宮内

みやうち


20150608初

20180528胡

【沿革】

 長宗我部地検帳に「宮内村」とあり枝村として柳ノ川、払川がある。

 その後の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)ともに「宮内村」と書かれる。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、窪川郷上番の高岡郡窪川村・西原村・若井村峯ノ上村金上野村見付村大奈路村根元原村神ノ西村・大向村・高野村・根々崎村・若井川村、窪川郷下番の宮内村・仕出原村・大井野村・口神ノ川村・中神ノ川村・奥神ノ川村・檜生原村・寺野村・川口村・天ノ川村・秋丸村・野地村・家地川村、仁井田郷の東川角村西川角村、これら28か村が合併し新設「窪川村」が発足し、宮内村は大字となった。

 大正15年(1926)2月11日、窪川村は、町制を施行し「窪川町」となった。

 昭和23年(1948)4月1日、幡多郡大正町の一部(折合)を編入した。

 昭和30年(1955)1月5日、高岡郡窪川町、東又村、興津村、松葉川村、仁井田村が合併し新設「窪川町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。

 地区内は、宮内1・宮内2・払川の3つの行政区にわかれている。宮内1は上組・中組・下組の3組に、宮内2は上班・下班の2班に、払川は1つの班・組編成となっている。  

 

【地誌】

 旧窪川町の中央部北寄り。仁井田川との合流点、南流する四万十川右岸に開けた平地。太平洋戦争中は飛行場もあったほど広い農地が広がる。主に農業地域。集落は西部山麓に展開する。山麓を県道322号松原窪川線が通る。三島神社・高岡神社・白皇神社がある。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央、南流する四万十川の右岸が宮内地区) 

 

【地名の由来】

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 荒神ノ元、池渕ノ内石神ノ元一貫田今大神田、今大神々主屋式、今宮土居屋敷今宮才能祝イ田ン右近次郎屋敷後口田、後山ノ内、後山ノ内障子ケ谷、渦ジリウスツル井、ウルシバタ、ウルシバラ、宇和本モ切レ、大切レノ内、大田屋敷大奈路、大平山、大平山ノ内、大宮神主屋式大宮田岡崎ノ内沖屋式、開放、神楽田ノ内、影ノ平数生田ン、上ミ影ノ平ノ内、神ノソネ、上ミ丸田、仮谷、貫五郎、北谷山、北谷山ノ内、黒原、黒原山、源氏山、源幣谷源幣山ノ内、高畔、孝和ケ谷山、九日田ン、小太夫畑、五反畑、古苗代、五輪ケ平、才野田、西原桟敷坂出屋敷左近次郎屋敷笹ノ才能五月田、サワイダ、地獄ケ瀬ノ内、清水ケ窪、下モ屋敷正月田白皇神主前白皇神主田、白皇山、白皇山ノ内、志和桟敷新ガイ神道、杉ケ久ホ、杉ノ窪ノ内、助吾郎屋式、セキノモトノ内、説得田ン善浄寺、善浄山、添水ノ窪、ソリタノ内頼ム田ン、田渕畑、付キ合イ、柘ケ垣、傳之丞屋式、トウホンダ、燈明田ン、兎生山、兎生山ノ内、トウラウデンノ内、鳥居ノ奈路中石原七日田ン、仁井屋敷、西轟山、二中屋敷、登尾山、登り尾山ノ内ハザコ、長谷山、長谷山ノ内、馬附田、針木窪、東轟山、東轟山ノ内、彼岸田、日ノ谷山、日ノ宮田、ヒヤウタンダノ内、平曽、藤井山、札ケツジ、札ヶツジ山、フツ井川山、フナイタゲクボ、馬場枋ノ木谷山、前澤、又三郎田松葉、三島ノ元、宮多田、宮ノ奥、宮ノ窪、元大安寺、八木屋敷、屋敷田、八代地、柳ノ川セイ元、柳ノ川山、山ノ下、弓揚ノ元、弓場ノ元、除ケ添ノ内、芳ケ谷山、四時田ン、レキノ元、渡リ上リ【135】

 

 

(字一覧整理NO.順 宮内p26~29)

土地台帳の調査は、四万十川右岸の上流部の字「日ノ宮田」から始まり、仕出原との境まで来ると、払川に進む。

 1日ノ宮田、2日ノ谷山、3弓場ノ元、4宮多田、5レキノ元、6上ミ丸田、7頼ム田ン、8西原桟敷、9付キ合イ、10弓揚ノ元、11屋敷田、12源氏山、13ウスツル井、14前澤、15日ノ宮田(再掲)、16善浄寺、17坂出屋敷、20九日田ン、21大宮田、22説得田ン、23燈明田ン、24山ノ下、25三島ノ元、26一貫田、27古苗代、28右近次郎屋敷、29左近次郎屋敷、30石神ノ元、31助吾郎屋式、32元大安寺、34田渕畑、35後口田、36登尾山、37大宮神主屋式、39小太夫畑、40五反畑、41荒神ノ元、42傳之丞屋式、45又三郎田、46今大神々主屋式、48五月田、49針木窪、50正月田、51清水ケ窪、52正月田ン(再掲)、53笹ノ才能、54神ノ埇(カミノソネ)、55今宮才能、56仮谷(屋)、57祝イ田ン、58七日田ン、60志和桟敷、61馬場、62宮ノ窪、63渡リ上リ、64松葉、65柘ケ垣(ツゲガカキ)、66ハザコ、67貫五郎、68高畔、69今宮土居屋敷、70数生田ン、71芳ケ谷山、72影ノ平、73白皇山ノ内、74鳥居ノ奈路、75四時田ン、76源幣山ノ内、77白皇神主前、78下モ屋敷、79中石原、80白皇神主田、81沖屋式、82宇和本モ切レ、83神道、84北谷山ノ内、85長谷山ノ内、86平曽(ヒラソ)、87大奈路、88黒原、89大平山ノ内、90兎生山ノ内、91馬附田(バフダ)、92札ケ辻(フダガツジ)、95サワイダ、96ウルシバタ、97トウホンダ、98セキノモトノ内、99上ミ影ノ平ノ内、100神楽田ノ内、101大田屋敷、102ウルシバラ、103柳ノ川セイ元、104宮ノ奥、105藤井山、106ソリタノ内、107ヒヤウタンダノ内、108渦尻(ウズジリ)、109八代地、110後山ノ内、111後山ノ内障子ケ谷、113大切レノ内、114八木屋敷、115彼岸田、116フナイタゲクボ、117地獄ケ瀬ノ内、118杉ケ久ホ、119杉ノ窪ノ内、120添水ノ窪、121池渕ノ内、122トウラウデンノ内、123除ケ添ノ内、124才野田、125今大神田、126今大神屋敷、127仁井屋敷、128岡崎ノ内、129新ガイ、130登り尾山ノ内、131二中屋敷(ニチュウヤシキ)、132フツ井川山、133枋ノ木谷山、135善浄山、136登り尾山、138白皇山、139源幣谷、140五輪ケ平、141北谷山、142長谷山、143黒原山、144東轟山、145西轟山、146大平山、147兎生山、148札ヶ辻山、149孝和ケ谷山、153開放、154柳ノ川山、155仮谷、157東轟山ノ内

※「75四時田ン」は字一覧では「よじでん」とルビを振っているが、比定されるホノギは「シトキテン」とある

※「70数生田ン」は字一覧では「かずおでん」とルビを振っているが、ホノギの「修正田」が転訛して、スウセイデンとなり数生田の漢字を充てたのではないか

 

【ホノギ】宮内村/枝村:柳之川・払川之村

〇仁井田之郷地検帳 五(高岡郡下の2/検地日:天正17年3月13日)

検地は、仕出原を終えて、宮内の払川の支流柳ノ川から始まる。

 ▼宮内村之内柳之川之谷(p511~512) ※柳ノ川の上流部は仕出原区域。大字「仕出原」で掲載

 シモムカイ谷、ウルシハラ、大タ、高樋ノナロ、クタシハ、ハサコ、ウツケカキ、トリコエ、コエカトノモト、庵ノヤシキ

※ウルシハラは宮内と仕出原のどちらにもある字名

※ハサコは宮内分の字「ハサコ」に比定 

 ▽同村柳ノ川テクチ(p512~514)

 アンヤシキ、白王ノマエ、ホウスタ、サウキヤウタ、渡アカリ松葉、二升マキタ、ヤシキノマエ、今宮土居ヤシキ、東ヤシキ、ソリタ、榎ノ木ノクホ、修正テン、神原テン、カミクホ、岩本タ、ウ子サキ、若松タ

 (3月15日)

 ▼同村之内払川之村(p514~517)

 カケノヒラ、沢ミソ、五良四良作、中石原ミソ、コエカト、札幣テン、トウホンタ、大良九良作、アシ川口、クシ地ホキ、トトロクチ、大奈路新開ヒラソ、五良頭タ、シントウ、樋ノ口、新兵衛タ、畠タ、岡ノ庵タ、ヲキヤシキ 

 

 ヲモキレ、神願ヤシキ、中マヤシキ、ヲキヤシキヲキタ白王神主田、中井、名本田、名本ヤシキ、中ヤシキ、シモヤシキ、新ヒラキ、鳥居ノナロ、エイチタ、シラヲウクチ

 

 ▼爰ヨリ玄命谷のセイモトヨリ付(p517)

 ケンメイ谷シトキテン、ヒノクチ、ミソタ、カケノヒラ修正テン

※ホノギ「修正テン」は転訛して字「数生田」となったのか

 

 爰ヨリ又宮内之本村(p518~530)

 渡アカリ、ヨウシメ原、七日日テン、ハシツメ、馬場カシラ、フシヤテン、ハハソイ馬場ノ東ワキ、コサイノヲ、ハハ、ヨテン、道ノモト、トウトウ、茶アンノモト、神願タ、マツノモト、クロハナ、マツノクホ、クロハサ、札幣テン、渡アカリ中イシ原、フマテン、イハイテン、ツ井ハセ

 

 ツコモテン、七日日テン、ワカイフン、シハサシキヒカンテン、ツコモテン、霜月テン、ササノサイノウ、杢兵衛サイノウ、子子サキサイノウ、今宮サイノウ、龍王サイノウ、カキソエ、正月テン、クモテン、ヒシリサイノウ、大ミナクチ、ホウシヤシキ、カリヤ、牛クワサキ、アツキヲカ、左衛門次良タ、小大夫、コマタ、シヤウコウタ、ミタケ、野タ、ソカテン、五月テン聖宮、ヨテン、ハリキノクホ、ツチハシ、ヲモキレ、岡サキ今大神テン、ヲモ井テクチ、島タ柿ノ木タ、古ヤシキ、惣衛門タ、又三良タ、道善タ、サカタ、アイ、ホソヲサ、大宮神主土居ヤシキ、カジロウ、岡門前、岡庵寺中

 

 地千アン、シヤウキンタ、ウシロタ、西ツタ、次良衛門タ、マトハ、キヤウテン、七日ヒテン、跡母タ、ヌイハリテン、三反タ、栗ノ木谷、一貫タ次良衛門タ西原タ大田コシキカテンウシロタ、チヤウハンタ、マチハフン、道法ヤシキ、ミソタ、ミヤウシヤウタ、五良タ、左兵衛分、古苗代、シキフタ、九良兵衛タ、ナカレ川、ハシノモト、ホソヲサ、田中ノマエ、カラスタ、ヒラソ、シンホチツクリ、大宮タ、シンボチ作、ウワキレ、道法タ、ノホリヲクチ、千シヤウフツノマエ、ナミ木、セツトクテントウミヤウテン、ヲハシヤウタ、サコタ、ヤシキ、竹ノソト、八合マキ、ウスツル井、ヲイヤタ、ウツ井川、的場タ、ホソヲサ、丸タ、平兵衛タ、コエイチ、七日ヒテン、シヤウチクチ、藤六タ、孫六タ、テンシヤウアン寺中、スカウタヤシキ、東ヤシキタ、ウナカシテン、札幣テン

 

 ▼同村カミノハシシフテウチヨリ付(p530~536)

 ホウノ木ノモト新開、メクラタ、地コクカ瀬、ハイノセマチ、ウツシリ、サカミタ、木ノ下新開、西原サシキ、ハラ、ホリノモト新開、タノムテンヲモキレ、在京タ、ヲンコクテン、南キトクチ、新開ヤシキ、坊主タ、道ノモト、カミ丸タ、ミコタ、ホソヲサ、弓場ノ本、中ヤシキ、右近兵衛タ、シヤウチクチ、大工ヤシキ、藤衛門畠、新三良ヤシキ、左衛門次良ヤシキ、大セマチ、ヒカンテン、丸タ、ヲトタ、中新開、クホ、左近兵衛サイノウ、ツホクリ、永タ、カタシノ木、付合二中ヤシキ、新屋ヤシキ、的場畠、サカイテヤシキ、アセチヤシキ、森宮神主ヤシキ、タ子畠、西畠、細工ヤ畠、左近大夫畠、左兵衛畠、ヲキヤシキ石神ノ本、シウミ畠、カウ辺ヤシキ、馬四良畠、法泉畠、桜ノタン、左近次良ヤシキ、シモヤシキ、ウラヤシキ、西ヤシキ、サカ畠、ミソタ、ウシロヤシキ、カキソエ、ホリタ、田フチ畠、中野ヤシキ、馬アライテン、ハシノ本、中野キトクチ、サトウ畠、ハシノ本

 

 ▼同宮内村(p536~540)

 カモン作、兵衛三良ヤシキ、ハシノモト、コモテン、タフチヤシキ、彦左衛門ヤシキ、道善畠、九良兵衛ヤシキ、左衛門次良畠、介衛門畠、池ノフチヤシキ、土橋ヤシキ、ツル井ノモト、源三良キトクチ、ヲトヤシキ、カキノ木ノ下、大夫ヤシキ、ミスミ畠、次良衛門畠、又三良ヤシキ、小太夫畠ユハノモト、氏神ノ下、キトクチ、ヒシリ畠、中宮ヤシキ、源次郎ヤシキ、アセチヤシキ、氏神ノシタ、次良衛門ヤシキ、エノ木ノ下、新屋ヤシキ、子子サキ畠、減左衛門ヤシキ、平兵衛畠、アソヒハ、中井ヤシキ、川フチ、川辺畠、ムクロウシヤシキ、介五良ヤシキ、レウノヤシキ、四良左衛門ヤシキ、大安寺寺中、五段畠、介三良ヤシキ、権三良畠、次良衛門畠、岩本畠、ツチハシサンハク、マトハ畠、五良四良ヤシキ、フロノタン、辻堂畠、ハリキノクホ、ハリキ、中瀬シミツクチ、コウノソ子

 

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【通称地名】

 

 

【山名】

山名(よみ/標高:)

 

【峠】

峠(地区△地区) ※注記

 

【河川・渓流】

柳ノ川(字/ホノギに「柳之川之谷」とある。)

源幣谷(字/ホノギに「玄明谷」)

シントウ谷(ホノギ/ホノギに「神道田」がある。)

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

 

【城址】

 

 

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

白皇神社/81しらおうじんじゃ/鎮座地:白皇山 ※村社(払川集落)

三島神社/83みしまじんじゃ/鎮座地:善淨山 ※村社(本村集落)

 


現地踏査の記録

■奥四万十山の暮らし調査団編 『土佐の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅰ-』(2018平成30年)

宮内(p32)

 四万十川右岸にあり、東部に南北に長い沖積地(宮内平野)がある水田地帯。弥生時代から集落があり、中世には西隣の仕出原村とともに仁井田庄に属し、金剛福寺(土佐清水市)領となった。中世末期には、高岡神社の別当職を金剛福寺・尊海法親王が務めるなど、同寺の影響を受け、神社が領有する「神田(しんでん)」 が広がっていた。その名残が「彼岸田」「五月田」などの小字に残る。戦国期には金剛福寺領(足摺分)のほか、仁井田五人衆の窪川氏、西原氏も土地を領有。江戸期には土佐藩家老・山内氏の知行地となった。

(一)『地検帳』に見る村落景観

1、集落

 天正17(1589)年の長宗我部氏による検地の台帳『地検帳』(仁井田郷地検帳)では、「栁之川之谷」「宮内村之内払川之村」「宮内本村」「宮内村カミノハシツフテウチ」が現在の大字(宮内村)に該当する。総面積は約44町、屋敷は76筆。高岡神社の5つの社の神主は、社のある仕出原村でなく、隣の「宮内村」にそれぞれ分かれて屋敷を構えている。

 「柳之川」は、柳之川の平野部への出口東側に「今宮土居ヤシキ」「東ヤシキ」など3軒。「払川之村」では、払川を少し入った山裾西側に「名本ヤシキ」「中ヤシキ」、東側に「シモヤシキ」「カケノヒラ」、谷奥に「ウワヒラソ」「シントウ谷ヤシキ」など9軒が散居的に点在。平野部に払川が出て来る場所では、川の東側に「カリヤ」「大宮神主土居ヤシキ」の2軒が離れて点在する。「宮内本村」は、ヤシキ地の地名残存率が極端に低く、屋敷の位置は判然としないが、「森宮神主ヤシキ」など山裾よりやや低い平野部と、「中宮ヤシキ」(未比定)など川岸付近の自然堤防上の2グループに分かれ多数の屋敷が点在していたものと推測される。川岸付近のグループでは、屋敷の間に畠が点在している様子がうかがえる。

 また、現在はない「岡庵」「テンシヤウアン(伝正庵)」「大安寺」の3寺が確認できる。小字「今宮土居屋式」に近い現在中世五輪塔が置かれている付近が「岡庵」、「大安寺」(禅宗・明治4年廃寺)は小字に残る「元大安寺」付近(通称地名は「テラチ」)、「伝正庵」は小字「善浄寺」付近の山裾にあったと推測する。

2、土地開発・水利

 仁井田郷地検帳からは、谷部の「払川」で戦国期に新田開発が活発化した状況が伺える。「カケノヒラミソ懸テ」「沢ミソ懸テ」「五郎四郎作ノ北溝懸テ」「札弊テンノ溝懸テ」「クシ地ホキの北道溝懸テ」「五良頭タ井ミソ懸テ」「樋ノ口井溝懸テ」「新兵衛タ溝懸テ」「ヲキヤシキ井溝懸」「名本田溝懸テ」など用水路の「溝」「井溝」の記述が非常に多い。さらに、「中石原ノ南新開」(下々田)、「太奈路新開溝懸テ」(下々田)、「岡ノ庵タノ下川フチ新開」(下田)、「ミソシタ新ヒラキ」(下田)など新たに開いた田が散見する。小規模だが、谷部で払川水系の水を引いた井溝の開削による新田開発が進んだことが伺える 。

 一方、現在は広大な水田が広がる平野部は、戦時中の飛行場整備、戦後のほ場整備による整地が行われる前は、段々の棚田が広がっていた。『地検帳』段階では、四万十川に近い集落中央の段丘部は畠と宅地が中心で、水田耕作が可能な用水は十分に引かれていないことが伺える。一方で、北部の「メクラタ」「地コクカ瀬」「西原サシキ」など四万十川に近い場所が水田になっており、東川角の「小久保川」からの井溝が機能している様子が伺える。

 よって、水量の多い北の「小久保川」と南の「払川」に依拠した水田開発が進められ、小規模な棚田がいくつも広がっていたことが伺える。両河川から遠くなると、「下々田」や「畠」が多くなることから、この段階ではまだ四万十川から水を引くような長距離用水路は確立されていなかったようだ。また、畠地は少ないが、「アツキヲカ」という地名から生産物が推測できる。「久荒下々畠」「荒下々畠」など荒れ地になっている様相から、小豆畠として利用されていたようだ。

 

 その後の宮内村の新田開発は江戸前期がピークであった。1700年の『元禄地払帳』による総地高は本田高約563石(本田457石、新田105石)だが、幕末の新田高は仕出原村と合わせて約139石(『明治3年郷村高帳』)とほとんど開発が進んでいない。1743年の『寛保郷帳』では、戸数63、人口253人、馬36頭、牛13頭。

 

3、「神田」に見る寺社の祭礼

 宮内地区は水田耕作に適した平野部を有し、弥生時代の農耕具や弥生青銅器が見つかっており、安定した生産基盤を背景に古来から政治・宗教の拠点となったようだ。

18世紀に書かれた『仁井田郷談』に記された長宗我部氏の天正検地時の宮内村の石高は457石で、仁井田郷68村中最多。一条氏が幡多荘の一部として掌握し、金剛福寺が神願番をつとめて多くの田地を領地としておさめた理由が伺える。中でも高岡神社のある仕出原村と隣接する宮内村には、『地検帳』から多数の「神田」の存在が確認でき、高岡神社などの祭礼維持に重要な役割を果たしたことが推測される。ここでは、『地検帳』の仕出原村・宮内村の項に記された「神田」のホノギや注記に着目して、「神田」の性格を探り、寺社祭礼の在り方を復元してみたい。

① 「神田」とは? 

 「神田」とは、古代中世の土地支配の痕跡を残す地名であり、「律令時代に神社の経費に充てるために設定された田。御戸代(御刀代、みとしろ)ともいう。収授もされず、売買も認められない不輸祖田。特定の田地を某社の神田として、付近の農民に賃租させる場合と、神戸の口分田を以て神田に充てる場合とがあった。(中略)神田からの収入は貯えられて神税と称し、祭祀や修造の費用、社司の俸禄などにあてられた。平安時代以降、荘園制の発達に伴い、貴族や在地領主の寄進などによって神社も私領を拡大し、それは神領・御厨とよばれたが、ここに含まれる田も領主から年貢納入を免除され、神田と呼ばれる場合があった」(『国史大事典』)と位置づけられている。『地検帳』の仕出原村では、検地された93筆(宮床・寺中・ヤシキも含む)中12筆(12.9%)が、「五社森ノ宮へモミ1俵立」など神社への費用負担の詳細が注記され「神田」と特定できる。宮内村は、544筆中85筆(15.6%)が「神田」で、両村の「神田」の割合はほとんど変わらないことが分かる。

 ほかにも注記はないものの「今大神テン」など明らかに「神田」として設定された田地も多く記載されている。多くは、大宮・今大神・中宮・今宮・森ノ宮で構成される五社(高岡神社)の祭礼に伴うものとみられ、神社を支配する金剛福寺が、中世に両村の神田を神社経営・祭礼維持の基盤としたことが伺える。

② 月例の祭事にあてる「神田」

 名称や「五社宮へ九月九日二摺米七升立」などの注記から「神田」と明確に特定できる田があるが、「神田」かどうか不明瞭なものもある。分かりやすいのが、月ごとに行われる祭礼の費用捻出に設定されたとみられる祭礼の月日が付いた「神田」である。「正月テン」「七日日テン」「三月テン」「五月テン」「五月五日テン」「八月頼テン」「九月テン」「ヒカンテン」「霜月テン」「十一月テン」「九日テン」などが確認される。「正月テン」「五月テン」「霜月テン」が多く散見する。「ツコモテン」の「ツコモ」は毎月の最終日である「晦日(つごもり)」の意味。これも月例の祭事に伴う「神田」であろう。「四季神田」という月日が不明確な「神田」もある。

③ 儀式に関係した「神田」

 祭事にはさまざまな儀式があり、祭具や供物が必要となる。

 「キヨウテン」は「供田」、供え物の費用にあてる神田であろう。「タノムテン」の「田の実(憑)」は、「陰暦八月一日(朔日)に行われる儀礼や行事、およびそれに伴う贈答品。また、陰暦八月一日の異名」(『大辞林』)の意。8月1日の祭礼の費用にあてる「神田」と推測される。

 食べ物にまつわる神田として、「粥田」がある。「島タ柿ノ木タ」の注記に「五社大宮正月十五日粥田」とあり、小正月(1月15日)に邪気を払い一年の健康を願って小豆粥、または望粥(もちかゆ)を食べる風習と関係したものだろう。「シトキテン」の「粢(しとき)」は、「水に浸した生米をつき砕いて、種々の形に固めた食物。神饌(しんせん)に用いるが、古代の米食法の一種といわれ、後世は、もち米を蒸して少しつき、卵形に丸めたものもいう」(『大辞泉』)。神にささげる餅の供物の費用にあてた「神田」だろう。

 「札弊テン」は、儀式に使うお札や弊の費用にあてる「神田」、「カサハリテン」は神事で使われる「笠」を貼る費用にあてた「神田」か。江戸期の『南路志』に載る高岡神社の宝物には、「金弊」「朱傘」「白傘」などが見える。「御コシカキテン」は高岡神社の御輿担ぎ、「トウミヤウテン」は「灯明田」で灯明具の費用、「コモテン」は「マコモを粗く編んだむしろ」の費用にあてた「神田」であろう。

 「馬アライテン」は流鏑馬(やぶさめ)などの神事で使う馬を平時から洗う人足賃などにあてた「神田」、「舞射テン」は注記から正月2日に行われる「舞射」の神事の費用にあてた「神田」と推測される。

 また、「修正テン」(現数生田)は、寺院で正月に旧年の悪を正し、その年の吉祥を祈願する法会「修正会(しょしゅうえ)」の費用にあてた「寺田」。「正月五日大安寺修正テンモミ三斗二升立」「正月五日大安寺修正籾壱斗立」の注記がある払川村の「修正テン」は、宮内村にあった「大安寺」で修正会が行われていた実態を示している。高岡神社にあった神宮寺の「福円満寺」は『地検帳』段階では衰退していると見られ、両村とも寺田はほとんどなく、「高岡神社」の「神田」が中心である。

 仕出原村・宮内村の祭礼

 上記の分析から、中世の神社や寺の祭礼のイメージが見えてきたのではないだろうか。江戸期(1813年)の『南路志』古今祭礼行事の説には「往昔南中十七ヶ度の祭礼不怠、其時々御五具田寄進有」とあり、中世には年17度の祭礼が行われていたことが分かる。これを『地検帳』に注記された「神田」の供物の納め先(表1)から、戦国期~近世初期の両村における1年間の祭礼を復元する。時代は下るが、『南路志』の高岡神社の祭礼に関する記述を複合的に用いながら祭礼の詳細も見ていきたい。

【1月】

 『地検帳』に1月の注記がある「神田」は9筆。祭礼は2、5、7、15日の計4回行われたと推測される。2日は仕出原村の田地に「五社ノ宮正月二日舞射テン」の注記があることから、五社全体で初舞と初射が行われた可能性が高い。「中之宮江正月二日樽一出」(仕出原村)の注記は、新年のお酒の奉納を指していると推測される。5日は前述のとおり大安寺の「修正会」である。7日は「大宮正月七日神田」(宮内村)の注記から大宮で何らかの祭礼が行われたことが分かる。7日には、現在「松納め」 「七草粥」 などの神事が行われているが、詳細は分からない。

15日は「五社大宮正月十五日粥田」(宮内村)の記述から「御粥」 の神事が行われたいたことが分かる。平安期の『土佐日記』にも「十五

日、今日小豆粥煮ず」と記述があり、小豆粥を1月15日に食べる風習があったようである。『地検帳』の「アツキヲカ」(小豆丘、宮内村)の記述とも整合する。

【2月】

 『地検帳』に2月の注記がある「神田」は1筆。「五社内中宮二月八月皮岸田」の記述があり、中宮で何らかの神事が行われたようだ。宮内村に近い大字・西川角の田地にも「五社弐月御峰田摺三斗立」の注記があるが、神事の詳細は分からない。

【3月】

 『地検帳』に3月の注記がある「神田」は11筆で、月別に見ても比較的数が多い。日にちを書いていない「三月テン」がほとんどで、「森宮」「中宮」「大宮」ともに「三月テン」が存在する。これは各宮で行われた春祭に伴う「神田」と考えるのが妥当だろう。

 また、「白王江三月三日モミ三升立」の記述も1か所ある。「白王」は宮内村払川の氏神・白王神社(権現)である。古来から3月最初の巳(み)の日(上巳)には、紙や草で作った「ひとがた(人形)」に自分の穢れを移し、自分の身代わりにする「かたしろ」として水へ流す行事が行われた。人形はやがて飾り雛となった。室町時代には3月3日に人形を贈り合う風習が生まれ、この風習と女児の「ひいな遊び(人形遊び)」が結びついてひな祭りとなったとされる 。白王神社は『南路志』に「五社奥院といふ。五社より十八丁余北の谷宮内村にて払川に社地座す。此谷より流来る川水、即消除川也」となり、地名の項で後述する「消除(しょうじょ)川」の清めの性格を考えると、「かたしろ」の儀式が行われた可能性もある。

【5月】

 『地検帳』に5月の注記がある「神田」は6筆で、ほとんどが「五月五日」と記されている。『南路誌』では、戦国期の野武士・中西権七の大太刀について記した項で、「五月五日五社端午祭日」の記述があり、当時5月5日に端午の節句の祭礼が行われたことが分かる。『地検帳』ではモミなどの供出先は「中宮」「五社」が書かれている。

 戦国期には、中宮を中心に端午祭が行われた可能性がある。

【8月】

 『地検帳』に8月の注記がある「神田」は8筆。8月1日には、「八月頼テン」の記述から「穂掛け祭」が行われたと推測できる。「たのむ(田の実)」は、稲の実りを神にタノム (祈願する)の意味の言葉である。『大辞林』には、「(1)陰暦八月一日、初穂を田の神に供える穂掛け祭り。 (2)鎌倉中期以降、主に武家で、陰暦八月一日に家臣が主君へ太刀・馬などを献上し、主人よりの返礼を受けて君臣の誓いを新たにする儀式。江戸幕府では、徳川家康が江戸城入城に八朔はつさくの日を選んだため、重い儀式となった。たのむのせっく。たのむのせつ。たのむのひ。たのもせっく」とあるが、ここは神社なので(1)の意味で解釈する。また、「八月彼岸田」の記述も散見する。これは8月15日前後(13~16日)の「お盆」の行事を指しているのであろう。彼岸やお盆は仏教の行事だが、神仏混交の中世では神社でもお盆の神事が行われたのであろう。

【9月】

 『地検帳』に9月の注記がある「神田」は17筆。『南路志』に「往古五社御念仏祭といふ事有。毎年九月九日舞台を営ミ造りて、神人神楽を奏し祝詞を上る。また舞台の四囲を鐘及大成団扇をたたき巡行して、ナマウデナマウデと(今に、ナマウデは即南無阿弥陀仏と云事也)神楽終るて唱て踊りけると也。故に此祭をナマウデ踊を上ると言へり。新井田郷中此祭有所、志和天神・矢井加松尾・志和槿花宮にも此祭有 」とあり、9月9日に「御念仏祭」が行われていることが確認できる。『地検帳』の「9月9日」の注記は、「中宮」、「森の宮」、「大宮」(推測)「今宮」(両村外)にそれぞれあり、五社を挙げて神事が行われたことが分かる。内容は、念仏踊りと神楽が融合した神仏混合型の祭りだったようである。

 9月19日の秋祭については、江戸期の様子が『南路志』に書かれている。「御当代毎年九月十九日御祭礼法則ハ小倉少介政平の次序(順序)を記し定めらる。其行粧最殊勝の祭祀也」とあり、五社の御輿のおなばれの行列(獅子舞や修験者、鎧武者、弓持など21のグループ)の順序が記されている。小倉少介とは、江戸前期の土佐藩仕置役である。祭礼は明和4(1767)年11月19日に土佐藩8代藩主の死去に伴い、9月22日に変更されたと書かれている。

【11月】

 『地検帳』11月の注記がある「神田」は23筆で最も多い。ほとんどが「霜月テン」「十一月神田」など月のみの注記で、「白王江十一月十五日シトキテン」「五社ノ内大宮十一月十五日神田」「五社森宮へ十一月十五日二モミ一俵立」の3件のみ11月15日の日付が記されている。神田の筆数から見ても大きな祭礼が五社で11月に行われたと推測できるが、詳細は分からない。

 11月15日は現在五社の秋季大祭で、上記の『南路志』に記された御輿のおなばれ(9月19日)が行われている。江戸期の史料を集めて明治期に編纂された『皆山集』の神社志には、五社の秋季大祭は11月15日と記されている 。9月19日(のち22日)の秋季大祭がどの段階で11月15日に変更されたかは史料には書かれていない。       

【12月】

 『地検帳』12月の注記がある「神田」は6筆。「五社ノ内森ノ宮江大籠スリ五升立」「白王ノ宮江大トシ籠モミ五升立」などの記述から、12月31日(おおみそか)夜、社寺などにこもって新年を迎える「大トシ籠(ごもり)」の神事が行われていたようである。

 また、『地検帳』宮内村払川の「シモヤシキ 六十余尊江十一月十二月モミ壱斗立」の「六十余尊」は、宮内村の北にある中津川村の六十余尊神社であり、仕出原村・宮内村内の神事ではない。なお中津川村には五社領や五社の神田が多く散見する。

【御船祭】

 『地検帳』には、月別の祭礼とは別に「御船祭」に関連した神田も記載されている。「五社ノ内森ノ宮ミフ子トシニ カササシテン」「五社ノ内森ノ宮江ミフ子トシニ スリ米七升立」「ミフ子トシカササシテン」「五社中宮御船年二摺米七升立」「ミフ子トシカリトウヤシキ コシカキ田 コシカキ田 シキシ田」の注記がある5筆が確認できる。

 御船祭は『南路志』によると、3年に1度、閏月のある年に行われる大祭で、8月15日から11月15日まで神主(5人)・傘差し(5人)・神輿かき(10人)、獅子舞(2人)、しきり(1人)、太鼓打ち(1人)、太鼓持ち(1人)らが五宮の神輿を担いで高知市仁井田の仁井田神社に神幸する行事である。与津(四万十町興津)や志和(同町)から船で仁井田神社まで向かうため、御船祭と呼ばれた。『南路志』が書かれた19世紀初めにはすでに御船祭は行われていなかったが、『地検帳』段階の16世紀後半には実施されていたようである。「カササシテン」「コシカキ田」「シキシ田」などは、「御船祭」の随行者に関わる経費負担の神田であろう。また、『地検帳』では両村外でも四万十川沿いに「供僧テン」「コシカキ田」「シシマイテン」など御船祭に関係した五社の神田が確認できる。

年17回の祭礼

 以上の『地検帳』の分析から、戦国期~近世初期の仕出原・宮内村の祭礼を復元したのが表2である。江戸期の『皆山集』(表3)、明治期(1883年)の『神社明細帳』(表4)記載の五社の祭礼から、3月・5月・11月の祭礼日は、のちの中祭の時期(3月30日、5月30日、11月14日)と推測した。白王神社(『南路志』記載の大祭は9月9日)、大安寺、五社(大宮・中宮・森ノ宮・今宮)で合わせて年間17回の祭礼が行われていたことになる。これは『南路志』の「往昔南中十七ヶ度の祭礼不怠、其時々御五具田寄進有」の記述とも合致する。正月神事に始まり、3月の節句、5月の端午際、8月の穂かけ際、9月の念仏祭、秋の大祭、12月の大年籠と現代につながる祭礼がすでに行われていたことがうかがえる。今大神については、両村内に記述がないが、『地検帳』中村(四万十町中村)の項に今大神の神田が多数あり、1月、3月3日、5月5日、9月9日、9月19日、11月15日、12月31日に祭礼があったことが分かる。

 ⑤ 神仏に関係した地名

 五社がある両村には、田地や地名も神仏や寺社に関係したものが多い。いつくか上げて見てみよう。「ムクロウシヤシキ」の「むくろうじ(ムクロジ)」は羽子板の羽根にする木の実のこと。正月の神事用にムクロウの木が植わっていたのだろうか。「フマテン」の「フマ(不朽、不滅)」は、「すり減らないこと。永久になくならないこと」(『大辞林』)などを指す仏語だ。

 「ミコタ」(巫女田)「坊主タ」(坊主田)「ホウスタ」(法主田)「神願タ」(神官田)「ヒシリ畠」など寺社に関わる職掌を冠した田畑も多い。「ホウキヨウタ」は「法橋田」。「ほうきょう」とは「中世近世、僧侶に準じて仏師・絵師・連歌師・医師などに与えられた称号」(『大辞林』)。同じく僧の職掌に関係した地名である。「シンホチツクリ」は「新発意作り」で、「新発意」とは「発心(ほっしん)して僧になったばかりの人。仏門に入ってから間もない人」などを指す。注記の「権坊主」が「新発意」だったのだろうか。

 他に意味が判然としないが、「御判テン」(御判田)「チョウハンタ」(丁半田?)「イハイテン」(祝い田?位牌田?)「セツトクテン」(説得田)「ウナカシテン」(促し田)、「フシヤテン」(伏屋田)「マトハテン」(的場田)、「ヲンコクテン」「ショウキンタ」「大田コシキカテン」などの「神田」と見られる田地もある。意味が推測できる方にご教示願いたい。また、土地の区画を表す「キレ」地名も散見する。「シモキレ」「ウワキレ」「ヲモキレ」はいずれも「五社」などへ摺米やモミをささげる神田である。

⑥ 供出米の量と種類

 長宗我部元親・盛親によって出された『長宗我部百箇条(掟書)』によると、「一年貢ノコト、惣別(一般に)、摺トナスベシ、太・吉ハ地面ノ立毛次第タルベシ。但シ吉地二太ヲ作ルニ於テハ、貢物ハ吉ヲ取リ上グルベキ事」(五五条)、「一摺・籾トモ、俵ハ五斗入ニ仕ルベキ事」(五九条)とある。

 百箇条によると、年貢は摺米が主体で、吉米(きちまい、品質の優れた「水田米」)と太米(たいまい、品質の劣る陸米で土佐では「赤稲」をさす)があった。井上和夫氏の研究では、太米は「桃山期から江戸初期に栽培されたが、寛政年間には国用に不足する程衰え、享和年間には「赤太米」と「白太米」の二称があった」(井上1950)とされている。『地検帳』を見ると神田の供出米は、摺米、籾が上げられている。祭りの時期や性格によって摺米・籾に違いがあるのか、供出量の差などを検討してみると面白いかもしれない。

(4)『地検帳』に見る職人

 中世の寺社は、祭礼維持のため多くの職人を統括する存在でもあった。『地検帳』から、その存在を探ってみよう。職人の居住を確かめることは難しいが、鍜治師を除いて、田地や屋敷の給分が全てが「足摺分」である点は興味深い。戦国期には神社権力も庄園制期に比べて衰退しているため、職人の組織化がどの程度進んでいたか分からないが、『地検帳』の地名から形跡をたどることはできる。

【鍜治屋】他の集落にも散見する鍜治屋だが、仕出原村の屋敷地に「カチヤ」(中ヤシキ)が確認できる。屋敷には「三郎衛門」が住んでおり、鍜治屋とみるべきだろう。土地は窪川氏の領地、「藤兵衛(尉)」なる人物の給地となっている。藤兵衛は多くの給地を得ており、武士と見るべきだろう。

一方、宮内村には、窪川氏領地で鍜治左衛門が「コマタノ北」(下田)、「ヲモ井テクチ」(下田)、「次郎衛門タマトハ」(上田)、「マトハテン」(中田)、「九日テンノ北」(下田)、「カラスタノ南」(下田)とかなり多くの給地を得ている。武士が馬から弓を射る「的場(マトバ)」に関わる土地を給している点も興味深い。

2村の鍜治屋を比較すると前者は小規模な野鍜治(屋敷地は中ヤシキだが15代と小規模)、後者は大身の武士に雇われた鍜治師と考えるべきか。いずれも「足摺分」(金剛福寺領)でなく、窪川氏の支配下にある。

【柄師】宮内村の志和氏領地に「柄師源介」の給地が確認できる。柄師は刀などの柄巻師のことか。居住はしていない。

【土器職人】神事に欠かせない土器(かわらけ)を作る土器づくりの存在が、仕出原村の屋敷地「カハラケサコ」(下ヤシキ)から伺える。土器職人が居住しているかは確認できない。数少ない「宮内分」の領地となっているが、「足摺分」でも給地をもらっている「聖宮主水」(森宮神主)が給人となっている。主水は払川の田地を開拓するなど新田開発にも関わっている。

【大工】「宮内村カミノハシツフテウチヨリツキ」内の「大工ヤシキ」(中ヤシキ)に居住する「介左衛門」が大工と推測される。所領は「足摺分」。宮大工か。

【細工師】「宮内村カミノハシツフテウチヨリツキ」内の「細工ヤ畠」(下ヤシキ)に居住する「善五良」が、木工や彫金など、神社の祭具作りに携わった細工師と推測される。「足摺分」の領地で「聖宮主水」が給人となっている。

【縫張師】宮内本村に「ヌイハリテン」(中田)という田が出てくる。「足摺分」の領地で「中宮惣十良」が給人となっている。1690年に上方で作られた風俗辞典『人倫訓蒙図彙』「縫張師。針跌師(はりがねし)。外にあつてこれを造る。都におゐて、根本姉が小路に住して其名高し。中世御簾屋(みすや)といふものあり、今にいたりてこれを名乗る・唐よりわたす針、これを唐針とうばりと号す」とある。針金作り職人だが、今回の「ヌイハリ」と該当するかは判然としない。

【巫女】「宮内村カミノハシツフテウチヨリツキ」内に「ミコタ」がある。「中宮式部扣」と注記があり、中宮の式部(女官)が土地を所有していたことが分かる。

(二)昭和期の村の姿

1、地名

消除(しょうじょ)川 『南路志』宮内村の項に「五社に詣んと欲する者必ず此の川にて垢離をし身を清め参る。神書に曰く神は垢穢(きたなき)事有れば親近(ちかよらず)と云えり。此の川水は払川より流れ来る川水なれば身の所汚垢(きたなきあか)をすすぎ洗い塵芥も退去(しりぞけ)て身を清くする精進川なり」(『五神の社地并宝物の記』)とある払川の下流の川。神社の清め・払いへの意識が地名に反映されたものとして興味深い。

池ノモト・池ノフチ 『地検帳』に載る屋敷地で、唯一村内で「池」の記述がある。以下の伝承から現地比定できる。集落南で整体をやっていた本山先生の家のあたり井戸を掘ったら、木やシバが大量に出てきた。明治33年生まれの人が「ここは大きな池やったぞね」と言っていた。『南路志』には、「御手洗の池 土俗五社御洗水といふ、かりやの北小谷二有。不浄の者穢汚しかれハ水不出、池水を汲替社司祓しけれハ、即時麗泉涌出する也」とある。「かりや」については「行宮(かりまち)里民今かりやと云へる所にいきにへ有て、上代宮社御造営の度毎に此社へ外遷宮なし奉りけるとそ。今ハ礎石たに残らすなりぬ』とある」。小字「かりや」の周辺には、小谷もあり、地検帳の「池」はこの「御手洗の池」である可能性が高い。

ジゴク瀬 『地検帳』では「地コクカ瀬」。仁井田川と四万十川の合流点で少し浅くなっていて今でも川を渡ることができる。戦時中、ジゴク瀬の上流では窪川飛行場建設のため橋を架けて整地のための砂利を川向こうから取る砂利場があった。

大岩 宮内の子どもの遊び場。高さ約5メートルの大岩があり、飛び込みの名所。流れがなく泳ぐのに容易。近くには、「お盆に泳ぎよったらエンコウ(カッパ)が出る」と言われる中洲の大きな岩(おおまか3つ)「エンコウバイ」もある。他にも岩の下に深い渕がある「釜ケ淵」、「ササガフチ」「ヘンドウ瀬」もあったが、泳ぐ場所ではなかった

開放(かいほう) 柳ノ川の谷筋には戦時中に日本軍が飛行機を入れる「えんたい壕」が多数あった。軍が買い占めた土地は、戦後に地主が買い戻した。「開放」と呼ばれる土地。『地検帳』に載る「ヨウジガハラ」などの地名がなくなり、小字が「開放」になっている。

2、集落

 宮内村の本村、枝村の柳ノ川、払川で構成。川沿いの自然堤防沿いに家屋が並んでいて使っていた井戸跡などもあるという。明治23(1890)年の四万十川の大洪水で家屋が流出。以後、標高の高い山沿いに家屋が並ぶようになったという。昭和38(1963)年の洪水では山裾部の家も浸水した。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、窪川郷上番・下番の28か村が合併し「窪川村」が発足し、宮内村は大字となった。山麓を県道322号松原窪川線が通る。 地区内は、宮内1・宮内2・払川の3行政区に分かれ、宮内1は上組・中組・下組の3組に、宮内2は上班・下班の2班に、払川は1つの班・組編成となっている。宮内の氏神は三島神社、高岡神社の祭りにも参加する。払川は白皇神社が氏神となっている。商店は、現在はなくなっているが駄菓子屋「田内」(パンや駄菓子、アイス等)と雑貨屋「中西」(洗剤、歯磨き、ちり紙、タバコ等の日用品)、鍜治屋(「岡村」)も昔はあったそうだ。

3、生業

 米作が中心で中稲の「コガネニシキ」を作った。米が固く、穂が長く倒れやすかった。後に入って主力になる宮崎発祥の「ヒノヒカリ」と収量はそれほど変わらない。耕運機が導入される前までは家で飼育している赤牛で田を耕した。馬を使う家はほとんどなかった。牛の種付けや子の売買は集落にいたバクロウさんがやっていた。牛の餌には田んぼに生えたレンゲなんかもやっていた。集落の裏にある山は戦後から植林になっていて草山ではなかった。共同の入会地等はなく、個人の山でタキモンをとってきていた。

いいもどし 田んぼのあぜには大豆を植えた。春の苗取りと田植えには、近所や親戚で人を出して皆で行う「結(ゆい)」の慣行があった。手伝ってもらった家にお返しで助けることを「いいもどし(ゆいもどし)」と言った。農作業のないときは、レンゲ畑に近所皆で集まってお酒を飲んでおきゃくをしたという。秋の稲刈りは50年ほど前までは手刈りだったが、「結」はしておらず各家庭で収穫は行った。稲わらは「わらぐろ」を組んで、ムシロを編んだりしていた。

用水 水路は、上流の作屋から取水している「八カ村溝」(柳瀬、オキダイ、西川角、志和分、宮内、仕出原、大井野、オモ川?)が主な水路。サイフォンで左岸側から右岸側へ上げている。宮内に入ると「宮内溝」と呼ぶ。正式名称は「カツラギリ頭首工水路」というらしい。宮内で水を取ると大井野までの分がなくなるので、西川角で堰を作って「大井野溝」というのも作った。払川から引いてくる水路は「ササノユ」という。

薬草の栽培 桑畑はほとんどなく、畑にはイモなどを植えていた。ショウガが入ったのは約40年前、まずは高岡の人が土地を借りてやりはじめ、集落のものもぼちぼち始めた。約30年前には「ミシマサイコ」という薬草を各家で育てた。春に畝を作って畑に植えて、30センチくらいになる12月~1月に収穫。干して乾燥して根を販売する。寒い時期に「ミツゴ」で土を起こして収穫する。販売先は医薬品メーカーの「ツムラ」で、漢方薬の原料になったようだ。最初は1キロ7500円ぐらいしたが値段が落ちて作ったのは4・5年。ショウガに切り替えた家が多かった。最近、旧大正町の方でも作っているらしい。

山は遊び場 山はあったが、林業をしている人は少なかった。木馬道を作って木馬で木材を出している人もいた。山は子どもの時は遊び場、竹など木製の「コブテ」という鳥を捕る罠を仕掛けて遊んだ。ヒヨ、ツグミ、メジロなどが取れて、皮をむいてさき、内蔵を出して焼いて食べる焼き鳥。特にヒヨがうまかった。ヒヨよりも一回り大きいトラツグミはめったに取れないから、罠に掛かったら自慢だった。山道を通ってヤマモモや山柿を取った。紙幣の原料になる木の皮「ヒノ」も山で取れて小遣い稼ぎになった。ミツマタより高級で、皮を剥いで乾燥させて買いに来た業者に売っていた。大人はあまり取っていなかった。

4、交通・流通

沈下橋 昔は大井野大橋以外に抜水橋はなく、四万十川には沈下橋があった。五社(高岡神社)の沈下橋(仕出原)と鍜治屋橋(西川角)の2カ所。五社の橋は窪川中高への通学時、増水すると通れなくなり、バスで大井野まで回らないといけなかった。沈下橋ができる以前は渡し場があった。

峠道 払川の「ジンドウ(谷)」から「樋ノ谷山」を越えて西川角の旧丸山小学校へ抜ける道が昔の往環(主要道)で「ジンドウ」と呼んでいた。払川から「ゲンベエ(谷)」を上って宮内の三島神社の方へ降りてくる峠道は「デンジョウ」(善浄)、柳ノ川から中神ノ川へ抜ける峠道は「ボウジョウ」と呼んだ。「ボウジョウ」も往環で2メートル幅の大きな道があったと聞いた。

5、生活

神社祭礼 宮内の氏神・三島神社の祭りは、春と夏、秋の3回。花取り踊りやみこしはない。大きな祭りは、五社(高岡神社)の夏祭りと秋祭りがある。出店が多数出て流鏑馬もやる。祭りの日は船戸線や大井野線に臨時バスも出た。

カガシ・セムシ 四万十川での川漁も子どもの遊びの一つだった。水中メガネをしてカナツキで鮎を捕り、ウナギは石を積むイシグロ漁、マスは毛針が付いた釣り竿で魚を釣る「カガシ」、川の流れがあるところで石を起こして付いている虫を餌にする「セムシ」で獲った。最初は「セムシ」をやっていたが、「カガシ」が出て捕り方が変わった。釣り竿やカナツキは、窪川の吉見通のお菓子屋「広美堂」の前にあった漁具店「竹崎」で買った。

土葬 火葬が普及してなかった頃は、人が亡くなると棺を入れるための穴を掘って土葬した。人間の背の高さぐらい掘らないといかず大変だった。「とうま(当番)」といって、組で人が亡くなると各家全員が出て葬式を手伝った。三島神社の上の山が集落の共有地で各家の墓地があった。棺を埋めたら木の社を作って、おおよそ50年したら再び掘り出して骨を堀上げて納骨する。主要な骨だけ骨壺に入れて、残りはその場で焼くこともあった。また、窪川地区では火葬が終わった後、家に入る前に竹製の「コマセイ」をまたぎ、塩を「箕(み)」に盛る風習が続いている。

 江戸時代の『南路志』宮内村の項には、対岸の根々崎にある精進谷 に8月1日から宮内村の喪中の者や不浄垢穢の人が仮屋を作ってこもり、11月15日を過ぎると自宅に戻る習慣があったが今は廃れていることが書かれている。

6、戦国期の石塔「六十六部の板碑」 

 中世の荘園の痕跡を地名に残す宮内集落だが、戦国期の石造物も残っている。「六十六部の板碑」と呼ばれるもので、高岡神社東北の県道沿いに比較的良好な保存状態で現存し、天正7(1579)年の記年銘が確認できる。県内では宮内のほかに宿毛市錦(永正14(1517)年の記年銘)と宿毛市大深浦(永正14年の記年銘)でも「六十六部の板碑」が確認されている。

 板碑とは、主に中世仏教の供養塔として使われる石碑で、東日本に多い。「六十六部」とは、廻国(かいこく)巡礼の一つで、書写した法華経を六十六カ国の一国一カ所に埋経、または奉納(納経)することを目的とし、諸国の社寺を廻国する行者のことで、「六十六部聖」「六部」ともいう。六十六カ国納経は一国一部とされているが、必ずしも一国一カ所とは限らず、数カ所が通例であったそうだ。

 銘文は「バク マン アン(釈迦三尊の種子)」と梵字を刻し、下に「十羅刹女土州 奉納経王 六十□□□ 三十番神  天正七年二□□□」と刻している。板碑は、廻国聖により法華経を奉納した際に造塔されたものと推定されるが、法華経を信仰する日蓮宗関係のものではない。

  岡本桂典氏は、高岡神社の近くに「六十六部の板碑」が存在する理由について、岡山県真庭郡落合町関の森田家に残る元文元(1737)年から寛保2(1742)年の廻国納経の納経請取状を紹介する。請取状には四国88カ所の寺社のほとんどにみられ、その中に「土州五社大明神宮司五智証院岩本寺」から発行された請取状があり、高岡神社も納経社寺であったことが判明する。このことから、高岡神社が中世の六十六部の納経所であった可能性を指摘している。すなわち、岩本寺(岩本坊)は、中世に高岡神社の神宮寺・福円満寺から金剛福寺へ向かう宿坊の一つで、福円満寺が衰退した後には札所権が移された高岡神社関係の深い場所だったからである。

 また、岡本氏は、六十六部の廻国僧たちが、四国88カ所の4カ所の札所を江戸初期に巡っている事例をあげ、六十六部の聖たちの巡る霊場から八十八カ所霊場に転化して88カ所巡りが成立した可能性を指摘している。板碑は、四国霊場や中世の宗教史の一端を探る貴重な文化財である。

             (文責:楠瀬慶太)

聞き取り調査日:2017年3月7日

聞き取り者:奥四万十山の暮らし調査団/楠瀬慶太

調査協力者:岡村康博さん(昭和16年生まれ)

西井健夫さん(昭和23年生まれ)

 

脚注や写真・表は 書籍で→当hpサイト(地名の図書館→奥四万十山の暮らし調査団叢書→土佐の地名を歩く

 

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20170101胡

1)仮谷(カリヤ)という字の由来

 南路志に「〇行宮(カリマチ)社 俗にかりやの宮という。 里民今かりやと云へる所にいにしへ有て、上代宮社御造営の度毎に此社へ外宮遷宮なし奉りけるとそ。今ハ礎石たに残らすなりぬ。」の記述がある。

 宮内の南側に仮谷の字がある。この辺りは仕出原と境が入り組んでいるところで、明治23年の大洪水によりなったと云われている。五社さんの近辺には宮内の飛び地の字「宮ノ奥」、「藤井山」、「前澤」がある。

 長宗我部地検帳にも「カリヤ」があり、検地の流れからも字「仮谷」に比定できる。南路志の記述のとおり遷宮時の「かりやのみや(仮屋の宮」が転訛し仮谷の漢字をあてがったのだろう。近くには谷もなく地形地名でないことは明らかである。

 周辺は家屋が立ち並んでいるが、この字仮谷の区域は建物が何もなく、遷宮のときを待っているようである。


地名の疑問

20161231胡

1)「神田」のオンパレード

 神社の運営にかかる費用を賄うのが「〇〇田」。ホノギにも字名にもこの「何とか田」が多く見かけるが、宮内は「五社の内」だけあってたくさんある。全部拾い上げて、その意味や役割を考えてみることにする。(記載途中)

 

2)五社さんは、仕出原か宮内か

  

3)本土決戦特攻基地 宮内飛行場

 

 小丸太を結んだ川沿いの南北の滑走路は長さ1.180m、幅は70m。飛行機の掩体壕(えんたいごう)は「朴の木谷」、「三嶋神社横の谷」、「柳の川谷」の山肌に横穴を掘ったという。

 本土決戦にむけた宮内の特攻基地は正式には第三高知基地と呼ばれた。高知海軍航空隊基地(現在の高知龍馬空港)は米軍の空襲により壊滅状態で、第2の「浦戸海軍航空隊基地」、第3の「窪川特攻基地」は本土決戦に向けた緊急な整備計画であった。

 特命による基地建設派遣隊員120名が1945年春から突貫工事を始めたという。

 この飛行場の記録は国立文書館アジア歴史資料センターのHPに「引渡目録」として記載されていると藤原義一氏(平和資料館・草の家学芸員)は延べ、4軒の民家が接収され、市川和男さん宅は飛行場の本部となったと聞き取り調査を報告している。(続・戦争のころ高知で⑲~㉑)

 

 この聞き取り調査の最後の部分を「ブログ高知」から引用します。

『 終戦の翌日、八月十六日、窪川飛行場では、機上作業練習機・白菊を再度組み立てて、日章の高知海軍航空隊に帰還しました。一般隊員は現地解散でした(『高知海軍航空隊史』)。

 市川和男さんの母が、手記を残しています。

 「……この軍隊の置き土産は、四戸の家にはものすごい蚤(のみ)と、天井もまっ黒になるほどの蝿(はえ)の巣だった……」

 高知海軍航空隊分隊長・大尉だった伊藤平次さんが、その年の冬、兵器引き渡しのため高知海軍航空隊兵舎(日章)にやってきたアメリカ兵とのやりとりを、つぎのように語っています。「窪川の飛行場の写真も見せてくれましたよ。窪川を爆撃しなかったのは、必要がなかったというだけです。」(『高知空港史』)。

 窪川にやってきた占領軍は、窪川飛行場に残っていた練習機を集めて、油をかけて燃やしてしまいました。

 平和資料館・草の家の車輪とエンジンカバーは、そうした中でも残っていた機上作業練習機・白菊の残骸です。

 飛行場に荒らされた宮内の田んぼは、戦後処理のなかで「開放地」として元の地主に払い下げられました。

 一九四八年(昭和二十三年)から四九年の二年ほどをかけ、復元しました。

 

 【参考文献で、文中で紹介しなかったもの】

 ○ 『窪川子ども風土記』。窪川子ども風土記編集委員会。

 ○ 『窪川町史』。窪川町史編集委員会。窪川町。

 ○ 『写真集 くぼかわ今昔』。写真集「くぼかわ今昔」編集委員会。窪川町企画課。表紙の写真。

                (二〇〇八年六月二十九日・初版)』  →詳しくは「藤原義一氏のブログ高知」を

 

 米軍は宮内飛行場の情報もしっかり持っているのに攻撃しなかったのは何故か。伊藤平次さんは「米軍にとって必要がなかった」と語っているが、木の小丸太棒(直径5cm)を組んでシュロの縄で結んだ「スダレのような飛行場」が滑稽に思えたのだろう。

 それより疑問なのは、宮内への設営理由である。四万十河岸段丘でここらでは広い農地といえるが第三の飛行場としての適地はいくらでもありそうである。山が近く飛行場としての適地とはいえない宮内の地を選択したのは、ひとつは兵站としての北幡ルート(愛媛からの太平洋側の陸上決戦支援)を想定し、もう一つは海から一定距離を保つことができる位置であったことだろう。

 窪川は、波多国と土佐国、幡多郡と高岡郡の境界であり、南予と土佐の往来の中継点でもある。この地は昔から地政学上の重要な構成要素を持ち合わせているのだろう。 

 


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川Ⅰ」)

 天正の頃の宮内村は、本村と枝村として柳ノ川部落・払川部落をかかえていたようである。検地を始めたのは、天正16年3月15日のことであり、同月20日までの実に6日間にわたって行われている。(同p194)

・神社

 三島神社(村社/字善浄山鎮座)/合祀:春日神社、竈戸神社、琴平神社、秋葉神社

(別称:寺院名の善定院)    八幡宮、六十余社

・寺院

 大安寺、善定院、岡庵、伝正庵

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p285)

 宮内村の四至は、南限川越根々崎村東西十町南北二十五町其土黒

 山川は、小久保川谷、拂川谷

 寺社は、地蔵堂、六十余尊社とある。

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高457.542石、戸数63戸、人口253人、男133人、女120人、馬36頭、牛13頭、猟銃0挺

 

■南路志(1813文化10年:③p307)

176宮内村 仁井田郷本堂之内、又云蹉跎分神願番二村之一 地四百五十七石四斗六舛七合

〇子々崎村 新開発枝村也

五社大明神 祭礼九月十九日

東大宮三島大明神 神主佐竹大内蔵 祢宜 宮本筑前・宮本山城

 本地、弘法大師秘作不動明王

 〇徃昔仁井田五人衆東庄司助兵衛尉越智宗澄支配也 (詳細は本文参照)

今大神 神主佐竹久之進 祢宜宮本河内

 本地、弘法大師秘作清浄観音

 〇徃昔仁井田五人衆西庄司和泉守越智宗勝支配也 (詳細は本文参照)

中宮伊豫大明神 神主岩崎長門 祢宜 佐々木越後・宮本上総

 本地弘法大師秘作阿弥陀

 徃昔仁井田五人衆窪川七郎兵衛尉藤原宣秋支配也 (詳細は本文参照)

西今宮 神主佐竹助太夫 祢宜 佐々木大和・宮本能登

 本地弘法大師秘作薬師

 〇徃昔仁井田五人衆西原紀伊守藤原貞清支配也 (詳細は本文参照)

聖宮俗曰森宮 神主佐竹逸城 祢宜 宮本越中・岩本掃部

 本地、弘法大師秘作将軍地蔵

 〇徃昔仁井田五人衆志和権之進藤原宗茂支配也 (詳細は本文参照) 

 〇仁井田之社鎮座傳記 甲把瑞益述 (詳細は本文参照)

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

p59:宮内、四万十川、払川、県道松原窪川線

p47:宮内、四万十川、払川、県道松原窪川線、三嶋神社、白皇神社

p40:宮内、払川、払川、払川橋

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

 宮内、払川、四万十川(渡川)、

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

払川(四等三角点:標高361.98m/点名:はらいがわ)宮内字栃ノ木谷山1652番地

  

■高知県河川調書(平成13年3月/p58)

払川(はらい/四万十川1次支川払川)

左岸:宮内字札の辻1150

右岸:宮内字札の辻1151-1 

河川平均延長:3,210m / 5.63Ak㎡ / 4.1 Lkm

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

 宮多田橋(宮内用水路/宮内字宮多田8-1)  

 

■四万十町広報誌(平成23年3月号)

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