Vol.14:消えた地名(2)大正編

「田野々のくらし」田野々小学校副教本(昭和50年頃)
「田野々のくらし」田野々小学校副教本(昭和50年頃)

20160614胡

 

■平成合併の負の遺産
 町村合併は、大字を変更する絶好の機会となるのか、これまで各地で変更となった。
 平成の合併では、合併する自治体に同じ大字があることから、調整したところがたくさんある。四万十町では「北ノ川」、「大奈路」、「中津川」、「川口」が対象となった。それぞれ方位や旧町村名を加えることになった。
 一般的に方位地名は、もとにある地名を基準にして北であるか、東であるかによって頭につけられるのが習わしである。しかし、この合併時にその手法を用いると、もとにあるそれぞれの地名には関係性がないのに区分として符合するだけとなってしまう。ただし、行政がつける公称地名は「記号」である。地元の人にとっては、何も変わらずこれまでと同じように方位名称なしで呼んでいる。地名は生き物なのである。
 やっかいなのは、「かけこみ変更」地名である。それぞれ地元の事情はあり、地元の合意手続はそれなりの手順を踏んでいるものの、従前の地名の由来の理解、変更する必要のある理由や共通理解の確認の手順など、検討する時間が十分であったかは疑問である。
 後世に、この「消えた地名」の意味を伝えるため、まとめることとした。
■消えた地名 「田野々」 それならいっそ「平成」に
 田野々は、合併前の旧大正町の大字地名で、合併時に旧大正町の名称を、役場所在地であるこの地に残したいという思いから、田野々を大正に改めたもの。確か田野々の住民から「大正」が消えるのがさみしいという意見をくんで田野々地区の区長の集りで協議され、各地区でアンケートをとったという。アンケートの集計では「大正田野々」となっていたが名称が長くなるのでという判断から「大正」となったもの。「田野々」が消えることには関心がなかったかのようにあっさりそうなった。
 中世以前、長宗我部地検帳にもでてくる「田野々村」。かたや「大正」は市町村名として1914年(大正3)に東上山村から改称したもの。上山郷という古名を由来とする明治22年に設置された東上山村であるが、近隣の類似する村名「東山村(現在の四万十市古津賀から安並附近)、西上山村(十和村へ合併前の旧昭和村)」と区分するため、大正天皇即位を祝して「大正村」としたという。新しい地名「大正」が古い地名「田野々」を駆逐する結果となった。
 大正気質(旧大正町民の一般的な行動様式)は「新しいモン好き」。
 それ故の選択だったのだろうか、それならそれで平成の大合併を揶揄して「平成」とでも変更すれば「新しいモン好き」の名に恥じない選択だっただろうに。年号が新しくなればその都度大字名称が変わるというのも一考で、その年号に整備された施設名称にその年号(地名)を刻んでいく。地名は文化財である。変な日本人が住む集落があっていいのかもしれない。
 「田野々」の地名は、高知県内外にも各地にある。電子国土Webは
南国市田野々
梼原町田野々
徳島県三好市田野々
徳島県上勝町田野々
香川県観音寺市田野々
三重県熊野市田野々
 と6か所ヒットする。子どもの頃「田野々」を「タンノ」とリエゾンして呼んでいた。「丹野」、「端野」などで検索すればもっと見つけることができるだろう。遠野も転訛した一つかもしれない。
 「田野」で検索すれば、314件の結果が表示されるほど、全国に分布する地名である。
 吉田東吾の大日本地名辞書では、田野々が1件(この大正だけ)だが、田野・多野となると10か所以上である。それなりの出自があることだろう。
 
 田野々の語彙を調べてもなにもない。田野をみると「田・野」とあるだけである。各地の田野々をみてみると、山間地に位置する棚田のある風景であり、豊かな水の流れる暮らしである。
 ちなみに、大正村と同じように大正年号を冠した村名をあげてみる。現在では全ての名称が合併で消えている。
  • 北海道河西郡大正村(1915(T4).4.1)現在は帯広市
  • 神奈川県鎌倉郡大正村(1915(T4).8.15)現在は横浜市
  • 大阪府中河内郡大正村(1913(T2).7.1)現在は八尾市
  • 奈良県南葛城郡大正村(1915(T4).1.1)現在は御所市
  • 鳥取県気高郡大正村(1917(T6).10.1)現在は鳥取市
  • 広島県芦品郡大正村(1913(T2).2.1)現在は府中市
  • 長崎県南高来郡大正村(1926(T15).7.1)現在は雲仙市
■「野々」地名の不思議
 田+の(助詞)+野と解釈すれば由来を考えることもないが、「〇野々」の地名をよくみかけるので、「田」と「野々」と二つに分けて考えてみる。田でなく「野々」に地名の意味をみつけてみるのである。
 そういえば町内には「古味野々」、「野々川」や「神野々」があり近くには「市野々(黒潮町)」や「姫野々(津野町)」、「鍵野々(津野町)」、「宮野々(中土佐町)」、「槇野々(中土佐町)」がある。電子国土Webで「野々」を検索すれば397件、全国各地で見出せる。特に多いのが市野々で53件ある。同一地区で重複する検索結果もあることから正確ではないが、北海道から宮崎県までまんべんなく分布し、東北地方特に山形県に多く見られる。
「ノウノウ」は神への祈り
 黒潮町の市野々は修験道の霊山「御所の峰」の麓にある集落で、巫女のイチに関連する地名と思われると他のコラムで述べたところである。  →Vol.05:「イチ」の付く地名の謎
 筒井功氏もイチの研究のなかで黒潮町の市野々について言及しているが「野々」の説明はない(「葬儀の民俗学」p168~)。
▽全国の「市野々」地名
山形県米沢市市野々、山形県新庄市市野々、山形県尾花沢市市野々、山形県小国町市野々、福島県喜多方市市野々、千葉県木更津市市野々、千葉県いずみ市市野々、新潟県糸魚川市市野々、石川県野々市市野々市、和歌山県那智勝浦町市野々
 
 この「野々」の前にくる「姫」も「宮」も「槇」も神仏に関連する用語である。
 また、子どものころ「のーのーさん」と神様仏様を幼児言葉で呼んでいた記憶がある。「のーのー」は「野々」のことのようだ。高知県方言辞典にも「のーのー(p471)」の項に『【幼】神様・仏様。梼原・中土佐・窪川』とある。

  

 「地名用語語源辞典(楠原・溝手)」では『巫女に関する地名か。信州では巫女のをノノということからである。』とある。巫女研究の第一人者の中山太郎が「信州の北部では巫女をノノーといっているのに反して、南部ではイチイといっているという(日本巫女史p270)」というのを引用したのだろう。中山氏は同書で「信州は古くから巫女の名産地。信州では口寄巫を一般にノノウと呼び、神社に属して神楽を奏する巫を鈴振ノノウと云ふ」と日本第一の巫女村である禰津村のノノウ暮らしについて詳しく述べている。

 柳田國男は「 沖縄では花がノウノウ、肥後の葦北郡でも花をノウノウ又はナナ、同球磨郡には美しいをナナカという形容詞も出来て来て、伊豆新島でも供花がノンノウであるといふ・神仏などを拝む人の言葉が常にナウナウを以て始まる」と述べ、ノウノウが単なる幼児言葉や方言だけでは説明できない古い言葉のようである。

 ノウノウが大和言葉で説明できないこと、沖縄から北海道まで分布することから縄文地名、アイヌ語地名ではないかと考えて「沖縄地名考(宮城真治著)」、「地名アイヌ語小辞典(知里眞志保著)」、「北海道蝦夷語地名解(永田方正著)」を読んだが理解に至らなかった。

 Webで検索したら「アイヌ語電子辞書(管理者:東京都八王子市 富田隆氏)」のサイトがあった。 「nonno : 花」とある。

 柳田國男も花をノウノウと沖縄や熊本県葦北郡でいっていると説明している。

 「田」について説明する必要があるが、地名を学ぶ基本は漢字でなく音韻である。 「タ」は①平の意で、耕作用地の意に用いられる。②ヘタ(辺)、ハタ(端)のタ、遠近を表すアナタ、コナタのタがあり、場所を表すタがある。

 タが本来的に水田を表す語ではなく、タ・トに同じく場所、地面、平坦地一般を同源の派生語であると述べていること(民俗地名語彙辞典)に理解する。

 

「たのの」は熊野神社の神領地?

 高知新聞夕刊(2007年9月25日付)の「土佐地名往来」に田野々が紹介されている。片岡雅文記者の署名連載コラムは、現在まで県内各地600ヶ所を現地踏査し記事にしている。詳しく知りたい方は

→当hp「地名データブック」から地名と連載日、その要約を。詳細は県立図書館・高知新聞データベースを

 片岡氏は記事で「大正町史 資料編」を引用し「田野々村は、中央に丘陵(森駄場)を残し、旧河道跡に平地が開けた地形であり、地名の『たのの』は『たなの』がなまり変わった言葉で、段丘のある開き地に由来」と紹介するにとどめている。

 確かに上山郷に入ってきた田那部一族がここらあたりでは開けた土地であり「たのの」と名付けたかもしれない。

 

 大正地域には、縄文遺跡はあるが弥生遺跡はまだ見つかっていない。農地も少なくその大部分は山林である。縄文の語が色濃く残っている土地、佐賀の熊野浦から市野々をとおり、上山郷に入ってきたことを「熊野神社」と関連付けてて、平坦な神領地と理解したい。今の段階での推理である。

  


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