よくある地名の語源 「く」

くぐつけ(クグツケ)【大井川の字】

 

くすの(楠野)【奥大道地区の集落】

 奥大道地区には、楠野(くすの)・番所谷(ばんしょだに)・入谷(いりたに)・仁井田又(にいだまた)・向畑(むかいばた)の組編成があるが、その一つが楠野。久保川の上流域、左岸の河岸段丘上段の小平地に広がる集落。

 越知町の市街地から女川を抜けて佐川町に向う坂を越えると佐川町の楠原が広がる。楠原や楠野の楠は、越えるの意味のコシが転訛したものではないか。山麓を越えて急に開けた平坦地、高地にある集落を楠野・楠原と呼んだのではないか。 

くちおおどう(口大道)【大字・大道の行政区】

 

くな(クナ)【小奈路(床鍋)、小野尻(このじり/影野)、小奈良地(仁井田)、クナ岩口(大井川)】

 クナスという動詞は長野県では、地味が悪くなって休ませることに使う。焼畑が地力衰えて使えなくなることをクナといい、したがってクナバタとかクナサクと言えば三年目または四年目のことである。

 エンドウ、キュウリなどが連作を嫌うということを、高知県では「コナをきらう」という(綜合日本民俗語彙②p494)。

 「クナ」は「来勿」で「クナドノサカヘノカミ」のクナと同様禁足を示す語と考えられる(焼畑民俗文化論p304)。

 高知県方言辞典に「グニャル」がある。意気が衰える、勢いが抜ける意味であるが、クナルと同類語であるように思える。

くびた(クビタ)【ホノギ:ヒハクヒ(床鍋)、ヒワクヒ(南川口)、ヒヤノクヒタ(上宮)、宮ノクヒ(下津井)、宮クヒ(里川)】

 全国各地の「牛地名」を手がかりに日本人と牛の関りを探った「牛のきた道(本間雅彦著)」がある。本間氏は全国特に高知県に多い「牛首(ヒヤクイ・宮首)」地名について、牛の古称「ビヤ」と焼畑跡地を示す「クビタ」の合成語と地名考証している。これまで「牛首」地名について牛の首の形状から狭く長い尾根といった地形地名の説明であったが、焼畑の跡に牛の放牧と耕作を交互に行う「牧畑」をビヤノクビとしたもの(「縄文の地名を探る」p63)。 

 クビタについて綜合日本民俗語彙はハルナギの項で「春薙は旧暦四月に火を入れ、秋薙は旧暦7月に焼いて蒔く。このナギノの跡をクビタといい、今もクビトという地名が山中にある。」と書いてある。

 4,5世紀に大陸から入ってきた農耕・運搬の役割を担う牛が生産性を高め信仰の対象となり、地名を刻んできた。縄文時代の焼畑から水稲と牛が大陸から入ってきた弥生時代。この二つの時代が融合しクビタではないか。

 これらの地名から古代の歴史景観を復元すれば、水利の良い谷合地では稲作が、段丘の里山では焼畑が行われ、焼畑の地力衰えて使えなくなると休閑期間(15~30年)として植林する。場合によっては牛の放牧地として利用したのだろう。焼畑として使えなくなることをクナ(クナバタ・クナサク)といい、焼畑跡の植林地を「ソリ」、放牧地を「クヒタ」と呼んだのではないか。地名として残ることから焼畑跡地は入会地(共有林・仲間山・惣林・所林・催合)であったと考える。

 四万十町内の「ヒヤクヒ」地名を長宗我部地検帳で探ると各地にある。このうち、上宮村の段にある「ヒヤノクヒタ」というホノギ、比定できる字名はないものの検地の流れからホノギ「久山(西久山)」・ホノギ「カニマチハ(カニマチバ)」の間、河岸段丘の上部の高台平地(国営農地)と思われる。この地名を「ヒヤ(牛の古名ビヤ)・ノ(接続詞)・クヒタ(焼畑から放牧地への転換地)」と音節区分すれば、牛の放牧地として読み取れる。  

くぼ(窪・久保)【】

 

くぼかわごう(窪川郷)【中世の広域地名。概ね現在の窪川街分・窪川郷分地域】

 中世の仁井田庄が仁井田庄八郷八番と言われたころの八郷の一つ。本郷村(別名、東村・本村。現在の窪川街分)、中の越村、藤の川村、見付村、金上野村、荒谷村(別名、穴谷村・西原村)、若井村、若井川村、口神ノ川村、中神ノ川村、奥神川村、峰の上村、天野(ソラノ)川村の13か村。この地域を上番と言われた。このうち、中の越村は仁井田地域(旧仁井田村)、藤の川村は東又地域(旧東又村)、天野(ソラノ)川村は窪川・立西地域に属するようになった。また、現在の窪川郷分地域のうち西川角・東川角は本在家郷、宮内・仕出原は蹉跎分として金剛福寺の直轄地であったし、神ノ西・大井野はまだ未開の地であったと思われる。

くりのき(栗の木)【窪川中津川地区の集落・行政区】

 

くれごう(久礼郷)【中世の広域地名。概ね現在の仁井田地域】 

 中世の仁井田庄が仁井田庄八郷八番と言われたころの八郷の一つ。床鍋村、影野村、奥久礼地村、下久礼地村、加江坂本村、神有村、柿木山村、汢の川村、浜の川村、川井村(現平串)の久礼郷10か村。この地域を大奈路筋と言われた。現在の仁井田地域のうち中ノ越(中の越村)は窪川郷に属していた。また、魚ノ川、六反地、小向、富岡は未だ開発されていない地域であった。

くろはさ(クロハサ・黒ハサ)【ホノギ/宮内・七里・川ノ内・一斗俵・作屋・下津井】

 長宗我部地検帳には四万十町内に6地区にクロハサのホノギがみられるが、明治の土地台帳には1つも見あたらない。

 クロについては、大字黒石の地名の由来で述べたが、高知県方言辞典にある”クロ:畦・田のさかい”の意で、クロはクマ(隈)と同じく隅の方、端の方の意だろう。民俗地名語彙辞典には「上の田と下の田との間の斜面をクロというのは全国に分布されている」とある。一方、稲グロ・わら黒・イシグロのようにモノを積み上げたさまのクロもある。 →詳しくは「黒石」の地名の由来参照

 ハサは、ハサク・ハサコの省略形とすれば畑の畝(うね:作物を作るため土を盛ったところ)と畝との間のこととなる。ハサは動詞ハサム(挟)の語幹両側を山丘に挟まれた地形を示す用語である。また二つの谷川に挟まれた地の意味もある。鹿児島県では山あいの田をハサコダ(挟田)という。

 語幹のハサにクロが加わったのがクロハサか。現地でホノギ・クロハサを検地の順に比定された土地の周辺から探せは一定ようすがうかがえる。現地踏査で比定する必要がある。私見はその後述べることにする。

 四万十町のハサ・ハサコ地名は、上ハサ(大井野)波佐古(黒石)、石カハサコ(数神)、スクノハサコ(数神)、クリノキハザコ(弘見)、スダノハサコ(志和峰)、ハサコ(烏手)、ハサコ山(烏手)、下モバサ(野々川)、ハサノ谷(昭和)、ハサ(戸川)、ハサ(古城)

 高知県内のハサ・ハサコ地名は、東ハサ(佐川町黒原)、ハサ(土佐市積善寺・四万十市大西ノ川)、竹ノハサ(四万十市西土佐西ヶ方・同西土佐江川崎)、松カハサ(四万十市西土佐下家地・同西土佐中家地)、ハサコ(四万十市奥鴨川・宿毛市小筑紫町福良・土佐清水市大岐)、ハザコ(津野町芳生野)、ハサコ山(土佐市用石)、ハサガハナ(四万十市古津賀)、ハサコ谷(四万十市奥鴨川・大月町才角・土佐清水市宗呂)、セハサコ(四万十市楠島)、堂ヶハサコ(宿毛市山奈町山田)と高知県中西部に多く分布する。 

 

くわのまた(桑の又)【窪川中津川地区の集落・行政区】

 

 

(20170719現在)


ちめい

■語源

 

■四万十町の採取地

 

 

■町外の採取地