よくある地名の語源 「つ」

(20170625起)

ついわ(追和)【古城地区の集落】

 

つえ(ツエ・潰)【】

  山崩れを「つえがくる・つえがぬける」という。高知の方言地名で、山崩れ・がけ崩れをツエという。漢字では「潰」が当てられる。崩れることを「クエル」ともいうが、ニュアンスとしてツエルが地すべりや大崩壊など大規模な崩壊を示すようだ。

 高知県は急峻な地形ゆえに崩壊地名が多く、「ツエ」531のほか、「ホキ・ホケ」270、「ダキ山・タキ山」238、「ハゲ・ハケ」176、「ザレ」41、などが有名。特に県中部山間地は地すべり地帯であり、崩壊した土の色を明示したのか「赤ツエ」43が多い。

 崩壊地名は、危険地帯を生活の知恵として地名に刻んできたのだろう。 

 

つきあわせ(突合・ツキアワセ・ツキヨセ・付キ合イ)【付キ合イ(宮内)、突合川(与津地)、ツキヨセ(平野)、ツキアワセ(土居)】

 「付き合う」は、男と女が互いに行き来して親しい関係を保つことで「突き合う」はもっと親密な関係(チェックすることを突合という)。本流と支流が合流するところをツキアワセと名づけたのだが、東又地域にしかないのが不思議。その言葉が流れ着いたのが、仁井田川が四万十川に合流する対岸点「付キ合イ(宮内)」である。長宗我部地検帳の平野村にホノギ・ツキ合(ツキヨセに比定)、黒石村にホノギ・ツキ合(突合に比定)があるので、中世以前の古い地名である。

 十和川口・南川口の「川口」や飯ノ川の「落合」なども同類で、川の合流点。

 

つくり(作)【】 

  『民俗地名語彙事典』に「ツクリ ①所有の田畑(甲州)②作物をツクル土の意味(富山)③焼畑の跡で、まだ雑木林にならないところ(宮崎)」とある。

高知県に「○○作」小字が42か所もあり、接頭に氏名を冠したものが多い。高知県の山間部に多いことから、焼畑地名と思われる。

 

つくりみち(作り道・作道)【】 

 高知県下に「作り道」小字が16か所あり、地検帳のホノギにもあることから、中世以前の交通事情を探る地名でもある。

 作り道は山間の往還道とおもっていたら土佐市東鴨池の地検帳のホノギに「作道ノナワテ」とあり、縄手・畷も含めた新道開設をいうのだろうか。

 柳田国男『風景の成長』は「作り路は大抵は真直ぐに付けられる。畷は即ち繩手であって、岡を取巻いた箕の手などに対する語である。」と述べる。『和名抄』にも「畷 田間道 奈八天」とあることから、古代の条里制の地割によるものだろう。また、柳田国男が「街道に多くの邑里を興し、繩手の作り路を以て之を繋いだのであった。」と述べるように「作り道」も「田んぼ道」なのだろうか。県内の「作り道」小字は16か所ある。徳島との往来が「ナワテ」、愛媛との往来が「作り道」のような分布感覚である。もう一つ、柳田国男『風光推移』では「峠から畷へ」の章で「長い畷の退屈を破る為にも、一本一本に癖のある松の木は似合はしなかったが、それよりも更に必要なのは霧の日吹雪の日に、之を目標として路を辿ることであった。」と述べる。昨年(2025年)東海道五十三次を日本橋から蒲原まで歩いたが、川崎宿の八丁畷は、宿の小土呂橋から下並木までまっすぐな道が1k強続くまさに「田んぼ道」「八丁畷(八丁だから870m)」。今は大都会である。その西端に「西並木」の地名が残っていた。特徴ある並木は先を導く「樹木ナビ」であり旅人への安らぎであったことだろう。

 昔は道に名がつけられその名称で景色がイメージできる。往来、道筋には「大路・小路・通り・町通り・筋・辻子・横丁・路地・坂・越・往還・街道・号・・・」。京の通り名は千年の歴史があり、大坂の「筋」と「町通り」は有名で、熊野古道も八軒屋から上町台地の西縁を南に「御祓筋」が高津宮まで続く。NHKドラマ「京都人の密かな愉しみ」など見ていると「通り名」ひとつに歴史がみえてくる。

 自宅近くの「通り名」は「与作街道(国道439号)」たった一本。 

 

つづきやま(続山)【】 

 

つづらがわ(葛籠川・津々羅川)【大字大正の集落・行政区】

  地検帳には田野々村の枝村として津々羅川村とトトロサキ村の記録がある。上山郷の富山村や一条中村との往来する谷合の集落。坂本正夫氏は「地名は葛籠というかづらの自生地に由来」とある。葛籠は繊維が強く、稲藁の少ない山間地ではその代用品として日常的に利用した。葛籠地名は全国各地にあるがつる植物や折れ曲がった地形を由来とする。

 高知県内のツヅラ地名は、安芸市古井、香美市土佐山田西又、南国市奈路、南国市桑ノ川、いの町加田、いの町戸中、佐川町峰、佐川町加茂(切塞葛篭藪)、土佐市甲原、須崎市池ノ内、須崎市桑田山、津野町西谷、津野町貝ノ川、津野町杉ノ川、四万十市大用、四万十市竹屋敷、四万十市田出ノ川、四万十市西土佐江川崎、四万十市西土佐津野川、宿毛市和田、宿毛市野地、土佐清水市布、土佐清水市片粕、

 四万十町内の字では、金上野(ツヅラ)、奥神ノ川(ツヅラ谷口)、平野(ツヅラ谷)、久保川(ツヅラヲイ)がある。

 

つなつけ(綱附・綱付)【】 

 綱附森に登ったのはもう20年以上前のことである。物部村の笹から国有林の林道をアリラン峠まで車、そこからの稜線を西に登れば土佐矢筈山、東にむかえば綱附森である。それは夏。カッコウの鳴き声が今でも聞えるような、土阿国境のオールスターの山々が一望できる山だった。

 高知県下に「綱付」小字が21か所ある。その多くは県中央部の山間部である。

 また、四国の山名として、電子国土Webでは次の4か所がヒットする。

愛媛県西条市小松町新屋敷 綱付山(519.7m)

徳島県三好市井川町西井川 綱付山(579.9m)

徳島県三好市東祖谷古味△香美市物部町国有林野地 綱附森(1643.1m。安野山)

徳島県美馬市穴吹町古宮 綱付山(1255.9m)

どこも、四国の奥山である。

 『地名用語語源辞典』は「つなつき・綱付 ツバ・ツキ(尽)で、崖をいうのか。四国の山名に見られる地名。」と説明する。確かに、ツバは帽子のツバのように端を意味する。ツキが尽で尽きてなくなるの意味なら、まさに崖となるが、ツナがツバの転訛との説明はない。ただ、燕の鳥名の由来もツバ(崖)・メ(鳥)といわれることから、ツバは断崖か、崩壊して帽子のツバのように広がった地形の端を意味するのかもしれない。

 四国の山にしかないというのが気になり、色々調べたら、『文化高知』(No.53/1993.5月)に西村武二「高知の山と森(7)綱附森」の記事があった。

「物部村の綱附森には、昔この辺りは海であり、この山に船をつなぎとめたという伝承があった。井川町の綱付山(580メートル)にも同様の伝承があった。昔はこの辺りに大水がでて、まわりが湖のようになった。浮かんだ船をつなぎとめたのが綱付山であるという話である。穴吹町と木屋平村の境界の綱付山(1255メートル) には、この山の東の尾根続きに”フナクボ”という、ちょうど船のような形の窪地がある。これを船に見立てて、それをつなぎとめる山という意味で綱付山と名付けたということだった。そういえば、綱附森にも二重山稜のフナクボ地形が見られる。」

と述べ、西条市の綱付山(520メートル)についてはこのような伝承はないとしつつ、小松町の教育委員会の資料(小松藩三代藩主一柳頼徳の詩歌)を引用し

「それには綱付山が纜附山の字で記されているのである。「纜」とは「ともづな」、すなわち船を岸につなぐ綱のことなのだ。またこの山はその昔石鎚山参拝のための登山路が通っていた。中国地方から詰めかけた大勢の石鎚山の信者たちは西条の港に船着けしたということだが、彼らは船上でこれからたどる山を見つけて、船をつなぐ山と見立て網付山と呼んだのではないかと私は思っている。」

と述べる。 

 四国四県にしか「綱付」地名がないことは、遍路や修験者の山林抖藪(さんりんとそう)の四国の地、岩場を修行する山伏をイメージした。たんに、綱を付けていた岩場のある山の理解ではだめだろうか。

 

つばき(椿)【】  

 ツバキはツバの木のことだろうか。『日葡辞書』には「ツバ(つば)唇」とあり、ツバキについては「ツバキ(唾)」と「ツバキ(椿)」とある。ツバ+木なら、椿の熱い葉を唇(ツバ)の形状にたとえての命名だろうか。堀井令以知『語源をつきとめる』にも「椿のツバは唇の意味で、この場合のキは木のことである」と説明する。

 深津正『植物和名の語源探求』はツバキの語源について「朝鮮語で椿を表す冬柏の古音“Tsu-Pak”(ツーパク)が“Tsu-Baki”(ツバキ)と転じたもの(与謝野鉄幹)」として、日本と朝鮮の交渉の歴史から油源植物の利用法が伝来し、その名も伝播。長命の八百比丘尼が椿を植えたように古来から椿は長寿の象徴であったという。ポトリと落ちるさまは、長命とも思えないが。

 松浦武四郎も18歳で四国を旅したとき足摺岬で「一山椿のミ」と記す(四国遍路道中雑誌)。長寿を得た比丘尼が全国を旅して作善(善行)で椿を植えたというものが椿だ。補陀落渡海といい長寿比丘尼といい足摺ににあう「春をつげる椿」である。

 高知県の植物地名で一番多いのが「松」2450、「竹」990、「柳」615、「梅」355、「楠」352、「杉」339、「桜」278、「桧」212、「梶・楮」226、「有ノ木」133の次に「椿」105となる。樹木名では10番目だ。

 椿の実から採れる油を「カタシ油」と呼ぶが、「カタシ原・カタシ山・カタシ谷・カタシ木」など椿の方言地名も13か所ある。

 

つばはら(ツバ原)【米奥・仁井田】 

 四万十町内に二か所、それも長宗我部地検帳のホノギとしても記録される地名である。原は地名地名としてもツバは何を意味するか。

 高知で「ツバエナヨ」は、子どもがふざけて騒がしく動きを静止させる方言。地名用語語源辞典には①動詞ツバエルの語幹で、崖などの「崩壊地形」②帽子のツバ(端)と同じように台地の端などある地形の端③動詞ツバカル(高知の方言)で水につかる所④動詞ツバムの語幹で「つぼんだ地形」、とある。

 ツバメの鳥名の由来もツバ(崖)・メ(鳥)といわれることから、ツバは崩壊して帽子のツバのように広がった地形の端ではないか。

 米奥の川奥集落の中心地、家屋が形成されているところがツバ原である。確かに、北側の山手が崩壊しその跡に集落が形成されたようである。

 

つぼ(坪)【】  

 「坪」地名は、古代の条里制遺構を示す地名と思っていたら、それだけでもないようだ。

 『民俗地名語彙事典』は①淵・水の淀んでいる所②台所の流し水を溜めておく穴③肥溜④屋外の便所⑤屋敷内の庭。農家の作業場⑥山のある一定の場所⑦条里制に起源をもつ居住区画名。近世以後に開拓された村落にも坪がある。と7類の語釈を説明する。

 高知県の「坪」小字422か所をみてみると、「一ノ坪」30、「大坪」62、「石ヶ坪」30、「ヌタ坪」28、「中坪」25、「坪根」15、「坪井」12、「坪クリ」11、「サバイヶ坪」8など。

 南国市や土佐市、四万十市、宿毛市などに「一ノ坪」小字が30カ所分布する。古代から開発の進んだところでもあり条里制遺構の地名と思われるが、条と里で区画した基準となるものが「一ノ坪」、小字では「市ノ坪」もあるが一(イチ)の転訛だろう。仁淀川右岸の南国市田村には「市ノ坪」「裏市ノ坪」、その北側の立田や香美市土佐山田町京田にも「市ノ坪」がある。一方、物部川左岸の香南市野市町には上流部の東佐古や本村には一ノ坪・市ノ坪があるものの、現在の市街地となっている西野や東野、下井には「○ノ丸」となっている。氾濫原で開発が遅れた、古代から「鏡野」と思っていたら、河野通信「鏡野について」『土佐史談』(136号、1973.12月)に「野市町下井ラノ丸五四六番地(付近)に条里制遺溝「下の坪」があり、古代の物部郷であった。」とある。つまり、古代の条里制遺構は計画を含めあったものの原野(鏡野)となり、野中兼山が物部川改修の水利により開発された西野・東野・下井は「イノ丸・ロノ丸・ハノ丸・・・」と新たな区画地名がイロハ順の符合で付せされたという。この野中兼山の命名法を真似たのか、同郡内であった岸本村が明治の地租改正時に「イノ丸・ロノ丸」と地名の改変を行っている。

 地名の変遷は、為政者の命名意思も含めその時代を映したものであり、一定は理解できるが、改変前の地名が記録されなければすべてを消し去ることになるので、それは残念なことである。 

 

つるい(鶴井・鶴居・釣井・ツルイ)【高知県内・四万十町内各地】 

  有史以来、暮らしは水との付き合い方が一番だろう。農業用水の「井」「樋」とちがって、「ツルイ」は生活用水である。それも竪井戸ができる明治・大正以前の話。四万十町内の字名としてたくさん残っている中世以前の暮らしを刻んだ地名である。

 高知県下に「ツルイ」小字が187か所ある。

 

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(20260302現在)