くき(クキ・久木・久喜・玖木)【】
柳田国男『地名の研究』は、「諸国の小字に存する無数のクキは、ことごとく燃料採取地を意味する地名」といい、「クは木祖句句迺馳(きのおやくくのち)の句句で、つまりはキという語と同原であったのを、総称にはキといい、薪にのみクというように分化したのか。竃をクドという方言は各地に残っている。
高知県では大字にも、北川村久木、仁淀川町久喜、四万十市西土佐玖木の三か所が見える。また、県内のクキ小字の22か所のうち13か所が仁淀川流域に分布する。接尾語でみれば坂3、越3と交通地名が薪の搬出との関連を示し、クキノウエ、クキノ内など薪採取の共有地を示す区画(ウイ・ノウチ)を示す接尾語も見える。
くぐつけ(クグツケ)【大井川の字】
くさきやぶ(草木藪)【】
筒井功『日下を、なぜクサカと読むのかー地名と古代語ー』がこの春に刊行された(高知県出身の地名研究者)。このなかに「笠置は日陰地を意味していた」の章があり、全国の「カサギ」地名を踏査して日陰地の意味があり、クサキ・クサギ(草木)はカサギ(笠置・笠木)と同じ言葉とすると述べる。
この「草木」地名を県下の小字で探すと35か所。なかでも草木藪の小字が19か所と多く宿毛市には草木藪の大字もある。県内の草木藪を全図であたったが、山間谷間にあり藪と言えば藪。高知県山間地域そのものが藪みたいなものだ。筒井も「すべてが日陰地で説明できるわけではない」と予防線。それでも筒井功は同書で、非常に広い範囲を含む大地名を取り上げて語義を解釈するとどんな解釈でもどこかにあてはまるところが見つかると大地名研究の危険性を指摘。「それを避けるためには、できるだけ小さな地名をえらぶ、これが地名研究では決定的に大事」と述べる。
くすの(楠野)【奥大道地区の集落】
奥大道地区には、楠野(くすの)・番所谷(ばんしょだに)・入谷(いりたに)・仁井田又(にいだまた)・向畑(むかいばた)の組編成があるが、その一つが楠野。久保川の上流域、左岸の河岸段丘上段の小平地に広がる集落。
越知町の市街地から女川を抜けて佐川町に向う坂を越えると佐川町の楠原が広がる。楠原や楠野の楠は、越えるの意味のコシが転訛したものではないか。山麓を越えて急に開けた平坦地、高地にある集落を楠野・楠原と呼んだのではないか。
くちおおどう(口大道)【大字・大道の行政区】
くな(クナ)【小奈路(床鍋)、小野尻(このじり/影野)、小奈良地(仁井田)、クナ岩口(大井川)】
クナスという動詞は長野県では、地味が悪くなって休ませることに使う。焼畑が地力衰えて使えなくなることをクナといい、したがってクナバタとかクナサクと言えば三年目または四年目のことである。
エンドウ、キュウリなどが連作を嫌うということを、高知県では「コナをきらう」という(綜合日本民俗語彙②p494)。
「クナ」は「来勿」で「クナドノサカヘノカミ」のクナと同様禁足を示す語と考えられる(焼畑民俗文化論p304)。
高知県方言辞典に「グニャル」がある。意気が衰える、勢いが抜ける意味であるが、クナルと同類語であるように思える。
くびた(クビタ)【ホノギ:ヒハクヒ(床鍋)、ヒワクヒ(南川口)、ヒヤノクヒタ(上宮)、宮ノクヒ(下津井)、宮クヒ(里川)】
全国各地の「牛地名」を手がかりに日本人と牛の関りを探った「牛のきた道(本間雅彦著)」がある。本間氏は全国特に高知県に多い「牛首(ヒヤクイ・宮首)」地名について、牛の古称「ビヤ」と焼畑跡地を示す「クビタ」の合成語と地名考証している。これまで「牛首」地名について牛の首の形状から狭く長い尾根といった地形地名の説明であったが、焼畑の跡に牛の放牧と耕作を交互に行う「牧畑」をビヤノクビとしたもの(「縄文の地名を探る」p63)。
クビタについて綜合日本民俗語彙はハルナギの項で「春薙は旧暦四月に火を入れ、秋薙は旧暦7月に焼いて蒔く。このナギノの跡をクビタといい、今もクビトという地名が山中にある。」と書いてある。
4,5世紀に大陸から入ってきた農耕・運搬の役割を担う牛が生産性を高め信仰の対象となり、地名を刻んできた。縄文時代の焼畑から水稲と牛が大陸から入ってきた弥生時代。この二つの時代が融合しクビタではないか。
これらの地名から古代の歴史景観を復元すれば、水利の良い谷合地では稲作が、段丘の里山では焼畑が行われ、焼畑の地力衰えて使えなくなると休閑期間(15~30年)として植林する。場合によっては牛の放牧地として利用したのだろう。焼畑として使えなくなることをクナ(クナバタ・クナサク)といい、焼畑跡の植林地を「ソリ」、放牧地を「クヒタ」と呼んだのではないか。地名として残ることから焼畑跡地は入会地(共有林・仲間山・惣林・所林・催合)であったと考える。
四万十町内の「ヒヤクヒ」地名を長宗我部地検帳で探ると各地にある。このうち、上宮村の段にある「ヒヤノクヒタ」というホノギ、比定できる字名はないものの検地の流れからホノギ「久山(西久山)」・ホノギ「カニマチハ(カニマチバ)」の間、河岸段丘の上部の高台平地(国営農地)と思われる。この地名を「ヒヤ(牛の古名ビヤ)・ノ(接続詞)・クヒタ(焼畑から放牧地への転換地)」と音節区分すれば、牛の放牧地として読み取れる。
くぼ(窪・久保)【】
柳田国男『地名の研究』は「クボという語は西国にもまるでないとはいわれぬけれども、多いのはやはりこの国(三河)以東の太平洋岸で、ことに東京の四周のわずかな土地が最も目につき」とある。確かに大久保、荻窪など有名な地名はあるが、有名ではないが全国で分布するのでは。
高知も多い。高知県の「クボ」大字は、香美市香北町梅久保、同市物部町久保、大豊町西久保、同町大久保、本山町井窪、高知市南久保、同市北久保、津野町久保川、梼原町仲久保、同町久保谷、四万十町窪川、同町久保川、四万十市久保川、土佐清水市窪津など21か所か所あり、小字にいたっては2,048か所もある。高知県の山間、四国山地のヤマヒダに暮らすものにとって、場所の特定は、谷(タニ)筋から畝(ウネ)・佐古(サコ)に分け入り、少し開けた「クボ」や「ナロ」、尾根を少し上ると緩傾斜地の「ダバ」や「岡」、そこを「コシ」ていくと「タオ」となる。その向こうはあの世か隣村。
高知県のこれら地形地名を小字の数でみると
「谷」は14,640か所。山間の暮らしには山菜の採取地、猟の狩場、焼畑の出作など、「谷」名による特定する場合が多いのではないか。
「サコ」は3,623か所。柿ノサコ101,榎59、ウルシサコ40など有用植物の接頭語が多い
「ウネ」は2,648か所。大ウネ67、ウネサキ42など形や位置、松や小屋のラウンドマーク的な接頭語が多い
「クボ」は1,637か所。
「ハザマ」は89か所 。
くぼかわごう(窪川郷)【中世の広域地名。概ね現在の窪川街分・窪川郷分地域】
中世の仁井田庄が仁井田庄八郷八番と言われたころの八郷の一つ。本郷村(別名、東村・本村。現在の窪川街分)、中の越村、藤の川村、見付村、金上野村、荒谷村(別名、穴谷村・西原村)、若井村、若井川村、口神ノ川村、中神ノ川村、奥神川村、峰の上村、天野(ソラノ)川村の13か村。この地域を上番と言われた。このうち、中の越村は仁井田地域(旧仁井田村)、藤の川村は東又地域(旧東又村)、天野(ソラノ)川村は窪川・立西地域に属するようになった。また、現在の窪川郷分地域のうち西川角・東川角は本在家郷、宮内・仕出原は蹉跎分として金剛福寺の直轄地であったし、神ノ西・大井野はまだ未開の地であったと思われる。
くま(熊)【】
高知県の国有林名に熊押山・猿押山がある。オスは狩猟用語で圧殺罠の「押しつぶす」意だ。森下嘉晴の絵地図に『熊押猿押物語』があり「数十年前までは”熊多し”と呼ばれる狩猟地であった」と述べる。安芸市の名村川の上流域に「熊押山国有林」のことである。
「熊押」の小字は、安芸市奈比賀、香南市香我美町舞川、仁淀川町久喜、仁淀川町別枝、越知町南ノ川の5か所にある。いずれも奥深い山であることから狩猟の地名と思われる。接尾語を含むと「熊谷(熊ケ谷・熊カ谷・熊ノ谷)」が31か所と一番多く、次に熊野17か所となる
熊は熊野の神社地名、クマ(久万・隈)の地形地名もあるか。
筒井功は高知県出身の民俗研究者、一番最初に魅せられたのは『葬儀の民俗学』で、以来河出書房新社から毎年のように出版されている。40年近く全国を軽四車中泊で訪ね「地名研究」をつづけてきた。学者でないところがなおいい。
2011年に出版された『日本の地名』に安芸市の「熊押」があった。安芸市の奥山、国有林野にある熊押山・猿押山。地理院地形図にはなんの記載もないが「四万十町地名辞典」に詳しく紹介されている。ここでは地元の話として「熊多し」が由来という。『日本の地名』では「オスは狩猟用語。圧殺罠で「押しつぶす」意味のオス・オシ・オソだ。「熊押」の小字は、安芸市奈比賀、香南市香我美町舞川、仁淀川町久喜、仁淀川町別枝、越知町南ノ川の5か所にある。いずれも奥深い山であることから狩猟の地名と思われる。接尾語を含むと「熊谷(熊ケ谷・熊カ谷・熊ノ谷)」が31か所と一番多く、次に熊野17か所となる。https://www.shimanto-chimei.com/%E6%A3%AE%E4%B8%8B%E7%94%BB%E4%BC%AF%E3%81%AE%E7%B5%B5%E5%9C%B0%E5%9B%B3/%E5%AE%89%E8%8A%B8%E3%81%AE%E5%B1%B1%E4%BA%BA%E7%89%A9%E8%AA%9E/%E7%8C%BF%E6%8A%BC%E5%B1%B1-%E7%86%8A%E6%8A%BC%E5%B1%B1/
くりのき(栗の木)【窪川中津川地区の集落・行政区】
くるまだ(車田)【】
柳田国男『サンバイ降ろしの日』に「田の神の祭場は以前は、苗代の真中であったのが、後々水口から田の畦の一部に移り、更に家の中」と述べる。この田の神の祭場が「車田」であり、地名として高知県に29か所に刻まれている。写真の例など多くが耕地整理で形もなく換地処分でその字名すら消滅する。
宮本常一『土佐の車田その他』は、高知県幡多郡富山村小西ノ川の車田を紹介し、「丸い田で地元では神田とも丸田とも言って、大きさは5坪ほどの丸い田で、男だけが毎年順番で田植えを行い円の中心で納める」「マルタではオサバイ様を祭らない。」と述べる。
青木重孝『車田考』は高知県では丸田が多いと野辺、幡多郡富山村小西ノ川(四万十市小西ノ川)の車田を紹介しているが、ホノギも小字も見つからない。10kmほど下流の四万十市藤に車田の小字がある。「土佐の方は丸田」と述べるように県内に車田29に比し丸田90と多い。ホノギも四万十市中筋川沿いに2か所あるだけですべて丸田だ。
車田の語釈に『日本国語大辞典』は「田の中央から螺旋状に回り植えをする田植法。また、そのような田」とある。佐渡や岐阜県の事例が有名だが全国に分布する。青木重孝『車田考』には高知県の例もある。ただ、高知県では丸田と呼ぶ小字が多い。どちらも円の形状を地名にしたものだ。だがどうして「円」かは不明。縄文のストーンサークルなど円の神秘なチカラを期待したものか。この田植法の「マワル」所作も、マワルという用語の語釈の複雑さも意味深い。四国遍路のようにマワルはエンドレスな行為でもある。土佐国の国衙関連地名を調べるため、南国市の比江と国分の小字図を調べていたら「内裏」(現在、国司であった紀貫之邸跡)や「国庁」「府中」「惣社」があり、そこに「車田」があった。それも、eMAFF農地ナビでみると「車田」地内に、畝で仕切られた小さな田んぼ(15m四方)があった。ここが「車田」のマワル田植法の神事が行われていたのだろうと確信した。
くれごう(久礼郷)【中世の広域地名。概ね現在の仁井田地域】
中世の仁井田庄が仁井田庄八郷八番と言われたころの八郷の一つ。床鍋村、影野村、奥久礼地村、下久礼地村、加江坂本村、神有村、柿木山村、汢の川村、浜の川村、川井村(現平串)の久礼郷10か村。この地域を大奈路筋と言われた。現在の仁井田地域のうち中ノ越(中の越村)は窪川郷に属していた。また、魚ノ川、六反地、小向、富岡は未だ開発されていない地域であった。
くろ(クロ・黒)【】
「クロ」地名には、畦や田境の意のクロ、藁クロ・石グロといったモノを積み上げた形状をさす「クロ」と、色地名の「黒」がある。
高知県内に「クロ」の小字が101か所と「アゼ」と同じくらいある。地検帳ではクロハサ、クロノ本、竹クロ、ヒラクロ、クロソエなどの用例がある。小字ではクロ床(28)、クロ本(13)、クロ汢(7)、クロハザ(7)、竹クロ(5)など。ただ、単なるクロ=黒の色を指示する語の場合もありすべてが「クロ=畔」でもないので注意が必要。長宗我部地検帳のホノギを説明する記述に「カトニクロアリ」「中ニクロアリ」「クロ引廻シテ」「クロノアイ」「スミニクロアリ」「クロノワラ」「クロ詰テ」「クロソエ」「クロノ内」がある。
桂井和雄『土佐の地名』は「高岡郡中土佐町久礼のクレ地名にも類名が多い」として、奈半利町甲の久礼岩集落、南国市久礼田、高知市久礼野、四万十市入田の久礼場集落、宿毛市平田町黒川の久礼ノ川集落などを挙げている。「久礼は、石クレ(塊)の多いところの意味か」と述べるが、石はどこにでもある。中土佐町久礼の久礼川の上流域に「黒石野」集落があるがクレシノと呼ばれている。小さな地名が大きな地名となる場合も多い。久礼川の上流にあるクレシノが久礼に転訛していったのか。クレシノには縄文人がケルンのような形状の石積を神聖な所とししていたのかと思いをはせる。南国市岡豊町滝本の小字に「呉磯」がありクレイシとルビが振られている。クロもクレも通じるものがある。
「色」地名の黒だが、「色」地名はその時代を映すものさしである。人類は火の発見から墨や煤を得て「黒色」をつかって「身体に装飾」し「伝える道具」として利用していった。人類最初の色はクロだろう。その色をブラック・クロとしたのは世界共通だったようだが、その黒の名づけも歴史の経過で意味合いが違ってくる。
「黒」は、古代には身分の低い階位を意味したが、鎌倉時代になり武士の色として「漆黒」が普及していった。レクサスの黒やブラックカードのイメージとして今でも権威の象徴色となっている。反面ブラック企業・黒の商人など、不正、非合法な経済活動を「ブラック」と表現する。慶長時代ころまでの国境・郡境の色は「紫色」だったという。聖性を帯びた国家的な意味合いからふさわしい色として使われていた紫が、江戸期以降は「黒」に転換された。天皇から幕府への権威の移管である。それ以降の国家的な絵図における郡境の色彩として使われることから古地図の制作年代を判断する目安となる。
高知県小字データベースで色彩語彙を見れば、黒649、赤645、白472、青241か所で数の多少が色の発生の歴史を物語っている。
なかでも「黒」小字の接尾語を見た特徴は
黒岩119、黒石95、黒ダキ(滝含む)79、黒松72、黒磯28か所となる。
接尾語から地形地名が多く視覚的な地形の命名動機であろう。黒岩や黒石は、色の岩石のなかでもとびぬけて多く、岩や石は信仰の対象であるとともに、往来の道しるべとして地名に刻んできたのだろう。特に「黒石」は、仁淀川町、越知町など仁淀川筋が半数以上を占めるのは、青石の多い仁淀川流域にとって特徴のある岩石の色なのだろう。また「黒磯」が二七か所あるが、海岸でなく県東部の山間部に大部分が分布する。山間のイソ(磯)もダキ(滝)も崩壊地名なのだろう。
福田邦夫『色の名前507』は日本語の基本色彩語として「真っ白、真っ黒、真っ赤、真っ青といえるのも基本の4語だけである。しかし、真っ白い、真っ黒いはいえても真っ赤い、真っ青い、はないので、日本語の最も根源的な基本色彩語は、どうやら白と黒の二つになりそうだ」と述べる。
黒田日出男『境界の中世 象徴の中世』は中世の開発が古代の開発とどのように異なるかを象徴しているのが”荒野”と”黒山”で、二つの境界開発ついて述べる。なかでも「黒山」は古代から人が入ってはいけない他界の入り口=境界としてタブー視してきた。その開発が中世には「切掃」ことで所有してきた。加えて、赤・黒の対は軍事的機能の色彩範疇、青・白は王権ないし祭祀の色彩範疇とし、古代から中世にかけての色彩の意図と変化を述べる。県内の小字では、黒772、赤657、白576、青232。土佐は遠流の地で王権には遠いところなので青・白より・黒・赤が多いのか。
くろはさ(クロハサ・黒ハサ)【ホノギ/宮内・七里・川ノ内・一斗俵・作屋・下津井】
長宗我部地検帳には四万十町内に6地区にクロハサのホノギがみられるが、明治の土地台帳には1つも見あたらない。
クロについては、大字黒石の地名の由来で述べたが、高知県方言辞典にある”クロ:畦・田のさかい”の意で、クロはクマ(隈)と同じく隅の方、端の方の意だろう。民俗地名語彙辞典には「上の田と下の田との間の斜面をクロというのは全国に分布されている」とある。一方、稲グロ・わら黒・イシグロのようにモノを積み上げたさまのクロもある。 →詳しくは「黒石」の地名の由来参照
ハサは、ハサク・ハサコの省略形とすれば畑の畝(うね:作物を作るため土を盛ったところ)と畝との間のこととなる。ハサは動詞ハサム(挟)の語幹両側を山丘に挟まれた地形を示す用語である。また二つの谷川に挟まれた地の意味もある。鹿児島県では山あいの田をハサコダ(挟田)という。
語幹のハサにクロが加わったのがクロハサか。現地でホノギ・クロハサを検地の順に比定された土地の周辺から探せは一定ようすがうかがえる。現地踏査で比定する必要がある。私見はその後述べることにする。
四万十町のハサ・ハサコ地名は、上ハサ(大井野)、波佐古(黒石)、石カハサコ(数神)、スクノハサコ(数神)、クリノキハザコ(弘見)、スダノハサコ(志和峰)、ハサコ(烏手)、ハサコ山(烏手)、下モバサ(野々川)、ハサノ谷(昭和)、ハサ(戸川)、ハサ(古城)
高知県内のハサ・ハサコ地名は、東ハサ(佐川町黒原)、ハサ(土佐市積善寺・四万十市大西ノ川)、竹ノハサ(四万十市西土佐西ヶ方・同西土佐江川崎)、松カハサ(四万十市西土佐下家地・同西土佐中家地)、ハサコ(四万十市奥鴨川・宿毛市小筑紫町福良・土佐清水市大岐)、ハザコ(津野町芳生野)、ハサコ山(土佐市用石)、ハサガハナ(四万十市古津賀)、ハサコ谷(四万十市奥鴨川・大月町才角・土佐清水市宗呂)、セハサコ(四万十市楠島)、堂ヶハサコ(宿毛市山奈町山田)と高知県中西部に多く分布する。
くわのまた(桑の又)【窪川中津川地区の集落・行政区】
(20251219現在)
■語源
■四万十町の採取地
■町外の採取地
