Vol.16 川の名はこうして付けられた

20160719胡

 

■ 川名はどうして生まれたか 

 川の名称が、どのような由来で命名されてきたか。
 四万十川の名称の由来の論争は数々あったが、だれが、どうやて、どんな思いで命名しているか。命名の動機のもととなる文化の流れとして、近隣の九州文化圏(5県)、瀬戸内文化圏(3県)の一級河川の川名ルーツなどを示し検証してみる。
 参考資料は「日本全河川ルーツ大辞典(略:河川ルーツ)」と「電子国土Web」と河川名の検索を資料とした。
 日本全河川ルーツ大辞典の『四万十川」の項では「数にして四万(よんまん)十(とう)の流れと言っておこう。川筋十一か村を育んだ母なる川と慕われ暴れ川と嫌われた川』と川名のルーツに書かれている。ちょっと物足りない説明であり、他の河川も心配するところではあるが、全国の河川を網羅した労作であることは疑う余地はない。
 他の資料で補完しながら話を進めることにする。
まず、九州、中四国の一級河川を命名の根拠となる事項別に分けて説明を行う。
次に高知県の全河川を同じように一覧表で示し「命名癖」を考えてみることにした。
■九州、中四国の一級河川
▽為政者統一地名(3河川)
重信川(しげのぶ/愛媛県):伊予灘に入る。松山城主加藤嘉明の重臣足立重信が慶長の頃、河川改修しそれまで伊予川といっていたのを彼の没後、重信川というようになった(河川ルーツp840)【功績者名】
筑後川(ちくご/福岡県ほか):利根川(坂東太郎)・吉野川(四国三郎)とともに日本三大暴れ川のひとつと言われ、筑紫次郎の別名で呼ばれる。上流部では田の原川・杖立川・大山川・三隈川とも呼ばれる。過去には、千年川(ちとせがわ/今でも地元では使用)、一夜川(いちやがわ/室町時代に初見。洪水で豊穣地が一夜にして荒れ地)、筑間川(ちくまがわ/筑前、筑後の中間を流れる)とも呼ばれていた。
 1636年(寛永13年)に江戸幕府の命によって河川の名称を「筑後川」に統一せよという幕命が下った。この評定では「筑前川」というところを誤って「筑後川」といったという逸話がある。しかしこの名称は筑前・筑後・肥前三国の国境を流れる河川に付けられた名称であり、上流である豊後国内では呼ぶことなく今でも三隅川である。国土地理院地形図でも日田市に入れば「三隅川」「大山川」でもっと上流に行けば小国町・杖立温泉の「杖立川」である。
 1636年の評定で口が滑らなかったら多分「筑間川(ちくまがわ)」となったことだろう。(河川ルーツp851ほか)【幕府の評定】
緑川(みどり/熊本県):宮崎県境の上益城郡清和村を源に、下益城郡を通り、熊本平野の南部をうるおし、有明海に至る。伝説では、源為朝が東上する途中、緑色の直垂を洗ったことから緑川の名がある(河川ルーツp896)【伝説】
▽下流域の地名(12河川)
木野川(きの/広島県):近世村落・木野村(周防・小瀬村/小瀬川)による。『続日本紀』の国境河川・大竹河であり、狭郷なる地を意味する河川ルーツp754)【地域名】
太田川(おおた/広島県):河口部は顕著な三角州で通称本川と呼び、古代安芸・佐伯郡界。太(ひろ)い田の意。上流域で柴木川、滝山川など(河川ルーツp754)【下流域の地形形状】
 2004年(平成16年)10月1日 、平成の大合併で山県郡加計町、戸河内町、筒賀村が一緒になり安芸太田町が成立するが、もとの太田川に因んでつけられた町名である。【下流域の地形形状】
芦田川(あしだ/広島県):備後の中心河川。『続日本紀』に品達郡より分置され芦田郡となり「和名抄」の国府所在郡。芦品郡は二郡が合併したもの。世羅郡に源を発し福山市箕島で燧灘に注ぐ河川ルーツp768)【郡名】
土器川(どき/香川県):上流は琴南町の山地に発し、下流は津野(つの)郷の一部で古くから土器を作る者が住んでいた(河川ルーツp803)【職能集団名称】
吉野川(よしの/徳島県):四国三郎と呼ばれ、愛媛・高知の境瓶ヶ森山に源を発し大歩危の峡谷を経て徳島平野を貫流。阿波拾遺集に「川岸はヨシやアシにおおわれていたので芳の川」と称したとある。又高越山が吉野蔵王権現の分身であることから、その名にちなんで吉野川となったともいう(河川ルーツp807)
 徳島と和歌山の地名関連もふしぎである。「那賀郡・那賀郡」、「海部郡・海部郡」、「牟礼・牟婁郡」、「勝浦郡・那智勝浦町」など【下流域の植生形状】ただし高越山説なら中流域となる。【下流域の地形形状】
那賀川(なか/徳島県):那賀郡木頭村大字北川に聳える石立・行者・赤城尾の諸高山の水を集めて木頭村を貫流し那賀川町大京原より中島港に注ぐ。川の名称は古代この地帯は長の国に属し、近世に長を那賀とかいたところからの川名(河川ルーツp815)
 古代の阿波は、北方に粟圀、南方に長圀があった。粟族の中心地は名西山分の神領、長族の中心地は名東郡 佐那河内地方であった。部族統制の中央政府が置かれていた佐那河内の「府能」も本来は「府野」で長族の政府の所在地であった。そして長族については次第に東南に発展していき、郡に「那賀郡」、川に「那賀川」の名を今に伝えている。長族の本拠地は佐那河内地方(中流域)であるが命名時期を判断し下流域とした。【郡名】
遠賀川(おんが/福岡県):古事記に記されている岡の水門。今の芦屋浦で海に注ぐので岡川を遠賀川と書き呉音で坊主読みしてオンガ。流域の石炭を運ぶ五平太船は最盛期6千5百隻といわれた。石炭を洗って真っ黒になった鮭も上らないかつての川も、今では本来の川に戻り九州で唯一鮭が遡上する川となった。(河川ルーツp859)
番匠川(ばんじょう/大分県):番匠とは中世の大工のこと。江戸時代の佐伯城下への関門に当たる川岸に番匠の集落がある。この付近から河口までを番匠川という。いま、上、中流部を占める本匠村(ほんじょうむら)は合併のさい番匠川の本であるの意で名付けられた(河川ルーツp910)【職能集団名称】
大分川(おおいた/大分県):遠く湯布院町の水分峠から発し、別府湾に注ぐ大川。大分とは古くは碩田(おおきた)と書き、大きい田の意。一説には豊前と豊後に大きく分けたことによるという(河川ルーツp914)
 古くは堂尻川、寒川とも呼ばれた。豊後国風土記には「大分河オホキタガハ在郡南」とある。【古地名】
大淀川(おおよど/宮崎県):鹿児島県曽於郡末吉町北西部の山地に源を発し、宮崎市に於いて日向灘に注ぐ。県内最大の川。大阪府淀川と同義、淀む川河川ルーツp934)。名称の地形形状から下流域の地名に区分【下流域の地形形状】
肝属川(きもつき/鹿児島県):肝属郡の名をとっている。現在の肝属郡は大隅半島の三分の二を占めているが、古代の肝属郡は南部に限られていた。田代町に君付(きみつき)という地名があるが、肝属はこれと関係があるかもしれない(河川ルーツp946)【郡名】
川内川(せんだい/鹿児島県):下流の川内市の名から起こった。川内は古くは、千台、千代、仙台などとも書かれた。川内市の昔国分寺や国府のあった所は台地で、下台部落や台という姓もある。千台という地名はこの台地から起こったのでは(河川ルーツp950)【下流の古地名】
▽中流域の地名(4河川)
高梁川(たかはし/岡山県)新見市、高梁市を流れて、倉敷市で水島灘に注ぐ。もと高橋を松山に改め、明治2年高梁と改める(河川ルーツp736)かつては、河島川・川辺川・総社川・松山川・板倉川・宮瀬川など時代や地域によって様々な名称で呼ばれた。明治維新後の廃藩置県では伊予松山藩を松山藩とし、備中松山藩は高梁藩と呼称を改められて現在の高梁市の前身。「備中誌」に「昔は城下の名を高橋といえるが、元弘(1331~33)の頃、高橋又四郎居城の時より高橋を改め松山といえるよし山の名を取て土地の名としたる也」【藩名】
肱川(ひじ/愛媛県):流域は四郡に及び、伊予灘に注ぐ。肱をまげたように曲流しているので、この名があるといわれる。また、比志城(大洲城)築城の人柱となた「おひじ」という乙女の名をとったという伝説もある。ヒジは泥地、湿地の古語(河川ルーツp837)【中流域の地形形状】
菊池川(きくち/熊本県):阿蘇の外輪山西北麓である菊池市深葉を源に、菊池・鹿本の平野をうるおし、玉名に入り、有明海に注ぐ。流域には古墳や遺跡が多く古代に豊かな文化が栄えた。山鹿川、高瀬川など別名も多い(河川ルーツp894)【郡名】
大野川(おおの/大分県):大分市の広大な原野をうるおす文字通りの大川。源流は遠く直入郡萩町(現在の竹田市の一部)から発する(河川ルーツp911)
 天平12年(740年)頃の『豊後国風土記』に「悉皆原野也因斯名曰大野郡」とあり豊後国の8つの郡のひとつが大野郡とある。大野郡の名は、大部分が原野であったことから名付けられたとされる。大野郡の源流域に直入郡があることから中流域の命名意図とした。【郡名】
▽上流域の地名(5河川)
佐波川(さば/山口県):上流は佐波郡徳地町柚木。一説に鯖を産出するからというが、上流にある鯖河内という地名からではないか。周防山地の野道山に源を発し、防府市街地の西を通って周防灘に注ぐ(河川ルーツp775)【郡名】
矢部川(うあべ/福岡県)八女郡が上妻郡、下妻郡と分かれた時代郡の深山中に八女が訛って矢部と称して残った。福岡県八女市矢部の三国山に源を発し、有明海に注ぐ(河川ルーツp850)【郡名】
白川(しら/熊本県):阿蘇の麓から発し、白水村を通り、熊本市で島原湾に入る大河。川名は白い清冽な水の色を示す(河川ルーツp890)。南阿蘇村湧水群の一つに白川湧水(阿蘇郡阿蘇村大字白川)があり「白川吉見神社」境内から湧く名水百選。上流域で「黒川」と合流、熊本市では「緑川」があるなどカラフル。【源流域の地名】
球磨川(くま/熊本県):九州背梁山脈に源を発し、球磨盆地を抜け、不知火海へ注ぎ込む。麻を求めて川を遡上したために命名されたとの由来がある。クマは川隈のことでもある(河川ルーツp901)【郡名】
 球磨郡水上村の石楠越(標高1,391m)及び水上越(標高1,458m)を源流
山国川(やまくに/福岡県・大分県):名勝耶馬溪(やばけい)に発し、沖代(おきだい)平野をうるおす。耶馬溪は山さかしいところで、古くから山国という。河口で中津川と分かれる(河川ルーツp919)【古名】
 江戸時代は河口近くの村名から高瀬川。古くは御木川(みけがわ/流域をミケ郡(後に上毛・下毛に分割)
▽河川の地形・景観地名(3河川)
旭川(あさひ/岡山県):旭のよく当たる土地を流れる川。大山の南方蒜山を源とし、岡山県中央分を南流、瀬戸内海に注ぐ(河川ルーツp740)。別名は、朝日川(異字体)、簸川(ひかわ/古代の呼び名)、出石川・鹿田川・伊福川・建部川・上道川・居都川(庄郷名に由来)、勝山川(勝山藩に由来)、高田川・久世川(主に美作国域での呼名)【佳名】
吉井川(よしい/岡山県):源を芦田郡の山中から発し、児島湾に注ぐ。川名は良い川水であるようにとの嘉字川名(河川ルーツp746)。赤磐郡吉井町は昭和の合併で発足した町名(現赤磐市)【佳名】
五ヶ瀬川(ごかせ/宮崎県):延岡市で日向灘に注ぐ川。古来、五つの急な瀬があったのでこの名称がおこったといわれる。上流は景勝高千穂峡(河川ルーツp928)。源流域に宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町があるが1956年に発足した昭和の合併自治体名称(鞍岡村・三ヶ所村)【地形形状】

▽不明(1河川)

小丸川(おまる/宮崎県):椎葉村南部山地に源を発し、高鍋町に於いて日向灘に注ぐ。(河川ルーツp931)

河口の高鍋町に小丸という地名があるが、地区名と河川名称のいずれが先かは不明。

 

■結語

 九州(福岡県・熊本県・大分県・宮崎県・鹿児島県)と中国(岡山県・広島県・山口県)と四国(高知県を除く)の一級河川、28河川の川名の由来を中心にまとめてみた。

 命名にあたって流域的に影響のあるのが「下流域」(12/28:42.9%)、「中流域」(4/28:14.3%)、「上流域」(5/28:17.9%)。下流域の郡名等が反映されたのが半数近くになっている。

 「郡・藩名」が関連するのが9河川(32.1%)、「地形形状」が6河川(21.4%)となっている。

 またピンポイントの地名が川名に反映されているのは木野川(広島県/山口県では小瀬川)で河口から5km上流の対峙する地区名称である。河川名称など為政者が決めるものが多いと思ったらそうでもないらしい。筑後川の名称決定の過程である。江戸幕府の老中が藩の責任者を集め評定で決定したというから驚きでその後日譚は面白い。

 

 川名は流域や支流により違ってくるのは「利用地名」としてあたりまえである。県域を越えたら別の名称と言うのは大いに認知もされている。やかましいのは国土交通省だけかもしれない。時代によって大いに変わってもくる。

 地名は生きている。

 

 

 

高知県の河川は第2弾として次回とする。


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