興津

おきつ


20150608初

20161112胡

【沿革】

 「與津」という地名が歴史に現れる最初は圓蔵寺の記録(鐘名)で「土佐国幡多県仁井田与津村圓蔵禅寺住持比丘自伝、于時応永十八年辛卯十一月一日(1411)」と刻んである。一条家の政所もありここを拠点に仁井田庄を支配していた(窪川町史p67。1970刊行の旧窪川町史)。

 長宗我部地検帳は「與津之村」の簿冊と「浜ヤシキ、八幡ノ前、シマトノ村、塩浜」の簿冊に分かれている。

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)では「與津浦」、南路志(1813)では「與津村」とある。

 昭和23年5月3日、與津村を興津村に名称変更

 昭和30年(1955)1月5日、高岡郡興津村は、 窪川町・松葉川村・仁井田村・ 東又村と 合併し新設「窪川町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。  

 

【地誌】

 旧窪川町の南東部。土佐湾西岸の景勝地で、土佐十景の一つにも数えられた。西は幡多郡黒潮町に接する。県道52号興津窪川線はトンネルバイパスをはじめ1.5車線として改良が進められている。地域は郷分と浦分と島戸と小室の四総代制度により合併後も住民自治を行っている。総代の下に区長としての地区を設けている。後川流域に開けた郷分はミョウガをはじめとした施設園芸農業が盛んで、生産高が20億円を超えるようになった。郷分の集落は後川の流域に形成され、小市街地をなす。集落内の竹の生け垣が美Lく、県のふるさと保存地区に指定されている。浦分は土佐湾に突出した三崎半島の付け根の東側で、天然の良港をもち郷分同様小市街地を形成する。小室は三崎半島の東側に位置し、歴史的にも有名な小室の浜と漁港がありその周辺に集落を形成している。興津県立自然公園の中心をなし、三崎山のある三崎半島からの眺めは雄大で、岩礁も多く磯釣場として知られる。

 小室の浜は、三崎半島の西に東西3kmにわたってのびる白砂青松の入江で、沖合い数百mまで遠浅で、海水浴場であるとともにキャンプ場としてシーズンにはにぎわいをみせる。近年はスキューバーダイビングやシーカヤックなどの「マリンステーション興津」が開業した。環境省の日本の快水浴場百選に選定。

 また興津八幡宮の秋の大祭古式神事は県無形民俗文化財。町役場興津出張所・四万十町興津観光協会・興津小学校・興津中学校・興津保育所・興津児童館・興津町民会館・診療所・デイサービスセンターさくら貝・興津漁協・興津大敷漁業生産組合・四万十農協興津支所・興津郵便局・窪川消防団興津第3分団・窪川警察署興津駐在所・八坂神社・高野山真言宗西宝寺・真言宗醍醐派正法寺などがある。南海トラフ巨大地震による津波対策として、避難路や備蓄倉庫、避難タワーが整備されるとともに、興津小学校を中心とした防災教育も全国的に有名となった。

 高知県神社明細帳には與津村の郷社・八幡宮の段に「宝永四年十月四日(1707年10月28日)地大震ノ時為怒涛流失」とあり、また熊野神社の段には「嘉永7寅年11月5日(1854年12月24日)地大震入潮ノ節神端アルヲ以テ大波別神社トモ云」と記述し、二つの大地震を伝えている。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真全体が興津地区)

 

 

 

【地名の由来】

 昭和23年5月3日の憲法発布記念日を期し、「地方公共団体名称変更に関する条例」を與津村議会に提案し、旧村名與津村(ヨツムラ)を新村名興津村(オキツムラ)に変更した。

 名称変更の理由については、村誌に次のように記載されている。

 「古老曰、本村に御室濱(オムロノハマ)、嶌戸濱(シマドノハマ)、杓子濱(シャクシノハマ)、荒平濱(アラヒラノハマ)と四濱アルヲ以テ往時四ツ村、四ツ浦ト呼称セシメ年号干支詳ナラズ與津ノ文字に革メシト」あり、しかるに御室濱、嶌戸濱は平坦なる濱をなすも、杓子濱、荒平濱は近年殆んど其の影さえ想像するだに困難なる状態にまで沈降して付近一帯リヤス式海岸の形態をつくりつつあります。(中略)新憲法に則り、民主、平和の理想郷を建設せんとする、之れが為には従来の封建思想を打破して人心を更新せざるべからず、其の第一義として村名を改革せんとするものである。すなわち

興津村(おきつむら)

興=漢音キョウ 呉音コウ 訓オク、オコル、ハジマル、生ズ、高マル

字源①衆人共同して事を行ひて盛に起こす②とかき、悦び、楽しむ感興

津=漢音・呉音(シン、ツ、ワタシバ、アツマル 津津浦浦

 故に興津というは、海辺の人達が共同して村を盛んに起こし悦び楽しむ事となる。

※詳細は新窪川町史p422を参照

※窪川町史(p132)は「村名の改称を昭和23年4月」としているが誤記載では

 與津村は、島戸、小室、杓子、荒平の四津の村(津。船舶停泊所・港・湊のこと)から成っていたことから、四津ノ村から転訛し与津村(與津村)になったのだろう。興津坂を越えた先が与津地であることからもうかがい知れる。

 昭和の合併では十和地区の大字「四手」も「昭和」に、平成の合併では大正地区の大字「四手ノ川」も「希ノ川」に改称した。「四」が「死」をイメージすることから嫌ったものであろうが、死生観の変遷というものだろうか。

 それにしても興津の命名に「海辺の人達が共同して村を盛んに起こし悦び楽しむ事となる。」として「与(與)」に「興(興す)」を当てたのは座布団一枚である。

 ちなみに全国の興津村は、千葉県下埴生郡興津村、千葉県夷隅郡興津村、茨城県信太朗郡興津村、静岡県庵原郡興津町、石川県河北郡興津村にあったが明治の合併で消滅し、現在では大字名で残っている。その他、北海道釧路市興津、北海道苫前町興津などがある。

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 荒平山、池ノサコ石橋ノ前、磯佐古江見山、船倉、大戝野、島戸岡ノ前神子ケ谷、神子ケ谷山、神子谷山、北銭神山、呉石、島戸小室里屋敷、塩木山、島戸浜林、島戸山、新塩木、新川神母野、新六川、瀧ノ下、田代田代立花、角屋敷、中新開、馬場屋式東屋敷古川松尾地、松尾地山、松崎、松ノ前、三崎続山、南銭神山、水主屋敷、六川、六川山、向山、元地、元谷山、元地山、元脇、森ノ前、焼木谷山、焼木水谷山、山崎、山崎山、芳ケ谷両島田、両島田山、湾ノ内【55】

※字マスターでは「神母野」をジンボノと読んでいるが「イゲノ」と読む

 

(字一覧整理NO.順 興津p143~144/興津乙p177~178)

 土地台帳の調査は、島戸集落から始まる。郷分の「元脇」に入り後川の「呉石」に付くと、上流の「六川」まで遡上し、下ってから一旦は新川の流域の「山崎」に入り、それから郷分の「東屋敷」にきびすを返す。その後、浦分、小室となる。

 1島戸、2島戸、3元脇、4瀧ノ下、5元地、6呉石、7松尾地、8神子ケ谷、9両島田、10六川山、11上木戸、12森ノ前、13里屋敷、14田代、15岡ノ前、16山崎山、17松ノ前、18船倉、19神母野(いげの)、20東屋敷、21角屋敷、22古川、23馬場屋式、24(欠番)、25中新開、26芳ケ谷、27松崎、28新川、29水主屋敷、30大戝野、31石橋ノ前、32小室、33湾ノ内、34森の前、35~38(欠番)、39立花谷、40(欠番)、41新塩木、42三崎山、43元地山、44島戸山、45塩木山、46松尾地山、47焼木水谷山、48新六川、49島戸浜林、50向山、51南銭神山、52北銭神山、53池ノサコ、54元谷山、55磯佐古江見山、56荒平山、57両島田山、58三崎続山、59神子谷山、60(欠番)、61南銭神山(再掲)、62六川、63田代、64山崎、65神子ケ谷山、66焼木谷山、67岡の前

※「7松尾地」はホノギ・マトウチの転訛ではないか

※「11上木戸、34森の前、42三崎山」は字マスターにない。

※「29水主屋敷」を字一覧ではミナモヤシキとルビを振っているが「水主」はカコ(水手:下級船員)と読むのが一般的である。全国の城下町・港町に所在する地名。高知市舟入川に「鹿児(かこ)」

※「2小室」を字一覧ではコムロとルビを振っているが「オムロ」

 

 

【ホノギ】與津村(浜ヤシキ、八幡ノ前、塩浜)・シマトノ村

 検地は大鶴津村のあと、與津之村に入る。最初の検地は「サトウカ谷」、「シヤクシ」「ス子コスリ」となっているが比定できない。

 ▼是ヨリ興津之村(仁井田之郷地検帳p122~130/検地日:天正16年2月5日)

 サトウカ谷、シヤクシ、喜介ツクリ、ス子コスリ、ヤキイイタ、山サキ、丸タ、ヲカサキ、山崎池、ケンタンチ、ススタ山、カニタ山、ヲキタイ、カセ、四良五良サイノヲ、リヤウトクタ、スケノ木、地蔵テン、ナカレタ、モトモリ、中タ、スケノ本、コサイノヲ、松ノ前、江フチ、フカタ、カメタ、ウサイツクリ、川シリナワテ、川原サキ、ヲチツキ沢、山ノ子、タチハナ、木ノ谷、イルノモト、クロヨリ、水クミタ、カウタ

 ▼是ヨリ是ヨリムカウ北ノ谷セイモトヨリ付(p130~132/検地日:天正16年3月9日)

 山神ノオク、ヲチツキ、シヤウロクタ谷、ナカハタケ谷、小ツヱ、タヲノ本、ナカハタケ、コツヱ谷、シンクワ、スキヤウノ谷、中マヤシキ

 ▼是ヨリリヤウシマタノセイモトヲ付(p132~137)

 リヤウシマタセイモト、コリヤウシマタ、チヨカサコ、シロハタケ、イツノ谷、イケノサコ、コミ子、シワハタケ、ヱンノ下、レイセンアン寺中、タキ本、イケ、アンノ下、タシロヤシキ、シンテンヤシキ、山ノ下、シモ谷、ムカワクチ

 ▼是ヨリミコノ谷ノセイモトヨリ付(p137~)

 ミコノ谷、コリヤウ谷

 ▼谷川ヨリ南ノ山ノ根ヲ付(p137~138)

 タイトウシリ、東谷二谷

 ▼是ヨリ谷川ヲ南ヲ付(p138) 

 ツルツタ、ミコノ谷口、ムカウクチ、シハ

 ▼是ヨリマトウチ谷ノセイモトヨリ付(p138~139)

 マトウチ谷、タチハナ木ノ谷

 ▼是ヨリ是ヨリ谷川ヲ南ヘ渡テ付(p139)

 カトアセ

 ▼是ヨリ谷川ヲ北地ヘ渡テ付(p139~142)

 シヤウケン、マトウチ、松田クチ、子キツクリ、ケシワ、田シロクチ、タテワラ、ワリコテン、カトホコテン

 是ヨリ田シロ谷ノセイモトヨリ付(p142~)

 タシロ、ソカテン、キシノ下、ヒシリテン、薬師テン、サラタ、道フチ、タテワラ

 ▼是ヨリ川ヲ西道ヘ渡テ付、是ヨリ川ヲ東ヘ渡テ付(p145~147)

 山本、カワコツクリ、クホカワタ谷、ヒキキナリ、ヲクイケ、■クミハ

 ▼是ヨリ跡ヘ返テ山本ノ下ヨリ付(p147~152)

 ソ子タ、モリノ前、中谷、円蔵寺寺中、イケタ、フンスキ、シヤウケンチ、横田、ケシワ、清水川、東ノウシロ、ヲカノマエ、カウクホ、神ノマヱ、クモチ、水クミハ、ワカタラウ、イケ野、ヨコタ、タンコチ、コウタ、カリマタ、

 イケノ、ヒキツクリ、松ノ前、カケユツクリ川、フ■クラ川、井リヤウ、コンケンチ

 ▼是ヨリ跡へ返テヲコタラウヤシキヨリ付(p152~154)

 ヲコタラウヤシキ、桜木ノモト、マトコロ、ツクラフチ、カイヤノ後、大坪、クロイソ、キヤウテン、クロソエ、鍛冶ヤノ後、筆付、阿弥陀寺ノ前

 ▼是ヨリ跡へ返テ付(p154~155)

 舟クラ、ツユノハナ、シミツノ前、セカケテン、シンカイ塩田

 ▼是ヨリ川ヲ東ヘ渡テ付(p155~156)

 ウチフナクラ塩田、ソウノチヤシキ ※「ソウノチ」から「財野」へ転訛?

 ▼是ヨリヨシカ谷ヲ付(p156)

 ヨシカ谷セカメ谷 ※「セカメ」から「銭神」へ転訛?

 ▼是ヨリトウケイ谷ヲ付(p156~157)

 浜ノムカイ、トウケイ谷

 ▼是ヨリ湊ヲ南路ヘ渡テ大谷ヲ付(p157)

 大谷、フルノ谷

 

〇浜ヤシキ

 ▼是ヨリ浜ヤシキ(仁井田之郷p271~283/検地日:天正16年11月29日?) 

 シモヤシキ、シモカチヤ、トウシアン、海蔵寺寺中、西町、東町、西町、惣地アン、又東、刀禰ヤシキ、東ノ浜、柳ノモト、西町、町ノ丸ヤシキ、塩ハマ(是ヨリ原ヲ隔テ北ノ江フチヲ付)、北ハタケ、堂ノモト、クホ、十王ヤシキ

(15日)

 丸タ、ナワテ、ヲキフン、ヤシキタ、イシハシソトツツミ、塩田、宮林、八幡林、西東ノ丁、ツルイノモト、新ウチクチ、イシハシ、ヲキヤシキ、北サカリ、ヲカヤシキ、ウツシリ、ヒカシヤマ、鳥居ノ前スナヤシキ、神主ヤシキ

 ▼是ヨリヲムロノヲクヨリ付(p283~284)

 ハンノ内、ヲムロ

 

〇八幡ノ前(8日)

 ▼是ヨリ八幡ノ前ヨリ付(p284~285)

 八マンノ馬場フル川、カミフルカワ

 ▼是ヨリモトノ村(p285~286)

 モト東ノハシ、山ソイ、南溝

 ▼是ヨリハシ谷(p286~287)

 ハシ谷クチ、■トモレ、チサマカ、ヲリツキ、モトチ

 是ヨリモトワキサカノヲリ付ヨリ付(p287~290)

 モトワキサカ、キサノキ、クホヤシキ、ホキ本ヤシキ、サ子サキヤ子、ヲキヤシキ、サトヤシキ、新宮ヤシキ、シロ岩ヤシキ、祖子堂、ソシ堂ヤシキ、阿弥陀寺ヤシキ、清水庵寺中

 是ヨリ又跡ヘ返テ東ヤシキヨリ付(p291~)

 東ヤシキ、竹添ヤシキ、ノコチチンタヤシキ、阿弥陀寺ヤシキ、西ヤシキ、ヒロハタノ

 

 是ヨリシマトノ村(p292~293)

 シウチ谷、シマト、シツイ谷、テンシンノクホ、勝衛門ヤシキ、中川原、ムカイヤシキ、東カミヤシキ、センミヤウカヲ、ホシヤノヲ、カチハラ谷

 

〇塩浜

 是ヨリ塩浜(p293~295)

 ハンノウチ、川シリ   【次の検地は「是ヨリ与津地之村」】

 

【地検帳の寺社】

阿弥陀寺、円蔵寺、普歓寺、薬師寺

八幡、山神、カタイシン、聖宮、ソカ大明神、五社内森宮、新宮、イシ権現

 

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【通称地名】

 

 

【山名】

六川山(むかわやま/標高:507.7)

三崎山(みさきやま/標高:218.7) 

 

【峠】

興津峠(興津地区△与津地地区) ※注記

 

【河川・渓流】

後川(河川調書)

元谷川(橋梁台帳/後川2次支川元谷川)

小嶋戸川(橋梁台帳)

嶋戸川(橋梁台帳)

新川(橋梁台帳)

神子ヶ谷(字一覧)

不老が谷(国土地理院)

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

 

【ため池】(四万十町ため池台帳)

六川池

元地池

   

【城址】

與津城(土佐国古城略史/東伊賀守)

 

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

八幡宮/65はちまんぐう/鎮座地:馬場屋式

熊野神社/66くまのじんじゃ/鎮座地:大戝野

水神社/73みずじんじゃ/鎮座地:田代

天神宮/78てんじんぐう/鎮座地:島戸山

(旧:目倉神社)/79めくらじんじゃ/鎮座地:三崎続山

海津見神社/80わだつみじんじゃ/鎮座地:水主屋敷

八坂神社(旧:伴内神社)/83やさかじんじゃ(ばんのうちじんじゃ)/鎮座地:湾ノ内 

 


現地踏査の記録


地名の疑問

1)塩木山

 「塩木山」とは、天日で濃縮した海水を煮詰めて塩をとるために必要な薪の生産を目的とする山林。地検帳は田畑と屋敷地の検地であるため塩木山の記録はない。

 

2)杓子濱と荒平濱

 興津の四つの浜として「嶋戸」、「小室」、「杓子」、「荒平」の記述が興津村誌にある。島戸と小室は現在も湊としての設えがあるが杓子と荒平は現地確認ができていない。

 

▼しゃくし(杓子)

  「杓子」は、字名にはないが、長宗我部地検帳のホノギとして「シヤクシ 一所十二代 出卅八代二分 中田」がある。大鶴津村の検地を終え、與津村に入った最初の検地の記録として「サトウカ谷」の次に「シヤクシ」とあり、比定されるホノギ「山サキ(山﨑)」より先に検地されていることから新川の最上流部の農地であろうと想定される。

  ここからから標高18m程度の鞍部を越えるとすぐそこは太平洋であり、小さな浜辺となっている。ここを杓子の浜といったのだろうか。ただし、興津村誌に記述されている「杓子濱」も古老曰くの口伝であり文献史料の説明はない。南路志にも、川湊の一つが記録にあるだけである。南路志の江戸時代後期以降、隔地となるこの地に湊が設えたとは考えられない。

 「シャクシ」については、柳田国男氏の『石神問答』に詳しく書簡形式で紹介されている。サカ、サキ、サク、サイ、スク、スキ、ソウ、ソク、ソコなどはすべて隔絶の義であり、地境の意であるとしているが、谷川健一氏は「しかし、その一方、サクという語には土地を切り開く(裂く)という意味がある。(中略)塞の神であると共に、土地開拓、開墾にかかわる意味を持つ」と述べている。

 現地で確認しなければならないが、村境ではない当地では地境の意とは考えられにくいので、谷川氏の言う開墾にかかわる意味からシヤクシとホノギがなったのではないか。

 また、杓子は木地師の轆轤の椀とともに大切な木工製品でもある。ロクロ、六呂、六郎、小椋、筒井、木地などの地名とともに杓子も各地にある。

 

▼あらひら(荒平)

  「荒平濱」は、字名に荒平山とあることから、その周辺と考えるのが通例ではあるが、断崖絶壁の地で湊を構えることは困難な地形である。それでは、「荒平濱」はどこにあたるのか。小室濱を後川の川湊(南路志に記載される唯一の川湊)とすれば、消去法で現在の浦分漁港であろうと考えられる。それでは「アラヒラ」とは何を意味するのか現地踏査で明らかにしていかなければならないが、とりあえず文献による解釈をあげてみる。

 地名用語語源辞典(楠原・溝手)では、アラについて、①アラ(荒)で「荒々しいこと。勢いの激しいこと」②アラ(粗)、動詞アラケル(粗。散)などの意義から、とくに崖などの「崩壊地形」③アラ(新)で「新しい」の意④アラク(墾)からとくに「新墾地」などと説明している。又、ヒラについては平らから平地をイメージするところだが逆に傾斜地、崖を意味することもある。①崖②傾斜地。斜面③山の中腹④坂⑤岡⑥縁⑦平地・平原⑧自然堤防など。

 また地名語源辞典(山中)では、荒の字を用いた地名の中にもこの意味の当て字として使われているのが相当数あり、字義通り「荒々しい」意味に使った地名の方が、かえって少ないように思われる。荒井、荒木、荒田、荒堀、荒屋敷などの荒は新の意と説明している。

 興津の字名でもある「荒平山」は興津の東側の太平洋に面した興津メランジュで有名な断崖絶壁、その地形から「荒々しい崖の山」を表しているようである。

 ただし、ここでは湊の「荒平」であることから、荒々しい崖と解釈するのは不自然である。浦分漁港に流れる川は、「新川」という。アラは「荒」でなく「新」と理解したい。

 長宗我部地検帳の2回目の興津検地は「高岡郡仁井田郷」に「是ヨリ浜ヤシキ」として、ヤシキを中心にまとめている。そのヤシキの居住する者に舟頭、水主(かこ/水夫)、ハリヤ、刀禰(川舟の船頭)など漁労関連の職業名が多数見られるのことから、漁港として賑わっていたことがわかる。現在の字名の水主屋敷はここらから比定することができる。

 このように、浜ヤシキは浦分漁港付近でであり、「荒平」でると解釈したい。

 

■冠川と取尾坂、御輿礁と小袖礁

 一条房家が興津八幡宮に参拝のため滞在したとき奔走した馬を引き留めた場所が「取尾坂」で、途中、房家が冠を落した川を冠川と呼んだと窪川町史(p133)にある。御輿礁と小袖礁も物語のある地名だが、どこだろうか

 


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川Ⅱ」p)

 興津の村名について、地検帳はその書き出しに『是ヨリ與津之村』と記して今の與津郷分から検地に入っている。そして今の興津を”浜ヤシキ”と表現し、この浜ヤシキとヲムロは與津之村の中区分の姿をとっている。これに対して島戸は”シマト村”として一村の取り扱いをしている。

※佐々木氏はシマト村を一村とみているが、地検帳の内容から読み解くとそうでもないように考える。

 與津村の検地は、先に「仁井田之郷地検帳」として興津の北部の農地を検地(天正16年3月)し、2回目の検地として「高岡郡仁井田郷」の簿冊(天正16年11月)に残りを記録している。この地検帳では、検地高の集計として、「浜ヤシキ」ではヤシキと一部の畠をまとめ「合計弐町五段拾九代勺」としている。次に「十五日」の分として、今度は田とヤシキと畠をまとめ「合五町六段廿一代壱分勺」としている。その後に「八日」として「八幡ノ前」として、是ヨリモトノ村、是ヨリモトワキサカ、是ヨリシマトノ村と検地経路を示しながら田、ヤシキ、畠をまとめ「合拾壱町弐段廿八代三分勺」としている。

 このなかに「是ヨリモトノ村」とあるが、モトノ村とは與津村へ帰るということか、比定できる「元脇、元地」が元村(モトノ村)と呼ばれていたか、判然としない。今では、浦分、郷分、小室、島戸と四総代に区分されているが、当時はどうであったろうか。 

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p277)

 与津浦の四至として、與津村相隔一里餘東南滄海也西限鈴浦北限鶴津有東向港濶六町許戸凡百三十餘有舩数艘

 海岸として、松之櫛岩、伊津志岩、松岩、塩濱、御室濱

 山川は、堀川

 寺社は、海蔵寺、観音堂、西寳寺、八幡社、権現社、新宮社

 土産として「土岐曽綱(トキソツナ)とある。

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高554.488石、戸数251戸、人口1108人、男573人、女535人、馬54頭、牛48頭、猟銃12挺

 

■西郡廻見日記(1801享和元年:p)

 

 

■南路志(1813文化10年:③p289)

130與津村 仁井田郷 地五百六十二石一斗七舛七合

浦分家數百十一軒、人高四百四十人

〇船二十艘 漁船五・瀬船三・地引六・手操一・小船五

〇網二十四張 餌取五・鰯二・手操六・飛魚五・地引六

〇湊 川湊、東西横壱町斗奥行三町斗、干汐之時ハ小船も不出入、満汐に深五尺、(中略)宝暦七丑年大浪ニ崩るなり。

〇火立場 三崎

〇制札場 桁行弐間半、小枌葺 

(中略)

〇當村を幡多郡といふ事、初丁に詳かなれハここに不記 

八幡宮 ハチマン庵 祭礼八月十五日

(詳細は本文を)

新宮 イシハシ 社領八反、地検帳ニ有

権現 東山 正体石 祭礼八・九月十五日

明見 明見林 祭礼九月十五日

天神 嶋戸 祭礼九月十二日

河内大明神 嶋戸上谷

弁才天 松田口

山神明 大六川

峠之神 トウノ神林

目倉神 トウノ神林

天神 六川シモ池 

角甫子(かとほこ) 田代ヲサ

大宗我 田代ヲサ

小宗我 田代ヲサ

白王権現 白王谷

権現 浦分東山

夜薬師 薬師テン

高祖山普観寺 退転、本尊のミ残る。 (詳細は本文)

要津山圓蔵寺 禅宗久礼常賢寺末  (詳細は本文)

西宝寺 一向宗西本願寺末

 本尊阿弥陀仏 開基渡邉主税助  (詳細は本文)

海蔵寺 真言宗 退転、寺跡不知

阿弥陀寺 真言宗 退転、寺跡不知

古城 東山 東伊賀守居之、一條殿臣

大室濱 此濱ニ色貝有、国中第一の名品也

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

p112:興津、興津郷、後川、主要地方道興津窪川線、御渡橋、浦分橋、興津八幡宮、熊野神社、西宝寺、浦分漁港、Ю一本松

p111:興津、興津郷、後川、主要地方道興津窪川線、小室浜、興津海水浴場、小室湾、Ю古川

p109:興津、興津郷、後川、主要地方道興津窪川線、興津大橋

p108:興津、島戸

p115:興津、小室、浦分漁港、海津見神社、恵美須神社、龍宮神社

p114:興津、小室、浦分漁港、小室泊地、八坂神社 

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

 興津、郷分、浦分、島戸、小室、後川、不老が谷、小室の浜、小室湾、浦分漁港、興津岬、割岩、松が礁(まつがばえ)、一礁(いっし)、夫婦岩、押上り鼻、冠岬、六川山、三崎山、興津峠

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

興津(二等三角点:標高507.69m/点名:おきつ)興津字両島田山2433-1番地

郷分(四等三角点:標高9.49m/点名:ごうぶん)興津字上木戸3514番地

小室(四等三角点:標高7.38m/点名:こむろ)興津字小室2135番地

観音(三等三角点:標高218.69m/点名:かんのん)興津字三崎山2347-イ番地

 

■高知県河川調書(平成13年3月/p82)

後川(うしろ/二級河川後川)

左岸:興津字両島田2433

右岸:

河川平均延長:4,100m / 7.34Ak㎡ / 4.5 Lkm

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

小室橋(後川/興津字古川1502-2)

元谷橋(元谷川/興津字呉石341)

元谷川橋(元谷川/興津字呉石367)

呉石元橋(不明/興津字呉石373-2)

呉石下橋(後川/興津字呉石373-2)

寺口橋(後川/興津字呉石376-1)

後川橋(後川/興津字呉石376-1)

小袖岩橋(後川/興津字小室2135-イ)

小島戸橋(小嶋戸川/興津字小島戸40)

築港橋(新川/興津字松崎1864)

松崎橋(不明/興津字松崎1873-4)

松崎橋(不明/興津字松崎小以1861)

送迎橋(後川/興津字松尾地小以482)

浦分2号橋(不明/興津字新川1873-1)

浦分橋(新川/興津字新川1873-1)

興津浦橋(新川/興津字水主屋敷1892-2)

無名橋(不明/興津字大財野199)

大島戸橋(嶋戸川/興津字大島戸13)

東屋敷橋(不明/興津字東屋敷1308-1)

興津大橋(後川/興津字東屋敷1371-2)

無名橋(不明/興津字東屋敷368-2)

 

■四万十町広報誌(平成19年2月号) 

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わがまち ふらっと 探検記0700【興津】20070201.pdf
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