よくある地名の語源 「た」

20170923

だい・たい(ダイ・タイ・代・田井)【】

 柳田国男『地名の研究』は「ダイという地名の語は、音は同じでも地方によって、少なくとも三種の異なった意味をもつ」として①川沿い海沿いの段丘のごとき、上の平らな高地(台)②河内・和泉その他畿内の国々では、ダイというのは他の地方で組とか坪とか区とかいう(代)③東北諸県では、タイがサワに対した称呼で平・岱で傾斜地。

 高知県の小字で気になるのが「沖代」と「鯛ノ前」。長宗我部地検帳にもヲキタイ・タイノ前などのホノギも多く中世以前の地名。ヲキダイは沖代と漢字が当てられ、タイノ前など「タイ」地名には、沖・前・中・下など方位助詞が多いことから基準となる集落、柳田のいう枝村・小集落を意味するタイ=代ではなかろうか。土佐町に「田井(タイ)」という町一番の市街地がある。

 この田井について桂井和雄は「イイ(結い)とかテマガエ(手間替)などのことばでいう労働交換。田井などは忙しい田植時の労働交換の習俗を地名に伝えたものかも」という。高知では地主に従属した小作人を田子(たご)ということからも、田+結でタユイ→タイかもしれないが、長宗我部地検帳長岡郡本山郷の田井村に「タイノホキ」のホノギがある。ここは、単に小集落のタイ=代でいいのではないか。

 高知県内の「ダイ・タイ」小字が111か所で、長宗我部地検帳のホノギも多くみられる中世以前の地名。漢字でみれば、「代」21、「田井」9、「鯛」9、「台」4。接尾語でみたら、「タイノ内」5、「タイノ前」4、「タイ屋敷」4。接頭語では「中タイ」10、「沖代」9 、「小タイ」5、「下」4、「上」3。

 

 

だいし(大師)【】

  四国で「大師」といえば弘法大師のことだろう。ただ、四国遍路が弘法大師一辺倒のステレオタイプとなったのは江戸期以降のこと。中世以前の地検帳のホノギに少ないことからも推測できる。2年前に歩き遍路で熊野信仰の痕跡探しをやった。26金剛頂寺・38金剛福寺の補陀落渡海、38金剛福寺の一夜建立の華表(熊野)、39延光寺の山号赤亀山と奥院の修験道場、43明石寺の熊野曼荼羅、45岩屋寺図の王子詣と山号海岸山、47八坂寺の熊野修験根本道場、51石手寺の山号熊野山や石手寺刻板、67大興寺の熊野修験と胎内墨書、8熊谷寺など熊野が色濃い。  

 

だいしょうごんげんやま(大小権現山)【奥呉地△川ノ内△中土佐町/標高693.0m】

 

 

たいりょう(大領)【】

 律令制の郡司(ぐんじ)の長官。国司の下で一郡を統治し、大郡、上郡、中郡に設置され、多くは在地の有力豪族が優先的に任用され、終身官で代々世襲された。別の読みは、おおのみやつこ。こおのみやつこ。少領、主政、主帳を指揮する。

 

たか(鷹)【】 

 鷹ノ巣、鷹取、鷹狩などの「鷹」地名は多く、公家・武家の鷹支配統治の歴史を物語っている。

 県内小字は、鳶141、鷹57、鳩44。トビノス86、鷹ノ巣49、鳩ノ巣8と鳶が多いのは、「鳶」小字が暮らしに近いということか。

 谷川健一『日本列島地名逍遥』では「鷹ノ巣」はタタラ製鉄の関連で鉄穴師の住むところという。谷川健一は西岡好治の「鷹ノ巣=鉄穴師の居住地」説を引用するが、猟師の矢羽根採取の鷹ノ巣と理解していた。谷川の「中央構造線上に展開した歩き筋(猟師・木地師・鉱山師・修験者など)の漂泊の徒が南朝方を支え、平野の武家方に敗れ、山民の勢力は廃退」の説は縄文人として好き。

 子どものとき鷹や雉の羽根は宝物だった。矢羽根にしたりベートーベンをまねてペンにもした。暮らしに身近なのはトンビ(鳶)で、とび職や鳶口など日常的に使ってきた。鷹となると鷹匠や殿様のタカ狩りなど高尚なイメージがある。

 香美市夜須町羽尾には村社鷹羽神社があった。『土佐州郡志』には南国市上倉に鷹取権現社、大豊町の穴内には彦太郎鳥屋、長淵には鷹打鳥屋、大滝には鷹打部屋の亭榭が記録される。土佐町西石原、仁淀川町名野川大平などにタカトヤの小字地名があり、鷹打のための小屋をトヤ(鳥屋)といったのだろう。

 

たかす(高須)【】 

 桂井和雄『土佐民俗選集』は高須について「タカス、タカズ、タコスなどとよばれるが、この語も土砂の堆積してできた地形の称」として、高知市高須、大豊町高須、本山町田高須、土佐町高須、宿毛市二ノ宮・高石(タコス)を例示。タカスは「鷹巣」「鷹ノ巣」がダントツ多い。河川平地か山麓かで区分。

 

たかのすやま(鷹の巣山)【広瀬・飛地△四万十市/標高654.6m】

 

たきもと(滝本)【一斗俵地区内の集落】

 

たきやま・だきやま(滝山)【】

  滝には水の落ちる滝とともに崩壊地名の「ダキ」もある。特に赤ダキ・瀧山などは崩壊地名。異界の地から水が湧き出る「滝」は古来より神聖な場所であり、その滝壺は水神の住みかとして神格化されてきた。慄く対象であるとともに、ラウンドマークとして多くの地名が刻まれてきた。高知県ではタキは断崖絶壁の地形で、瀧の字をあてる。滝・滝壺はタル・タビ・カマと呼ばれたようだ。

 

たけ(竹)【】

  どんど焼きやカイツリには竹が使われる。その霊力や信仰性は竹冠の櫛・箕・籠などに宿るとともに、人の文化的な営みとして笑・笛・笙・竺、政治的にも範・策・答・籍など多様な支配の文字を竹冠の漢字にこめている。原始から有用な植物として育み、文明の発達とともに進化した「竹」の不思議について。

 「竹内街道」は、『日本書紀』にも見える飛鳥と難波を結ぶわが国最初の官道で、當麻寺の南に竹内古墳群や竹内の集落があり写真付近には仁徳天皇陵など百舌鳥古墳群がある。竹内とは竹+ノ内(垣内/カイト)で竹林で囲まれた環濠集落の意か。竹林は村里の原風景ではあるが、代表的なのは真竹(九州原産・節の環が二つ)、孟宗竹(中国渡来・節の環が一つ)、淡竹(節の環が二つ・茶道具)、女竹(河川沿い・農業資材)など。暮らしに必要な資材だが箕やエビラなど使う人も少なくなり、今やコメリのプラスチック製の安価品となった。竹林面積日本一は鹿児島県。ということは竹の加工技術も進んでいたのだろう。『日本書紀』に天武11年(682)、阿多隼人と大隅隼人が都(飛鳥浄御原宮)への朝貢を開始したとある。阿多隼人が竹とその加工技術をもって畿内に移住した、その歴史を刻む地名が奈良県五條市の「阿陀の里」。牧野富太郎の『植物一日一題』に「モウソウチクは中国から琉球へ、琉球からその苗竹を元文元年(1736)鹿児島に致さしめた。孟宗竹は漢名ではなく薩摩の俗称だが、今では我国の通名」。漢名は狸頭竹・貓弾竹だ。柳田国男『地名の研究』に「(岐阜県に)竹の花・竹の腰という字名が、かなり多い。軍略の必要からでたもので、実際に竹藪を立てて遠望をさえぎり、または人工的に切処(せっしょ)を設けたものかと思う」とある。

 高知県の「竹」小字は907か所で「竹ノハナ」は93か所と一番多い(竹ノ谷79・竹屋敷65・竹ノ下63など)。1日堀に行くのが遅れたら1mにもなってしまう。松竹梅の一角を担うのはこの成長に期待を込めてだろう。節と節との空間は、楽器になり、器になり、突き鉄砲の玩具にもなる。何といっても「竹取物語」、子どもが産まれてくるのだ。竹の霊力は黄金をもたらす。

 『民俗地名語彙辞典』はタケについて①高い山、岳、嶽②傾斜地、崖、地すべりの意。竹(タケ)はタカ(高)、タケル(長)の成長の意味であるし、シイタケ(椎茸)もその成長の早さからだろう。

 『地名語源辞典』には竹内(たけのうち)について「高い山で囲まれた内」の語釈があるが疑問。タケは岳・武・建・丈・嶽などの漢字が当てられ字義とおりの解釈は危険だ。300年も生きた武内宿禰は和歌山市松原が誕生地。

 

たけのたに(竹の谷)【大正大奈路地区内の集落】

 

たけのぢ(竹ノ路)【下津井】

 

たけひらやま(竹平山)【下津井△梼原町/標高682.4m】

 

たしろ(田代)【】

  昭和10年(1935)に出版された柳田国男『地名の研究』は地名解釈に関する論文を数種の雑誌に発表したものを集大成したもの。地名学徒の羅針盤と言ったところだが、その本の自序として冒頭で述べたのが「始めて自分が日本の地名を問題にしたのは、この本の中にもある田代軽井沢であった。」とあると述べる。『定本柳田国男集』の索引では5か所載せられているが、初出は明治42年(1909)の『山民の生活』で「中世の文書に見え又地名に多い田代という語なども、やはり田を作る予定地のことらしい。」と述べるなど、いずれも水田適地・水田候補地の意味で田代(タシロ)を説明する。

 柳田国男が『山民の生活』で「神には粢(しとぎ)なり神酒なり必ず米で製したものを供へねばならなぬ故に(中略)山中では田代の地が非常に肝要であった為に、自然地名と成って今日に残って居るのでありましょう」と述べるが、農務官僚・農本主義そのものの思考ではないか。ハレの日だけ米を食べたというステレオタイプの柳田民俗学のような気がする。 

 松尾俊郎『日本の地名』は「田代の地名は全国いたる所にあり、これには二通りの種類がある。一つは文字通りに、”田のある所”の意であり、他は、実際には田は無いが、山地の高所などの平坦地が、湿原的景観を呈して、タンボを連想されることからきたものである。」と述べ山地高所の湿原的景観の例も説く。尾瀬には田代が28か所、それも全て湿地・池溏だ「小淵沢田代(以下「田代」略)・曲り・タソガレ・フトコロ・セン沢・富士見・横・メッケ・オヤマ沢・外・背中アブリ・中・ヨシッ堀・下・赤・うさぎ・天神・西・横・ノメリ・上・姫・御池・スモウトリ・広沢・熊沢・東ノ・メラッパシ」。松尾俊郎が述べる「山地高所の湿原的景観」そのものだ。

 白馬岳は、残雪の形「代掻き馬」がハクバに転訛は有名。民俗地名語彙辞典は、網代(あじろ)・苗代(なわしろ)から田代は「田のある所」の意。全国に分布し、谷奥の谷頭的位置にあるという。確かに尾瀬には田代地名が多い。平安初期は田開発予定地の総称として「田代」を用いたという。全国に分布する田代地名は、網代・苗代・社(ヤシロ)の例のように田のある場所を示す地名と思っていた。しかし、田のない所にも田代が分布することを尾瀬の地図を見て気が付いた。尾瀬の景観はまさに田んぼを連想するものの。

 電子国土Webで田代を検索したら320件。ヒットするのは地形図に記載された大字や集落地名で、全国に分布するが岡山県・香川県・徳島県にはなく、高知県も中西部のみである。この傾向は小字57か所の分布にも表れ、高知県中西部の中山間地域に多く分布する。流域別では四万十川流域24,仁淀川流域19。郡別では高岡郡24、吾川郡15、幡多郡13、土佐郡4、安芸2。

 

だば(駄場)【大井川地区の集落・組。四国西南部各地。唐人駄馬(土佐清水市)】

 高知県中西部、愛媛県南予地方に多い地形地名で、山頂や山腹の平坦地、河岸段丘、河岸段丘に至るまでの緩やかな傾斜地となる小平地のこと。

 桂井和雄氏は「一般に山の採草地をダバ(駄場)と呼んでいるのも、原意は馬に関係した言葉」と述べ「土佐では馬屋(厩)をダヤというのも馬の方言のダ(馬)屋の意味であり、そのダの意味が忘れられて牛ダヤ、馬ダヤ言ったりもする」と、馬をダと呼ぶ童語の全国例をあげ、馬を制御するドー、ドーもここからきているという(桂井和雄著『土佐方言記』p32、高知市発行、1953年)。

 土佐方言辞典では駄場について①山の水たまり。野猪の遊浴場②岡の上の平地。山腹の平地〔県下全域〕③芝地〔高岡郡〕とある。

 

 

たきやま(滝山・瀧山・ダキ山)【神ノ西、折合、米奥、六反地、八千数、与津地、弘瀬、相去、江師、昭和、大井川、戸川】

  

 

たちば(立場)【】

 狩猟は東北の「マタギ」が有名だが高知県土佐郡では「マトギ」と呼ばれる(桂井和雄『土佐山民俗誌』)。先日、土佐町西石原で狩猟者の聞取調査を行った。獣の通り道、狩猟法など狩猟地名が多くみられる。その一つが「タツマ猟(長野県)」。高知では立って狙い定める場所をいうか。

 「タツマ猟/長野県」は、20人くらいの共同狩猟をいうが、熊などの通り道に待ち構える射手の位置をいうところもあり「立待」と呼ばれる地域もある。高知県ではタツマの地名はないが転訛と思われる地名にタツメ・タチメが59か所ある。「立待」が「立目」に転訛したのではないか。中世以前の地名だ。

『分類山村語彙』タチバ:「追出し猟のとき、射主の占むる地位、タツミともいう。東日本などのタツバ・タツメなど関係があろう」

 

 

たちめ(立目)【立目(若井)、立チ目(中神ノ川)、立目(大向)、立目新山(南川口)、立目(奈路)、立目口(大井川)、井ノ木立目(古城)、立目山(古城・地吉)、ホノギ・柳ノタチメ(作屋)】

 高知県須崎市浦ノ内の「立目ポンカン」は有名。高知県下に「立目」小字が67か所。接尾語も立目山・立目谷・立目口だけで、大立目、小立目、奥立目など狩猟最適地の「立目」を基準として名付けられた意図を感じる。

 弓道で弓を放つ回数を立目と呼ぶのは聞いたことがある。矢を引き、その目が先の目を射る、凛とした立身からイメージとして理解できるが、各地に弓道場があるとは思えない。

 「立目」について、どの地名辞書にも『分類山村語彙』や『高知県方言辞典』にもみあたらない地名だが、『高岡郡久礼分地検帳』の大棚村のホノギに「狩場・タチメ・大狩場」と続けてあったので狩猟の射手の待場と感じた。

 『高知県方言辞典』に「たつまち 物干竿などを乗せるために、棒三本を結んで三脚にしたもの」とある。これも銃の安定に必要な道具で、狩猟に関係する。『分類山村語彙』で高知県の共同狩猟の方言を探したがしっくりこない。一般的にはタチバ・タツマ・タヅマ・マブシ・イメなど狩の配置などの言葉でその中に「下毛野上でも獣路をタツメ」とあった。

 『民俗地名語彙辞典』には「タツマ」の説明に「ウジ(獣類の通路)の要地に位置して、そこに追われてくる獣を射撃する場所またはその獣路」とあり、方言としてタヅマ・タツミ・タツバ・タツメ(栃木県安蘇郡)を示している。栃木県と高知はえらく離れているが「タツ」がキーワードなのだろう。

『分類山村語彙』には「タツマ」について「狩の撃ち手の配置をさういふ。九州などのマブシに相当(中略)下野毛でも獣路をタツメ、伊豆ではタヅマで、タツマは立待の意からでた語」と述べる。

 栃木県ではタツメとある。狩猟の撃ち手の配置の「立待」がタチメに転訛し、狩猟を生業とするものにとって重要な場所であったからこそ地名として刻まれたか。射目(イメ/夢)と同じ「狩言葉」として『和名抄』にも載る古い日本語「間伏(マブシ)」がある。鹿猪が逃げてくるのを待ち受ける場所をいうが、「マブシ」は高知の小字は1カ所だけ。高知では、立目(タチメ=51,タツメ=13)か待場(マツバ=43)となる。タツメの読みは幡多地方だけ。

 『綜合民俗語彙辞典』のタツマの項に、「狩猟の撃ち手の配置をいう。熊の通路を見つけておいて出てくるのを狙撃する。「立待」の意から出た語ではないか。栃木県ではタツメ、伊豆半島ではタズマ」とある。立待がタチメに転訛し、狩猟を生業とするものにとって重要な場所であったからこそ地名として刻まれたもので、弓道の立目もそこからきたものと思われる。

 二つの語彙とも、字ズラのごとく猟のため「立って待つ位置を示す」地名だろう。高知県内にタツマはないが、タチバが9か所ある。タツミ(辰巳の方位地名もあるが)16・タツ道5もあるが、高知で一番多いのが立目(タチメ・タツメ)68。

 大井川の立目は、付近に「保登峠」「折付」など往来地名も多く、大井川から八木を経由して井﨑に向かう往還道でもある。獣の通路でもあり、狩猟の最適地であったことだろう。徳弘勝『ふる里の地名』で四万十町広瀬のタテメ谷を「四万十川の蛇行した流れに向って、竣険な山が切り立った様に迫り、小谷が直流に流れ掘りをなしている。いわゆる立目に掘りが出来ている所から、その名」と説明。四万十川の穿入蛇行する首にあり獣道で狙い定めるタツマ=立目と思うがどうだろう。

 方向の「辰巳」地名も多いので、その転訛もありえるか。 

 

たていし(立石)【】

  道しるべに建ててある石を「立石」と一般的に呼ぶ。地名も姓名もよく耳にする。高知県内の小字を見たら161か所あった。往来の分岐要衝や、周辺の集落が見渡せる場に設えることから立石は呼石の役割も担っているのではないか。いずれにしても山間部に多い。仁淀川町とにた地形が、嶺北や物部に見られる。集落は山影の谷筋にはなくそこから登った山の中腹の緩傾斜地にある。槙山には有名な言葉に「ホイホイ一里」がある。向かいの集落へ歩けば谷をいったん降りることになり一里。ホーイの大声でことすませたのだろう。(伊那谷地名研究会『伊那谷の地名』「立石」p172~)。

 この立石について、野本寛一(柳田国男記念伊那民俗学研究所長)は、『三穂の民俗』で「この、石、不動堅固のこの石を山裾に立てて、そこに法力を依らしめ、個々の山地崩落を防がんとしたのである。この立石という石は、山地崩落、ナギ、山抜けなど抑止する磐座」と指摘する。

 五来重『石の宗教』は「日本人は古来、石には神霊が籠ると信じてきた。庶民は自然石を拝み、石を積み、あるいは素朴に造形して、独自の多様な石造宗教文化を育んだ」と述べる。形状的には「立石」だが、素朴な造形の庚申塔や馬頭観音、道祖神であるため立石と呼ばれたものもあろう。ときに「石神」と地名に刻まれることも多く、県内にはその「石神」小字が294か所もある。

 

たてやま(立山)【立チ山(七里)、カン立山(窪川中津川)、立山(影野)】

  香南市に式社であった立山神社があり、四万十町富岡にも立山神社がある。その神社の名か立山信仰の山によるものと思ってたら、『高知方言辞典』に「たてやま ①けわしくて登りにくい山②木を伐らずに置いてある山」とある。立野が村落共有の山の意味もあるように、長崎県では集落共有の薪山の意味があるという。 山神信仰の影響があるのか、狩猟・伐採を禁ずる山を立山というところもあるらしい。『民俗地名語彙辞典』では「たてやま ①大分県国東半島で針葉樹の植林地②大分県の南部では私有の山をいい、共有の山をナカマ山という③城郭地名として、西日本に多い城山に対し、東日本では館山(タテヤマ)と呼ばれる」とある。

 高知県の小字に立山(たてやま・たちやま)が28か所見られる。四万十町には八千数に中間山、相去に奈賀間山があり、大分県にも近いことからことから、私有林とも読み取れるが、立山の県内分布地、立山の接頭語となる桧・余・新・小などから木を伐らずに置いておく山にも理解できる。いずれも現地で確認する必要がある。

桧立山(馬路村馬路)、立テ山(安芸市下山)、立山(香美市土佐山田町逆川・大豊町馬瀬・土佐市積善寺・津野町永野)、新立山(四万十市横瀬)、余立山(土佐清水市片粕)、小立山(大月町鉾立)など

 

たての(立野)【無立野(東大奈路)】

  地名用語語源辞典では村落などの共有している山林原野とあり、群馬県の方言として草地として仕立てておく野の用例も紹介している。 

 

たに(谷)【】

 山や谷や沢、原や野などの地形は見た目が命名の動機となる。柳田国男も「人と土地の交渉がすなわち地名」と言ってるように、二人以上のコミュニケーションをとるうえで地名=場所の特定は欠かせない行為の手続きである。県下の小字の頻度は、谷、山、原、野、沢の順で、地形毎の接尾辞の数値は、〇谷15,547、〇山9,769、〇野2,004、〇原1,073。谷や山の地名が多いのは84%が山林の高知県特有な地形によるものだろう。人やモノの往来、生業としての山や谷川は特定する必要があり、ランドマークとして地名になったと考える。なかでも幡多郡は谷・山の地名率が高い。タニ以外の読みでは、 谷(たね)31、谷(や)25。

 高知新聞に今尾恵介『地名学で読む日本』の連載が始まった。無形文化財でもある地名の奥深さをさぐるテーマで、今回①は「谷」で関東は「ヤ」、関西は「タニ」と読むとある。確かに渋谷、市ヶ谷、世田谷とヤと読む。今尾は「太古の昔の言語状況が地名として今に伝わる」と解説。幡多地方では「タネ」と呼ぶ。宿毛市の小字は「タネ」の読み。地域特有の「方言地名」があるように、同じ漢字の地名でも読みが違ってくる。どう読むかで出身地もわかってくる一つが「谷」地名。

 接頭語で多いのが「大谷」478、「中谷」332、「東谷」289、「西谷」232、「コヤノ谷」205、「長谷」178、「宮ノ谷」165、「小谷」162、「柳谷」115、「カラ谷」112、「井ノ谷」91、「イチノ谷」85、「竹ノ谷」78、「ヒノ谷」76、「アシ谷」75、「梅ノ木谷」71、「境谷」70、「ツヅラ谷」68、「南谷」67、「北谷」67、「桜谷」66、「姥ヶ谷」64、「池ノ谷」63、「楠谷」60、「ショウブヶ谷」57、「フロノ谷」57、「柿谷」54、「山ノ神谷」52、「栗ノ木谷」50、「松ノ谷」48、「イデノ谷」47、「橘谷」47、「ツエ谷」47、「牛ヶ谷」46、「砥石谷」45、「サコノ谷」43、「水谷」43、「城ノ谷」42、「本モ谷」41、「杉ノ谷」41、「椎ノ木谷」39、「ツルイヶ谷」37、「寺ヶ谷」37、「菅ノ谷」37、「堂ノ谷」36、「栃谷」36、「倉谷」34、「石神谷」33、「神母谷」32、「押谷」32、「イヤ谷」31、「梅ノ谷」31、「隠谷」31、「熊ヶ谷」31、「神ノ谷」30(30未満略)。

 

たにもと(谷本)【十川地区の集落】

 

 

たぬき(狸)【】

 佐川町丙に狐ヶ谷、土佐清水市足摺岬に狐狸、香美市香北町大束にノイノシリの小字があり、その他はマミを含めた「狸」地名が79か所で「狸」の勝ち。「ノイ」は野猪で狸の類という。『長宗我部地検帳』にはマミアナはあるがタヌキのホノギはみあたらない。タヌキと呼ぶようになったのは近世以降のことか?

『日葡辞書』にも「Mami (マミ)〈訳〉やまいぬの類の動物」とある。「同じ穴の狢(ムジナ)」といわれるが、人を化かす妖怪として狐や狸と並んで民話にも描かれるが穴熊の巣穴をリフォームするのが狸や狐か?ムジナもハクビシンも小字は見当たらない。狸地名のなかでも「狸穴」小字が17か所と一番多い。

 

たのの田野々)【旧大正町の役場所在地。各地に所在する地名】

  高知新聞連載の「土佐地名往来221号」で片岡雅文記者は「大正町史 資料編」を引用し「田野々村は、中央に丘陵(森駄場)を残し、旧河道跡に平地が開けた地形であり、地名の『たのの』は『たなの』がなまり変わった言葉で、段丘のある開き地に由来」と紹介するにとどめている。

 編集子は、「田・野々」と考え推考したい。「野々」は、幼児用語の神仏を意味する「のーのー」。実は周辺に「野々」地名が、神野々、宮野々、市野々、姫野々と多く所在する。「田野々」地名は、梼原町、南国市、徳島県三好市、香川県観音寺市、三重県熊野市と多く分布する。

詳しくは→「田野々」

 

だば(駄場・駄馬・ダバ)【】

 高知県中西部、愛媛県南予地方に多い地形地名で、緩やかな傾斜地となる小平地のこと。 柳田国男『山村語彙』はタバの段で「タワの転訛で、山の嶺のたわみたる交通に入用な地点。土佐などでは駄場という字を宛てたダバが多い。少なくとも通路に近い土地の名」と述べる。

 桂井和雄『土佐方言記』は「高知では馬屋(厩)をダヤという。一般に山の採草地をダバ(駄場)と呼んでいるのも、原意は馬に関係した言葉」と述べる。桂井和雄は「山の採草地をダバ(駄場)と呼んでいるのも、原意は馬に関係した言葉」、「土佐では馬屋(厩)をダヤというのも馬の方言のダ」と述べる。有名な栗焼酎「ダバダ火振」もこのダバによる。

 駄場地名は四国西南部特有の地名で、高知県には1190か所の小字がある。中東部は香美市頓定に「ササノダバ」、高知市土佐山東川に「ダバケ淵」があるのみだ。仁淀川水泳以西には地検帳にも刻まれる中世以前の地名。高知県下、それも仁淀川右岸より西に1263か所も分布するダバ地名。分布図のマーカーは所在大字の図心点で小字の座標値ではない。大ダバ94・小ダバ3、上ワダバ50・中ダバ51・下モダバ63、牛ダバ22・馬ダバ12、駄場480・駄馬12・汰場10・田場5・太場3。四万十市280、土佐清水市158、四万十町157、宿毛市123などいっぱい。『綜合日本民俗語彙』は「松山市の付近ではダバは薮、また草木の生い茂った地のことだという(松山方言集)。」とある。愛媛県のダバ地名の分布をみても、高知と松山を繋ぐ松山街道(今は仁淀川左岸)が分割線になっている。五来重『四国遍路の寺』は「”四国中辺路”とあるが、石手寺、菅生の岩屋、石鎚山、土佐の横倉山、青龍寺への道が四国の中辺路」という。ダバは川を渡らない。

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 ダバ地名には三つの大きな疑問ががある。高知の幡多方言では平坦地を「ダバイ」という、これこそダバ地名の語源だろうが

①九州でも縄文人はダバと呼んでいたか

②仁淀川を渡れなかったのはなぜだろう

③仁淀川(左岸)より東の地域は何と呼んだのか

 黒曜石(姫島産)が出土している高知県内の遺跡分布は52か所。うち46か所が仁淀川右岸(高岡郡・幡多郡)で、残る6カ所も東部の海岸域だけである。地形図で検索した田原(タバル)の空白地域に四国特有の小平地を示す「ダバ」と「ナロ」になったのか?高知県で小平地を示す地名にダバとともに「ナロ」がある。高知方言では平坦な地形をナロイといい、その「ナロ」地名(小字)が1230か所分布。特に物部川・鏡川・仁淀川流域に多い。

 九州は「原(ハル)」、愛媛県は「平(ナル)」、東北は「平(タイ)」が小平地方言地名

 「駄場」地名を高知県東部の安芸方面では何と呼んだのか。全国分布の集落地割地名の一つ「カイト(垣内)」地名。音ではカイ(狭)+ト(処)で山間の小平地ともいえ、転訛として「〇ノ内・〇ヶ内・〇ヶ市・〇川内」がある。「島」も集落地割地名で安芸に多い。これか?

 高岡郡以西は伊予との往来が色濃い。それは松山街道であるし、五来重がいう「中辺路(36番青龍寺-石鎚山-45番岩屋寺-47番八坂寺)」は山伏、聖、比丘尼など辺地修行者の特別な道であった。「駄場」地名の分割線は仁淀川といったが、松山街道が正解か。『土佐の民話261』にモクスケ駄馬の話があると教えていただいた。

 

たび(タビ・タヒ)【北川村野友、安田町正弘、香南市夜須川、香美市土佐山田町大法寺、同東川ほか多数】 

 タビ、タビノ上、タビノモト、タビガサコ、タビ谷といった「タビ」を語幹とする小字が、高知県東部に広く分布する。

 日本国語大辞典には①谷川の水が淵へ落ちる所②滝③滝壺④淵⑤両側に河原石を積んで水を落とすように造った場所⑥樋の出口とある。

 動詞「たぎつ」は、水が激しくわき立ち流れるさまでをいい、これが名詞化して水が湧きたつ場所を「滝」と呼ぶことになったか。上代は「垂水(たるみ/垂れ落ちる水)」で、神戸市に垂水区がある。この他、滝の別称として「樽(だる)」、「瀑布(ばくふ)」、「飛泉(ひせん)」がある。 

 

たまやどこ(玉屋床・玉屋)【玉屋床(大正、昭和、安芸市穴内】 

 玉屋の語彙は、①一般的には「玉屋~、鍵屋~」と花火が上がるときに褒める掛け声として有名。もとは江戸花火製造元の屋号で、店は絶えたもののその名(掛け声)は全国に流布されていった。別の意味では②玉をつくったり売ったりする家。安芸市の市街地に玉造の集落がある。③シャボン玉を売る人の意もある。いっぽうで山国・土佐にぴったりの方言に「玉屋」がある(明治大正時代国府村民俗語彙/高村晴義/1961)。「玉屋」と使われていた時代は分からないが、今でも伐採木を適当な長さに「玉に切る」という言葉は使われる。一定の長さに切った材木が「玉」で、それを生業とした人が玉屋であり、その作業をした跡を「床」と名付けたものだろう。

 江戸時代の上山郷の運材の主流は川流しであったが、大正中津川などでは伐採された材は杣(そま)や小挽(こびき)の手によってハツラレ、挽き割って小仕成りの製品にして、人の手で運材したという。中津川の成川やアザメや小松尾の奥山(御留山)からの山道は、一等三角点である城戸木森(908m)から、米奥の枝折山を越し、笹越えから魚ノ川に入り、床鍋から大坂谷へと下り、久礼浦までと辿ったことだろう。大正の郷土資料館には材を肩に担ぐ「ボテ」の用具が展示されている。

 この接尾語の「床」は、宮床、古宮床、寺床、灰床、炭床、釜床、橋床などの用例がある。理容店を「床屋」といったりもする。子どものころ朝餉を「床に祀ってきて」と言われたが、仏壇を指す意味もある。仏壇もそうだが、苗床とか、床を敷くか、一段高くなった所を意味する場合もある。宮、古宮、寺、灰・釜(荒神)とか神聖な場所若しくはその跡を「床」と名付けたと思われる。

 樹木は、超自然的な力の象徴とされることが多い。神を数える単位は「柱」である。神を迎える場所には木が建てられる。祭りの幟もそうである。玉屋床もそういった意味での聖域であり、地名として名付ける必要があったものと思える。

 

たや(タヤ・タヤ作り・タヤガウネ・タヤノモト)【県中北部に多い】

 日本語大辞典では①田の番をするために建てた小屋②山間地などで、遠くにある田畑に出向いて耕作する期間、一時居住するために建てた小屋。

 高知県方言辞典では、山畑にかける作り小屋〔いの町寺川〕とあり、高知県内の小字の例としては県中北部にあり、濁音の「ダヤ」は見あたらない(清音書きで濁音読みする場合もあるが)。

 県中北部の例は、タヤ(土佐町境)、タヤガウ子(高知市鏡今井、同鏡横矢)、タヤトコ(大豊町馬瀬、高知市土佐山中切)、タヤノ久保(土佐町東石原)、タヤノモト(土佐町瀬戸、仁淀川町明戸岩)がある。

 

だや(ダヤ・駄屋)【】 

 日本語大辞典では、中世の大和で、塩の運送・仲介業者と解説する。また方言として①牛馬を飼っておく場所。馬小屋。牛小屋〔西日本〕。橋詰延寿『土佐方言集』、桂井和雄『土佐山民俗誌』②肥料小屋〔中国・九州地方〕③物置小屋〔中国地方〕とある。

 高知県方言辞典では①牛舎、馬小屋〔県下全域〕と解説し、清音の「タヤ」と区分している。

 桂井和雄氏は駄場の解説で「一般に山の採草地をダバ(駄場)と呼んでいるのも、原意は馬に関係した言葉」と述べ「土佐では馬屋(厩)をダヤというのも馬の方言のダ(馬)屋の意味であり、そのダの意味が忘れられて牛ダヤ、馬ダヤ言ったりもする」と、馬をダと呼ぶ童語の全国例をあげ、馬を制御するドー、ドーもここからきているという(桂井和雄著『土佐方言記』p32、高知市発行、1953年)。幼稚語で、馬がダーなら、牛はベーだろうか。牛や牛の子を「ベコ」というのは、東北だけでなく日本全国に「べっこ」「べぶ」「べ」「べんた」「べち」「べよ」「びい」と少し変化しながらみられる。「べるこ」は長岡郡に見られる(土居重俊『土佐言葉』)。大正では牛を田の代掻きに使うとき左廻りのときに「へいしょー」という。「へー」では力が入らないからヨイショを加えて「へいしょー」となったのか。

 

たんが(旦過・タングァ・タンクワヤシキ)【榊山のホノギ】

 服部英雄氏は『地名の歴史学p122』で旦過地名について詳しく述べている。旦過は「夕に来て翌朝行き過ぎる」の意の仏語で、修行僧が一夜宿泊することまたはその宿泊所をさす。四国遍路の善根宿としての施設もあり四国各地にこの地名が刻まれているという。単なる宿泊所の意味から世俗の世界から遮断された不可侵の聖なる場所=アジール、聖と俗の境界域ととらえることもある。また氏は、旦過には共通性があり①港・渡し場など交通の要衝②著名な禅僧と結びつく③温泉・風呂に結びつく、と愛媛県のタンガ地名を例示して述べている。

 四国の事例では札所付近や街道の要衝にあることから、信仰地名とともに交通地名ともいえ、地名の所在から消えてしまった街道を復元することにもつながる。

 四国58番札所仙遊寺の麓に玉川町別所の大字があり、その小字に風呂の谷がある。服部もタンガと風呂の関係を指摘している。「別所」とは寺の本院とは別に修行僧が住むところを意味し、「別院」、「風呂地」とも呼ばれる。「風呂」は修行僧、聖や修験者の作善として施行する「蒸し風呂」である。「旦過」・「別所」・「風呂の谷」は相関する地名である。

 筒井功は『風呂と日本人』で熊野信仰と石風呂について東かがわ市の事例をもとに述べている。四国、瀬戸内には「蒸し風呂」が多い。

 高知県内の古文書では『手結浦日抄』に「往古旦過寺有シ号ナリ」と香美郡夜須郷に旦過寺があったと書いてある。

 長宗我部地検帳では

仁井田之郷地検帳・榊山村(刊本長宗我部地検帳高岡郡下の2p367)「タンクワヤシキ」

 ※五社神領分とあることから「旦過宿」か

高岡郡波介郷・坪内村(刊本長宗我部地検帳高岡郡上の1p435)「タンクハンヤシキ」

幡多郡竹島村地検帳(刊本長宗我部地検帳幡多郡中p248)「タンクワヤシキ」 

 高知県内のタンガ地名と思われる字名に、丹波屋敷(東洋町河内)、タンゴウ(安田町別所)、タンバウチ(芸西村久重甲)、タンガン(香美市土佐山田町植)、丹官(タンガン/南国市甘枝)、タンバ(四万十市片魚・四万十市竹屋敷)、タンバナロ(宿毛市橋上町出井)、タンクワン(宿毛市小筑紫町田ノ浦)がある。四万十市片魚、宿毛市橋上のタンバ地名は木材の木流しの用語と地形的にも考えられる。いずれにしても服部氏の旦過地名の共通性により現地調査する必要がある。

  

たんばぎ(タンバ木)【大正】

  『分類山村語彙』はタンバを「東美濃では流材作業中の必要から、一時流木を集中させることをタンバといっている」と説明。鬼ごっこなどの子ども遊びの中断「タンマ」ともとは一つかと述べる。服部英雄『地名の歴史学』に「旦過は仏教用語で修行僧が一夜の宿泊所。①港・渡し場など交通の要衝にある。②著名な禅僧と結びつく。③温泉又は温泉の跡があると指摘。宿泊も港・渡場も一時休憩所=タンマで一致する。

 四万十町大正(通称轟崎)でつづら川が四万十川に合流する。その右岸の山手が「タンバ木」という字名である。タンバは「東美濃では流材作業中の必要から、一時流木を集中させることをタンバといっている。タンマは遊戯中に一時休戦することをいう」と分類山村語彙で述べている。この葛籠川の奥山は御留山であり、現在でも市ノ又国有林野として有名である。この奥山からの流材をこの地で一時とめたことから名づけられたとすれば十分納得がいく。四国樹木名方言集には、タンバ木という方言名称はない。

 上山郷から中村一条領地にむかい杓子越えの起点となるところから、善根宿の「タンガ」も思い浮かべる。「タンガ」に「キ(処を意味する接尾語)」を加えたタンガキの転訛かもしれない。

 

(20260101現在)


ちめい

■語源


■四万十町の採取地


■四万十町外のサイノウの採取地