究員、行政コンサル会社専門員、システム開発エンジニア、公務員など多様な職種による集合知の有用性を高めた佐岡地区のフィールドワークに参加している。その縁での七郡のうち最初の「香美郡」である。

 与惣太も香美郡内の多くの神社を訪ね、古城を紹介している。あれから300年の歴史が刻まれた「今」の香美郡の遍路道を歩き、塩の道を歩き、野中兼山の遺構を歩くことにした。香美郡は「神の宿る地」である。

 


 

 

香南市夜須町

 

 

 

 

 与惣太が香美郡で最初に詠んだのが「手結山」である。ここは安芸郡との境界でもあり住吉の番所から手結越えをめざしたことだろう。手結で詠んだのは夏(暑き日)、次の夜須・笠松で詠んだのは秋(露時雨)であるから幾度となくこの街道を往来したことが伺える。

 旧夜須町は、夜須庄と大忍庄(おおさとのしょう)の夜須川流域から成り立つ。夜須庄は有名な石清水八幡宮寺(宝塔院領)の荘園であった。『土佐一覧記』には夜須川上流域や羽尾、長谷寺の記述はない。ただ、安芸の畑山や尾川を訪ねていることから大忍の往還も一度は歩いたかもしれない。大忍は土佐の代表的な荘園で香我美の海岸部から物部・槙山の阿波国境までの「大きな里」 である。ただし、古来より二つの庄の境は厳格であり、明治以降の配置分合にも喉に刺さった骨のような関係は続いた。

 

 

手結山【ていやま】108

 

 

 

香南市夜須町手結山 

 

33.525556,133.764532 

 

 

手結山(手結村/校注土佐一覧記p109)

「暑き日は行かふ人も立寄りて 先手に結ぶ山川の水」 

 

 

 

手結の餅

 山内一豊が甲浦から浦戸城へと入国した土佐第一の大道。東西に長く平坦地が海岸線沿いしかない土佐にとって経済上も軍事上も重要な幹線道であり、手結山には藩主参勤交代の休息所が設けられた。大道幅三間(約6m)は馬車牛荷の往来のため勾配はそれなりに緩く路面には伏石が設えていたという。茶屋があれば団子か饅頭であるが、ここ手結には有名な「手結の餅(上の写真)」がある。ニッキの風味が懐かしくつい引き寄せられる。創業は天保8年(1837)と歴史があり参勤交代のお殿様も佐賀の乱で捕縛された江藤新平も逃避行の途中に食したという高知の名物である。ここを汗かき上った与惣太であるが、当時は手結の餅もなくダイハツのCMで有名になった手結港の可動橋も眼下には見えない。

 

霊水を「手で結ぶ」 香美は祈りの村

 高知県東部の数少ない難所道が汗をかきつつ登る手結山越えである。今は国道55号と高知東部自動車道の開通により静かな脇道となっている。大峰山からの霊水を「手で結ぶ」盃で一気に飲む。夜須小学校の校歌にも「大峰山の上高く 日はさわやかにさし昇る」と歌われる大峰山を源とする手結の水。吉野の大峰山に「お助け水」がある。土佐山田町影山にも大峰山(223.5m)がある。これら大峰山は、日本古来の山岳信仰の対象であり山伏の修験の山である。

 手結山から香美郡に入る。この大峰山や高坂山、石立山などの「修験の山」、大川上美良布神社などの「式内社四座」、物部槙山には民間信仰「いざなぎ流」がある。在家の太夫が脈々と伝承するいざなぎ流は、陰陽道、修験道、仏教、神道などが混淆した極めて古い要素を含むもので、山の暮らしの独特の文化を体現している。香美を歩けば祈りの村であることを実感する。この手結山越えから赤岡を過ぎると高知城下へ向かう道は、五台山の南に流れる下田川沿いの「下田道」、海岸に沿う「浜街道」、「ヘンロ道」などに分れる。

 

手結の由来 

 手結の地名由来について徳弘勝氏は「出っぱっている所“出居”を清音で呼んだものらしい」と述べている。確かに夜須の東側、芸西村境となるシイ山山系のすそ野が太平洋に突き出る地形となっている。いっぽう、桂井和雄氏は「イイとかテマガエなどのことばでいう労働交換を意味するもの。古い昔この浜で行われた地引網などの漁労に、たがいに労働を交換しあった、いわゆるイイの歴史を物語るもの」 と紹介している。田作業での労働交換からきた田結が転訛した地名が土佐町田井である。徳弘氏は「労働交換のユイ説など考えすぎ」としている。

 

 

 

夜須【やす】109

笠松【かさまつ】111

  

 

香南市夜須町坪井

33.535732,133.754312 

 香南市夜須町坪井・千切・西山

33.535882,133.754500  

  

笠松(夜須村横浜新町/校注土佐一覧記p110)

「露時雨いかに降るとも笠松の 常盤の色は変らざらん」

 

  

土佐にもあった ド根性「一本松」

 与惣太は「此松は夜須村にあり」と書き和歌一つを詠んでいる。山内豊房公は笠松を「来て見れば旅のつかれも忘られて しばし心はやすの笠松」と詠むほど立派な偃蓋松であったという。土佐の博物誌である『土陽淵岳誌』(1746)には宝永4年(1707)10月4日に発生した宝永地震の津波で流失とある。津波は「ほとなく海より弐拾余町(3km)浪入り来る(大地震の大変)」とあるから上夜須の備後(夜須川河口から上流3km)まで到達したことになる。宝永地震の惨禍を記録した『谷陵記』には「下夜須半ば亡所、横浜・知切の家は悉く流る。潮は大宮(西山八幡宮)の庭まで、此の浜の笠松流る。屈枝蟠根無双の名木也」とある。

 

 有名な笠松もいまはお目にかかれないが、跡に植えられた幼松も露がかかり常盤の緑となっているから、いつかは常世の笠松となるだろう(勝手読)。与惣太が露の降りた笠松を訪ねたのが明和9年(1772)頃であることから、有名な笠松はない。偲んで詠ったことだろう。二世三世を探したが見つからなかった。

 

 

七板橋【なないたはし】112

 

 

香南市夜須町坪井

 

33.537710,133.756099 

 

 

七板橋(夜須村/校注土佐一覧記p111)

「爰はまたくもでにたらで行く水の

 名に流れたる七板のはし」

 

 

 

あの世とこの世に架かる橋 

 与惣太は七板橋の詞書に「三河の国なる八橋をおもひいたりて」と書き、『土佐國白湾往来』 も『土佐一覧記』の七板橋の段を引用している。川を渡るとき流され亡くなった二人の子ども。母親は悲しみ出家して師孝尼(しこうに)となり、再び命を落とすことがないよう八カ所の板橋を架けたという、愛知県三河(逢妻川)の昔ばなしである。増水時に流失しないよう岸側の板端をロープで結ぶ設えの板橋は、昭和初期まで利用された。大栃の葛橋もそうだが人身御供は古来より続き、今日では大事故・天変地異がその役割を担っている。

 『夜須町史』には「子持楠神」の昔ばなしとして「藩主命令で、宝田のお宮の楠を伐ったとき倒れた楠の枝先が七板橋(現役場庁舎の北にある)まで届いた」とあるので確かに江戸期にはあった橋である。七板橋の所在を「夜須町役場前の県道に架かる橋であろう」と『校注土佐一覧記』は解説する。訪ねてみれば確かに香南市夜須庁舎支所前にある川幅3m程度の小川には橋名板もないコンクリート橋が架かっている。地元の数人に聞いたものの誰も知らない忘れられた橋である。

 


 

 

香南市香我美町

 

 

 

 旧香我美町の地形は、北東(旧物部村境)の山地から南西の低地(太平洋側)にむけ二つの山系の造山運動と別役-羽尾付近の隆起の軸により分水界となり、北東に向け逆川となる舞川と南西に流れる香宗川の両水系に広がる細長い町域である。

旧香我美町は、昭和30年(1955)4月1日、岸本町・徳王子村・山北村・東川村の一部・西川村の一部が合併して発足。ただその前に昭和16年に徳王子村・山南村・富家村・香宗村の4カ村(山北村は断念)が合併し「大忍村」が誕生したものの山南地区から分村運動がおこり「川村知事も大衆運動の意向をいれ分村を認可した。昭和23年(1948)4月1日であった」と『香我美町史』は記している。その後の香南地域の合併に影響を与えることとなった。

 この町名の「香我美」は、平安時代の和名類聚抄に『香美』のふりがなで「加々美」と書かれていた古名によるものか。元は『鏡』であったのを「郡郷の名は佳名二字に」とのお触れで『香美(かがみ)』となったもの。平安時代は香美郡(かがみのごうり)と使っていたが鎌倉時代や江戸時代には香我美郡も多く使われた。また、中世まで物部川は鏡川と呼ばれていたが山内5代目藩主・山内豊房が鏡川と名づけたため鏡川は物部川と、須崎の鏡川は新荘川に改められたという。いずれにしても鏡は神聖なものであり、美しい田園風景や物部川の煌めきを美称として命名したものであろうと香美史談会の会報に書いてある。

 現在の公称地名となる微細地名は、明治9年の地租改正でこれまでの「ホノギ」を廃して新たに集約して代表的なホノギを「字」としたのが一般的であった。この一般的な命名法と違ったのが徳王子の字である 。この土地台帳作成時に徳王子村では『源氏物語』の全52帖のうち「桐壺」「空蝉」「澪標」「夕霧」など32帖を字名称とした 。また岸本の字も特徴があり「イノ丸」「ロノ丸」「ハノ丸」と「スノ丸」まで続き「油子ノ丸」「丑ノ丸」と「柳北酉ノ丸」までと、いろは48文字と十二支のうち戌と亥を除く10文字を使った命名である。

 どれも面白い地名の命名ではあるが、消えた地名は刻まれた過去を語ることがなく、その罪は重い。

 

  

岸浦【きしうら】113

 

香南市香我美町岸本

 

33.538399,133.734727

 

 

岸浦(岸本村/校注土佐一覧記p112)

「聞くからに音ぞ涼しき松風の 響あはする岸の浦波」

 

 

 

 

キシは崖(きし)

 与惣太も詞書で「岸本と言ふ」と書く。地名の由来は、月見山の麓にある岸本神社(岑本)神社。社殿が海岸のそばに置かれたことから“岸本”の社名が生まれ、やがてそれが集落の呼び名に転じたという。ただし“きし”は水際だけでなく切り立った崖も意味する。月見山の崖に鎮座する岑本神社は“岸の上”ではなく“きし(崖)のもと”だったのではと片岡雅文氏は高知新聞連載コラム『土佐地名往来』 で推理する。

 

岡本弥太の誕生地

 岸本神社の境内には相撲の友綱貞太郎(四股名・海山太郎)出生之地の碑や香我美出身の詩人岡本弥太の詩碑『白牡丹図』がある。

白牡丹圖(詩集「瀧」所収。昭和6年6月発表)

白い牡丹の花を

捧げるもの

剣を差して急ぐもの

日の光青くはてなく

このみちを

たれもかへらぬ

      岡本彌太

光太郎書

 与惣太は土御門上皇が休憩した常楽寺(現・宝幢院)を紹介しているが、そこから西に街道を進めるとすぐ左側に岡本彌太の生家があり、誕生地の石碑には「雲」の詩を刻んでいる。

「雲」(詩集「瀧」所収)

とほくの峠から

あいさつした母のようになつかしい瑠璃雲である

あのこと

あの人たちとの間

虹さへ帯びて美しくたゝえてゐる

 

 岸本は、『地検帳』のホノギ「市ノ北」とするものが9筆あり「これは姫倉山の山の根の南部分が市町(いちまち)であったことを示している。この地には57浜に及ぶ塩田があり、塩を主体とする諸物産の市が立っていたと考えられ(中略)姫倉城(別名岸本城)を中心とする多数給人層屋敷の配置等からしても、当時岸本村地区は一城下街的様相を呈していた。各種職人(番匠・土器・鍛冶・ヒショウ)の存在を示す痕跡が認められる。また岡ノ芝踊場・五良丸ヲトリ堂など庶民の娯楽施設と思われる」と『香我美町史』は『地検帳』から当時の岸本村の繁栄を読み解いている。この街道には道路元標が岸本小学校(2019年廃校予定)南門にあり、赤岡へと商家の街並みが続く。             

 

 

古城【こじょう】114

月見山【つきみやま】115

 

 

 

 

姫倉城(岸本城)

33.539034,133.744383

月見山 

33.540630,133.745477 

 

 

 

月見山(大忍庄岸本村・夜須村/校注土佐一覧記p112)

「影うつす波は麓の海かけて 月見の山の名こそしるける」

「月見山麓をかけて白波の 花も霞めるかげの長閑さ」

 

 

 

 

 

県下に刻む土御門上皇の軌跡

 与惣太は、波音とともに月明かりの波が岸浦に打ち寄せると海側に視点をおき、土御門上皇は恋しい都もこの鏡野には映らないと視点は山側にありつつ心は都に向いている。月見山系が太平洋の間際まで突き出した縁にあたる月見山。ここからの満月と田に湛える水面や海の煌めきはさぞや美しかったことであろう。

  承久の乱(1221)で土佐に配流となった土御門上皇が月見山で名月を眺め「鏡野やたが偽りの名のみして恋ふる都の影もうつらず」と香美の里を鏡野と詠んだとされるが記録があるわけではない。

 

鏡野はどこにあるか

 土御門上皇の詠んだ「鏡野」はどこをさすのか、この点について河野通信氏は『土佐史談』通巻124号(p69)で関連のある史実と地名をもとに「六百町歩に及ぶ未開の野市台地」と推定している。月見山から西側の香長平野を見渡すと北西以北は三宝山系で土佐山田方面は遮られるが、当時の開発状況はどうであったか。

 古代の条里制について「物部川以西を中心にした高知県最大の香長条理と、野市台地の非条理地域を挟んで、その東方の香宗・山北・山南・徳王子・兎田にわたる香美郡東部の条理に連なる」と『南国市史』はその規模と位置を示している。条里制にかかる地名に「坪」がある。香我美町徳王子の「中ノ坪」「井ノ坪」、赤岡町の「一ノ坪」、野市町深渕の「大坪」、野市町富家の「市ノ坪」「富家坪」「中ノ坪」「井ノ坪」、吉川町古川の「中ノ坪」などに「〇〇坪」の地名がみられる。条里は6町(654.54m)四方の「里(こざと)」を大区分として、横列を「条」、縦列を「里(り)」とし、〇条△里と表す。縦列の里を1町四方に六等分した区画を設けたのが「坪」であり、1坪=10反=1町歩=1haで、ほぼ今の単位となる。この坪地名の分布から逆に読み解けば、野市の東野・西野・下井が未開の地であったことがうかがえる。土御門上皇はここを鏡野と見立てたのではないか。

 

野と原

 鏡野の「野」はなにを意味するのか。裾野とすれば山麓の緩傾斜地であるが、ムラの生活空間と奥山との緩衝地帯が「野」で、あの世に旅立つ野辺送りはまさに境界である。『民俗地名語彙辞典』はノの項で「地(土地、大地)のことはニともナともいい、相当面積の広い地面をヌといい、ノという。これはナの変体。椎名・浜名・山名など土すなわち場所をいうナと解する。ハラ(原)はヒロ・ヒラという地形的要素より、ハル(開墾)に関係するのか。和名抄では野の付く地名9に対して原は1つだ(抄略)」と解説している。

 

月見山はアウトドア拠点「こどもの森」

 現在、姫倉城址でもある月見山は「高知県立月見山こどもの森」としてキャンプや樹木観察会・木工クラフトなど野外体験活動を積極的に展開して人気が高い。ミニ八十八カ所もある。

 

 

 

宇多松原【うだのまつばら】116

 

 

香南市香我美町岸本

33.538399,133.734727 

 

宇多松原(不明/校注土佐一覧記p113)

「幾千年よはひに契る言の葉は かくとも尽じ歌の松原」

「かきつもる言の葉数を枝折にて 猶尋ねばや歌の松原」

「拾はばや名を珍らしみ吉野浜 波に桜の花の色貝」

 

 

謎の宇多の松原

 酒王・土佐鶴のCMに「天平の香ゆかしき夢の酒 土佐じゃ土佐鶴朝日に向いて 宇多の松原鶴が舞う」の歌がある。『土佐日記』に書かれた「宇多の松原」はどこなのか。

 『土佐日記』には「九日のつとめて、大湊より奈半の泊を追はむとて漕ぎ出でけり(中略)かくて、宇多の松原をゆぎすぐ。その松のかずいくそばく、幾千年経たりとも知らず。もとごとに波うちよせ、枝ごとに鶴ぞ飛びかよう【承平5年(935)1月9日】」とある。大湊と奈半の泊の間に宇多の松原があるという。

 佐藤省三氏は『「土佐日記」を推理する』 で①鹿持雅澄「土佐日記地理弁」で述べた「兎田説(野市町兎田を昔はウダと呼びそこにあったのが宇多の松原という)」②アイヌ語で砂浜のことをウタリと呼ぶ。それが語源になった「アイヌ語説」③宇多天皇の名を冠した「宇多天皇説(土佐日記では地名は仮名書きなのに宇多だけは漢字)」の3つの説を紹介し自身は「宇多天皇説」を支持する。「宇多の松原は岸本」が定説のようであるが、佐藤氏は当時の船の航海法から「宇多の松原をゆぎすぐ」場所を吉川から赤岡あたりと推論する。

 

 

王子宮【おーじぐー】117

 

 

香南市香我美町徳王子

33.556966,133.734684 

 

 

王子宮(大忍庄王子村/校注土佐一覧記p114)

「神のます森の老木を見ても猶 むかし忍ぶの草ぞ茂れる」

 

 

 

 

徳王子は合成地名

 岸本から北に一本道を進むと王子宮がある。鎮座地となる徳王子は、徳善村と王子村の合成地名だ。

 若一王子宮に「岸本を結ぶ八丁道は長宗我部元親が寄進した」との説明板がある。8丁(町)は900m弱となり岸本までとどかないがどういったことか。岸本から明神橋を渡る手前を北進する道が若一宮への御神幸の道。途中この道の上を高知東部自動車道が横断する。

 

「澪標」という流浪する地名

 若一王子宮の鎮座地の字名は澪標(みおつくし)。先に述べたように『源氏物語』の帖名からとった澪標と若一王子宮の鎮座地とは何ら由来はなく従前の字名は「柳ノ内」と『香我美町史』付録徳王子地区全図に記してある。大阪市の市章が澪標で、浅瀬に座礁しないよう航行可能な場所である澪との境界に設置される航路標識である。海図のない世界で途方に暮れた人が王子宮を澪標とするのか。

 『若一王子宮由来書』には、永源上人が紀州熊野から十一面観音像を背負うて土佐入りしたとき、今の若一王子宮前で旅の疲れをいやすため眺めのよい場所の大きな石の上に観音像を納めた笈(御厨子)を据えて休み、しばらくして立ち上がろうとすると石にありついて笈が動かない。観音様に問うと「私はここが気に入った」とのこと。この地に社を建てることになったが出来上がるまでの仮の宿を定めたところがいまの刈谷だという。

 

「仮谷」は遷宮儀式を刻む地名?

 「仮谷のあたりは現在、源氏物語地名の『関屋』『蓬生』になっていますが、このあたりの旧ホノギ名に刈谷大将軍・刈谷土居東・仮谷バナ横添・刈谷ハナなどがあります」と山本幸男氏は『香我美の地名考』で若一王子宮の由来を書いている。

 『南路志』に「〇行宮(カリマチ)社 俗にかりやの宮という。里民今かりやと云へる所にいにしへ有て、上代宮社御造営の度毎に此社へ外宮遷宮なし奉りけるとそ。今ハ礎石たに残らすなりぬ」の記述がある。伊勢神宮のような式年遷宮はないが、災害による遷宮は過去に多くの事例がある。

 四万十町宮内の南側に「仮谷」の字がある。五社の鎮守地であるこの辺りは大字・仕出原と境が入り組んでいるところで、明治23年の大洪水によりこのようになったと云われている。『地検帳』「仁井田郷地検帳」にも「カリヤ」があり、検地の流れからも字「仮谷」に比定できる。『南路志』の記述のとおり遷宮時の「かりやのみや(仮屋の宮)」が転訛し仮谷の漢字をあてがったのだろう。近くには谷もなく地形地名でないことは明らかである。周辺は家屋が立ち並んでいるが、この字仮谷の区域は建物が何もなく、遷宮のときを待っているようである。仮屋・借屋・刈家の地名は各地にある。仮屋の宮であるかは、周辺の地形や隣接するホノギ・字名から検証する必要がある。

 

池田親王の歌?

 与惣太の詞書に「池田親王」の行があり、王子村が配流地の旧跡と書いている。本殿の左側に池田親王の歌としてこの歌を石碑に刻んでいる。『香我美町史』(上巻、p113)も『高知県神社明細帳』の王子宮の項を引用し池田親王の歌としている。『土佐一覧記』では与惣太が古歌を引用する場合は段を下げて詠み人を書き歌をそえているので、池田親王の歌とするのは勘違いか、王子村に暮らし薨去した説も口承である。

 若一王子宮は、熊野十二所権現の一つ若一王子を神仏習合の神としたもので本地仏は十一面観音である。熊野社は高知県下に79社あり「中世に入って武家社会の進出に伴い、御師(おし/参拝世話人)との関係は深まり、その間に立って仲介したのが先達である」と廣江清氏はいう 。熊野山で修行した山伏が先達の称号を得て土佐の各地に熊野信仰の宣伝をした結果が79社となったことだろう。大忍庄が鎌倉末期には熊野権現社領であったが、南北朝時代の初期には、熊野新宮の造営料所となり、これらの縁由で熊野から勧請されたのが下ノ王子宮(現若一王子宮/香我美町徳王子)で、古来大忍八ヶ村の総鎮守であった 。

 与惣太の詠む「むかし忍ぶの草」とは大忍庄を比喩したものか。香我美は大忍庄の領域である。

 

 

天忍穂別神社【あめのほしほわけ】124

 

 

香南市香我美町山川

33.586944,133.781548 

 

 

天忍穂別神社(大忍庄山川村/校注土佐一覧記p120)

「水かみを仰ぐも高し神代より 名にながれたる天の磐舟」

 

 

 

森にひそむ式内社

 王子宮から香宗川を下分、福万と上りつめ中山川につけば、ここからは山を登ることになる。中腹まで辿りつけばそこからは185段の石段をまた登る。森にひそむ神社である。

 天忍穂別神社(あめのおしほわけじんじゃ)は、物部氏が祖神を祭った神社と云われ、石舟神社の名で知られる。『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 土佐国 香美郡「天忍穂別神社」に比定される式内社(小社)で近代社格では県社となっている。伝承によれば、天孫の饒速日命が、石舟に乗り、大空を駆け、山川のスミガサコの山の峰に到着したという。饒速日命が土佐へ初めて降りたのは、物部川下流の上岡山(野市)で、それから富家村に入り、西川村・長谷の小村・峠の船戸・末延の水船・山川の舟谷を経て、当地に至った。

 舞川の地石は、饒速日命が休んだ際、舞楽をした跡とされ、長谷の小村には烏帽子をかけたという烏帽子岩がある。当社の南の谷は冠を取った所でカットリ、饒速日命が矛を置いた場所の杖谷、首飾を置いた首珠が佐古にあるなど饒速日命伝説による地名が多い。そう境内の案内板に書いてある。

 

 与惣太は詞書に「此社は大忍里庄山川村石船明神と両座併せ鎮るとぞ」と記している。

 

山北村金水寺【やまきたむらきんすいじ】119

 

 

香南市香我美町上分

33.580750,133.737023 

 

山北村金水寺(大忍庄山北村/校注土佐一覧記p117)

「秋来ても雲もまよはぬ空にまづ 心にかけて月ぞ待たるる」

 

 

山北の里

 金水寺地蔵堂は山北の里・ミカン園にある。

 高知ではブランドミカンの地位に立つ山北ミカンやイングリッシュガーデンのバラ園も有名。「ミセスジャパン2018」の世界大会に出場する高橋さんは山北ミカン農家。「女性の目線で農業の魅力を伝えたい」と尾﨑正直知事に抱負を述べていた。ミカンも人もよく育つ山北の里なのだろう。

 

 『地検帳』(天正15年/1587)には金水寺、『南路志』(文化10年/1813)には日和山宝珠院金水寺とあるが、『香我美町史』には詳細な記述はない。

 

 与惣太は多分ここで宿をとったのではないか。澄み切った秋の夕空。野宿にも疲れたが今日は久しぶりの寺の宿。ゆっくり月の出るのを待っている。 

 


 

 

香南市野市町

 

 

 

野市は三つの野地開発の一番手「野一」 

 野市の地名は野中兼山の鏡野の開発の歴史でもある。兼山は開発地に三つの「市町」を作っているが後免(南国市)より8年、山田(香美市土佐山田町)より14年前の正保元年(1644)に「鏡野」を「野市」と命名した。東町・中町・西町として最初の市町の創設となったのである 。野市の歴史に詳しい河野通信氏は「市町は開拓地に物資の集散地を創設する意図があり、後免の市町の設置に当たり“諸売買野市なみに役儀有之間敷事”と野市の先例を踏まえ売買について免税とすることをなどの記録がある」と述べている。三つの野地開発の最初であったため「野一」となりそれが転訛して「野市」となったという説もある。

 寛保3年(1743)に編纂された『御国七郡郷村牒』には「野市新田5,669石、戸数588、人口2,636、牛165、馬331」とあり市町として繁栄し、牛馬の多さは商都物流拠点となったのだろう。

 『和名抄』は香美郡域に安湏・大忍・宗我・深渕・山田・石村・物部・田村の八郷が記されている。「宗我郷(曽加)」は富家村・香宗村・赤岡村・吉川村古川村分の領域で、「深渕郷(布加不知)」は佐古村・立田村(現南国市)を中心とする地域。「物部郷(毛乃倍)」は物部川下流域の三島村を中心とする地域で物部川右岸域が南国市物部地区である。左岸域が三島村から野市村に編入され上岡地区となっている。これら三つの郷の一部を野市町域とする。ただし、古代の物部川は長岡・香美両郡の境界付近である田村・前浜方面を流下していたと『野市町史』に書いている。

 野市町域の条里遺構については『高知県史』、『南国市史』、『野市町史』が詳しく書いている。古くからの田園地帯であったが、近年高知市のベットタウンとして市街地化が進んでいる。兼山開設の道路は今も健在ではあるが狭く当時の屋号の商家が今も残り昔ながらの街並みとなっている。 

 

 

宗我神社【そがじんじゃ】132

 

 

香南市野市町中ノ村

33.567100,133.726342 

 

 

宗我神社(宗我郷香宗村/校注土佐一覧記p123)

「手向とも神はみそなへ瑞がきの 榊にかかる霜のしらゆふ」

「祈れなほゆふしめ縄をくり返し 引手に神もなびかざらめや」

 

 

蘇我氏の部民から郷名

 香宗中ノ村の枝村として曽我ノ村がある。もとは山北の境近い「曽我(右の写真が旧鎮座地)」にあったが大正2年(1913)に「カヤ原」に移転し、跡地には碑が立っている。

 蘇我郷は香美郡八郷の一つで、「曽我」を中心に旧富家・香宗・赤岡・吉川村古川の地域をいう。この香美においては有力な部曲(かきべ)として物部氏と蘇我氏がある。物部氏は全国に広げ各地に祖神の饒速日命を祀り、天忍穂別神社(石船神社/香我美町山川鎮座)はその一つである。蘇我氏は宗我郷のほかに長岡郡宗部郷も蘇我氏の部民から郷名が起こったものと『香我美町史』(上巻p81)は述べている。

 『天保七年支配中諸指出』(野市図書館所蔵)には西野・東野・下井に分けてそれぞれの地名の由緒が記されているが、曽我の地名については中ノ村の北部、往古蘇我部部曲の設けられた跡とある。

 

県下の蘇我

 与惣太は、波川の宗我神社にも寄り、宗我部城や安芸の蘇我赤兄、高岡郡の浦ノ内の蘇我乙麻呂の歌、幡多郡伊与木郷佐賀の宗我神社を紹介している。

 

富家【ふけ】127

 

 

 

香南市野市町兎田

33.572544,133.721294 

 

 

富家(宗我郷富家村/校注土佐一覧記p122)

「五月やみ色こそ見えぬ風吹けば 匂ひにしるき軒のたち花」

 

 

条里制の名残り地名「坪」

 野市町本村の字に条里制の名残りのある「富家ノ坪」がある。富家は三宝山の東南の麓に広がる通称地名で、昭和の合併までは富家村(本村・兎田・中山田・新宮)と呼ばれていた。『地検帳』にも書かれる中世以前の地名。『校注土佐一覧記』では富家の所在地を野市町本山としているが野市消防団富家分団屯所は野市町兎田(うさいだ)にある。富家の範囲は本山に兎田の一部を加えた地域といえる。

 

フケは湿地・沼沢地

 『民俗地名語彙辞典』では「富家」の意味を「湿地」とし、フケは一般にフカダ(深田)ないしは沼沢地を意味し、「深い」ことに基づく地名と説明する。同様の地名が全国に分布するなかで当てた漢字が「婦家」「浮気」「福家」などあり、住んでいる方に戸惑いがあるのではと心配してしまう。

 どこかの家の軒先から橘の匂いが吹く風にのり春をはこんでくる。文化勲章のスッキリとした意匠が橘で、白をイメージする。「たち花」の香りはやはり山北ミカンの匂いが漂ってきたのだろう。

 

 

香宗村【こうそうむら】130

古城【こじょう】131

 

香南市野市町中ノ村

33.565196,133.724556

香南市野市町土居

33.555183,133.721316

香宗土居城 

33.558598,133.722754

 

 

 

土佐七雄 香宗我部

 ここらあたりは塩の道の街道筋でヘンロ石、休石、灯明台などがある古い町並みが赤岡へと通じる。

 平安期、香美郡に宗我郷、長岡郡にも宗我郷がある。中世になり郡名の香をつかって香宗我部「香宗」となった。香宗我部氏は室町期の土佐七雄の一人でもある。明治の合併で中ノ村と土居村が「香宗村」となった。

 『高知県百科事典』の「香宗我部氏」の項に「建久4年(1193)、中原秋家は香美郡宗我・深淵郷の地頭に任ぜられたが、地頭職は秋家が後見した主家の一条忠頼の子中原秋通に移った」とある。秋通は甲斐源氏の後裔・武田信義の子孫に当たる人物で、香宗我部氏の初代になる。「以前、香南市野市町香宗にある香宗我部氏関係の遺跡から、「武田菱」の紋様入りの瓦が出土したことを聞いている」と『高知市歴史散歩(272武田家と土佐)』 で広谷喜十郎氏は述べる。その香宗我部氏歴代の居城が「香宗城」で「香宗土居城」ともいう。

 

 

立山神社【たてやまじんじゃ】139

 

 

 

香南市野市町土居1356

33.555129,133.719031

 

 

立山神社(土居村/校注土佐一覧記p125)

「さかゆかん御代のしるしに立山の 神や植けん瑞がきの松」

 

 

棒踊りは僧兵の名残り?

 広くすっきりとした神社である。天保年間の手水の石舟があり、そこで出会った婦人は毎日お参りに来るという。

 天正期ごろまでは香宗郷の総鎮守であったが、のち富家・兎田・新宮・赤岡・古川の五カ村で別の鎮守社を設けたため、土居村・中ノ村下ノ段・野市村東分・赤岡浦西浜等の産土神となった。立山神社の御旅所は赤岡にある。赤岡の豪商の援助は厚く棒踊りも披露し祝儀を頂いたとか。棒踊りは香宗我部の遺臣達が山内土佐藩による武器の取り上げ等に反対し、農具である鍬の柄をとって武器とし、武芸を磨くために行っていたもの。立山神社の神祭で獅子舞とともに奉納されている。香宗我部氏がこの地に居城したときは神領2町4反と手厚く保護された。御神体は阿弥陀仏木像というから神仏混淆の名残りである。

 

 

深渕神社【ふかぶちじんじゃ】134

 

 

 

香南市野市町西野1202

33.569161,133.689301 

 

 

深渕神社(深渕郷深渕村/校注土佐一覧記p124)

「浅ましき事な祈りそ深渕の 名に流れます神の社に」

 

 

 

水神様も物部川には弱い

 この神社も式内社の一つで社格は旧県社。与惣太の詞書に「此社は今野市村にあり。深渕之水夜礼花神(ふかぶちのみずやればなのかみ)を祀るかとの考なり。大己貴命(おおなむちのみこと)と異名同神也とぞ。旧祠深渕村にあり。二十一座の一社なり」とある。

 深渕之水夜礼花神は『古事記』にしか登場しない神でスサノオのひ孫、大国主の曽祖父となる。父は布波能母遅久奴須奴神(フハノモヂクヌスヌ)で、母は日河比売(ヒカハヒメ)。天之都度閇知泥神(アメノツドヘチネ神)と結婚して、淤美豆奴神(オミヅヌ神)を設けている。与惣太は大己貴命(大国主)と異名同神というが、どう理解したらいいのか。

 史跡の案内板に「水神として元原部島にあり十善寺を経て明治25年現在地に遷宮」とある。最初の社殿は原部島(竹ノ鼻)にあったという。

 遷宮と言っても物部川の氾濫によって移転を繰り返したもので「水神さま」もなすがままということか。母の「日河」は、スサノオが天より降って出雲の國の簸(ひ)の川上に至ったとあるから出雲の斐伊川のことか、父の「布波」は中村の不破八幡宮を想起する。いずれにしても水に関係する神様一族のようだ。

 深渕は今では香南市野市町の一つの字だが、古代郷制においては香美郡七郷の一つ深渕郷であった。旧佐古村と立田(現南国市)を中心とする地域である。

 

 

大谷神社【おおたにじんじゃ】137

大谷古城【おおたにこじょう】138

 

香南市野市町大谷

33.573224,133.705400

大谷城(野市町大谷482) 

33.575297,133.705459 

 

大谷神社(深渕郷大谷村/校注土佐一覧記p125)

「みしめ縄なほくり返し祈らばや 恵みも深き大谷の神」

 

堂々の全国動物園ランキング準グランプリ「のいち動物公園」

 大谷神社より名が知られているのが「のいち動物公園」。全国動物園ランキングで旭山動物園(3位)を抜いての堂々の2位となりスタッフも驚いている。和歌山白浜のアドベンチャーワールドは納得する1位。白浜・ビックオーシャンのイルカショーは若いエネルギーをいっぱいいただけるが、海外の動物愛護団体はイルカの動物芸を虐待として「反サーカス団・反動物芸」運動を強烈に展開している。「不快」との声は人間を中心に捉えた驕りではないか。ビックオーシャンのイルカと少年少女たちのパフォーマンスは両者の親和性から生まれてくる共生の姿だと思うのだが。ともあれ「のいち動物公園」で自分が社会の囚われの身であることを自覚した後、大谷神社に参拝して大谷選手の二刀流大願成就を祈念していただきたい。金剛山(三宝山)の西南麓の大谷に鎮座し、近くに四国霊場28番大日寺がある。

 

門守の神「大谷神社」

 『三代実録』(870年)に「授土左国(中略)従五位下大谷神従五位上」と記載される古社である。祭神は天岩戸別神(あまのいわとわけのかみ/別名櫛石窓神/くしいわまどのかみ)。門守の神として、各神社の参道の脇や、神門などに祀られている場合が多いという。また、古来より石には神霊が宿ると考え、石神信仰や巨石信仰にも関係し天岩戸別神を祭神とする場合もある。

 話は余談となるが、神社といえば注連縄。わら縄を綯い紙垂をつける祭祀具で、神社の鳥居から拝殿、狛犬、境内社にも張り巡らす。「しめ」はこの世とあの世の結界を「示す」意味や神聖な場所を「占める」という意味で、これ「終わり」という大酔い後のラーメンではない。縄を綯うことは年寄りの仕事と思っていたら私もそんな年になっていた。

 

 

烏森【からすがもり】135

古城【こじょう】136

 

 

香南市野市町西佐古

烏ヶ森城址 

33.598553,133.712454 

 

 

烏森(深渕郷佐古村/校注土佐一覧記p124)

「朝まだき声もまぎれて郭公 からすの森の梢にぞ鳴く」

 

 

 

 

天然の山城 烏ヶ森城

 物部川左岸の加茂と町田の集落の岡側、標高192mの山頂に烏ヶ森城がある。『野市町史』は烏ヶ森城について、山腹の傾斜は45度にも及ぶ天然の山城で山頂は東西最大幅12m、南北の最大長40mの平坦地で、西辺には高さ2mほどの自然の岩盤が土塁のごとく壁状になっている。城主は山田氏の重臣西内氏と書いてある。ここを源とする川が「烏川」で、東佐古、大谷から香南市役所横を流れ吉川町古川を通って赤岡町で香宗川に合流し太平洋に流れる8km程度の小河川である。

 城主・西内氏の本姓は三河細川庄に発する源氏の名流細川氏である。『土佐の古城』では加茂烏森城と記録しているが、西内氏の城の所在についてはあいまいとして「南路志では、加茂村の古城を西内常陸とし“烏森古城”を“細川常陸”としている。ところが高知県史では“佐古烏森城”は富家刑部の城としている」と双方について書いてある。烏ヶ森城の北東の麓に「加茂土居」のホノギがある。この一帯が城主の土居屋敷であろうと考えるのが至当だろう。

 

熊野のシンボル「牛王宝印のカラス」

 烏(からす)地名は県内各地に分布する。日本サッカー代表のエンブレムで有名になった「八咫烏」は、神武天皇を熊野から橿原まで道案内した三本足の烏である。熊野のシンボルでもあり、熊野神社の御師が全国を廻って授ける牛王宝印にはカラスが描かれている。水先案内としての烏のチカラを信仰したものだろう。

 烏地名について『地名辞典』には①カラ(涸)・ス(洲)で干しあがった洲。小石の土地②鳥類カラス科の烏にちなむか、とだけ書かれているだけである。『大言海』はカラスの項で「かハ鳴ク声、らハ添ヘタル語、すハ鳥ニ添フル一種ノ語」とある。ウグイス、ホトトギス、カケスの語尾につく「ス」のこと。烏は八咫烏として崇めるものではあるが、黒のもつイメージや悪さをする意味から好きでない鳥としてぞんざいに扱われている。

 

カラス地名の分布

 『地検帳』にも「カラス」はみられるので古名であることは確かである。県内の小字を拾ってみると、烏が森(安田町東島)、カラスナロ(香美市香北町西川)、カラスガモリ(香美市香北町韮生野)、カラスノトマリ(香美市物部町黒代)、カラスドマリ(香美市物部町楮佐古)、カラスヲ(大豊町庵谷)、烏田(いの町枝川)、烏出(仁淀川町別枝)、カラスイシ(仁淀川町橘谷)、カラスノトマリ(仁淀川町土居・北浦・岩丸・岩柄・大渡・大西)、カラス峠(越知町山室)、烏ヶ森(日高村下分)、鴉ガ泊り(土佐市永野)、鴉ガ芝(土佐市積善寺)、烏森(津野町新土居)、烏出川(津野町の大字)、鴉巣越(梼原町飯母)、烏手(四万十町の大字)、烏田谷(四万十町金上野)、烏松(四万十町希ノ川)、烏田(四万十町大井川)、カラスデ(四万十町古城)、カラストマリ(四万十市小西ノ川)、烏坂本(四万十市西土佐津野川)、カラスノト山(四万十市西土佐半家)、虎杖カラス(宿毛市和田)、カラスデン(宿毛市橋上)、カラス谷(三原村広野)、カラス丸山(土佐清水市下ノ加江)と多く、『地検帳』にも比定できるものがある。

 

烏地名と熊野神社

 特徴的なのは「カラスデン」である。烏田、烏出、カラスデン、カラスデと転訛しているが、カラス・タ(田)の音節で数多い神田(神社の経費に充てられる免租田)の一つのように思える。また、「カラスタ」は辛耒(からすき/牛に曳かせて田を深く耕す道具)が転訛したのとも考える。福島県では種蒔きの日に水戸口に牛王の札(牛王宝印)とともに烏幣を立てるという。八咫烏の牛王宝印は熊野神社の御札であり、県下に79社の熊野神社(三所・十二所・若一など含む)が勧請されていることから、烏地名と熊野神社との関連性を今後進めてみたい。

 

 

野宮【ののみや】140

 

 

 

香南市野市町西野

野々宮神社

33.572312,133.697745

 

野宮(深渕郷/校注土佐一覧記p126)

「そのままのぬさともなれや咲かけて 千種の花の匂ふ野々宮」

 

 

野市開発の原風景「野々宮」

 野々宮神社の案内板に、鎮座地・野市町西野449番地、祭神・野槌神とある。由緒書きには「中世の野市の町は野々宮の森よりはじまる。寛永年中(1624-1644)、野市村の開墾竣工し、初めて村落となるや総鎮守とした(略)」とある。

 それまでの野市の姿は『地検帳』の検地の対象になっていないことから「鏡野」といわれる原野であったことがわかる。この未開の地は西野、東野、下井などである。

 野市の開発は、野中兼山の通水によるもの。山田堰、三又で十善寺溝、町溝、東野溝に分水され野市の田園を今でも潤す。野中兼山と野市開発については河野通信氏が『土佐史談』168号に「野市の野開き、父養寺井について、物部川の改修、烏川の改修、東西要路の新設、有用植物の保護奨励、郷士制度の確立、市町の創設」の8項目について寄稿している。

「水を制する者は、国を制す」である。

 

物部川の由来

 物部川の名づけの由来について浜田春水氏は「鏡川が本来の呼称であったが、兼山物部川改修に物部地区を縦断する川堀の大工事となった。それが物部川の呼称を固定づけた始まり」と述べている。鏡川の名を第5代藩主山内豊房(1700-1706)に奪われ、代わりに付けられたのが物部川。失脚した兼山への報復は過酷で、名誉回復されたのは死の40年後という。この時代になり遺徳を顕彰したということか。

 

千種の花の匂ふ野々宮

 与惣太が野々宮を歩いたのは1770年代であることから野市は開発後の豊かな大地である。疎水と田に張った水が煌めき、遠くには物部川が流れる景観だったろう。与惣太の詠んだ歌は「千種の花の匂ふ野々宮」であり、野市の町の原点となる地を愛でているようだ。

 


 

 

香南市野市町 

 

 

日本一の小さな町

 旧赤岡町は日本で一番面積の小さい自治体(1.64㎢。2005年-2006年)と云われ、室戸や安芸に向けて車を走らせるとアッという間に通り過ぎてしまう。秋葉山山系を源とする香宗川も香我美町岸本の「大曲」で直角に西流し半円を描くようにして土佐湾に注ぎ込む。この逆「つ」の字に流れる香宗川の内側が赤岡村、その東端の岸本境が江見村、町の北域に平野と少しの丘陵地となるのが須留田村である。『地検帳』の「香宗分地検帳」に赤岡村、須留田村が、「大忍庄地検帳」に江見村が見える。元禄郷帳には赤岡村と須留田村の記載しかない。現在、江見村は赤岡本町に続く「江見」という字名に残り、江見集会所がある。

 

赤く盛り上がった丘 商都「赤岡」

 もとは「中岡」と称されていたが、沖合から見ると赤く盛り上がった丘のように見えたことから中世になって赤岡と呼ばれるようになり、「丹陵」「赤岳」の字も当てられたという。江戸期には商業が盛んで、赤岡と上方交易が盛んとなり高知城下経済圏に対抗する「赤岡相場」もたった。赤岡には長木屋・西川屋(梅不し・ケンピ)など有力商人が隆盛をなした。1900年には赤岡銀行も設立された商都である。『赤岡町史』には立山神社の「神輿出銭左通」として神輿調製の寄付者一覧表が掲載されているが、当時の商人職人の屋号・業種や出身地などから県下を代表する商工業の中心地であったと思える。

 

 赤岡町は小さな町ゆえに古くから合併と分離の歴史でもあった。明治3年(1870)には赤岡・古川・岸本の三村が連合して赤岡郷、5年後には赤岡村、岸本村となった。その後大忍村への大同合併と分離、香南町の合併勧告を経て「平成の合併」で香南市となった。

 

 

 

赤岡浦【あかおかうら】125

 

 

 

香南市赤岡町

33.541269,133.724642 

 

 

赤岡浦(赤岡村/校注土佐一覧記p120)

「風はやみ波も真砂も吹あげて 雨に霰の交るとぞ聞く」

「朝なぎに春の海原見わたせば 限りも波の末ぞ霞める」

 

 

 

 

 

 

路上観察のメッカ「赤岡」

 赤岡海岸の「どろめ祭り」は酒を飲干す奇祭として有名。その“動”に対峙するのが“静”の「絵金祭り」である。蝋燭の明かりに照らされたおどろおどろしい絵金の作品を街角展示する、これもまた奇祭である。赤岡には絵金のミュージアム「絵金蔵」もあり高知の次の商都といわしめる面影がある。

旅の面白さに「路上観察学」がある。右の本はその実践本で、歩くことにより日用雑貨のモノの景色に新しい発見が生まれ、道端の人に尋ねることで過去を知ることもできる。看板やマンホール、透かしブロックから路地裏のちょっとした暮らしの知恵、小さなひとコマを探す「路上観察」は町づくりのツールとして全国で進められている。今日も「赤岡探偵」をやっている人をみかけた。その人を観察するのも面白い。赤岡はコンパクトシティーだ。

 

塩の道ウォーキングトレイル

 赤岡の観光資源として「塩の道」もよくニュースに取り上げられる。『地検帳』によれば塩浜の数が赤岡村52、古川村106、今在家村(赤岡東部)21、岸本村58、夜須庄横浜4となっており合計241の塩浜が確認される。赤岡では塩市が開かれ、生活必需品である塩を中心とした人と物の往来が盛んに行われたことだろう。塩市の赤岡を起点として香宗川を上る大忍往還や母代寺・東佐古・逆川を経て韮生郷へ向かう韮生往還があった。塩焚きには燃料となる塩木が大量に必要となることから復路で奥山から持ち込まれた。塩の道は塩木の道でもある。

 塩に関連する地名は県下各地に刻まれている。「塩の道ウォーキングトレイル」の終点の物部町山崎の「塩」も印象的で、そこから大栃に向けて峰越えすると山頂部に立派な「塩峯公士方神社」がある。石舟神社のご神体を塩籠に入れてこの地に祀ったという伝承のある神社。無理すれば1日で踏破することができる。「塩の道ウォーキングトレイル」は日本各地のトレイルと同様でイギリスのフットパス(行ったことはないが)ほどには進化していない。パンフレットは充実していて迷うことないが、歩くことを楽しむ仕掛けに工夫がほしい。

 

往来を刻む「塩」地名

 塩は細胞のバランス調整に欠かせない「かけがえのない食品」であり、料理の魔法使いである。それゆえに人も動物も昔から塩の調達に苦労を重ね、各地に塩地名が刻まれることとなった。

 東洋町野根には塩山、室戸市吉良川に塩屋囲、安田町唐浜に塩屋ヶ森、安芸市井ノ口に塩ノ木、香美市香北町有川にシヲウリ、香美市香北町川ノ内にシヲウリ、香美市物部町拓に塩ノ畝、香美市物部町大栃に塩ノ峯筋、香美市物部町山崎に塩、南国市廿枝に馬シオ、南国市久枝に塩浜、南国市稲生に仁井田汐田、大豊町梶ヶ内と岩原にシヲウリ、越知町佐之国に塩ヶナロ、越知町越知に塩田、土佐市新居に塩走、須崎市多ノ郷に汐木、須崎市土崎に汐木割と塩塚、四万十町興津に塩木山、四万十市三里にシヲギ、四万十市磯ノ川に塩ヶ森、宿毛市藻津に塩屋、土佐清水市下ノ加江に塩屋ヶ谷がある。

 

 

 

須留田山【するたやま】126

 

 

 

香南市赤岡町須留田

33.549670,133.725720 

 

 

須留田山(須留田村/校注土佐一覧記p121)

「幾千年の春もなれ見ん十廻りの 花の咲べき松の下かげ」

 

 

 

 

 

須留田は「駿田」

 赤岡でも唯一の小高い山である。南西には技研製作所の創業者・北村家の大邸宅があり、北西には山崎算所の字名もある。

『香美郡誌 赤岡町』には、須留田の地名の由来について、水はけがすみやかな田というところから“駿田”の名となりそれが須留田に転訛したと書いてある。須留田の地名は建治3年(1203)北条時政の書状に「須留田別符兎田保、為香宗我部郷最中之由」とある。須留田の山には良質の土があったらしく上代から土器づくりの一団が定住しいたという。

 

中世に名を残す博士頭・芦田主馬太夫の地

 この須留田山には須留田式部入道の城もあったが、城好きの与惣太も気にとめていない。現在の城山高等学校が城跡であるが遺構は残っておらず案内板もない。近くには須留田八幡宮がある。赤岡の字図には「城山」「御所の前」「宮の本」「宮の前」があり、歴史を刻んだ地名となっている。

 この須留田には芦田主馬太夫という算所頭、博士頭がいる 。算所は古くは「散所」と書き「本所(律令時代の大規模荘園など地租地)」に対応する言葉で、領主に従属し、年貢は免除される代わりに狩猟・交通などの労役を提供して未開墾の荒廃地など地租免除地に居住した。農業従事者(常民)ではなく社会の管理システム(納税・戸籍)から逃れることができた解放の民、漂泊の民となった。走り者(過酷な農業から逃れるため農地を放棄したものや新天地への移住者)や大工事の現場に住みつく渡りの労働者や芸能集団や陰陽師・祈祷師・占い師ら非農業者が散所(算所・産所・山所・三所)に住みつくようになった。その散所の民を支配する支配頭を「算所頭」と呼び、陰陽師がその役を担うことになった。算は占いを意味し、算所は祈祷などの巫術を行う場所である。陰陽師は「博士(卜占者)」と呼ばれたことから同意として扱われるようになった。中世にその名を残すのが芦田主馬太夫である。

 野市の字図には香宗川右岸の赤岡境に「算所」「山崎」「鎮守」「太鼓屋敷」「イチノミコ(佾)」がある。この須留田山の北側に居住し土佐国全域に権勢を誇っていたのだろう。

 


 

 

香南市吉川町 

 

 

吉川は「古川」と「吉原」の合成地名

 香美市吉川町は旧吉川村の区域をもって吉川町とした。吉川町は『地検帳』に記録されているように東部の烏川流域の「古川村」と西部の「芳原村」に分けられる。

 

烏川の古名「古川」

 古川村は、古くは宗我郷の中にあり中世には香宗我部郷・香宗郷とも呼ばれた。明治8年に編纂された『古川村誌』には村内を流れる烏川の古名が古川であったことに由来とある。北は古川山(九六山・下田山・大石山・八幡山・篠部山)を境に野市町、西は烏川の支流瀬戸川が北に向かう南北線を境として吉原村に接する。

 古川村は『地検帳』「土佐国鏡郡香宗我部郷御地検帳」に古川分として記されている。枝村として「龍山ノ前村」「平ゐ村」「飛岡ノ村」「ツクテノ村」「泉ノ村」「大西やしきノ村」「鏡野馬フクロ村」があると『吉川村史』に書いてある。飛岡ノ村は飛地として野市町東野の富岡山であり、泉ノ村は津波でなくなり、鏡野馬フクロ村の野市町との関係など複雑な変遷となっている。小字には前述の山名のほかに、条里制の痕跡を残す「中ノ坪」や、「前塩田」といった揚浜式塩田の地名や多くの屋敷地名が見える。「大将軍」は社名の名残りか。『香美郡誌』に室町から戦国時代にかけて流行した大将軍信仰で陰陽道による星占いに関係したため明治維新の神仏分離令で難を逃れるため祭神未詳とした神社が多いと書かれている。不思議な地名は「バラ畑」である。西洋貴族が楽しむ花と思いきやバラの自生地として日本は世界的に知られているという。江戸時代にもモッコウバラなどが栽培されていたが、バラが「花の女王」の地位を築いたのは明治以降という。古川のバラ畑は何のバラを栽培していたのか。

 

芳原城址を刻む地名

 吉原村は『地検帳』では「吉原庄地検帳」として一冊に綴じられている。この『地検帳』に関し『吉川村史』では「大将軍村」「住吉村」「八反畠村」「十町分村」「タツミノ村」「「黒ノ前村・宮村」「野本村」「上前田村・井戸村」「高山村」「東島村」で田・ヤシキの小計を立てている。大将軍村は古川村になっている。八反畠村のホノギに「土居屋敷廻り」がありここが芳原城址になるか。東島村は物部川右岸の飛地である。

 このように『地検帳』は当時の村民の信仰関係や多様な職業名、農地開発の痕跡など歴史に刻まれたホノギやその脇書きがある。

 

 

 

吉原の古城【よしはらのこじょう】150

 

 

香南市吉川町吉原西木戸字土居屋敷廻ほか

吉原城址

33.545758,133.693571

 

 

 

 

 

綱吉に忖度して「芳原」

 吉原は明治の合併で吉川村となる前の郷村である。物部川の最下流の左岸に広がる田園、南には太平洋が広がる地で、吉原は一面に葦が生い茂る河口の低湿地であったことだろう。『吾川郡芳原村誌』に「村名ノ起リヲ考フルニ、往時ハ全村概ネ葭葦稠茂セル埤窪ノ沢原タリシニ職由シ、同訓タルヲ以テ吉或ハ芳ニ作ルニ至レリ」とある。途中、将軍徳川綱吉の時代に恐れ多いと元禄13年(1700)、吉を芳に変えて芳原としたという。高岡郡吉生野村、幡多郡地吉村、幡多郡吉川村、幡多郡吉奈村もそれぞれ吉を芳に改称した。吉原(葦原)は開拓前の原風景である。

 

芳原城址の歴史を刻むホノギ

 吉川村ホノギ図をみると「土居屋敷廻」「古城ノ前」「東角田」「孝善寺屋敷」「久保坊」「新養寺屋敷」「射場屋敷」「古市」「番匠屋敷」と土居周辺に往時の賑わいを示す地名が続く。ちなみに古市は『地検帳』以前の市で、江戸期以降の市は新市と言うそうだ。

 この吉原城(城監:丁野帯刀)については宮地森城氏の『土佐国古城略史』が詳しい。また、その本と『地検帳』や『南路志』の史資料をもとに現地を訪れた西山晴視氏の『土佐の古城』は、中世城郭の今の姿(昭和40年代)を記録した「城址探訪ガイドブック」として読みやすく面白いので参考にされたい。

 


地名の話

①「丸」地名

 

難読地名

御墓所(おみせ)、香宗(こーそー)、須端(すばな)、茱茰谷(ぐいみだに)、天手力男神社(あまのたじからお)、大忍(おーさと)



フォトギャラリー