よくある地名の語源 「ほ」

ほうじ(ホウジ・ボウジ・ホヲジ・傍示・榜示)【ホヲジ坂(上秋丸)】

 ボウジ(ホウジ)は、ムラの四至のこと。特にムラ境を示す一本松や石(傍示石)や山(峠・坂)などをいう。

 徳弘勝著『ふたつの浮津から』には、室戸市吉良川町の傍士(ほうじ)をあげて「境杭を方言でホージ杭という。標柱が建っていたのにちがいなかろう。地検帳には”ホウジ〇クチ、黒耳村”」と村境のことをホウジと述べている。

 上秋丸の「ホヲジ坂」は上秋丸から菅野々集落を廻ることなく一斗俵・滝本へ向う山越えの道である。このホヲジ地名は、長宗我部地検帳のホノギになく、土佐州郡志(1704-1711)の秋丸村の段に「傍示越坂 至米野川村通路」とあるのが初出で、明治の土地台帳である字名にはホヲジノ越山とある。この上秋丸や日野地は大野見氏の領地であり、南部氏の領地する一斗俵・中津川・米の川の境となるところがホヲジノ越山である。村境、領地境のホウジと理解するのが正当と思う。

 この「ホヲジ坂」は、今では「法師ノ越」と呼ばれている。明治23年の大洪水で一斗俵・市生原への灌漑用水路が決壊した折、市生原の野村成満翁が私財を投じて苦節10年で貫通完成したものが法師ノ越水路トンネルである。

 このように、窪川町史にも「法師越」とあり「傍示越」の説明はない。また、同町史(p921)には「津野氏と南部氏に攻められた大野見槙野々城の小松姫は法師姿になり逃れていたがこの坂で殺害された。この姫が越えた山が法師ヶ越山と呼ばれ、小松姫様と刻まれた石碑がある」と書かれている。南部高忠が奥州から一斗俵に来住したのが応安3年(1370)というから、この昔話が正しければ「傍示越」でなく「法師越」が地名の意味を表すことになる。「法師越」の一人歩きは歴史を刻んだ「傍示越」を消すことになるので、公的な史資料として読まれる町史は影響が大きいので、「法師越」と「傍示越」の両方併記した丁寧で正確な記述が必要だ。特に「地名」はぞんざいな扱いを受けることが多いので関係者にはそれなりの配慮を求めたい。

ぼうたい(防泰)【大井川地区の集落】

 

ほき(保喜・保木・甫木)【保喜(井﨑地区の集落・小野川)、ホキ(折合・影野・弘見)、鈴ノ保木(窪川中津川)、田ノ畝ホキ(日野地)、権元ホキ(市生原)、不動保木(南川口・秋丸)、保木澤(藤ノ川)、ホキノ平(大正・下津井)、大保木(昭和地区の集落)ほか】

 代表的な崩壊地名の一つで、中国・四国・九州に分布し、四万十町にも多くみなれる。元来は崩壊によって生じたものであろうが、山岳や谷合などの切り立った崖をいう。ハケと同語源で、ホッケ、ホゲ、ハゲ、ハカ、バカ、フキは同類の地名。このような危険地帯をいろいろな表現で示唆して、暮らしの中に生活の知恵として生かしていたのであろう(民俗地名語彙辞典)。

 四国・吉野川の大歩危・小歩危(ボケ)、土佐市の波介(ハゲ)、四万十市西土佐の半家(ハゲ)、西予市の法華津峠など。

 町内の例では、七里(小野川)の「保喜」がある。勝賀野川が小野川集落に入ると大きく蛇行し右岸の山側を削り取った崖で、まさに特徴的な「ホキ」地名である。 

ぼど(ホド・程)【ホドサコ(川ノ内)、程野口(魚ノ川)、ホドヲカ(弘見)、ホドノサコ(下津井)、程登峠(大井川)、ホドヲ子(戸川)】

 炉の中央の火をたく所がホド(火処)。ホトという「ふところ」「陰門」「噴火口」などの方言が地名となったもの(民俗地名語彙)。

 地名用語語源辞典にホトの説明として①「女陰」の意から舟形・穴型の地形、多くは河谷の名となる。二股のようになっている所②山間の窪んだところ③懐。ホホ(含)・ト(処)の略で「包み込まれたような地形」④ホ(秀・穂)・ト(処)で「突出した地形」の例もある⑤動詞ホトブ(潤)から「湿地」の意、とある。また、ホドの説明に火葬場や動詞ホドク(解)から「崩壊地名」の説もある。

 高知県では程野の滝・グリーンパーク程野(いの町)が有名だが、各地に分布する地名。姥ケ懐も各地に見られる。

 戸川に「ホドヲ子」がある。近くに鍛冶屋林、ノボリオ、藤九郎山、穴神、一ツ風呂、古カヂヤ、ノツチ山などタタラ製鉄に関連しそうな金属地名が群となっている。タタラ製鉄は金属資源とともにそれを溶解する火力が求められる。当時の火力は炭でありそれを調達しやすい場所が自然とタタラ製鉄跡となる。炭焼きは藤の1字を名に付すことが多く、藤九郎の字もうかがうことができる。炭を焼くのもタタラ製鉄を行う所もホド(火処)であり、場所的にはホト地名の地形的形状となろう。長宗我部地検帳のホノギにも藤九良分、ホトウ子、ヒノクチとあることから、中世以前の生業としてタタラ製鉄があったように読み取れる。   →戸川→地名の由来

ほりきり(ホリキリ・堀切)【野々川地区の通称名称、窪川中津川の字ほか各地】

  切り通しともいわれる、道路や水路のために人工的に開削して設えたもの。山城の防御施設のために設えた人口構造物も堀切という。

 窪川中津川地区・上栗ノ木集落の河内神社には、境内を横切る長さ130m、深さ6~7mの一直線の水路がある。藩政時代になってから開かれた「新田」「新改」「沖新田」に引かれた堀切水路である。開拓の歴史を刻む「堀切」地名である。 

ほんざいけ(本在家)【七里地区の集落・行政区】

 明治9年の「七里村」発足前の郷村。本在家城(所在:城が森・標高320m/城主:河野一族の福良丹後守宗澄・仁井東庄司)があり、影山城の西氏とともに中世の仁井田庄の拠点といえる。

 在家とは、仏教用語で出家せずに世俗・在俗の生活を営みながら仏道に帰依する者、その信徒集団。歴史的には荘園や公領における民百姓の収税(年貢・公事・夫役)を執り行う範囲、その役割を在家役といった。上層農民の本在家・脇在家には牛馬が、下層農民の小百姓には鍬・鋤が名主から与えられたという(福井県史)。集落単位としての在家とそれを管理する役人としての在家と二つを意味する。

 本在家はその本家分で新在家はその村の発達段階において分かれた分家・枝村の関係にある。集落の構成と発達段階を知るうえで大切な地名となる。

 長宗我部地検帳では四万十町内に「本在家内蔭山之村(七里)」、「是ヨリ新在家村(土居)」、「一在家(十川)」が読める。

 本在家、新在家、今在家が関連地名で、高知県内にも多く分布する。

 ・新在家(芸西村西分甲・いの町勝賀瀬・土佐市宇佐・宿毛市平田)

 ・今在家(いの町伊野・いの町神谷・四万十町弘見・大月町樫ノ浦)

 ・岡在家(須崎市安和)、向在家(須崎市安和)、カヂ在家(四万十市西土佐津野川)、在家田(南国市里改田)  

ほんざいけごう(本在家郷)【中世の広域地名。概ね松葉川地域】

 中世の仁井田庄が仁井田庄八郷八番と言われたころの八郷の一つ。西松村(別名、影山村。西影山)、野口村(本在家)、市生原村、北野川村、越境村(越行)、川野内村、勝加野村、尾野川村、柳瀬村、小松村、東川角村、西川角村の本在家郷12か村。この地域を後番と言われた。現在の松葉川地域のうち、米野川村、作夜村(別名、作屋村)、壱斗俵村、中津川村(窪川中津川)は神田郷4か村に属し、日野地村、秋丸村(上秋丸)は大野見郷に属していた。また、小松村、東川角村、西川角村は現在では窪川郷分地域となっている。明治9年の合併で小松村・東川角村の2か村は東川角村となり、本在家村・柳瀬村・沖野々村・小野川村・西影山村・越行村・志和影山村の七か村が七里村となった。七里周辺は、地名やその範囲が大きく変化しており理解しにくい。長宗我部地検帳では蔭山之村(沖代、中影山か)、西松ノ村(西影山)、志和蔭山(志和分と西影山か)と現在の字名から比定することができる。

ほんでん(本田)【仁井田地区の集落・組】

 

ほんむら(本村)【古城地区の集落、地吉地区の集落、本村(寺野・南川口・与津地)】

 

 

(201706012現在)


ちめい

■語源


■四万十町の採取地


■四万十町外のサイノウの採取地