よくある地名の語源 「か」

かいと・がいち・がうち(垣内・〇ヶ市・〇ヶ内・〇ノ内)【栗木カイチ、中ヶ市、親ヶ内、木屋ヶ内、森ヶ内など多数】

 語尾につくこの地名の語源は「カイト」地名で全国に分布する。将来、耕地化することを予定して囲った地域をいう。本来はカキウチ(垣内)で、カイト、カイチ、カクチ、コウチ、カイツケエト、カイドなど。ほとんどは語尾として使われ、語頭としては開発者、所有者の人名や所在地の方位や目標となる樹木の名を冠したものが多い。  続きは→「クリック」

かいがけ(鍵掛)【土佐清水市鍵掛] 

 幡多地方には難読地名が多く藻津・宿毛・高石・頭集・爪白・鍵掛・実崎・百笑(むくづ・すくも・たこす・かしらつどい・つましろ・かいがけ・さんざき・どうめき)など。「鍵掛」は警察の防犯標語ではなく、土佐清水市の大字名称。

 四国遍路の歩き旅は「鍵掛」「沓掛」「札掛」の地名によくであうが、信仰地名だろう。

 筒井功『日本の地名』は沓掛・鍵掛について説明する。「沓=草鞋(クツ)には邪霊除けの呪力があると信仰され村境に掛け侵入する邪霊を防ぐため掛ける。沓掛は峠だけではない。江戸期の菅江真澄も鉤型の木切れを木の枝に投げ掛かったら神意にかなうという信仰」でともに各地に地名を刻む。小豆島に景勝「寒霞渓(カンカケイ)」がある。カンカケと呼ばれていたのを徳富蘇峰が命名したという。

 カンカケは崩れた崖地絶壁の地形地名(松尾俊郎『日本の地名』)とある。確かに欠けるは崩壊地名であり、寒霞渓の景観は崖地絶壁の地形でもあるが、カンの音がこれでは読みとれないので、すなおに「鉤掛」と民間信仰の地名化と理解したい。

 日本地名研究所長の金田久久璋『あどうがたり 若狭と越前の民俗世界』に「樫や椎で作った鉤形の小枝を山の神や峠道の古木にかけ恵方を向いて一年間の山の仕事の無事を祈る行事で、鉤掛・カイカケ・ハナタテともいい、神懸・寒霞渓・鍵掛峠などの地名がある」と書かれている。

 土佐清水の大字「鍵掛(カイガケ)」もその例だろう。馬路村魚梁瀬に「貝掛畑山」、香美市清爪に「カイ掛ケ」、土佐清水市下ノ加江「小貝掛」の3か所に小字 がある。貝は鉤の当て字だろう。下ノ加江「小貝掛」の隣が土佐清水市鍵掛(かいかけ)の大字となる。

 その他高知県には「鍵山」が多く、香美市には鍵山の姓も多い。「鍵山(カキ山・柿山)」小字が25か所あり、長宗我部地検帳にも「カキヤマ」 が4か所比定される。その「鍵」も「鉤」の転訛なのだろうか。

 

かえでがわ(楓川)【平野】

 平野の字名であり河川名(四万十1支川仁井田川2支川東又川3支川大井川4支川楓川)。付近に字名「カイテ川山」がある。長宗我部地検帳の平野村にはホノギ「カイテ川」があり中世以前の地名である。四国樹木名方言集には「和名カヘデ:方言カイデ(高岡郡下半山村)」とある。和名と方言名と両方が字名としてあることが面白い。津野町葉山地域だけでなくこのあたりにも流布された方言名であろう。同書には、カエデを方言でモミジという地域は高知県下各地にある。紅葉の総称をモミジとしたことによるのだろう。ただし、植物分類上はややこしく、モミジはカエデ科カエデ属となる。

 モミジの語源は、木の葉が赤や黄に色づくことの古語「もみず」からきたもの。カエデの由来は、葉形がカエルの手ににているところから音韻が転訛したという。一般的には葉の切れ込みが深いものがモミジで、浅いものがカエデと区分される。

かぐらだ(神楽田)【】 

 秋の神事として、降臨してきた神を慰安し秋の収穫を感謝する意味から神楽や花取り踊、獅子舞、奉納相撲などおこなってきた。「土佐の神楽」は1980年に国の重要無形民俗文化財に指定。岩原・本川・安居・池川・多野川・津野山・いざなぎ流などがある。県下に「神楽田」小字15か所。

 

かげち(かげ地・カゲジ・影地・陰地・カゲチ山)【見付、野地、川ノ内、上秋丸、飯ノ川、志和峰、志和、下津井、久保川、大道ほか】

 

かげやま(影山)【七里地区の集落・行政区】

 

かしき(鹿敷)【】

 地名用語語源辞典では①カシ(傾く)・キ(接尾語か)という地名②動詞カシグ(炊)の連用形「から、炊事に因むものかとある。

 高知県方言辞典では①山小屋、または船の炊事係。かしぐ(炊)の名詞形で原義は米をふかして強飯をつくること。②春、山野にある草や新芽を刈って田に入れる緑肥。③田の畔などで草を刈ること。④刈っておいて乾いた枯草⑤田の中に入れる刈草とある。

 田の緑肥とする「刈敷(かしき)」と「炊ぐ」の二つの意味がある。地名として付されるのは面的要素が必要な草刈り場としての「刈敷」となるか。

 四万十町にはないがいの町の大字に「鹿敷」があり、小字名にコカシキ(大豊町桃原)鹿敷谷(土佐市北地)、カシキ山(四万十市田野川)、カシキヶ谷(宿毛市山奈町山田)などがある。カシキが樫木を意味することもあるから注意が必要だ。

かじ(鍛冶)【】 

 村の鍛冶屋は社交の場。旧大正町小石の鍛冶屋は「一郎トビ」が有名で全国から引き合いがあった。長宗我部地検帳にもカチヤシキ地名が多い。鉄は武士や農民にとって大切な道具であり、鍛冶屋は重要な職業として位置づけられていた。

 高知県下の小字で「鍛冶屋」86、「鍛冶屋敷」58など。タタラ製鉄、炭焼地名と近隣する。

 

かじやしき(鍛冶屋敷)【勝賀野】

 長宗我部地検帳のホノギにには屋敷地名が多くあるがその一つ。鉄は武士や農民にとって大切な道具であり、鍛冶屋は重要な職業として位置づけられていた。〇〇ヤシキのホノギは、屋敷の格としての上・中・下や新屋、オモヤ、ウバを冠するヤシキ名や、居住者の名を冠して付されるものが多いが、鍛冶屋式や番匠屋敷、神主ヤシキ、名本ヤシキ、刀禰ヤシキのような職業名が付されたものもある。

 高岡郡仁井田郷地検帳には「鍛冶屋ヤシキ(勝賀野)」「カチヤヤシキ(東川角・秋丸)」「カチヤシキ(榊山・見付・野地・弘見・与津地・奈路)」「カジヤヤシキ(親ヶ内)」がある。

 高知県下に「鍛治屋敷」小字が58。鍛冶屋を含めるとやはり「村の鍛冶屋」で、ムラを統治する庄屋(土居)のすぐ近くにその地名が分布する。

 

かずけ(数家)【数神地区の集落・行政区】

 四万十町東又地域の集落で行政区。明治9年(1876)7月、数家村と神野々村が合併し「数神村」となる。この13年後、明治22年の大合併で数神村も東又村に属することとなる。「数」と「神」の合成地名のためなじみも薄く、地元で数神と呼ぶ人は少なく、今でも行政区は明治9年以前のままである。

 数家は、黒石川、与津地川、八千数川を集め堆積した東又台地の末端のくびれに位置するところ。その地形からスカ(洲処)説もすてがたいが、ここは春日(カズガ)や明日香(アスカ)の音韻に関心が寄ってしまう。神野々の地名や、奈路を越える遠山の景観など「霞立つ春日の里」にふさわしくカスカの転訛でないかと考えてしまう。 

かたさか(片坂)【峰ノ上地区と黒潮町の境となる坂、郡境】

 四万十町と幡多郡黒潮町の境となる急坂。藩政期以来高知城下と幡多を結ぶ中村街道で、商人、役人、旅人、遍路と往来は多い。土佐藩の刑罰の一つに追放刑があり『片坂限り西』がある。黒潮町側から片坂を上がると難儀な急坂ではあるが峰ノ上まで上りつめると窪川側にはこれというくだり坂がない窪川台地の平坦地、まさに片坂であることが由来だろう。

 詳しくは片岡記者の高知新聞コラム「土佐地名往来(No244:2008年3月11日付)」を読んでいただきたい。

 真稔著の最古遍路ガイド『四国徧禮道指南(1687)』には「峰ノ上村、片坂を下って、市野瀬村」。歩く記憶装置・松浦武四郎が17歳の四国遍路記『四国遍路道中雑記(1834)』には「峰のうへ村越而かた坂下りて一ノ瀬村」とある。

 土佐の旅人・川村與惣太が峰ノ上で詠んだ歌が「越て行くをち方人の跡見へて 折敷のこす峰の椎柴」

 片坂は、いろんな旅日記に書かれる程、記憶に残る難儀な坂、不思議な坂だ。

かつらだに(桂谷)【芳川】 

 

かどた(カドタ・門田)【奈路、大正、打井川、市ノ又、大正中津川、木屋ヶ内】

 門松、門出、門明、門割など門を字を当てた用語は多い。門は封建的な「家」制度をイメージする。

 中世土豪や豪農、旧家の屋敷地前面にある田畑。高知県に多く、地検帳では上田が多い。飢饉に対応するため早稲を多く植え、地区の惣田として利用されたという。免田の一種でモンデンともいう。村落における「門田」は、中世の村落の構成と機能を理解するうえで重要な地名の一つとなる。 地形地名のカドタ(角・隅・端の田)もあるので現地で確認する必要がある。

 高知県下に「門田」小字が66か所。

かなわ(金輪)【】  

   伊与木定『上山郷のいろいろかいろ掻き厚め記』に大正中津川御留山の「金輪木の畝」の記述がある。松の搬出にそのまま木場落しをすると材が割れるため丸太の両端木口に金輪を作ってはめ込む。鉄やフイゴを持ち込み現場で鍛冶をやったという。

 高知県下の奥山に「金輪松」5、「金輪木」4、「金輪畝」2か所など、山仕事の一場面が高知県下の奥山に15か所の地名を刻む。

 

かにごえ(蟹越)【】  

  桂井和雄『土佐の地名』は高知市の山間に数か所ある”蟹越”について「なぜこんな特異な呼び名が生れたのか、その命名動機が興味になる」として、鳥越と同じように、谷川の赤ガニたちが笹中の湿地を這い上り、やがて反対の谷側に下りるのを見て思いついた」とあるが、横歩きで通らなければならないほど狭い峠道の意ではないか。

 

かねとこいし(金床石)【】  

  柳田国男『地名の研究』は「久しく東西の各府県にわたってタタラという地名があって、とりわけ山中に多いことを注意していた」と述べる。良質な鉄鋼生産には「一に砂鉄、二に木山(炭)、三に釜土、四に村下(製鉄技術者)」といわれる。

 山国高知には「タタラ」小字がない。では何と呼ぶか。柳田は『葬送習俗辞典』で「ホドの語の用法は地方によって差がある。噴火口のみを、或いは鍛冶の炉のみを、また炉の中央の火のある所のみを、ホドと謂う地方がある」と述べる。県内にタタラ小字はないが「ホド」小字なら200か所近くある。ホトは火・処と読め、ホトノ・ホトノ谷・ホトノサコは地検帳にもある中世以前の地名だ。高知の伝統産業として「土佐打ち刃物」がある。通産省の伝統工芸指定ヒアリングで「鉄の調達の確認」が求められ高知県下を調査した。結果、四万十市平野・金ヶ浜の砂鉄が供給源と考察した。高校のとき、ここで泳いだが確かに赤サビ色したものがあった。地検帳にも「カ子ノ浜」とある。

 高知県下に「金」小字が60か所あるが、「金山」17、「金屋」11、「金子」9、「金床石」9か所。高知に金山があったとは聞かないが「金鑿場(かねほりば/佐川町丙)」「黄金山(大豊町和田)」「金ノツル(越知町越知)」の小字もある。

 

かみあり(神有)【仁井田地区の集落・行政区。江戸時代の郷村・神有村】

 長宗我部地検帳にカメアリ村・カメアリ谷村、土佐州郡志に神有谷(村)・神有山とある。五社(仁井田神社、今の高岡神社)は三年に一度閏年に御神輿を船に乗せ縁故地である浦戸まで御神幸が行われた。「五社の神輿をここに止めて海上の平安を祈った。それで神集う、神在す-という意から起こった地名」と郷土史家の辻重憲氏は述べる(史談くぼかわ第5号)。神社明細帳の由緒にも同じように古老の云い伝えとして書かれている。地検帳では「カメアリ」とあるが検地役人の聞き取り間違いによる誤記載か不明である。

 平成の合併で香美郡の名称はなくなったが、古来、延喜式では土佐國香美郡は「カカミ」と称していた。カミと短縮されたがもとは「カカミ(鏡)」の意である。信州・上高地も由来には「神降地」とあるように、カミの音韻は当てた漢字の神、上、香美だけでなくカメ(亀・甕)の転訛も考えられることから読みとくには難解である。

 「亀有」と言えば漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が有名であるが、このカメアリ、中世は亀無・亀梨であったが無を嫌って亀有にしたという。もとは「カメナシ(瓶成)」で瓶の製造地をいったものであろう(日本地名語源辞典)。梨ノ木を「アリノ木」と命名するのと同じである。

 現在の神有は、神有上と神有下の二つの集落からなる。四万十通信(2017.5月号)『ぶら~り散策』では「地検帳には、カメアリ村、カメアリ谷村、六反タ村、野田村、鉾ノ谷村の5村を併せて神有村」としているが、このうち六反タ村は六反地村の枝村と思われるが現在の字に該当する(比定される)地名はない。

かみず(上頭)【大正】

 

かみた(神田)【】 

 神社の祭礼費用に充てられる神田は多く県内の小字での多い順は、神田172の他、餅田22・彼岸田16・神楽田15・油田13・菰田11・蒔田11・修理田10など。

 廣江清『長宗我部地検帳の神々』は長宗我部地検帳に記されたホノギや脇書きから神社の年中行事、それに充てられる神田の考察を行っている。長宗我部地検帳の脇書きに記された粥田・舞射田・マト田なども説明する。

 また、神社名を冠した神田は77か所。春日田が一番多く17か所。続いて伊勢田9、エビス田7、八幡田6、白皇田5、天神田4、妙見田4など。県下に春日神社は38社と少ないが春日田は多く、八幡神社が300社以上あるのに八幡田は意外と少ない。河内神社は高知の代名詞のような神社で212社あるが、河内神田は1か所(佐川町西山組字川内神田)だけだ。

 

かみやしき(上屋敷)【】

長宗我部地検帳等の検地における宅地(屋敷地)の等級を上・中・下に区分した。

 

かめ(亀)【】 

 高知県内の小字に「亀」190か所、「鶴」66か所に比べ多い(亀谷31、亀ノ甲18、亀尻8、亀ヶ森8、亀石8)。四万十町大正の亀ノ森は四万十川の蛇行残丘を見立てたもの。熊野本宮大社が油戸(亀は尻から油をだす)に鎮座するように、上山郷熊野神社も亀の尻に鎮座する。神宮寺は宝亀山長楽寺。

 山本ひろ子『変成譜』に「亀が海中の仙郷=蓬莱山を背負っているという中国発祥の神仙思想の影響による。亀は尾から油を出すので御在所(熊野本宮大社)を”油戸”という」とある。四万十町大正の熊野神社も「亀の森」のしっぽ(梼原川と四万十川の合流点)に鎮座する。境内の神宮寺も宝亀山長楽寺だ。38番札所金剛福寺に「亀石・亀呼石」の足摺七不思議。この寺は補陀落渡海で有名だが、中世の熊野や土佐ではあの世への往生を願い大海原に舟を出したという。初盆の精霊流しをするのも補陀落渡海の儀式だろう。竜宮城と亀も。寺には権現堂(熊野権現)がある。熊野信仰と亀は関係が深い。

 

がやのき(榧の木)【与津地地区の集落・行政区】

 

からたにやま(唐谷山)【昭和△浦越/標高607.9m】

 

からす(烏)【古城地区の旧大字名】

 長宗我部地検帳には十河内烏村(318筆)として検地されている中世以前からの地名。枝村として小城村(19筆)がある。

 昭和32年(1957)8月1日、幡多郡郡昭和村、十川村が合併し新設「十和村」となった。合併調整に合わせて大字の名称を「烏」から「古城」に改めた(同じく昭和村の黒川を里川、四手を昭和、細々を河内、大野を十川に改めた)。

 徳弘勝は十和村の地名を解説した『ふる里の地名』の誌上で”烏”について「山里の地形方言ーに土佐山村で岩がちな地形をガンマク。ユワガラ。広島でガラジ(石地〉といい、淡路島では、カラス(石原〉というらしい」と記述している(p79)。また、烏村の説明の段では、カラスの語源について「涸る・ス(栖)だったように考える」と述べ「香美郡野市町の烏川は雨があれば流れ、なければ水のない涸るス(栖)川だったと土地ではいっている」と野市の烏川の例を挙げている(p99)。

 『地名用語語源辞典』でも「からす(烏。鴉、唐州、香良洲)①カラ(涸)・ス(州)②鳥類カラス科の鳥にちなむか」、「がらす①小石の土地。石原[方言]淡路島。ガラ・ス(接尾語)」とある。

 「カラ」はガラ、ゴロ、カーラ、ゴーラは石のごろごろした形状の川・川原・平地をさし水の乏しい痩せ地や人の住めない土地を想起する。カラト、カロウトも類似した意味を持つと考える。「ス」は一般的には州で土砂が堆積して水面上に現れた所であろうが、巣や栖で住む所に通じることから場所を示す接尾語とも考える。

 また、カラスは植物の接頭語として使い、人間が食べられないものとして区別する場合が多い。カラスイチゴ・カラスウリ。

 長沢川の支流・烏川を流域とするこの地であるが、山深い狭隘な地に流れる小谷であり河原や涸れた川から命名される地形ではないようだ。

 昭和32年(1957)の昭和の合併時に合わせて大字名称を烏(からす)から古城(こじょう)に変更をしたのだが『高知県市町村合併史』には変更の経緯を示す記録はない。この合併を機に、黒川が里川に、四手が昭和に、細々が河内に、大野が十川に変更されている。

 旧村名を残そうとした意図の表れが四手を昭和に、大野を十川にとなったのだろうが、中世以来の地名である大野や四手の地名を消した過ちには変わりはない。烏や黒川は、その漢字が表す負のイメージを払しょくしたいという願いであったろうが、烏にはどのような意味があるのか検証する必要がある。

 烏(からす)を英語ではクロウ(crow)とレイヴン(RAVEN)に分かれる。もちろん色名としては黒のこと。ところがもっと古く、1600年頃からレイヴンという黒の色名が知られていて、こちらは大型の渡り鳥のことをいう。漢字で鴉と書くのがレイヴンのことらしい。烏はありふれた鳥だが、黒い姿はどうしても不気味に思われるようで、色々な民族伝説で予兆を告げる鳥とされ、西洋では不幸の前兆とされているようだ(『色の名前』p266)

 日本での烏は日本サッカー代表のエンブレムの「八咫烏」が有名である。神武天皇を熊野から橿原まで道案内した三本足の烏は熊野のシンボルでもある。熊野神社の御師が全国を廻って授ける牛王宝印にはカラスが描かれているが、水先案内としての烏のチカラを信仰したものだろう。三本の足は朝日と昼の光、夕日を表わし、行き先を照らし勝利へ導く象徴としてエンブレムに採用された。上山郷の郷社は熊野神社であるから烏は中世以前から関係があり、地名にもつけられたのだろうか。神がキジやハトでなくカラスが道案内役として指名されたのはカラスが賢い鳥として当時から評価されていたからだという。

 韓国では「反哺鳥(ハンボチョ)」あるいわ「孝親道」と言って、カラスが大人になったら老いた親に食べ物を与える習性から、孝行心の深い鳥と称えられることもあった。新羅の神話「延鳥郎細鳥女(ヨノランセオニョ)」ではカラスを太陽の象徴としていた。中国でも太陽の精(吉鳥)として描かれている。

 それが時代を経るにしたがって、死肉に群がる鳥、留鳥であることから農業生産物を餌とする一番の害鳥になったり、電柱に巣を作り停電の元凶となったり、夕暮れには不気味な群がりとなり糞害や鳴き声の騒音を引き起こすなどなどマイナスのイメージから「不幸を呼ぶ鳥」とされるようになったと言われています(『カラス学のすすめ』p14)。

 カラスは童謡『七つの子(作詞:野口雨情)』、『夕焼け小焼け(作詞:草川信)』に登場する。かわいい子は夕方になったらお家に帰るのよと促すこの二つの童謡は、八咫烏と同じ役割で、いつも人との暮らしに寄り添う鳥としていい部類の評価となっている。

 一般的に言われるカラスは、スズメ目カラス科に25属の区分がありその一つがカラス属で46種のカラスがいるそうです。日本で見られるカラスは5種あり、身近なカラスは「ハシブトガラス」と「ハシボソガラス」の2種。

ハシブトガラス:クチバシが大きく頭が丸い特徴がある。大都市ではほとんどがハシブトガラス。「カーカー」と澄んだ鳴き声

ハシボゾガラス:ハシブトガラスに比べ一周り小さい。クチバシは細い。一般的に郊外の農村部に棲息。「ガーガー」と鳴く

 烏(カラス)の字をあてる地名は四万十町内に次の字がある。金上野の字・烏田も長宗我部地検帳を見れば「カラステ道懸テ二ケ所」「カラステノ谷」とある。

烏田谷(金上野)、烏松(希ノ川)、烏田(大井川)、カラスデ(古城)、烏手(大字) 

 高知県内では

烏ガ森(安田町東島)、カラスカナロ(香美市香北町西川)、カラスガモリ(香美市香北町韮生野)、カラスノトマリ(香美市物部町黒代)、カラスドマリ(香美市物部町楮佐古)、カラスヲ(大豊町黒石)、烏田(いの町枝川)、烏出(仁淀川町別枝)、カラスイシ(仁淀川町橘谷)、カラスノトマリ(仁淀川町土居甲・北浦・岩丸・岩柄・池川大渡・大西)、カラス峠(越知町山室)、カラスガタヲ(越知町山室)、烏ヶ森(日高村下分)、鴉ガ泊り(土佐市永野)、鴉ガ芝(土佐市積善寺)、中烏森(津野町新土居)、烏出川(津野町の大字)、鴉巣越(梼原町飯母)、カラストマリ(四万十市小西ノ川)、カラスノト山(四万十市西土佐半家)、烏坂本(四万十市西土佐津野川)、虎杖カラス(宿毛市和田)、カラスデン(宿毛市橋上町橋上)、カラス谷(三原村広野)、カラス丸山(土佐清水市下ノ加江)

※カラスノトマリ:高知県高岡郡には茅屋根の棟に跨がせる藁の鞍をウマノリ、その上に渡す竹をカラストマリという。家の棟に烏のとまるのを忌み嫌ったもの。仕組みは地方により多様にある(綜合日本民俗語彙)。

 全国的にも「烏」地名は多く、烏川、烏森、烏帽子などが多く分布する。

 

からすく(カラスク。転訛してカラスキ・カラスデ・カラスデン)【下道/烏田(金上野・大井川)、カラスデ(烏手・古城)】

 カラスクの字名が旧下道分校跡の字「堂ノ畝」の上隣にある。長宗我部地検帳にも記される中世以前の地名である。カラ・スクの音節が自然であるが、カラス(烏)の地名も多いことからカラス・クとも読めるが1音のクの説明が不自然である。辞典にも記載されない不思議な地名であり、現地での確認が必要だ。

 日本民俗文化体系⑭(p23・p96)に「わが国の牛馬耕の歴史研究にとって注目すべき資料の発見の一つが、香川県坂出市・下川津遺跡における7世紀代の犂の発見である。犂(すき)が7世紀代に四国の讃岐で既に使用されていたということは、今昔物語集巻26に現れる土佐の南西海岸における『辛鋤(からすき・犂)』の普及を裏付けるものであり、その後における西日本の犂の発達普及の源流の一端をうかがうことができる好資料である」と書かれてある。カラスキ(辛鋤・犂)のカ音の転訛も考えられる。

 古城の改称前の「烏」や大正の「烏手」など熊野信仰の八咫烏かと思っていたが、『辛鋤(からすき・犂)』の転訛も考えられる。

 四万十町内に「カラスデン(烏田/金上野)」「カラスダ(烏田/大井川)」「カラスデ(古城)」とカラスとタ(デン)の音節による地名がある。辛鋤(カラスキ)+田(タ・デン)が転訛して「カラスダ(カラスデン・カラスデ)となったように感じるがどうだろうか。

 

かりや(仮屋)【】 

 仮屋は「祭礼のとき、神輿を本社から移し、仮に安置しておく建物。御旅所」の意味もあり、高知県下でも仮谷・借家・仮家の小字が多い。どの御旅所も平時は何もない空間で、ハレの祭事に利用される。「空き地」は無駄な空間ではなく、時空を超えた創造空間だ。

 大豊町立川下名に「仮屋」。地検帳では「借屋村」とあり、都から王朝ノ公卿五人が流され、その慰めに仮屋を建てたことに由来。香南市徳王子の「借屋村」は若一王子宮の勧請時に仮宮を立てた由来。

 カリヤ小字は県東部に多い。借・仮の意味とともに焼畑の「刈」、狩猟の「狩」もあり漢字判断は危険。

 カリヤについて『綜合日本民俗語彙』は「①東北のコミセ、新潟のガンギに相当する軒下の道路②三重県では産小屋③和歌山では新仏の棚④徳島では年神祭の小屋」とある。地検帳にも多く比定されているカリヤ地名は宗教的祭礼ゆえに伝承された地名なのだろうか?四万十町宮内の仮屋は五社の仮宮なのだ。

 

かろおと(カラヲト・唐音・家籠戸)【金上野・七里(本在家)】

 全国に分布するカロウト地名。編集子が思うに、中世、村界の峠での葬制の名残りではないか。桂井和雄氏は「峠のように見えながら、勾配のきわめてゆるやかな切り通しの道であることが共通していた。大きな墓地穴の底を連想させた。」という。 続きは→「クリック」

 

かわ(川)【】 

中本正智『日本語の系譜』は、「アイヌ語の中に、沢、川、河を表すナイnayとペツpetがある。ナイは沢や谷川などの小さな川を表し、ペツは比較的に大きな普通の川を表す。(略)ナイが南の琉球に、しかも最果ての八重山に残っていることはあまり知られていない」として与那国島のソナイ(祖納)集落・ヒナイ(比川)集落や西表島のソナイ(祖納)集落・ヒナイ川の事例をあげる。また、朝鮮半島の川を表す「江(カンkaŋ)」とともに本来の語として「ネne」があり、このネはナイなどの連母音の部分が融合し、ネに発達したと説明する。「つまり、ナイはアイヌ語特有の語ではなく南の与那国のほか全国の地域で独自の発達をして生き延びていたのである」として、高知の口屋内(四万十市西土佐)や穴内川の事例を示し「高知は、列島なかでも東北に劣らず古い層を残す地域であることを思えば、これらの地名に残るナイも古いものと見なければならない。」と述べる。

 『地名用語語源辞典』は「川」の語釈として「①河川。流れる川②泉。わき水③湧き水を溜めた井戸④井戸。掘り井戸⑤堀⑥池」と列記し「ヰが古く”川”を意味したのに対し、カハは日本各地で「井戸。掘。池」を表す用語として使われてきた。これはヰとカワの意味内容が転換したわけではなく、要するに古い時代とかある地方の日本人にとっては”水のある所”がすなわちカハでありヰであったはず。我々の祖先によっては”水そのもの”が重要なのである」と解説する。

 

  川の名前は時代とともに変遷する。例えば四万十川。地元(旧大正町)では「大川」という。全体の名称では「渡川」といった。昭和11年国土地理院地図では「仁井田川」と「梼原川」が合流した下流域に「四万十川(渡川)」だったが、昭和63年から本流全域が「四万十川(渡川)」。明治には「上山川」もあった。

 「川」をコウと読むところが県内に物部や高知市鏡など結構ある。小字では読みがふられていないが、長宗我部地検帳のホノギでは漢字とカナの両方がでてくる場合があり読みがわかる。

 

かわおく(川奥)【米奥地区の集落・行政区】

 

かわおくだに(川奥谷)【芳川地区の国有林野内】

 

かわうち・かわち・こうち(河内)【】 

 日本書記の渡来氏族・河内連は「加不至(かふち)、直(あたい)」と書かれている。『和名抄』も河内を「加不知(カフチ・コウチ)」と訓ませている。河内国がはじめかもしれないが全国に分布する地名で柳田国男『地名の研究』は「河内はカウチ、カハチ、カッチなどと発音して意味は常に所謂盆地則ち渓間の小平地を云ふ」とある。この河内が愛媛にも多い。河内国は大地名だが、全国の河内地名としては小地名が多い。

都丸十九一『地名のはなし』は「村はその下に多くの小組をもつ。”部落・小字・組”などは一般的で、ほかに地域的に特徴のあるものとしてコウチ・クルワ・ツボその他をあげる」とある。

千葉徳治『新・地名の研究』では村の最小単位集団の呼び方の一覧表をまとめ、そのなかにホノキとともにカワチが示されている。

『綜合日本民俗語彙』はカイト(垣内)について①全国の三分の二以上の地域に広く分布②ケエト・カイチ・カイツ・カイド・カキウチ・カキナイ・カクチ・コーチなどと呼ばれ、様々な宛字が使われる③村の小部落、部落の近傍一里の範囲をカイト、それより外がオクヤマ、水田の一区画、山間の未開地又は開発予定地などなど地方ごとの内容がある。総じて村の最小単位集団の呼び方の河内(カワチ)はカワウチと訓んでいる場合も多く、場所によってはコウチ・カイチ・カッチ・コチなどの読みもある。この読みは「垣内(カイト)」と概ね似ており、河内と垣内は同じ意味をもちつつ混交・転訛していったように思える。ただ「垣内」は開発地名であり集落の小区画地名・開発予定地が主な意味であり、「河内」は柳田の云う渓間の小平地で地形地名か。

 愛媛県の大字「河内」の読みでも、カワチのほかカワノウチ(内子町)、コウチ(新居浜市)がある。高知県の高知は、もと河内・河中で近世になり鏡川や江ノ口川の度重なる氾濫から高智に改めその後高知になったもの(氾濫すれば川の中ゆえに河中・河内)。この河内も「川内」となり「高知」「川ノ内」へと垣内と混交し読みも宛字も転訛し、地形地名か開発地名かも判定不能。

 山口県の「河内」ちめいについて、高橋文雄『続・山口県地名考』がある。「河内神・カワチガミ」の段で「山口市佐山の部落名にあるのをはじめ、県下に四五か所ある。河内神はコウチガミともいい、カワチとは「宅地、屋敷の内」のことで、つまり「屋敷神」のことをいうものが多いが、なかには「河内(コウチ)社」を祀った所のことも少なくない。河内社(河内神社)は、新しく土地を開いて人家ができるようになったとき、水の神さまとしてミズハメを祭神として勧請し、鎮守神としたものが多い関係から、この神社は峠や山地の中腹などの、比較的新しい時代(主に中世初期か)に開墾されたと思われる所にある。由宇町由宇、美東町赤、光市島田にある河内亀というのも河内神の訛ったもの。」とある。

 ちなみに、山口県の「河内神社」はgoogleマップや山口県神社庁hpでみても25社あり、列記してみる。

長門市油谷川尻

下関市豊田町大字稲見

下関市豊北町北宇賀

下関市豊田町大字大河内 ※河内社

下関市豊浦町大字宇賀 ※河内大明神神社

下関市菊川町大字道市

下関市阿内

山口市佐山佐山西

山口市鋳銭司

美祢市美東町綾木柿木原

周南市小畑花河原

周南市莇地

周南市鹿野上

下松市瀬戸

岩国市周東町西長野

岩国市周東町獺越

岩国市周東町三瀬川

岩国市美川町南桑

岩国市美和町下畑

岩国市美川町四馬神

岩国市本郷町波野

岩国市本郷町本谷

岩国市錦町大野 字宮ノ本

岩国市錦町大原

 

岩国市錦町宇佐郷

 

 岡本健児『土佐神道考古学』の河内神社考の章で、この河内を冠した河内神社を「土佐国一円の河内神社の総数は144社、県外には群馬県と愛媛県城川町の2社のみ。河内神社は土佐で生まれた独自の神社」と述べる。同氏の『十和村史』は「河内神社は河の神を祭る原始神道の流れを持つもの」と結論付ける。

 また、岡本健児は『神道考古学講座』で四国を担当し、河の神の祭りの遺跡の章で「河の神を対象にした原始神道期の祭祀遺跡は、不思議に南四国に集中して発見(略)南四国の四万十川の各支流沿岸、それも自然堤防上に発見され、四万十川沿岸には一か所の遺跡も発見されていない」とし、「洪水を恐れて河の神を祭ったものであろう」と具体の説明なしに結論づける。岡本健児は『十和村史』で「河内神社考(『土佐神道考古学』の河内神社考の章とほぼ同じ)」を執筆し「河内神社は河の神を祭ったものであり、本来は河神社と言っていたものと考えたい」と、四万十町戸川の棟札「奉再興河大明神宮壱社 文政四年(1821)」を根拠に述べる。単なる棟札の欠字(内)と思えるがどうだろう。戸川・河内神社には「河口大明神」の記述がある。

 河内神社は高知に多いが、『南路志』所収の「山横俗諺集」(③449)を読んでいたら、「當郡河内神社」の段を発見。「近江國高嶋郡水尾村(三尾村)猿田彦、高市郡(奈良南部)事代主、河内國河内郡平岡神、寿永頃近江諸士数多當國下向」など興味ある文字がある。岡本健児の「河の神」説だけではなさそうだ。

 高知県神社明細帳でひろったら合祭社・境内社含め200をこえる。岡本健児『土佐神道考古学』には「愛媛県に2社」とあるが、愛媛県神社庁を調べたら40社あった。愛媛県の「ノ内」小字207の分布と「河内」・「河内神社」との関連性について、Googleマップをつくってみた。

 何のエビデンスもないが、見あてとして、古代の伊予・河野一族と高知の関係性が深いように思える。一つは四万十町の五社(高岡神社)の創建(55番札所南光坊と37番札所岩本寺との類似性)、梼原町などの三島神社の創建、高岡郡越知町の名称など色々。神仏分離の明治以前は五社(高岡神社)が37番札所であった。この五社の勧請は六世紀ごろ伊予の豪族・越智玉澄といわれている。五社の本地仏は大通智勝仏で大三島神社の本地仏も大通智勝仏。五来重『四国遍路の寺』には「大三島のもとは、仁井田(四万十町)の五社だという伝承もある」とある。だれかに検証してもらいたいものだ。越智玉澄は伊予に復帰し河野一族の祖となった。その後も窪川台地の開拓(仁井田五人衆)や津野山開拓など河野家の子孫が土佐にきてその地を開拓をするとともに多くの三島神社(県内に29社)が創建されている。野島龍男「土佐と越智族1~20」『土佐史談143号~』を読めば越智一族が特に高知の中西部に歴史を刻んでいる。

→試諭

 越智一族が開拓豪族として土佐に入り三島神社を勧請。渓間の小平未開地を「〇〇ノ内」「〇〇ヶ市」として開拓を進める。その村に産土神「河内神社」を勧請する。河内神社は、開拓を先導する猿田彦神、水の神の罔象女命の両祭神が多い。相互の往来が地名・神社を伊予に伝播する。

 『日本国語大辞典』では「カハチ(川路)の意。大和に赴く、大和川の川筋に当たる国である故に、カハチ(川道)国と呼ばれた」とある。大和川は流路変更前で柏原市、八尾市、東大阪市と生駒の西側を北進し、上町台地の北端に向かう。また、淀川の内の意の「カハウチ」の変化した形もある。一方、『日本書記』には、朝鮮南部の「安羅の日本府の河内直」が新羅と計を通じた(欽明天皇二年七月条)とか、「河内連」が多くの渡来系氏族とともに連姓を賜った(天武天皇一〇年四月条)とかあり、朝鮮渡来系の氏族の由来も考えられる。「維新大国」大阪は、国のカタチをどう読み解くのだろう。

 

かわのうち(川ノ内)【江師地区の集落・行政区】

 『土佐史談85号(1955)』に土佐の「かいち」について瀧石登鯉氏が「集落地名である「カイト(垣内)」の地方的発音の相違で土佐では「かいち」になった。集落を意味する普通名詞で接頭に〇〇を付して固有名詞(地名)とした」と推論する。70年昔に提起したが誌上は無反応。丁度、香美市土佐山田町南部の小字図をみていたら「かわち」の転訛であろう「〇〇ノ内・〇〇ヶ内」や地割地名の「〇〇丸」が群分布していた。行政区画(町内会)の末端組織である班・組の区域だろ。旧香美郡域の南国市岩村・田村・三島・前浜にも多く分布する。「ノ内」の小字は県下700か所近くある。例えば、香美市土佐山田町松本(旧松本村・野川村ほか)のホノギに南籠ノ内・新籠ノ内とあるが現在の字名では”ノ内”が削られて南籠・新籠・野川となっている。これなど“ノ内”が集落地割を示す普通名詞であったことを示すものではないか。

 

かわひら(川平)【十和川口地区の集落・組】 

 

 

かわらけ(カワラケ)【ホノギ:カワラケヤ(中村)、カワラケテン(数神)】

 地検帳では「カワラケ」の付くホノギが2か所に見られる。一つは仁井田郷地検帳(刊本高岡郡下の2p75)に中村勝賀野之村の段に是ヨリ坂本谷として「カワラケヤ」とある。

カワラヤケ           源大夫居

一所 十六代 中ヤシキ   小野川分

 勝賀野の検地が終わって中村に入り「ホンテンミソ」「カワラケヤ」「ココミ」「ヒロオカ」「カウタ」「ヤスハノモトノハサ」「ク井ノモト」「トイシノモト」「アサキリ」小松ナロ」の順でホノギが続く。「コウタ」の脇書きに小野川ミョウタイ権現九月九日神田、加茂大明神九月廿ニ日神田とある。また「トイシノモト」「藤二良やしき」「アキキリ」のホノギから野鍛冶や炭焼きを想起させるし「ヤスハノモト(休場の本)」とあることから市生原や北ノ川へ向かう山越えの往来も盛んであったと思われる。ホノギから比定できる現在の字名に廣岡、トイシノ本、秋伐、小松ナロとあることから県道側から山手に向けて谷筋を上り下りして検地を進めたようだ。 

 二つ目は神之野村の段に「カワラケテン」とある(刊本高岡郡下の2p244)。

カワラケテン    天神カワラケテン    大良衛門作

一所 拾六代 下              西原分

 天神とは神之野村の産土神である遠山天神宮のことである。ホノギの脇書きを読めば「カワラケ」の祭事にあてる田ということだろう。

 南路志(刊本③p295)にもその鎮座地として「カハケランノ上」とかかれてある。古文書の写本や解読にあたって「ウ⇔ラ」「ケ⇔チ」と変化することはあることだ。神之野村は明治9年に数家村と合併し明治22年の合併前に数神村となっている。この数神の字一覧では「カワウケデン」、全図では「カワウチデン」となっている。位置的には現在も遠山天神社の下になる。 

 それでは二つの「カワラケ」が意味するものは何か。

 カワラケは素焼きの土器が一般的だが、長崎県では粘土質の畠を長崎県では「カワラケ」と呼ぶという(民俗地名語彙辞典)。高知県方言辞典では「かわらけぼぼ」女性性器の無毛症(香美市)とある。ボボは性器だからカワラケは無毛を意味することになる。無毛を意味するとするならばカワラケはカワラ+ケと音節を分けると河原+処・草木となる。歴史的に見れば河原は耕不能地として無主の荒れ地であり、その地に田畑の苦役から逃れた漂泊の民が定住するところとなり、多くの職人集団や芸能集団が集まりやがて市(イチ)に発展したところである。全国の河原町や瓦町がその様子を今も伝えている。

 日本の年中行事に「川原飯」がある。東海地方では盆行事として、子どもたちが川原に集まり小屋を掛けその中で川流しの供え物などを材料にして煮炊きして食べる習俗があり「川原おじや」「カワラケ・メシ」と呼ばれたという。 

 このことから、二つを読み解くと、中村のホノギ「カワラケヤ」は野窯を営む者の屋敷地で、神之野村のホノギ「カラケテン」は盆行事の「カワラケ」を行うための費用にあてた田「カワラケテン」である。と今の段階でもって勝手読みとなった。

 

かんす(カンス・茶釜)

 高知市五台山に「かんすころばし」の伝承がある。カンス(茶釜)に手足のついた化け物で、子どもが泣いていたら「かんすころばしがくる」と脅かしたという。昔話「ぶんぶく茶釜」の変化だろうか。「かんすころばし」や「テギノガエシ」のように山道を転がって来る妖怪は多いが、とっと昔、徳島で「ツチノコ」が有名になった。ツチノコも「槌転ばし」の一つなのか。狸や狼や狐の化身、猫神や犬神など人間より動物が上位と古代の人は思っていたのではないか。特に蛇、ツチノコもそうなんだろう。 

 

(20251111現在)