米奥

よねおく


20150608初

20170627胡

【沿革】

 源希義(平治の乱に敗れ土佐に配流(1160)となる。土佐冠者)の子孫吉良氏は土佐七豪族の一人であったが弘岡城を本山氏に滅ぼされ、その子孫が米の川に移り、代々米の川の庄屋を勤めた。

 その後、奥州南部因幡守高忠が一斗俵に止まり開拓(1370頃)を始め、大野見殿、津野氏に仕え、神田郷(米野川、作屋、壱斗俵、中津川の15名)は南部氏の領地となった。

 長宗我部地検帳に「是ヨリ米川村作野番内」とある。作野番とは、今の作屋・米奥・中津川のことである。 天正の頃は米奥の記録がなく、川奥は米川村に含まれていたと思われる。

 それ以降の地誌である土佐州郡志には、米川村として本村と川奥村と分けて書かれている。また、南路志(1813)には「米野川村」とある。 

 明治9年7月の県下の村市分合改称等により米ノ川本村と川奥村が合併し米奥村となる。

 明治22年(1889)4月1日、「明治の合併」といわれる新政府の町村制により、米奥村は同じ仁井田郷の七里村・中村・勝賀野村・川ノ内村・北ノ川村・市生原村・一斗俵村・中津川村・作屋村と大野見郷の日野地村・秋丸村が新設合併し「松葉川村」となった。

 同村は四万十川流域の細長い村であることから新制中学校設置に対する位置で「東」と「奥」で対立し、昭和23年(1948)10月13日松葉川村議会議事録には「分村」の決議にまで至ったことがある。

 昭和30年(1955)1月5日、高岡郡松葉川村は、 窪川町・仁井田村・東又村・ 興津村と 合併し新設「窪川町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。

 地区内は、米の川と川奥の2つの行政区がある。米の川は、上組・中組・下組の3組編成となっている。

 

【地誌】

 旧窪川町の北部。蛇行しながら南流する四万十川と、東流する川奥川の合流点付近から川奥川流域にかけての地域。米の川と川奥の集落からなる。主に農業地域。川奥川の河口から四万十川右岸一帯にかけて平地が広がり、集落は四万十川沿いの山麓から川奥川沿いの北部山麓に展開する。四万十川沿いの山麓を県道322号松原窪川線が通る。米奥小学校・白河神社がある。当地に伝わる川奥の花取踊りは県無形民俗文化財である。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央上部の南流する四万十川右岸が米奥地区)

 

【地名の由来】

 辻重憲氏は、窪川の地名と変遷と村名・地名の由来と題して『史談くぼかわ・第5号』に表しているが、その中に「8.米の川」のあとに、「9.米奥 川奥」について「米の川の奥地ー即ち米奥、南部氏の居城地、川奥ーは米奥と米の川の奥地ーと解してよかろう。」とある。これを読むと、①米の川の奥地が米奥である。②川奥は米奥と米の川の奥地である。となり、米の川と米奥と川奥の3地区があることになる。これまで、米奥は、「米ノ川本村」と「川奥村」との合併(明治9年)したことによる、合成地名と思っていたので驚いた。窪川町史にも何ら記述はない。

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 荒田、石原田井ノ口入ル谷、入ル谷山、植松、牛ノ子谷、ウルシ谷、上ゾリ大久保、大コバ、大谷山、大松、岡屋敷沖代沖野々、奥シン高、ヲクノ谷口奥ノ谷、カゲタ、上カケタ、カヤノ木、北影田、北屋式、楠バ谷、窪屋式、クマノ谷、黒平才能、クロヲ谷、桑ノ谷、小越山、小越、越ノ下モ、越ノ元、五代地、小家ノ谷、サカキノ谷、椎尾山、椎ノ木森、四十郎山、下屋式、シャシャブ谷、女郎谷山、シロハナ、新道、須行谷、畝月埜、タキ山、立石、谷口、ツエノ谷、ツバ原堂ノ越道泉仲井、中上ゾリ、長谷、仲谷、中ノ山、中屋式中山、西方谷、汢ノ尾、白皇、花屋引地、ヒサギ谷、檜ノ谷、冨留処山、ホキ元屋敷佛ノ窪、ホヲノクボ、見花山、宮ノ谷、宮ノ前明重、眼渕、守屋ケ谷、柳ケ谷、柳ノ平、山神坊、山神駄場、ヲリコエ【83】

 

(字一覧整理NO.順)

 1入ル谷、2シロハナ、3大松、4北屋式、5奥ノ谷、6ホキ元屋敷、7岡屋敷、8沖野々、9黒平才能、10花屋、11下屋式、12道泉、13明重、14佛ノ窪、15仲谷、16仲井、17宮ノ前、18井ノ口、19石原田、20沖代、21中上ゾリ、22上ゾリ、23小越、24ウルシ谷、25畝月埜、26カヤノ木、27ツバ原、28大コバ、29奥シン高、30ヒサギ谷、31椎ノ木森、32四十郎山、33柳ノ平、34山神駄場、35中ノ山、36岡屋敷(再掲)、37窪屋式、38中屋式、39中山、40北影田、41堂ノ越、42大谷山、43五代地、44桑ノ谷、45荒田、46ツエノ谷、47引地、48守屋ケ谷、49眼渕、50シャシャブ谷、51汢ノ尾、52西方谷、53ヲリコエ、54長谷、55須行谷、56立石、57タキ山、58クマノ谷、59谷口、60白皇、61上カケタ、62ヲクノ谷口、63カゲタ、64ホヲノクボ、65山神坊、66檜ノ谷、67クロヲ谷、68新道、69楠バ谷、70小家ノ谷、71越ノ下モ、72牛ノ子谷、73柳ケ谷、75植松、76大久保、77入ル谷山、78冨留処山、79女郎谷山、80宮ノ谷、81小越山、82見花山、84椎尾山、85サカキノ谷、86越ノ元、

※字一覧「20沖代」のルビがオキシロとあるが、比定されるホノギは「ヲキタイとある。

字一覧「25畝月埜」のルビがセヅキノとあるが、比定されるホノギは「ホウツキ野とある。

 

 

【ホノギ】

 是ヨリ米川村作野番内(仁井田壱斗俵村地検帳 土佐国高岡郡津野分p552~564/検地:天正16年2月23日~24日

 ミツテカリ、松ノ木窪、島ヲチ、サンシホウ、カチタ、シラワウ、ヒキチ、シモ窪、桑ノ谷、谷引チ、堂ノ越、クホタ、ツクロタ、的場、中やしき中ヤマ、ヤキノ下、ホウツキ野、永タ、青木サイノウ、ウツシリ、中井仏ノ窪、ヲカサキ、ツハハラ、川原カケテ、ツハラクチ、カヤノ木、樋ノクチ、上藤谷クチ、巧タ、中谷、ヲカ崎、下やしき

 

 ホキクチ、大クホ、コクホ、ウワソリ大サイノウ、梅ノ木サイノウ、ウワソリクホ、ウシフン、神田、宮ノ前井ノクチ、井料、石原タ、黒ハサ、ヲキタイ、コクホ、桑木サイノウ、マカリタ、小川添、カキ山サイノウ、寺タ、イル谷、トイやしき、弓場、寺中、北ゐやしき、ヲキやしき、与右衛門やしき、新やしき、ヲクノ谷クチホキ本、南やしき、西やしき、ハナヤ、サイノウヤシキ、九郎五郎ヤシキ、ヲカヤシキ、ハセテロ、ヲキ野々、コウノサイノウ、クロタ、フタイノ本、イワツチカクホ、メイチウトウセンヤシキ、弥右衛門タ、道泉ヤシキ、シモヤシキ、ハナヤ

 

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【通称地名】

 

 

【山名】

枝折山(しおりやま・806.3m・奥神ノ川△窪川中津川/33.280010,133.072929)

 

 頂上に祠がありこの山を「枝折様」と地元では呼ぶ。山容が美しく、東又方面から見ると富士山に似ていることから「松葉川富士」とも呼ばれている。この稜線は米奥から奥神ノ川、折合、相去、大正中津川、芳川と続く往還で昔は多くの人が利用した 。『下津井お留山記・上』に「久礼浦出しの桧、樅、栂の挽板類わ大松ヶ畝から津野山川の左岸に渡し、下津井から中津川へ担ぎ越し同所から山の峰つたいに松葉川の米奥付近に担ぎおろして其処から仁井田え担ぎこし床鍋え出て逢坂谷を降り、久礼の浜え着けたのであります。」とある。駄賃でなく肩に担ぐ人力輸送であることには驚く。その道具を含め山の暮らしの展示は四万十町郷土資料館でみることができる。

 山名は往来のしるしとして枝を折りながら通過したことに由来したものと考える。今でも山道の分岐では行われる習慣で高知県下の枝折地名は28字見られる。『地名用語語源辞典』には̪①動詞シヲル(撓)の連用形で「しなってたわんだ地形」②動詞シホル(霑)の連用形で「濡れ湿った地。湿地」とあり、往来のしるしに枝を折ることを地名に刻んだことは書いていない。また『民俗地名語彙辞典』にも記載がない。札場・登尾・荷掛・休場・傍示・遅越・折付・石橋・渡瀬・馬越・ミノコシなど数多い往来地名のひとつで、昔の往還道を復元する要素となる地名である。

 この稜線には一等三角点「城戸木森」があり遭難の多いところでもある。

 

【峠】

峠(地区△地区) ※注記

 

【河川・渓流】

川奥川(橋梁台帳)

入る谷川(橋梁台帳)

奥の谷川 (橋梁台帳)

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

越行堰(米奥字シロハナ):越行地区の灌漑面積29ha

 

【ため池】(四万十町ため池台帳)

 

 

【城址】

 

 

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

白河神社(旧:白皇神社)/20しらかわじんじゃ/鎮座地:カヤノ木

 


現地踏査の記録


地名の疑問


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川Ⅱ」)

 今の米奥という地名は米の川部落と川奥部落が合併したときつけられた部落名であるという。地検帳の記録では”米川村”と表現され枝村をもたない単独の村として取り扱われており、川奥部落の地名は見当らない。したがって米川村は今の米奥部落をさしているものと思われる。(同p645)

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p267~268)

 土佐州郡志には、米川村として「有七村惣曰米川」と記述し、川奥村と本村と分けて書かれている。

・川奥村(p267)

 川奥村の四至は、東限本村界西南限窪川之山北限米川之山縦三十町横十町其地砂土

 山川は、尾越山(松雑木禁伐採)

 寺社は、白皇社とある。

・本村(p268)

 本村の四至は、東限大川西限川奥村界南限野山界北限中津川界縦三十五町横二十町

 寺社は、大乗寺、川内大明神社とある。

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では米ノ川として、石高486.109石、戸数117戸、人口537人、男286人、女251人、馬77頭、牛17頭、猟銃17挺

 

南路志(1813文化10年:③p338) 

182米野川村 仁井田郷本堂之内、又云神田郷四村之一也 地四百八十四石九斗一升七合

当村を南部といふは、応安三年南部住人因幡守高忠当国に来り、此村を押領してより名附る也。

河内大明神 本村井口 末社天神 正体幣 祭礼九月廿六日

 正体三躰 五寸八分 六寸一歩 六寸二分 籠物刀 一腰、鍛冶作兵衛寄進 鏡一 鉾一

花屋大明神 下ヒヤシキ 正体幣・鏡一面 祭礼九月廿六日

白王明神 クマノ谷口 正体四 七寸五歩 六寸七歩 五歩 二歩 祭礼祭礼九月廿六日

河内大明神 祭礼九月十五日

大師 川ヲク

城林山大乗寺 禅宗常賢寺末、或云米泉山

 本尊 開山源當大和尚

 天正二年建立之棟札ニ源忠次ト有、地検帳ニ寺領有之。

 〇薬師堂 高岡郡市生原村ニ有。此堂龍泉寺本尊、当寺支配也。

古城 南部太郎左衛門居レ之。

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

p9:米奥、米ノ川、四万十川、入る谷川、一斗俵沈下橋、四万十源流大橋、入る谷橋、入る谷第二橋、米奥小学校、城ハナ公園

p16:米奥、米ノ川、四万十川、川奥川、県道松原窪川線、川奥橋、清水ヶ瀬橋、Юうわぞり、Ю米奥口

p15:米奥、米ノ川、川奥、四万十川、川奥川、県道松原窪川線、中畝橋、川奥橋、白河神社

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

 米奥、米の川、川奥、四万十川、一斗俵沈下橋

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

米奥(四等三角点:標高354.40m/点名:よねおく)米奥字丑ノ子谷1779-1番地 

椎尾山(四等三角点:標高621.56m/点名:しいおやま)米奥字須行谷山42林班

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地) 

一斗俵沈下橋(渡川(四万十川)/米奥字シロハナ55)

川奥橋(川奥川/米奥字中山827)

一ツ谷橋(一ノ谷川/米奥字窪屋敷1032)

清水大橋(渡川(四万十川)/米奥字大松125-2)

川奥1号橋(/米奥字小越788)

中畝橋(新道谷川/米奥字畝月埜807)

米奥橋(奥の谷川/米奥字北屋式245-1)

四万十源流大橋(四万十川)/米奥字シロハナ108)

入る谷橋(入る谷川/米奥字北屋式190)

 

■四万十町広報誌(平成20年11月号) 

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ぶら〜り散策0411【米奥】20081101.pdf
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ぶら〜り散策0411【川奥】20180301.pdf
PDFファイル 276.5 KB
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ぶら〜り散策0411【米ノ川】20180201.pdf
PDFファイル 307.2 KB


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