江師

えし


20150422初

20180524胡

【沿革】 

 長宗我部地検帳には「江志村」とあり、当時、小石村は江志村の枝村の位置づけであったようだ 

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)ともに「江師村」とある。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、江師村は大字となった。

大正3年(1914)1月1日、幡多郡東上山村は、 村名を改称し「大正村」となった。

 昭和22年(1947)8月1日、幡多郡大正村は、町制を施行し「大正町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。

 地区内の班・組編成は、東・岡・西上・西下・住宅となっている。

 

【地誌】

 旧大正町の中央部。西は標高700mの吹の峰から下る稜線を境に十和地域、北は西ノ川・大奈路、東は芳川、南は瀬里・小石・大正に接する。当地は江師と川ノ内の2地区からなり、両地区の境および小石との境を梼原川が南流。江師の北面の山地から、西ノ谷川・大平谷川・ウワダバ谷川・中平谷川・ツエノ谷・シダオ谷が流れ、水田・集落が扇状に展開。農林業が盛んである。旧大正営林署大正苗畑事業所跡は農業実験施設(当初はスプレーマムの育苗)、オートキャンプ場ウェル花夢として運営されている。地区の裏山に二等三角点吹の峰(ふきのとう・699m)周辺に国有林96haがある。右岸沿いの町道と、対岸の旧国道439号の間に抜水橋(江師橋・昭和51年架設)が架かり、江師地区の入口となっている。中央の曲流切断(字・村中山)に河内神社、北屋敷に森野神社、モリ夕に縄文遺跡があるほか、硫黄鉱泉による大正温泉(旧江師保養センター)がある。川ノ内地区は、三方を山に囲まれ、地内中央を芳川川が西流、梼原川に合流している。芳川川の流域に水田・集落が立地し、農林業が盛ん。梼原川左岸の国道にはバス運行1日7便。両河川の合流点付近の国道から分岐した町道が集落を通っている。山津見神社があり、 大山津見命を祀る。

(写真は江師地区。四万十中央の小山が河内神社の鎮守の森で、四万十川の特有の景観である穿入蛇行による還流丘陵となっている。)

 

【地名の由来】

 「江師」は、漢字2字で2音節エ・シであり、日本語では理解できない地名である。

 子どもの頃、「大正には市が「エ市」と「コイ市」、隣り合って二つあるよ。」と戯言をいうくらい不思議な地名であった。 

 「江」は、入江と川の意がある。特に多いのが「江尻」地名で全国に分布する。江尻は川尻や川口と同じ場合と海岸の場合とがある(民俗地名語彙)。エジリがエシに転訛したとすればここ以外にも事例がありそうだがみあたらないし、江師地区には梼原川の還流丘陵をようする地区ではあるが、特に川を意識する川尻や河口の地形でもない。

 西土佐の江川や四万十市の鵜ノ江など「江」の地形的特徴が理解できるが、江師は川地名とは思えない。 

▼アイヌ語 

 お遊びで地名アイヌ語小辞典(知里眞志保著)で「江師」をあててみることにする。

 「e-+si-kot(え・シコッ)」と読めば、(頭)+(大きな窪地)となる。つまり、四万十川の河川景観の特徴である穿入曲流の還流丘陵が、ここ江師の地形的特徴であり、集落の中央に位置する字「村中山」に鎮座する河内神社の鎮守の森が丁度「頭」であり、その周囲となる旧河床が「大きな窪地」と見える地形である。この「え・シコッ」が転訛して「エシ」となり江師の漢字をあてたのではなかろうかと推定してみる。古代、梼原川を往来するだれもが、このメキシカンハットのような景観をみて「え・シコッ」といったであろうと納得する景観である。

 ちなみに、この江師の対岸が小石である。小石は周囲を江師に囲まれた四万十町で面積5ha位の一番小さな大字である。地検帳でも枝村として位置付けられており、江師村の庄屋の支配下であったようだ。この小石を昔の人は、「小江師(コ・エシ)」と呼び、それがいつとなく転訛してコイシとなったとみるのはどうだろう。 

▼烏帽子説

 メキシカンハットといったが烏帽子の形から命名された地名は全国にある。多くは烏帽子山、烏帽子岳、烏帽子岩といった山容や岩礁、岬であるが還流丘陵のこの地形は烏帽子ともいえ、エボシからエシに転訛したのではと根拠もなく思ってしまう。 

▼「エゴ」説 入りこんだ所・凹状地形

 他の言語での安易な解釈は危険との指摘があるのでアイヌ語起源説ではなく「エゴ」説はどうだろう。

 「エゴ」は、高知県安芸郡や山口県柳井市では、日当たりのいい山の窪地。徳島、高知県では川の彎曲して淀んでいる所。高知県幡多郡では岩の穴、岩と岩との間のことをエゴタともいう(民俗地名語彙)。高知県方言辞典にも「川が深くて淀んでいる所(大正)」。エガマなどの柄を差し込む穴、固定させるクサビをエゴともいう。エゴシがいつの日か転訛してエシになった。

 それと「シ」の解釈である。方言でいえば「おんし」「おとこし」「おなごし」の人の意の「し」。そうなれば「凹状地形に住む人」から江師となったのか。合理的な根拠は一つもないが、思い浮かべたままの備忘録である。 

 


地内の字・ホノギ等

【字】(アイウエオ順)

 イツイ谷、イバ、ウノサキ、上ハダバ、大久保、大久保ノ平、大坂、大坂山、大ソリ、大平山、カゲヤウ、カゲヤブ、上赤ハゲ、上足川、上ミイカダド、上ミウノサキ、上ミ川ノ内、神コエ、上ミシダヲ、上ミ長瀬、上ミフナト、上古土居、上ミホリタ、上柳ノサコ、ガヤノキ、クレノクボ、小石ノミネ、小崎、コダノヲク、笹畝、シモ赤ハゲ、下モアシ川、下イカダド、下モ宇ノサキ、下モ川ノウチ、下モシダヲ、下長瀬、下モフナト、下古土居、下モホリタ、下モ柳ノサコ、タキ山、ダバクチ、ダバサキ、田向イ中畝、中ダバ、中ヒラ、中屋敷、中山、西ノ谷、東クボ、ヒラ、フルタ、風呂ノ谷、松木ノヒラ、丸田、南谷、向イ坂、村中山、モリタ、森根、柳ノツル井、山神ノ越、ユス谷、梼谷山、吉川口、ヲリツキ【68】

※土地台帳に「後口山」、「銚子ノ川」が未登載。「カゲヤウ」が不明

 

(土地台帳・切絵図番順)

 3フルタ、5ウノサキ、7タキ山、8下古土居、9上古土居、10田向イ、11ヲリツキ、12ダバクチ、15イツイ谷、16大久保ノ平、17大久保、18風呂ノ谷、19西ノ谷、20上ミホリタ、21下モホリタ、22クレノクボ、23イバ、24村中山、25中屋敷、26松木ノヒラ※、27ヒラ、28中ヒラ、29中山、30丸田、31森根、32中畝、33柳ノツル井、34モリタ※、35東クボ、36下モシダヲ、37上ミシダヲ、38コダノヲク、39大ソリ、40中ダバ、41ダバサキ、42下モ柳ノサコ、44上柳ノサコ、45カゲヤブ、46下モフナト※、47上フナト※、48下イカダド、49上ミイカダド、51吉川口、52シモ赤ハゲ、53下長瀬、55上ミ長瀬、56山神ノ越、57下モ川ノウチ、58上ミ川ノ内、61下モアシ川、62向イ坂、63小石ノミネ、64梼谷山、ガヤノキ、2笹畝、4南谷、下モ宇ノサキ、6上ミウノサキ、13後口山、14大平山、43上ハダバ、50上赤ハゲ、54大坂、神コエ、59小崎、60上足川、ユス谷、大坂山

※土地台帳の調査は、江師地区の南、国有林銚子の川山の下流域から始まり梼原川合流点から右岸を「ウノサキ」を大きく迂回して鉱泉源となる「タキ山」から穿入蛇行する江師地区の集落に入る。「古土居」は庄屋の墓所でもあり、そこには吹の峰を水源とする西谷が流れ、その右岸を「田向イ、ヲリツキ、ダバノクチ」と上り、屋号タネバタの那須宅から左岸に渡り、江師西側の集落を「イツイ谷、大久保ノ平、大久保、風呂ノ谷、西ノ谷、上・下ホリタ」と大正温泉まで下る。ここからは江師の産土神である河内神社が鎮座する「村中山」を時計方向に江師橋下側から「クレノクボ、イバ、中屋敷、松木ノヒラ、ヒラ、中ヒラ、中山、丸田、森根、中畝」と江師クリーンセンターまで一周し、隣の「柳ノツルイ」から再び実験農場のある「モリタ」から江師東側を「東クボ、下・上シダヲ、コダノヲク、大ソリ」と一回りすると、オートキャンプ場ウェル花夢のある「中ダバ」となる。「ダバサキ」から梼原川右岸を「下・上柳ノサコ」と上ると、いったん下って、小石の上、梼原川左岸「カゲヤブ」から「下・上フナト、下・上イカダド」と大奈路境まで上りつめると、芳川川合流点まで引き返すと川ノ内集落の入口となる「吉川口」である。ここから芳川川を「シモ赤ハゲ、下・上長瀬、山神ノ越、下・上川ノ内、下モアシ川、向イ坂」となる。

 ここからは小石の裏山となる「小石ノミネ、梼谷山」と田野々境の山並みとなり、梼原川対岸の浦越境の「笹畝」から「南谷、下・上ウノサキ」と続き、江師の北山となる「後口山、大平山、上ハダバ」を回り、川ノ内集落の里山「上赤ハゲ、大阪、小崎、上足川」となる。 

※切絵図に「ガヤノキ」、「下モ宇ノサキ」、「神コエ」、「ユス谷」、「大坂山」の記録なし

※切絵図にある「銚子ノ川」は国有林のため無地番

切絵図にある見出しの「28ユダノヲク」は字「38コダノヲク」となっている。地検帳の「弓場ノヲク(ゆばのおく)」か

 

【ホノギ】(江志村/枝村:川ノ内・小石村)

 ▼江志村(土佐国幡多郡上山郷地検帳:幡多郡上の1p99~115/検地:慶長2年2月8日~11日)

 筏戸川ノ内、南本地六代地、舟戸、※小石村(小石タ、北ノサカリ、上やしき、南永返り)、ウツシリ川、西ノクホ、舟戸ハサタ、ヨモンダ、ホトケノソリ、カトタ、ヤシキノ前、平七ツクリ、南カヘチ、土居やしき、北寺中、本地十代タ、西谷タムカイ、寺ノ後、イツイ谷、志つかい、治部地やしき、風呂ノ谷、宮ノにし、茶屋トウノ下、クレノクホ、うはタ、カクテン

(2月11日)

 中やしき、新屋ヤシキ、西やしき、山畑、河原ヤシキ、東ホリ明、西ノサカリ、弓場ノヲキ丸タ、本九代三分地、本卅代地、掃部地、ヲンチタ、窪本一反廿八代地、大ソリ弓場ノヲク、大ソリ本十代地、南クホ、南本廿代地、イツイ木ノ窪、スヤサキ中ウ子、西ノサカリ、新開、南神田、舟戸上、滝下 

 

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【通称地名】

スヤザキ

 

 【山名】

△吹の峰

△その他

黒作バタ

ゴバンノダバ

 

【河川・渓流】

コトコト谷(江師地区東ウワダバの水源地

中平谷川

ウハダバ谷川

ハシミズコウ

大平谷川

西ノ谷川

南谷

銚子川

コヤノ谷

梼谷川

 

 

【瀬・渕】

ミヤノセオキノマエ、ガデンバイ、ヒキンボイワ、フクバイタキヤマ

 

【井堰】

 

  

【ため池】(四万十町ため池台帳)

 

 

【城址】

 

 

【屋号】

 タネバタ(那須美代子宅)、モリタ(森厚宅)、シタモリ(森晴彦宅)、ヤドヤ(森昌文宅)、カジヤ(森繁夫宅)、シンタク(奥田守宅)

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

河内神社/55かわうちじんじゃ/鎮座地:村中山

(旧:山津見神社)/55.5やまづみじんじゃ/鎮座地:山神越 ※川ノ内集落 

(旧:水神社)/55.6みずじんじゃ/鎮座地:ユス谷

(旧:王本神社)/55.7おうもとじんじゃ/鎮座地:西ノ谷

※神社明細帳には明治42年、王本神社、山津見神社、水神社、金刀毘羅神社合祭とある。

※神社明細帳に記録した明治12年当時は小石集落、川ノ内集落の産土神は江師に鎮座する河内神社

※ユス谷は江師村域ではあるが、ユス谷は小石村の水利である。小石は江師の枝村的な関係として管理していたか

 


現地踏査の記録

■奥四万十山の暮らし調査団『土佐の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅰ-』(2018平成30年)

江師(p46)  凹状地形に住む人々

 旧大正町の中央部。西は二等三角点吹の峰(ふきのとう・標高699m)を境に十和地域、北は西ノ川・大正大奈路、東は芳川、南は瀬里・小石・大正に接する。当地は江師と川ノ内の2つの行政区からなり、両地区の境、小石との境を梼原川が南流し、3km下流域に旧大正町の中心地となる大正(旧大字・田野々)がありそこで四万十川と合流する。

 江師地区の北面の山地の西側から順に、西ノ谷川・大平谷川・ウワダバ谷川・中平谷川・ツエノ谷・シダオ谷が流れ、水田・集落が扇状に展開する。地内の中央には環状蛇行跡/還流丘陵(字・村中山)が見られ河内神社が鎮座している。山間地にある集落としては比較的南に開けた温暖な暮らしやすい土地柄で高知新聞に「長寿の村」として紹介されたことがある。

 江師地区には旧大正営林署大正苗畑事業所がある。大正営林署はモミ・ツガの天然林を擁し西部四国の宝庫といわれ戦後の木材需要に対応するため大規模伐採が行われた。伐採後の植林のためこの苗畑でヒノキ・スギ・マツの苗が生産された。その技術は地元の農林家にも普及していったが昭和50年代に廃止された。廃止された苗畑跡は農業実験施設(当初はスプレーマムの育苗)、オートキャンプ場ウェル花夢として運営されている。

(一)『地検帳』に見る村落景観

1、集落

 上山郷の検地は「慶長2年2月2日 土佐国幡多郡上山郷地検帳」とあるように天正検地の仕直検地である。北幡の雄として権勢をふるった上山一族ではあったが、元親の命による朝鮮出兵も不首尾となり、元親は、上山一族の宗家上山加賀の田野々村給地を没収し直轄地とした。

 地検帳では「是ヨリ江志村」とあり、そのなかに小石村として1町2反(15筆)、屋敷は1筆のみ記録されている。小石村は江志村の枝村としての位置づけであろう。江師村の本田出田ともで16町1反32代1分勺とあることから小石村の地積を控除すると元禄郷帳(1700)の14町8反と同じである。

 なお、刊本の長宗我部地検帳(幡多郡の一)では小石村が「同し(小石村)」として江志村の最後まで続けて記録されているが「ウツシリ川ヨリ西地」からは江師村分となる。小石村のホノギは「小石タ」のひとつだけである。

 慶長2年2月8日、大奈留内古見野々の検地の後、大奈路境となる梼原川の左岸にある「筏戸(上イカダド)」から始まり、一端支流の芳川川に沿って「川ノ内(川ノ内集落)」を検地し踵を返して「舟戸」「小石タ」と左岸の小石村の検地に移る。「ウツシリ川ヨリ西地」から右岸に渡り江志村(江師集落)へと入る。検地は江師集落の西側西谷最下流域から始まる。

 江師集落の西下には「西ノクホ」「舟戸ハサタ」「ヨモンダ」「ホトケノソリ四十代地」「カトタ」「平七ツクリ」「南カヘチ」と上田が9筆あり、そのなかに「土居やしき」と極楽寺の扣地もみられる。「カトタ(門田)」は土居ヤシキの周囲、とくにその正面にある田である。極楽寺(明治の神仏分離令により廃寺)は上山郷にある檀那寺三寺のひとつで上山郷北部一帯を檀家としていた(下津井だけは五松寺)。江師公営住宅の付近であると比定されている。この江師集落西下に「古土居」という字名があり、庄屋墓所(武内、北)もあることから土居屋敷は大正温泉付近であったと推測できる。

 次に西側上段へと進み「西谷(西ノ谷)」「タムカイ(田向イ)」「イツイ谷(イツイ谷)」「大クホ(大久保)」「風呂ノ谷(風呂ノ谷)」「クレノクホ(クレノクボ)」「うはタ」「カクテン」と地内の西側を下る。この地は明治23年の未曾有の豪雨により西谷の土石流災害に見舞われたところである。河内神社の参道入口となる中央川端が「クレノクボ」でそこから一旦、村中山の鎮守の森の西側を上り返し「中やしき(中屋敷)」「新屋ヤシキ」「西やしき」「河原ヤシキ」「東ホリ明」と切畑・下畠・下やしきが続いたあと江師集落の東側に廻り「弓場ノヲキ」「丸タ(丸田)」「掃部地」「ヲンチタ」と中田が連なる。その後、地内東端になり「大ソリ(大ソリ)」「南クホ」と中田・下田と中やしきが多くなる。

 続いて江師東側の下段(環状蛇行の外側)に「イツイ木ノ窪(柳ノツルイ)」「スヤサキ(通称スヤザキ )」「中ウ子(中畝)」があり上田・中田となっているが、湿田ではないものの今でも水利は芳しくない。これで、江師地区を一周することになる。

2、土地開発・水利

 江師集落のほ場整備後の田の面積は概ね10町歩、地検帳時代の上田・中田・下田の合計が8町(川ノ内地区と小石を除く)くらいと概ね同じであり、このとから中世から今に至るまで水利の事情が課題であったことがわかる。ホノギに「西谷(西ノ谷)」「イツイ谷(イツイ谷)」とあるが唯一この西谷(その支流イツイ谷)が安定した自然水利であり、中世から江師の西側下段が上田と言われる所以である。江志村のホノギ・脇書きに井ノ口やヒノモトなど水利に関係する記述は見あたらない。

 江師集落の東側は小谷で水利は良くないが曲流切断された円環状平地であるためか、ほ場整備前までは腰までつかるほどの湿田だったという。農地と山際の屋敷地の間にはツルイが今でも残る。東組の真城宅には通称「こもつる井(字大ソリ)」、永山宅前には「柳ノツル井」がある。江志村に飲料水の水源がない昔、こもつる井が付近唯一の飲料水であったという。井戸の端には大石があって水汲みの踏み石となっているが、この石が藩政の昔、隣の西ノ川村の柳ガサコから1km以上、肩も替えずに一人で運んだという昔話が伝わっている 。今では鯉を飼う程度の利用ではあるが渇水期にも水は絶えないという。

3、二人の番匠と森野監物

 江志村の所有関係を地検帳でみると全ての筆が上級所有者である「上山分」と記されている。慶長の仕直検地である上山郷は本来なら長宗我部の直轄地となっていた時期ではあるが混乱を避けたのか「上山分」と上級知行者の取り扱いとなっている。この二面性が仕直検地(慶長地検帳・1597年)の上山郷地検帳の特徴である。また、江志村では実際の耕作者を示す「扣」地が大部分を占めている。

 給地として記されているのが「番匠弥介給」、「番匠平太給」と「森野弥五良給」の三人である。上山郷在地給人一覧表に「三人 大工給  弐人 寺領  残三拾八人 侍領知」とある 。三人の大工給は番匠弥介(江志村居住)、番匠平太(江志村居住?)、番匠彦七(地吉村居住)であることは長宗我部地検帳を読むとわかるが、うち二人が江師に居ることになる。

 「番匠弥介給」は江志村に18筆(大文字欄は上山分)あるほか、広瀬村(喜多川村内)に4筆、大井川村に1筆の計23筆(9反)あり、江志村の「治部地やしき」に居住している 。治部は外事・戸籍・仏事を管轄する職務のほか山稜の監督の職務もある。「番匠平太給」は江志村に4筆のほか、隣の西川村に4筆の計8筆(4反)ある。番匠弥助の居住する「治部地やしき」の隣に「志つかい」があり、森野弥五良の給地として脇書きに「平太夫ゐ」と書いてある。江志村に平太夫の作地はないので平太の居住地と思われる。3人目の「番匠彦七給」は地吉村に19筆(7反半)あり、地吉村の「ひかし浦」に居住とある。中世になり職人支配の体制として普請の中心的役割を担う番匠(大工)を優遇するとともに元親は建築用材を確保するため山林の調査・取締り・林業関係の職人の監督を番匠に担わせ特別に優遇して給人としたのではないかと思われる。

 地吉や江師に居住したのが不思議と思われるかもしれないが当時は山道の往来が主で伊予からの物流が烏・戸川・大道を経由して入ってきた。山に生きる暮らしが当時の主な生業であったのだろう。番匠に山稜の監督の任務もあるとすればなおさら山道往来の拠点に住む必要がある。「地検帳では十和村を見ますと、名本の居る場所は川沿じゃなくて、四万十川の支流の山奥ですね。」と中平大世氏は『十和村史』の執筆者による座談会「十和の歴史」の席で述べている。

 江志村には「森野弥五良給」の侍領知が19筆あるが、森野氏の給地は十河内烏村(現在の十和地域・古城地区)に47筆、隣の地吉村に21筆ある。烏村のホノギ「長サハ(同じ居ヤシキ)」に「烏村 主ゐ 森野弥五良給」とあることから烏村が拠点であったといえ、上山郷において上山姓をのぞくと森野弥五良が最大の給地を知行している。

 江師地区の河内神社の西側に森晴彦宅(字・西ノ谷)がありその一隅に森神社がある。『南路志』には江師村の段に河内大明神の次に森野大明神とある。高知県神社明細帳では江師地区の産土神を祀る河内神社(江師村字村中山鎮座・社格村社)の段に境内神社五社の一つとして天満宮がありその合祭神社一社として「合祭神社一社 森野神社 祭神未詳 由緒勧請年月縁起沿革等未詳 神社牒云北ノ屋敷森野大明神勧請年歴不相知・・」と記されている。本来は森野神社と思われる。長宗我部元親が四国平定のため伊予攻めをした深田の陣に参加したのが「江師村居住郷侍森野監物(森晴彦氏の先祖、上山郷御倉帳に氏名石高記帳されている)」である 。地検帳をみると江志村に監物とおもわれる扣地が2筆、「大クホ(大久保)」に「森野弥五良給監助ゐ」とある。土州幡多郡上山高山ハタ地検帳は天正16年(1588)の検地で切畑をまとめてあるが、こなかかに「森 監物給」がカラス村に2筆ある。森野弥五良と森野監物の関係は不明であるが江志村に森野監物を祀る神社があったことからこの地に居住していたことは確かである。

3、往来要衝の地

 「大クホ」は十川郷、上山郷下分からの往還道が降り付く江師の西側入り口付近にある。江師の裏山となる吹の峰の南側を回り込み谷脇一郎宅の鍛冶屋跡が「ヲリツキ」であり。オリツキは山道が集落に辿り着く位置に付けられる交通地名であり、そこから「西谷(西ノ谷)」を渡ると「大クホ」である。明治の一筆限絵図面の赤線をたどれば、現在の森昌史宅の屋号が「ヤドヤ」と呼ばれていたので昔から往来する者の簡易な宿泊所であったのだろう。ここから西の下段へと向かい川を渡り小石・田野々への道と、地内の東側の屋敷地を廻り西ノ川・大奈路・中津川へと向かう道と二手に分かれる。いわゆる上山郷上分への入り口ともなる交通の要衝である。地検帳にも「舟戸(下モフナト)」とあり、往還用の川渡しとしては上頭の渡し(大正の大正橋地区)に次ぐ重要な施設で、渡渉の安全を祈る「見渡し地蔵」がある。その舟渡しも戦中に江師沈下橋が架橋されその役割は終えたが昭和30年代まで舟番小屋の跡があった。弘法大師もこの往還道を旅した記録があると高野山の高僧が述べたという。過去から多くの人が往来したことだろう。その一人が川村與惣太である。

4、安永の土佐風土記「土佐一覧記」

「今宵しも夢にぞ見つる故郷を こいしの里に草枕して」

 江戸中期の安芸の歌人・川村与惣太が、東は甲浦より西は宿毛の松尾坂まで土佐一国をくまなく見聞し、その土地の地名や故事とともに自らの歌を寄せた行脚の記録がこの『土佐一覧記』。歌で綴った「安永の土佐風土記」であり、「旅行観光パンフレット」でもあり、古城、史実、寺社の記録を盛り込んだ博物誌でもある。一覧記には与惣太の歌569首と古歌111首、それに故事が集録されている。訪ねた地は557か所で、四万十町内では24首、24か所で詠まれている。特に大正地域で詠まれた3首は石碑に刻まれており『校注土佐一覧記』を書かれた山本武雄氏が大正町の取り組みを称賛していたので紹介する。

 上山(田野々の旧大正町中央公民館前)

山里の物さびしさはま柴焼く けぶりも雲にまがふ夕暮

 矢立森(下津井の旧下津井ヘルスセンター前)

かり人の矢立の森を分け行けば 妻こもるとや鹿ぞ鳴なる

 胡井志(江師の旧大正温泉前)

今宵しも夢にぞ見つる故郷を   こいしの里に草枕して

 川村家の系譜によると、はじめは『土佐道記』と称していたようだが原本はなく写本が残されている。現存本としては高知県立図書館蔵本、宮内庁書陵部蔵本、広谷喜十郎氏蔵本など5冊が残されている。写本により歌の綴り方が違い地理的に整っていないが、図書館本では伊与野(宿毛市)→呼﨑(宿毛市)→上山(大正)→矢立森(下津井)→長生(四万十市西土佐)→止々路岐(昭和)→胡井志(小石)→笹山(宿毛市篠山)の順で、広谷本では岩間(四万十市西土佐)→長生(四万十市西土佐)→止々路(昭和)→胡井志(小石)→上山(大正)→矢立森(下津井)→猿野(土佐清水市)となって、四万十川の下流域から遡上している。江師と小石の舟渡しの小石側の番小屋のすぐ隣にはお茶堂があることから、ここで与惣太は草枕したものと思われる。茶堂から川向の江師の集落を眺めふるさと安芸を偲んだことだろう。

 

(二)昭和期の村の姿

1、江師の地名

江師(エシ)

 地検帳では「江志村」、土佐州郡志、南路志ともに「江師村」とある。『大日本地名辞書』には「江師」の項目はないが『角川日本地名大辞典』にはこの地の江師とともに岡山県笠岡市絵師が掲載されている。笠岡市の応神山の麓にある「絵師」は中世からの村で周辺はかつて海が広がっていたという。絵師という地名は元々「江志」と表記され、その地名の由来は、海に面しているということを意味する「江志」が転じて絵師に変わっていったのではないかと説明している 。

 『大正町史 資料編』(90頁)には「地名の由来は、湿地や谷地の小川のある意、又は冷泉の湧く土地の意によるといわれる。また、アイヌ語語源説もある」とある。『西南の地名』 は江師について「師は湿地、谷地の小川のある意、冷泉の湧くところ。<方言> しうける(湿地になった)」と説明しているのでここからの引用だろう。確かに「師(シ)」の解釈はそうであっても「江(エ)」の説明はなく、無理な解釈をすることに意味は不思議な地名であることは確かだ。

 「エ(江)」は川、海、湖、堀などの一般的な呼び名で、特に陸に入り込んでいる部分をさすことが多いと地名用語語源辞典 にある。動詞の彫る(エル)、抉る・刳る(エグル)のエと理解すれば江師の環状蛇行跡の景観から付けられた地形地名と考えられる。この刳るによる地名にエゴがある。「エゴ 」は、高知県各地にみられる地名で、日当たりのよい山の窪地、長野県では丘にかこまれた土地、東京都では川の岸の水でえぐられた所、徳島、福岡県では川の流れが曲がったり入江となったりして淀んでいる所、と少しずつ用例の違いはあるが共通点は浸食された地形に他ならない。エゴが短縮されてエとなったと推測する。

 「シ」はイシ(石)の略。岩、磯などの意も示す。ニシ(西)、ヒガシ(東)といった方向を示す接尾語などの説明が地名辞典にあるが湿地を意味する説明はない。方言から読みとくと、岩礁を意味するハエ(碆)とシ(沚)がある。漁場としての重要性から岩礁ごとに細かく命名され「何々碆はよー釣れる」という。また、オンシ、オトコシ、オナゴシと語尾に人を意味するシがある。

 そうなると今の段階ではエゴ・シの転訛のエシは、「凹状地形に住む人」とみるのが一番しっくりくる。江師は凹状地形であるがもっと正確に形をなぞればメキシカンハットのような形状でもある。日本でいえば各地に残る烏帽子地名。このエボシのボが抜けてエシとなったとも考えられる。『大正町史』に「アイヌ語語源説もある」と書かれているのでお遊びとして『地名アイヌ語小辞典』で江師を読み解いてみる。「e-si-kot(え・シコッ)」と読めば、「頭+大きな窪地」となる。集落の中央に位置する字「村中山」に鎮座する河内神社の鎮守の森が丁度「頭」であり、その周囲となる旧河床が「大きな窪地」と見える地形である。この「え・シコッ」が転訛して「エシ」となり江志・江師の漢字をあてたのではなかろうかと推定してみる。古代、梼原川を往来するだれもが、このメキシカンハットのような景観をみて「え・シコッ」といったであろうと納得する景観である。

 この江志村に囲まれた小さな村が小石村である。エシとコイシは音が似ていると気づかれたことだろう。「小さな(コ)・江師(エシ)」が転訛してコ・イシとなったと思える。

ダバ(駄場・駄馬)

 高知県西部から南予にかけて多く分布する。山中にある平坦地が四国各地での意味となる地形地名。江師地区だけで地内東側に「上ハダバ」・「ダバサキ」・「中ダバ」、西側に「ダバクチ」と通称地名の「ゴバンノダバ」がある。

同じ町内でも東又地域では芝地を意味するという。四国西南部では足摺岬のストーンサークル「唐人駄場」と四国カルストの「源氏ヶ駄馬」が有名。栗焼酎で全国ブランドとなった「ダバダ火振」のネーミングもこの駄場をヒントにしているという。

 一つひとつ地名を訪ねる必要があるが、イメージとしては水利の良くない緩傾斜地で狩猟や焼畑とその後利用地としての休閑地・牧場など縄文時代の暮らしみえる地名である。この地名の周辺地名に焼畑地名を探す必要がある。このダバ地名の多い江師地区の東側は、江師集落の裏山・吹の峰から稜線を東に向けさがり、「つの字」のように集落をまわって麓に降りつくところが「上ハダバ」であり「中ダバ」であり「ダバサキ」である。現在のオートキャンプ場ウェル花夢の所在するダバ(緩傾斜地)である。

 四万十町内の「ダバ」地名の分布をみてみると、155か所ある。

松ヶダバ(根元原)、柿木駄場・黒駄場(東川角)、中ダバ(西川角)、黒尾ダバ・宮ノ多場(中神ノ川)、ウハダバ・大ダバ・下駄場(大向)、上ダバ(天ノ川)、月駄場(秋丸)、寺駄場(折合)、越行ダバ・高駄場(七里)、檜ダバ(勝賀野)、上ダバ・大駄場・ダバ屋敷・西ノ川ダバ・広瀬駄場(作屋)、山神駄場(米奥)、榎駄場・上駄場・中駄場(窪川中津川)、神西駄場(日野地)、井ノダバ・寺ノ駄場(上秋丸)、小笹ノ駄場・下ダバ・仲駄場(壱斗俵)、中ダバ(市生原)、大ダバ・中ダバ(影野)、栗ノ木ダバ(奥呉地)、善長ダバ・鳥ノダバ(六反地)、檜ダバ・山伏ダバ(仁井田)、不用駄場(平串)、沖駄場・下ノ駄場・鳥井駄場(富岡)、下タ駄場(黒石)、大ダバ(弘見)、大ダバ(志和峰)、阿川駄場・ダバ・天神ダバ・東ダバ・フヂノダバ・森ノ駄場(大正)、イデノダバ・大ダバ下大ダバ・ダバ・中ダバ・西ダバ・東ダバ・松ノダバ・ヲリダバ(希ノ川)、下ダバ(上岡)、井ノダバ・馬ダバ・沖ダバ・柿ノ木ダバ・栗ダバ・コウゲダバ・下モダバ・扇子ダバ・ダバ・駄場崎・ダバダ・ナシノ木ダバ・ヌタノダバ・松カダバ(打井川)、大駄馬(上宮)、ウルシダバ・ウワダバ・ダバ畝(弘瀬)、櫻ノダバ(大正北ノ川)、大ダバ・カシダバ・上ハダバ・ソイノダバ・駄場田・中ダバ・松ノダバ・ユノダバ(烏手)、大ダバ・ダバノ畝(相去)、上ハダバ・ダバサキ・中ダバ・ダバクチ(江師)、上ダバ・大木ダバ・松ノ駄場・ウシノダバ(大正大奈路)、下モ駄場・向ダバ・井ノ駄場・踊駄場(大正中津川)、ウシノダバ・ダバ地(下道)、駄場谷・駄場ノ畝・ヌタノ駄場(下津井)、ダバ・ダバタ(里川)、ウハダバ(浦越)、宮越ノ駄場(茅吹手)、駄場・ダバダ(野々川)、ダバサキ・ヨシロダバ(昭和)、已家駄場・王蔵駄場・沖駄場・下モダバ・杓子駄場・駄場・駄場竹・平野駄場・古駄場・向イダバ・森ノ駄場(大井川)、シモダバ・南駄場(小野)、ウシノダバ・馬駄場・杉ノダバ・ダバ・峠ノダバ・ヌタノダバ(久保川)、駄場・ムカイダバ・ヲヲダバ(大道)、イセノダバ・ススキダバ・ツエダバ・ヲンヂダバ(十川)、牛ノダバ(戸川)、下モダバ・ダバサキ・ツ子ダバ(古城)、駄場(地吉)、アサシリダバ(十和川口)、シシダバ・シモダバ・ヲキダバ(広瀬)、ウシノダバ・ダバ・ミイダバ・ムクノキダバ・ヲンチダバ(井﨑)

 地域別にみると窪川郷分(9)、立西(3)、松葉川(19)、仁井田(11)、東又(3)、大正(62)、十和(48)で大正地域が特に多い。多い地区順では打井川(14)、大井川(11)、希ノ川(9)、烏手(8)、大正(6)、久保川(6)、作屋(5)、井﨑(5)となる。

大ソリ(オオソリ)

 江師東側のダバ地名と農地との間に「大ソリ(大ソリ)」がある。『地名の研究』(柳田国男、1968年)では、ソリはコバとともに焼畑に関する山間地名として、関東地方で焼畑利用の畑を樹林地に戻すのをソラスといわれるが、九州・四国にはコバツクリ・コバキリが最も多いと書かれている。高知県では高くて用水の掛かりにくい田をソリ(ソリ田)という。四万十町には「コバ」地名より「ソリ」地名が多い。またソリは反るからきた崩壊地名でもある。窪川付近では「微高地が河川に平行して連なる」地形を「おきぞり」と呼ぶ(『窪川町史』59頁)。高南台地特有の河岸段丘の岸側(オキ。反対側の山側をオカ)のズレをそう呼んだのだろう。

 地内の「大ソリ」には地検帳では中やしきの屋敷地がつづき11人の扣人が居住していたが現在の字内には5世帯が居住するだけである。江戸末期の記録ではこの地に庄屋(岡村氏)が居住していたが、昭和期には営林署の苗畑担当区の事務所と社宅になり、その後は公営住宅になっている。現在も5反程度の田があり地名のとおり水利に乏しい高田である。

風呂ノ谷(フロノタニ)

 「風呂」地名は全国に分布する。湯殿・温泉・石風呂といった風呂を意味する「風呂」、神のいます所としての「ムロ」の転訛で岩屋・石窟・土窟がみられるところ、袋谷といった袋の転訛などと地名辞典には書かれている。松尾俊郎氏は「フロはムロから転じた語で、土窟・石窟などの意味のほかに、ムロ・ミムロと同じく、もともと神のいます所を意味するものとされている(『日本の地名』142頁)。」と神社に因む地名でもあると述べている。柳田国男氏は「ムロがフロに転訛したもの」説はいまや定説であろうという。寺院の保護のもとに石室・石窟を利用して蒸し風呂を拵え僧侶の便宜に供していたのが、次第に民間に流行していった。それが多くのフロ地名に至っていると述べている。

 非定住民の生態や民俗の調査・取材を続けている筒井功氏は、風呂地名について『風呂と日本人 』で新説を表している。氏は、高知県の小字一覧からひろった88箇所の風呂地名を現地踏査して「フロガ谷」、「風呂ノ谷」、「フロノモト」、「不老谷」などの風呂地名と城郭地名との関連性を指摘している。「フロはもともと発汗浴を意味し石室あるいは土室のムロがフロの語に転訛。(中略)風呂地名は中世後期の山城と深くかかわっており、多くが山城跡の直下に位置している。」と高知県下の事例を基に推察している。

 中世の『地検帳』に出てくるホノギ「フロ」地名は、風呂と解釈しても時代考証としては、今の温湯浴ではなくサウナ風呂である。井原西鶴「好色一代男(1682)」の挿絵にあるのも蒸し風呂が主流であったという。十辺舎一九「東海道中膝栗毛(1802)」で弥次さん北さんが小田原宿で初めて入る五右衛門風呂がでてくるのは江戸の後期である。風呂好きな日本人が、地名に記号として風呂を刻むのも理解できる。

 『伊勢国文禄検地の基礎研究』 には文禄年間(1592-1596)に検地された伊勢国検地帳の職業名として「かわた・かわた35、風呂屋27、かぢや24、こんや15、かりうど14、大工13、ししおい10、茶や5、たたみや5、おけや5、油屋4、ふろたき3、かみや3、杣3、風呂屋敷3、さかや2(数値は職業名が記載された村の数で、1か村だけの職業名を除く)」と書かれている。文政(1818-1830)の頃には伊勢詣(御師が引き連れたツアー客)が年間500万人に達したということから文禄の当時でもそれなりに賑わいがあり、武士の利用から一般客への利用と変化する時代であったと考えられる。江戸で最初の風呂屋を開業(1591年)したのは伊勢からきた「与一」と言われている。この当時だからもちろん「蒸し風呂」である(湯をたたえた風呂は鎌倉時代からあったがそれは風呂でなく「湯」と呼ばれていたという)。伊勢国検地帳に記載されるのだから当時の有力武将から給地として与えられ被官身分で支配されていたものと考える。

 仁井田郷地検帳・上山郷地検帳には「風呂屋」などの職業名はないが、周辺のホノギ地名等で読み解いてみる。江師地区の「風呂ノ谷」は集落の西側中段にある字名。慶長地検帳の検地の流れも西側上段から「イツイ谷」、「大クホ」、「志つかい」、「治部地やしき」、「風呂ノ谷」、「茶屋トウノ下」、「クレノクホ」と比定される地がつづく。「イツイ谷」には森野弥五良の給地が多く、その中に「監助ゐ」とあるが、森野監物であろうと推測する。「風呂ノ谷」の隣、「治部地やしき」は番匠弥介給地であり居住するところでもあるし、極楽寺の扣地もある。「茶屋トウノ下」の「茶屋トウ」は村人がお大師さんを祀るところであり旅人を接待し旅人が草枕する、四国西南部特有の「茶堂」ではないかと思われる。地検帳にはこの付近に「土居やしき」「カトタ」「寺中」の脇書もみられることから江師集落の拠点となるところであったといえる。

 このように「風呂ノ谷」には極楽寺跡地の碑、森野神社があり、柳田国男氏がいうところの「石室・石窟を利用して蒸し風呂を拵え僧侶の便宜に供していた」と周辺の景観から理解したい。ただし、大正北ノ川の「フロガ谷」は北ノ川城跡のすぐ下にあり、上岡や大井川の「風呂ノ段」は城郭地名の段に風呂を設えたものと思えるし、「風呂ノ谷」の「谷」は城郭地名の「段」から音韻転訛したものかもしれない。ことから筒井氏の述べる「風呂地名と城郭地名との関連性」について納得するところでもある。いずれにしても現地悉皆調査する必要がある。映画「テルマエ・ロマエ」のように古代ローマ以来、戦傷病者に湯治効能がありとするのは間違いなかろう。

 昭和期になり、この「風呂ノ谷」の下段に昭和46年、「江師保養センター(現在の大正温泉)が完成した。この温泉の源泉は梼原川直下の右岸「瀧山」である。滝はないのでいわゆる崩壊地名のタキ(ダキ)で、曲流点となるここは水深も10m近くあり、淀みとなっている。この淀みの上流は「島バイ」「福バイ」と川に碆地名がある。ここ周辺は昔から傷ついたコイ等の湯治場だったという。泉質はナトリウム-炭酸水素塩冷鉱泉で「ヌルヌル」美肌の湯。中世の蒸し風呂(石風呂)でもこの冷泉を利用していたかもしれない。縁のある「風呂ノ谷」である。この「風呂地名」は四万十町内にも多くみられるので、長宗我部地検帳と四万十町土地台帳から全てを抜き出してみる。

 『長宗我部地検帳』にみられるホノギ「風呂」関連地名は、13か所(下線は比定地)。

風呂ノモト(茂串町)、フロノタン(宮内)、風呂コウツキ池(口神ノ川)、風呂ノ谷(寺野)、フロノ谷(本在家)、フロノモト(柳瀬)、メサフラウ(勝賀野)、フロ(与津地)、風呂ノモト(親ヶ内)、風呂ノ段(上岡)、風呂ノ谷(江師)、風呂ノ谷(里川)、風呂ノ段(大井川)、風呂ノ北(戸川)

 また現在の四万十町内の字一覧から拾うと、9か所ある。

風呂ノ本(柳瀬)、目サフロ(勝賀野)、風呂(与津地)、風呂ノ本(親ヶ内)、フロガ谷(大正北ノ川)、風呂ノ谷(江師)、フロノ谷(下道)、フロノ谷(下津井)、一ツ風呂(戸川)

2、集落

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、江師村は大字となった。地区内は、江師と川ノ内の行政区に分かれ、江師集落は東・岡・西上・西下・住宅の4組編成となっている。

 明治23年(1890)9月の大豪雨のため西谷に土石流が発生。江師の西側に大きな被害をもたらした。近森正一宅の田んぼの隅に大きな石がありその痕跡を示している。明治42年(1919)2月25日、川ノ内集落の山津見神社と小石の金刀毘羅神社は河内神社(江師村社)に合祭されたが今も地区に神社もありそれぞれ祭事は行われている。昭和40年代までは河内神社の境内地で地区運動会が行われ川ノ内集落、小石地区も参加していた。

3、生業

 昭和14年度の大正村の事務報告書には当該年度の当初予算は39,480円、農産物の主なる統計によると米3,780石、麦1,903石、玉蜀黍(トウモロコシ)350石、繭6,609貫、木炭1,509,200瓩とある。繭は24,784Kg(価格69,931円)で木炭は1,509,200Kg(価格60000円)となる。同じく昭和17年度の事務報告では当初予算は51,163円、農産物の主なる統計によると米2,489石、麦1,324石、玉蜀黍(トウモロコシ)250石、甘藷136,693貫、繭2,681貫、木炭597,852貫とある。繭は10,054Kg(価格不明円)で木炭は2,241,945Kg(価格336,600円)となる。「(農産物の生産は)本年ハ近来稀ニ見ル旱魃ニ基因スルモノナリ。(繭は)主要農業物ニ転作ノタメ桑園ノ整理並ニ諸物價ニ比シ繭價ノ低廉等ニ因スルモノナリ(木炭は)戦時木炭増産ノ重要國策ニ協力シタル當業者ノ努力ノ現ハレト云フベキナリ」と戦時下の生産物のシフトが伺われる。この事務報告と同じように江師地区も地内の下段は米、水利の悪い上段は桑畑が広がっていた。二階建ての家は2階部分を養蚕室として利用し平屋の家では屋根裏を蚕棚として利用していた。当時は農外収入の道はなく、楮・三椏などの紙の原料をしなしたりワラビ粉を作り現金を得ていた。

 戦後の昭和30年代までは赤牛を飼い農耕用として飼育していた。江師の河原では毎年全戸の牛を集め胃の中の釘を採ったり種付けをおこなったりしていた。繭の生産が縮小されると桑畑は茶畑や杉檜の苗畑となっていった。また、綿羊、豚、養鶏と飼育する動物も5年単位で変化していった。特に養鶏は地内の農家の大部分で取り組まれていた。電化の三種の神器でいち早く取り入れたのが冷蔵庫で、その中は廃鶏の肉だらけだったという。

4、交通・流通

板橋 

 昭和期になると、江師から小石への梼原川の往来は舟渡しから板橋となっていた。一枚の橋板(杉材)の長さは3間程度で幅が2尺、厚さが2寸。江師と小石の川幅に橋板20枚以上使われていた。板橋を支える橋脚は杉や桧の丸太を杭木に削り川に打ち込んで支柱とした。それに横木を設え5寸釘で固定し鳥居のようにし、板橋をのせた。川の中央部で水深が深く流れの急な箇所は、丑という10m以上もある松の長尺に左右に広がる橋脚穴を大きなチョウナでケツりあげ、そこに杉の丸太をケツった2本の橋脚を打ち込んで橋台をつくった。丑のオッポは浮き上がらないようにワイヤーロープで縛り大きな石を一荷にして固定した。川が増水すると橋桁が流される構造で、江師岸に14枚、小石岸に6枚くらい板橋が両岸に分かれるような仕組みであった。江師と小石の人たちは板橋が流出しないよう責任をもって守ったという。板橋が流れると復旧するまでは今までのように舟渡しとなる。舟渡しの場所は水量の多いときは西谷口、少なくなってくると通称ハシミズコウに設けられた(平成12年/聴き取り調査 )。

 昭和も30年代になると沈下橋(コンクリート造)となり、50年代には現在の抜水橋となった。

森林軌道

 田野々と下津井を結ぶ森林軌道(大正林道)は、昭和6年に着工され、昭和9年までに大字田野々を起点に16,429m軌道が敷設された。昭和14年に5,133m延伸した軌道は、佐川山線となり、昭和29年までに3,131m延伸したが、昭和31年からは牛馬道への組み替えがはじまった。昭和15年から伐採がはじまった佐川山国有林は、モミ、ツガの天然林だったが、チェンソーの導入により僅か20年余りで伐りつくされた。木材の搬出もトラックに移行され、高知県で最後まで残った森林軌道であったが昭和42年3月25日に廃止され軌道も姿を消した。

5、生活

 昭和初期の暮らしについて小石の武内景明氏は『梼原川の岸辺にて』に「農家住宅は概ね母屋・井戸・便所(せっちん)・厩舎(うしだや)・納屋から成り立っていた。母屋の間取りは表の間・沖の間・岡の間・奥の間・竈屋(かまや)で、竈屋はイロリのある茶の間と竈と流しのある土間でできていた。茶の間は食事をとるなど家族団欒の場であるとともに夜なべをする生産の場でもあった。土間には竈が大小二つあり、その天井から取り下げられたホテには、ハヤ・イダ・鮎など焼いたものが串に刺されていた。当時、茶わん、皿、箸などの食器は尺角ぐらいの蓋付きの膳箱に入れられ、その蓋の上に食器をのせて食事をとった。湯呑は茶碗と兼用で茶碗はお茶で洗い、余ったお菜や漬物と一緒に膳箱にしまった。食事の内容といえば、飯は麦やキビや芋の雑穀が7、米が3の割合であった。白米だけの米飯は、正月3が日、盆、秋祭りなど年数日だけだった。食事は朝6時、昼10時、午後2時(八つめし)、夕6時の1日4回だった。納屋の土間にはウス、ダイガラ、トウス、トウミ等の用具が並べられていた。土間に面して倉があり主食となる米・麦・キビ、副食となる大豆・小豆や乾燥したゼンマイなどの乾燥類、種籾・麦種・キビ種などの種物類が袋や俵に入れられ保管されていた。その他皿鉢・徳利といった祭りなどに使われる瀬戸物もしまわれていた。納屋の屋根裏はツシといって冬場の牛馬の飼料や縄や俵を作るための藁が積み込まれていた」と書いてある。長い引用になったが食事のようす以外は戦後30年代まではどの農家も同じようであった。

(文責:武内文治)

聞き取り調査日:2016年4月1日

聞き取り者:奥四万十山の暮らし調査団/武内文治

話す人:森厚さん(昭和2年生まれ)

 

 →書籍は当hpサイト(地名の図書館→奥四万十山の暮らし調査団叢書→土佐の地名を歩く)へ

 

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補遺(森厚談)

1)江師の西谷上流部、右岸がオリツキ(字)で、十和から往来する往還道の江師の入口となることから降り付く(オリツキ)となったのだろう。

2)その江師の入口近くである森盛馬さんところ(息子の森昌史)がヤドヤという屋号であった。往来する者の簡易な宿泊所であったのだろう。

3)往還道は、江師の山手側を周回し、江師の苗場担当区のあった所に江師の士族であった大庄屋の居宅があり、そこを通り西ノ川に向った。

4)その大庄屋は、村長も務めた岡村五郎さんの先祖さんである。

5)その庄屋宅近くに「コモイツルイ」という湧水の水源地があった。

6)極楽寺の碑文が公営住宅江師第一団地にある。

7)江師の屋号は、ヤドヤのほかに、カジヤ(芝田多仲・今の森繁夫宅)、シンタク(今の奥田守宅)、シタモリ(森晴彦宅)、私のところはモリタというた。

8)瀬渕にはみんな名があった。

9)農耕は戦前は馬で、戦後は牛になった。主産業は養蚕で各家に蚕室があった。


地名の疑問

 

1)治部地と掃部地

 

 2)スヤザキはどこ?

  今でも使われる地名「スヤザキ」ではあるが字名にはない微細地名。長宗我部地検帳にスヤサキとあるではないか。400年以上前から連綿と使われる地名。なんともいとおしいではないか。

 


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1597慶長2年)

土佐国幡多郡上山郷地検帳:幡多郡上の1p99~115/検地:慶長2年2月8日~11日)

 慶長年間には江志村と呼ばれていた。大奈留内古見野々の検地の後、慶長2年2月8日、江志村のホノギ「筏戸(上イカダド)」から検地が始まる。

 江志村の段に脇書として小石村とあることから、枝村として位置づけられていたのだろう。

 その他、比定できるホノギを検地順にあげると「川ノ内(上川ノ内)」「舟戸(上フナト)」「小石タ(上コイシダ)」「西谷(西ノ谷)」「タムカイ(田向イ)」「イツイ谷(イツイ谷)」「風呂ノ谷(風呂ノ谷)」「クレノクボ(クレノクボ)」「丸タ(丸田)」「大ソリ(大ソリ)」「中ウ子(中畝)」

 検地は、慶長2年2月8日から11日までおこなわれた。

 江志村の検地高は小石村も含めて本田12町2反、出田3町9反、合わせて16町1反である。

 所有関係では大部分が「上山分」とあり扣地となっているが、一部番匠弥介給と番匠平太給と給地が23筆ある。

 寺社関連では、極楽寺扣とある

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p345)

 江師村の四至は、東限津野山大川西限植松山南限丁子之川北限西之川山東西五町南北二十町戸凡四十七其土赤

 山川に、銚子之川山(在村西)、西谷(自西流東)

 寺社に、極楽寺、川内大明神社とある。

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高148.585石、戸数35戸、人口181人、男92人、女89人、馬15頭、牛2頭、猟銃8挺

 

■土佐一覧記(1772-1775明和・安政:p368)

 胡井志(小石)

今宵しも夢にぞ見つる故郷を   こいしの里に草枕して

 

昭和45年「今宵しも」の歌碑が、小石を一望できる江師の保養センターの庭に建てられた。

※江師保養センターは、現在の名称を大正温泉という。その前庭に苔むして残っている。

※川村与惣太の歌碑が旧大正町内に3カ所あるが、大正温泉前にこの歌碑がある。

※四万十町内では、24首あり、特に志和が4首、立西地域は天の川、川口、秋丸、野地と詠まれている。

※川村与惣太が、江戸後期の土佐一国を東の甲浦から西の宿毛・松尾坂まで歩いて書き綴った歌枕が『土佐一覧記』。その557首の与惣太の歌と古歌、名所解説とともに、当時から現在に至るその詠まれた土地の地誌をまとめたものが「校注土佐一覧記」で、作者は室戸市在住の郷土史家山本武雄氏。氏は、その本の前書きとして「今宵しも」の歌を挙げ、大正町で詠んだ三首が全て歌碑として建てられていることに驚きと敬意をもって書かれている。この歌碑建立に尽力されたのが元大正町長武政秀美氏である。武政氏は遺稿集として「里に生きる里に死す」を表しているが、教育長、町長時代の行政編を「山にこもって」と題する予定の続編が叶わぬまま逝去されたことが残念である。

  

■南路志(1813文化10年)

 237江師村 地百四十八石五斗七升

 河内大明神 中森 正体木造五座 祭礼十一月卯ノ日

 森野大明神 同   同右      祭礼同上

 極楽寺 禅宗洞家五松寺末

      本尊 千手観音

 

■掻き暑めの記(1984昭和59年) 

 

 ・西谷(上p140)

明治6年以降、各村のほぼ中央部に元標が建設された。江師村の元標は字西谷に設置されていた。

 こもつる井(上p284)

江師村中駄場の木陰に「こもつる井」というう井戸がある。其処のふみ石に、大石を使ってある。この井戸は昔江師村に飲料水の水源も無い時代でその付近唯一の飲料水であった。皆が朝夕に汲みに行ったのである。

 柳がさこ(上p285)

江師の字で上柳ノサコと下柳ノサコの二つの小字となっている。檮原川の右岸、川ノ内の対岸に位置する。

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

銚子川、田野々簡易水道分水池、江師鮎踊り橋、江師トンネル、小石清流橋、江師橋、四万十町農業集落排水処理施設江師クリーンセンター、大正温泉、西ノ谷川、町営住宅江師第一団地大平谷川、ウハダバ谷川、中平谷川、町営住宅江師第二団地、四万十オートキャンプ場ウェル花夢、江師農林水産物集荷加工場

 

国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

江師、川ノ内、梼原川、芳川川、吹の峰(標高:700.2m)、小石清流橋、

 

基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

銚子ノ川(二等三角点:標高700.24m/点名ちょうしのかわ)江師字銚子ノ川710

江師(四等三角点:標高378.26m/点名えし)江師字中ヒラ307-1番地

小石峰(四等三角点:標高452.21m/点名こいしみね)江師字小石峯795-83

 

■四万十森林管理署(四万十川森林計画図)

銚子ノ川山(4079林班)

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

銚子の川橋(不明/江師字)

西ノ谷橋(不明/江師字)

ホリタ橋(不明/江師字)

森田橋(不明/江師字)

銚子の川小橋(不明/江師字)

江師橋(不明/江師字)

中ヒラ橋(不明/江師字)

那須橋(不明/江師字)

川ノ内橋(不明/江師字)

川ノ内芳川線1号橋(不明/江師字)

川ノ内芳川線2号橋(不明/江師字)

川ノ内芳川線3号橋(不明/江師字)

 

■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名)

下大下(上ミホリタ178・西ノ谷川

枝谷(西ノ谷175・枝谷川)

松ノ平(松ノ平266-1・風呂の谷川) ※大平谷川のことか

掘の谷口(中畝373・堀ノ谷川)

オクダ(丸田341・東掘ノ谷川)

イマシロ(丸田297・イマシロ谷川) ※今城(いまじょう)の誤記では

大平山(大平山749・掘ノ谷川) ※中平谷川とウワダバ谷川が合流し、掘ノ谷川となるのか

コダノオク(コダノオク516・西堀ノ谷川) ※武政久美宅横を流れる谷川が西堀ノ谷川か。西でなく東である。

コトコト谷(コトコト谷・コトコト谷川

小石(小石峰795-97・梼谷川

下フナト(下フナト498-4・フナト川

 

■四万十町文化財一覧

 ▼国登録有形文化財(土木構造物)

旧大正林道ユス谷川橋(ふりがな:きゅうたいしょうりんどうゆすたにがわばし)

構造・形式/鉄筋コンクリート造単アーチ橋、橋長8.0m、幅員2.0m

所在地/四万十町江師

登録年月日/平成20年 3月 7日(番号39-0249)

 四万十川水系梼原川左支流ユス谷川の最下流部、梼原川との合流点近くに架かる。橋長8.0m、スパン5.1m、幅員2.0m、半円アーチ形の鉄筋コンクリート造単アーチ橋で、両岸には表面布積の石垣を連続的に築く。梼原川沿いに築かれた旧大正林道関連施設。

※ユス谷川の説明で正しくは「渡川水系1次支川梼原川の左岸にある2次支川ユス谷川」となる。

 

ユス谷川橋 (ふりがな:ゆすたにがわばし)

構造・形式/昭和10年頃架橋、石造及び煉瓦造単アーチ橋、橋長8.2m、幅員3.1m

所在地/四万十町江師

登録年月日/平成20年 3月 7日(番号39-0250)

 旧大正林道ユス谷川橋の東側に架かる道路橋。橋長8.2m、スパン5.2m、幅員3.1mとした半円アーチ形の単アーチ橋で、アーチ部分を3枚厚の煉瓦で築くほかは、間知石の布積とする。煉瓦と石材を使い分け、精緻に築かれた小規模なアーチ橋。

 

■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)

  7旧大正林道ユス谷川橋

 ・ 9ユス谷川橋

 ユス谷川は、四万十川支流梼原川に注ぎ込む谷川で、工法が異なる2つの時代の橋が架かっている。一つは、町道から見過ごしてしまう位置にあるが、旧国道439号線に平行して架橋されていた森林鉄道橋である。この橋は、昭和初期に旧大正林道の橋梁として建造されたもので、連日、機関車に引かれ木材を満載したトロッコがこの橋を通行し、四万十川流域で活発に展開された国有林事業を支えた。もう一つは、昭和10年頃に郡道松原線旧大正~梼原間の橋梁として建造され、国道439号線に引き継がれた国道橋である。現在は、国道の改良工事でルートが変更され、町道となっている。この2つの橋は、四万十川流域の奥山から産出される農林産物の搬出をはじめ、上・下流域の集落間の流通・往来に大きな役割を果たし、近代期の山村地域の発展を支えた。また、素材、工法、目的の違う二つの橋は、河川を使った筏流しや高瀬舟から森林鉄道、その後のトラックの輸送へと、四万十川流域における流通・往来の歴史とその変遷を今に伝える貴重な存在である。

 

 ■四万十町広報誌(平成21年2月号)

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ぶら〜り散策0814【江師】20090201.pdf
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