みしま(三島、三島野丸、三島ノ元、三島神社、三嶋神社)

■三島の沿革 

 四万十町昭和地区の字名。四万十川流域で一番大きな川中島で、昔、三嶋神社が鎮座していたことから「三島」と言われるようになった。この川中島には、三島のほか、上流から古川・ハナキレ・船渡ノ上・中ギレ・下ギレがある。

 永正10年(1513)、この地に三島神社が勧請されたとの棟札の記録はあるが、それ以前の勧請年月縁起沿革未詳である(高知県神社明細帳)。

 明治23年(1890)9月11日社殿流失し仲又山に遷宮。

 明治43年(1910)西上山村を三島村(郷社三島神社の御神徳崇拝に起因)に村名変更の村会議決を経たが県の認可を受けることができなかった。

 慶長2年(1597)2月26日に藤上ノ村、家谷、轟村、戸口村の検地記録(長宗我部地検帳)はあるが三島のホノギは見あたらない。川中島で水利がないことから未開の地であったのだろう。やっと大正2年(1913)になって三島神社跡地の水田化計画が始まる。

 昭和41年(1966)待望の三島第一沈下橋完成。翌年には三島第二沈下橋が完成し、四万十川の右岸(昭和・四手)から三島を経て左岸(轟・戸口)へ通じることとなった。

 昭和49年(1974)予土線が開通し2本の橋梁が渡された。平成10年には轟橋が架橋され、三島には都合5本の橋が架けられた。

 平成21年2月21日、国の重要文化的景観として「四万十川流域の文化的景観 中流域の農山村と流通・往来」が選定。三島や三島の沈下橋は、重要構成要素となった。

 近年、JR予土線を走る予土線三兄弟(長男:トロッコ列車、次男:海洋堂ホビートレイン、三男:鉄道ホビートレイン(なんちゃって新幹線))が有名で、5つの橋と遊び心のあるホビートレインと満開の菜花の黄色が、写真のおススメスポットとなっている。四万十川ラフティングの起点となっているのも、ここ三島である。

 

 

■三島(ミシマ)の語源

 ミは尊称の接頭語と思われる。「御」と「三」とは、しばしば交代し三坂・御坂、御崎・三崎、御室・三室、三笠・御笠などとなる。高知と徳島の県境にある登山者憧れの山「三嶺」は、古くから「みうね」と呼ばれていたが、登山者の間で「さんれい」と呼ばれるようになった。徳島県側は今でも「みうね」である。尊称の御嶺(みうね)が数詞の三に転訛したのではないか。

 時に、三岳(屋久島)など三座の山を表す数詞の場合、また、ミズ(水)やウミ(海)の下略、上略もあるので注意が必要で現地での確認が求められる。

 

 シマは、一般的には海に浮かぶ島で、河道中にある島地も呼ぶことになる。志摩では海面下の岩礁をシマと呼ぶそうだが、志和の漁師も、海に沈んだ黒田郷の大暗礁、碆(はえ)のことを『し』と呼ぶという。

 元来シマという語は、他から隔離された所という意味であるから、島(しま)、岩礁(し)、沚(し)なのだろう。

 また、一定の管理用域をシマ(島)という。集落を表す場合もあり海のない岐阜県の村では路傍の石に「島内安全」と刻まれているという。四万十町内でも山の中に島地名がたくさんある。大島・小島・間野島・三島ノ丸・緑ノ島(床鍋)、中島(仁井田)、西島・三島(与津地)、才能島(藤ノ川)、坂島(下津井)、中嶋(大井川)などである。徳島では、吉野川下流域に広がる沖積土の田園をシマといい、七つあるシマの一つが徳島であり、県名になったという。

 一定の管理区域といえば、ヤクザ用語のシマ(縄張り)があり、江戸吉原などの廓もシマと呼ばれていた。

 

 この地に三島神社が勧請されたのが永正10年(1513)との棟札の記録はあるが、勧請年月縁起沿革未詳である。この地にもともとあったのかも定かではないが、明治23年の未曾有の大水害で流失するまでは川中島(三島)に鎮座していたのは記録から確かである。

 

 この「三島」は三島神社が鎮座していたことから三島となったのか、そもそも穿入蛇行する四万十川の中流域で比較的大きな中州に敬意をこめて御島となり転訛して三島となったのか、不明である。

 編集子思うに、地形地名である「川中島」を使っていたが、その後三島神社が勧請されたので三島と呼ばれるようになったのが自然ではないか。仲又山に遷宮されて以降も記憶の名称として三島が生き続けている。 

 

  

■三島神社

 

 大山祇神社(愛媛県今治市大三島)は、全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社で、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで400社余りあり、三島神社の伝播とともに三島地名も各地に分布することとなる。

 

 高知での三島神社の勧請は、「延喜十三年(913)津野蔵人経高越前ノ国今立郡山内ノ庄ヨリ土佐ヘ入国ノ節伊豆国ヨリ勧請シ来ルト云傳(神社明細帳・梼原町梼原西区竹の藪鎮座の三島神社)」とあるように、経高が土佐に入り津野山の地に三島神社を勧請したのが最初である。この縁起では福井の田舎豪族、津野経高が土佐に落ち延びたように読めるが、実は経高(つねたか)の正式な名は藤原経高、父は左大臣藤原仲平、母は宇多天皇の女御、兄は時仲は太政大臣、弟の忠平は摂政にもなったという、藤原氏全盛期のエリート中のエリートであった。菅原道真が左遷されたように宮中の悪だくみに陥り、蔵人頭であった経高は伊予国に配流となった。伊予で世話をしたのが越智族河野氏であった。「天子の勘気に降れ配所に幽閉された経高が後図を策する道として選んだのが、僻遠未開地において河野氏の支援を受けつつ大志を伸べることであった」(梼原町史p54)

 越智族河野氏の始祖は玉澄で、仁井田庄(窪川)に入り仁井田大明神を創建(700年頃)したあと越智25代を承継したその人である。高北(津野山)より古い高南(仁井田)の縁である。

 越智族は伊予の国造(くにのみやつこ)として以来、伊予の歴史を築いてきた。と同時に四国山地を隔ててはいるが官道による土佐への往来の便はあったので土佐中西部への関係は深い。詳しくは土佐史談の誌上で20数回連載された野島龍馬氏の「土佐と越智族」を読むと、越智一族の興亡と土佐へ浸潤の歴史(津野、矢野、高橋、下元、佐伯、大野、曽我部、八木、松木、水口ほか)がよくわかる。

 

 大三島神社は大山祇命を祭神とする「山の神様」であると当時に、「海の神」としての性格も強い。

 瀬戸内海はその地勢と潮流が育てた造船操船の技があり、塩飽水師と伊予三島水師の二つが東西で興隆した。倭寇の名をとどろかせたのも彼等であり、瀬戸内海に限らず黒潮を利用して紀州、伊豆へと往来したという。野島龍馬『土佐と越智族』では、伊予、土佐、播磨灘、熊野灘、伊豆の5か所における「三津、加茂、三島、仁井、白浜、野島、下田」の分布をもって越智玉澄の伊豆遠征など伊予三島水師によるところから地名が伝播したとしている。

 三島神社の勧請地には、この地名も分布しているので、電子国土Webで検索したらよくわかる。 

 

 

三島神社四万十町昭和字仲又山/旧郷社/祭神:大山祇神、鳴雷公神、高龗神)

 勧請年月縁起沿革等未詳。棟札に「奉棟上三島大明神 大願主中平住家久之上山家藤原安重蘇我末住家久之 其子法師丸之末以 殊以者九郎三衛門三男丹後守末左衛門三郎嫡々干時永正十年三月吉日」とある。明治23年9月11日社殿流失し現鎮座地仲又山に遷宮。祭日6月30日、11月16日

 

 神社明細帳に三島神社の鎮座地は「四手村 草 字沖又山鎮座」とある。この神社明細帳を高知県が調査しまとめたのが明治12年とあるが、本文記載の中に「明治23年9月11日非常の洪水ニ社殿流失」とあるので、何らかの事情で写本しなおして、写本時の鎮座地「仲又山」を「沖又山」と誤って記述したのではないか。

 また本文には「本社元ト当村字川中島又曰三島」とあるが、土地台帳の字名として川中島はなく、三島の下流域に「三島」の字がある。長宗我部地検帳の藤上ノ村、家谷、轟村、戸口村付近に「三島」を比定するホノギはみあたらないが、荷田村に三島神田が数筆ある。

 

 廣江清著『長宗我部地検帳の神々』は、天正15年(1587)から18年にかけて検地された長宗我部地検帳に記録されているホノギに見られる社領・宮床の名称、神田名称から当時の神への信仰を探り、読み解いた一級の資料です。地検帳の社は2600余を数え、神々の数は300余という。この書籍は、八幡宮、熊野社、天満天神などと41の神々ごとに書かれている。廣江氏が「地検帳はむろん土地の台帳ではあるが、当時、中世末の土佐の神々を網羅している」といっていることから、三島神社関連を探したが、41の神々にも巻末の索引にもない。

 

 創建の由緒書きに、上山氏が伊豆国の三嶋神社から分祀・勧請したとあるが、真意は不明。伊豆三嶋大社を源頼朝が崇敬したことにあやかり三島神社としたものだろう。高知県内の三島神社は、祭神が大山祇命であることが共通していることから、大山祇神社(愛媛県大三島)の系列であろう考えるのが通常であろう。縁起に、三嶋大社(静岡県三島市)の由来を書き加えるのは部門武将の崇敬からのあやかりではないかと推論する。

 津野山の津野氏は、越前ノ国今立郡山内ノ庄から伊予経由で津野山に入り開拓し藤原姓を津野に改めたというが正確にはわからない。その説を裏付ける話として「伊豆国(三嶋大社)ヨリ勧請」を加えたのではないか。中興の祖といわれる津野之高は伊予河野氏の出身とされる。仁井田庄の仁井田五人衆のうち西・東・志和氏の三人は伊予河野氏の流れである。

 いずれにしろ、三島神社が多数鎮座する津野山と上山郷の三島神社。越智氏の血脈が土佐に流れ、伊予の文化伝統(牛鬼・茶堂など)が色濃く流布された伊予国との境の村々である。

 

大山祇神社愛媛県大三島/別称:大三島大明神、三島社、大三島/祭神:大山祇神 

 全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。(ウィキペディア)

 社号は大日本総鎮守大山祇神社。伊予国一宮。旧社格は国幣大社。大三島は古くは御島と書かれ、後に三島となり、大三島となったらしい。

 『伊予国風土記』逸文には「御嶋。坐す神の御名は大山積の神。一名は和多志の大神なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此神、百済の國より度り来まして、津の國の御嶋に坐しき。云々。御嶋と謂ふは、津の國の御嶋の名なり。」とある。その解釈として、越智氏が朝鮮半島出征で大山積神を戴いて帰国したとする説、越智直が百済に出征し捕虜となり中国を回って帰国したとする説話による説がある。

 

 祭神は、大山積神(おおやまづみのかみ)。社名「大山祇」と祭神名「大山積」と異なる表記となっている。

 大山祇をまつる神社は、大山祇神社(897社)、三島神社(402社。三嶋神社含む)、山神社(3,075社。山神神社含む)となっている。(大山祇神社の公表資料)。神紋は「波三」

 

 三嶋大社静岡県三島市/祭神:大山祇命、積羽八重事代主神

 『御創建の時期は不明ですが、古くより三島郡の地に御鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列格されました。社名・神名の「三嶋」は、地名ともなりました。中世以降、武士の崇敬、殊に伊豆に流された源頼朝は深く崇敬し、頼朝旗揚げ成功以来、武門武将の崇敬篤く、又、東海道に面し、伊豆地方の玄関口として下田街道の起点に位置し、伊豆国 一宮として三嶋大明神の称は広く天下に広まっていきました。』(三嶋大社のHPから引用) 

 

 祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)、御二柱の神を総じて三嶋大明神(みしまだいみょうじん)と称している。神紋は「角切三」 

 

 ▽四万十町内の三島神社 

三嶋神社(四万十町宮内字善浄山/旧村社/祭神:大山祇命)1665  

 勧請年月日等未詳。神社牒「善定谷口、智正佛(一、智勝佛ノ宮)右勧請」

大三島神社四万十町仕出原字ヲウシガモリ/旧村社/祭神:大山祇命

 元禄三年(1690)窪川牧主林伊賀智某伊予国大三島分霊ヲ此ニ勧請の由緒

三島神社(四万十町床鍋字三島ノ丸/旧村社/祭神:大山祇命)1627 

 勧請年月日等未詳。古老口碑ニ伊予国大三島大明神ヲ勧請ス。棟札「慶長元年永林禅寺」

三島神社(四万十町与津地字笹原/島神社に合祀/祭神:大山祇命)

三島神社(四万十町大正/熊野神社に合祀/祭神:未詳/祭日:七月二十七日・十一月八日) 

三島神社四万十町十和川口/八坂神社に合祀/祭神:大山祇命

 勧請年月日等未詳。天文年中ノ建立ト云。ツタエノ西森ニ鎮座ス宝暦九年社殿再興ノ棟札。

  

 

 ▽四万十町外の三島神社 

三島神社室戸市領家字竹ノ本/旧村社/祭神:大山祇命

 勧請年月縁起沿革等未詳。元禄9年(1696)焼失遷宮。祭日5月9日、9月9日

三島神社(安芸市畑山字正藤/旧無格社/祭神:未詳)

 

三島神社香美市土佐山田町植字三島山/旧無格社/祭神:大山祇命)395

  勧請年月縁起沿革等未詳。明和9年(1772)火災の恐れから前山から三島山へ遷宮。祭日2月14日、10月17日

※明和9年は天下大変、江戸三大火災の一つ。これを聞いての遷宮決断か

三島神社(南国市久枝/旧郷社/祭神:応神天皇、神功皇后) 602 

 ※昭和16年飛行場建設のため、久枝八幡宮、十八所神社など点在諸社を移転合祭。当地の村名「三島」を神社名にした。

三島神社土佐町田井字三島/旧無格社/祭神:大山祇命)560

 勧請年月縁起沿革等未詳。祭日6月23日、10月23日

三島神社いの町神谷字笹ヶ谷(鹿敷)/旧無格社/祭神:大山祇命)1023

 勧請年月縁起沿革等未詳。神社記に豫洲三島大明神勧請云傳。祭日2月17日、7月7日、11月1日

三島神社(土佐市宇佐/旧無格社/祭神:大山祇命) 

 勧請年月縁起沿革等未詳。旧記等「宝永四年(1707)十月大震ノ節波濤ノ為流失」。祭日7月30日、12月25日

三島神社土佐市高岡町丁天神字三島/旧村社/祭神:大山祇命)1162 

 勧請年月縁起沿革等未詳。古来総鎮守、厳島神社相殿。棟札「元和3年(1617)再建」。祭日11月3日

三島神社須崎市浦ノ内東分字シンヤシキ/旧無格社/祭神:田心姫命、深津姫命、市杵島姫命)

 勧請年月縁起沿革等未詳。明治4年熊野神社に合祭後、復祭。祭日8月5日、11月5日 

 三島神社仁淀川町別枝字楠ノ宮/旧無格社/祭神:溝咋耳命)1105

 勧請年月縁起沿革等未詳。祭日8月3日、12月20日

※「溝咋耳命」は、古代、三島地方(茨木市・高槻市)を治めた豪族。溝・杭は水利の神、農業神

 三島神社津野町姫野々字大宮/旧郷社/祭神:大山積大神)1482

 勧請年月縁起沿革等未詳。山内蔵人藤原経高伊豆国ヨリ勧請スト一説。別説に経高ヨリ十代主春高ノ養子備前守藤原之高(伊予国河野氏弟)半山姫野城ニ移ル時伊予国ヨリ勧請スト云。社殿に用いる神紋は河野家の記章。棟札「建武年中中原国房寄付鰐口。津野神社(津野家初代経高から18代の霊)。祭日6月28日、10月28日

三島神社津野町北川字大地(高野)/旧村社/祭神:大山祇命)1491 ※高野の回り舞台は境内にある

  勧請年月縁起沿革等未詳。天和元年(1681)勧請ス。三島五社大明神ト称ス。祭日11月11日 

 三島神社梼原町字宮ノ甫(梼原西・竹の藪)/旧村社/祭神:雷神、大山祇命、高龗神)1555

 延喜十三年(913)津野蔵人経高越前ノ国今立郡山内ノ庄ヨリ土佐ヘ入国ノ節伊豆国ヨリ勧請シ来ルト云傳。祭日6月19日、11月8日。伊予から土佐(梼原町広野・竹の藪)に入った津野経高が最初に創建した三島大明神

※伊予配流となった蔵人頭の津野経高が河野氏を頼り、河野氏は土佐への勢力拡大の絶好の機会として津野氏に託す。河野氏は大三島神社(波三神紋)を創祀した越智族(小千命)の末裔である。河野氏の祖神をないがしろにして伊豆三嶋大社(角切三神紋)を勧請することは理解できない。ただし、梼原町史p62には「経高の祖、藤原鎌足と伊豆・三島大明神との故事により鎌足を習い伊豆三嶋大社を勧請したという、配流から前途の幸いを念ずる相手は鎌足の信仰した伊豆三嶋だったに違いない」と

※津野経高が伊予から土佐へは海路により須崎へ上陸し床鍋(半山)に住む説もあるが、最も地の利がある梼原が定説。 

※越智族河野始祖は玉澄で、仁井田庄(窪川)に入り仁井田大明神を創建したあと越智25代を承継した。高北(津野山)より古い高南(仁井田)の過去からの地の利、経過からも昔の官道から土佐入りしたことは有力な説である。須崎より松山に向けて多くの道が開かれた。冗談で愛媛県梼原町というが、まさに1千年以上の歴史のある伊予と梼原の関係である。

三島神社梼原町川西路字宮首/旧郷社/祭神:雷神、大山祇命、高龗神)1552

 梼原町指定文化財である「三島神社」の案内板には「津野山郷の開祖・津野経高(つのつねたか)は、梼の木の多いこの地を梼原と名づけ、延喜19年(919)竹の薮より移り、居城を築き梼原宮首に伊豆(静岡県)より三嶋大明神を観請したと言われている。また、藤原純友の乱のとき、伊予(愛媛県)河野氏に協力して純友征伐に向い、伊予三嶋大明神に詣で、純友の乱平定後(941)に帰国したとき伊予三嶋大明神も勧請して祀ったと伝えられている。慶応4年(1868)3月、三嶋大明神を三嶋神社と改称、明治40年(1907)、明治44年(1911)に梼原地区無格社21社が合祀された。現在の本殿は、享和3年(1803)、拝殿は明治23年(1890)に再建されている。拝殿の彫刻物は山口県の大工・中本喜作の作である。祭神・・大山祇命・雷神」と書かれている。 

 大三島神社か伊豆・三島神社かは不明。 

三島神社・五社神社梼原町越知面字宮原西分(田野々)/旧郷社/祭神:大山祇命・五山祇命)1556

 南路志に木像裏書「天文17年(1548)中越三河守吉長勧請」。古老口碑「武臣中越三河守吉長、伊予国三島ニ於テ敵兵ト対陣、三嶋大明神ニ誓願シ勝利ヲ得ルニヨリ当地ニ勧請」。祭日7月25日、11月2日 

※神社明細帳には「特別由緒アル神社」の付記。現在は三嶋五社神社と書く。社号は流失・焼失による遍歴 

 三島神社梼原町中平(広瀬ノ上)/旧村社/祭神:大山祇命、雷神、高龗神)1547

 勧請年月縁起沿革等未詳。棟札「宝永元年申十一月」。祭日1月3日、7月9日

 三島神社黒潮町加持字小北山前/旧村社/祭神:大山津見尊)1838

 勧請年月縁起沿革等未詳。山頭(三当)大明神から復称。祭日7月25日、10月21日

三島神社四万十市大用字下平地/郷社熊野神社(大正)へ合祭/祭神:大山祇命

 勧請年月縁起沿革等未詳。祭日11月15日。神社牒「平地ノハナ嶋大明神」

三島神社宿毛市山奈町山田字南屋敷/旧無格社/祭神:大山積命)2220

 社記曰往古小島出雲守政章遠祖正和年中(1312~17)伊予国三島神社勧請ト申傳。祭日1月7日、9月7日

三島神社大月町弘見字ミトウノ下/旧村社/祭神:大山祇命)

 勧請年月縁起沿革等未詳。祭日7月28日、10月31日

三島神社土佐清水市下ノ加江字松ヶ島/旧無格社/祭神:未詳)

 勧請年月縁起沿革等未詳。祭日6月28日

三島神社土佐清水市大岐字内澤/旧無格社/祭神:大山祇命)

 勧請年月縁起沿革等未詳。祭日2月14日、7月14日、10月14日  

 

 三嶋神社梼原町下組/村社/祭神:大山祇命、雷神)1554 

 永禄の争乱で、伊予の大軍が侵攻してきたとき、伊予三嶋大明神に祈願して勝利を得た。その時に勧請。土佐七社の一社(鎮守の森は今p260) 

※神社明細帳に記載なし

 

 

■文献資料

 ▼州郡志(1704-1711宝永年間)

・四手村(p341)

 四手村の四至は「東限市野坂西限白岩南限大井川北限窪川山東西五十町南北四十町戸凡三十其土赤黒」とある。

 山川として「大股山・地主山・上甫喜山(皆在村北東出材木及薪)、大股谷(自北流出経村入大川)」

 寺社として、「寶壽寺、三嶋大明神、大明神社」

 古蹟として「壘址二(皆不知何人居)」

・轟村(p342)

 軣村の四至は「東限漆谷西限大川南限怪我谷北限藤上東西二町南北十町戸七其土黒」とあり、山川として「藤上林・家之谷・松之坂(皆属北村出柴薪)」。寺社は「無」とある。

 

 寛保郷帳(1743寛保3年)

 とゞろ村として「石高23.96石、戸数5戸、人口22人、男11人、女11人、馬1頭、牛0頭、猟銃0挺」とある。

 

 土佐一覧記(1772-1775明和・安政:山本武雄著「校注土佐一覧記」p367

安芸の歌人・川村与惣太が止止路岐(昭和・轟)で読んだ歌

 止止路岐

そよふけに夢も結ばず嵐吹く 夕とどろきの里の旅寝は

※その人は夢見にあらわれたが風と共に去っていった。轟の里で今宵も一人、草枕(勝手読)

図書館本系統本では上山(大正)→矢立森(下津井)→長生(四万十市西土佐)→止々路岐→胡井志(小石)→笹山(宿毛市篠山)の順で、掲載の流れが地理的に整っていないが、広谷系統本では岩間(四万十市西土佐)→長生(四万十市西土佐)→止々路→胡井志(小石)→上山(大正)→矢立森(下津井)となって、四万十川の下流域から遡上している。

※トドロは川の水が落ち込む落差で大きい音がする、その水音に由来する地名。トドロ、トドロキ、ドウメキ、ナルカワなどの地名が各地にある。四万十町にも、トドロガ谷(寺野)、轟頭(野地)、コトドロ(家地川)、トドロ上(家地川)、轟川(見付)、轟﨑(東川角)、轟口(東川角)、西轟山(宮内)、轟ヶ市(窪川中津川)、轟(床鍋)、轟ヶ谷(与津地)、轟山(与津地)、轟(志和)、轟﨑(大正)、轟山(瀬里)、轟ノサコ(相去)、轟瀬ノ岡(浦越)、トドロホキ(昭和) 

※昭和に轟集落があり、校注土佐一覧記ではここを比定地としているが、浦越にも「轟の上」という地名(地理院地形図)があり大正にも轟崎があり、その上流には通称「瀬里轟」という。浦越の瀬は「二艘の瀬」と呼ばれる四万十川中流域で一、二番を争う瀬で、カヤックをする者にとって「行くか、陸を曳くか」思案する場所でもある。瀬里轟も二艘の瀬と争う激流。川音の激しさは二艘の瀬ではあるが、三島神社が鎮座するこの地であり、昭和の轟を比定している校注土佐一覧記は正当といえる。 

 

 南路志(1813文化10年)

232四手村 地四十四石四斗九升三合

三島大明神 三嶋山 祭礼十一月十九日

四手村・大井川村・野々川村氏神也(以下略)

炎大明神 杉ノ上り 正体十二座 祭礼十一月十八日

王地大明神 中平山 祭礼十一月十九日

命徳山宝壽寺 退轉、本尊のミ残

 本尊 阿弥陀

古城 中平隠岐守重熊居之。

 

219轟村 地二十三石九斗六升 

河内大明神 祭礼十一月十八日 正体五座

 

 ふる里の地名(1982昭和57年)

【三島】(四万十川と三島渓流の間、三島を上流部から)

ハナレキ:一本の大きな木がはなれて立っていた辺り

古川:昔は川が流れていた現在は雑草荒地

船戸ノ上:昔の船付場の上

中ギレ:島の中央部

下ギレ:畑地の内の下の方の土地 

三島:旧三島神社の境内

 

 ▼四万十川流域の文化的景観 中流域の農山村と流通・往来(重要文化的景観/選定:平成21年(2009)2月12日)

 奈良文化財研究所が選定申請に作成した①四万十川流域の文化的景観保存調査報告書、②「四万十川中流域における農山村の恵みと流通・往来の文化的景観」文化的景観保存計画書に詳しい。三島は文化的景観の重要構成要素のひとつ。

 

 三島地区には四万十川最大の中州である三島がある。明治23年の洪水まで、この三島には三島神社が祀られていた。水運が活発に行われていた藩政期から昭和初期にかけては、水運の安全を守る神として流域の篤い信仰を集めていた。現在では昭和地区の旧役場横のシロトコに遷座されている。

 現在、三島はその左岸側に立地する轟集落の住民によって農地が耕作されている。夏場の水稲、冬場のナバナの栽培によって季節ごとに彩られる景観は、その生活を支える存在であると共に、四万十川を通行する人々の心に感銘を与える、価値のある存在である。

 

 ▼重要里地里山500選定地(環境省・生物多様性保全上重要な里地里山/選定:平成27年(2015)2月26日)

 全国の候補地から500地区が選定された。四万十町内では①四万十川上流域(松葉川地域)②大正中津川地区③大正下津井地区④三島地区の水田⑤四万十川中下流域(里川)が選定。

 

 四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地/建設年/延長m/構造)

第一三島橋(四万十川/昭和/建設年:昭和41/延長:77.00/構造:コンクリート床版橋)

轟橋(四万十川/昭和/建設年:平成10/延長:150.00/構造:コンクリート床版橋)

第二三島橋(四万十川/昭和/建設年:昭和42/延長:54.90/構造:コンクリート床版橋)  

 

 

■四万十町の採取地

 ▽三島

・三島ノ元(宮内)

・三島野丸(床鍋)

・三島(与津地)

・三島越(昭和) 

 

  

■四万十町外の採取地

 ▽三島

土佐町三島 ※近くに三嶋神社、三島山越

 徳弘勝『地名メモ』に三島について説明がある。

四万十市大用の三島

 岡村憲治『西南の地名』には「水谷にある岩場の耕地」とある。

  

 

青森県黒石市三島 ※近くに三嶋神社

福島県大沼郡三島町 

・新潟県柏崎市三島 ※三島神社。付近に大野、高野の地名

千葉県君津市三島 ※三島神社

神奈川県大井町 ※三嶋神社

静岡県三島市 ※三嶋大社。三島加茂IC、

大阪府摂津市三島 ※三島神社の元祖

大阪府東大阪市三島 

徳島県美馬市三島 

愛媛県四国中央市三島 ※旧伊予三島市

愛媛県内子町三島神社 ※付近に大野地の地名

愛媛県鬼北町三島 

愛媛県宇和島市三島 

愛媛県伊予市三島 

愛媛県愛南町三島 

福岡県朝倉市三島 

佐賀県鳥栖市三島町 

佐賀県玄海町三島 

長崎県西海市三島 

愛媛県市三島 

愛媛県市三島 

 

 

 

(20170620胡)