古城

こじょう


20150630初

20170621胡

【沿革】 

 長宗我部地検帳「土佐国幡多郡上山郷地検帳」の脇書に「十河内烏村」とある。十川村地検帳として一村分の地高がまとめられており、当時は十川村の枝村としての位置づけと思える。十川村は本村の大野村(十川)のほか、枝村にこの烏村(古城)のほか今成村(十和川口)・戸川村(戸川)・川口村(十和川口)・地吉村(地吉)・白川村(十川)がある。

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)南路志(1813)ともに「烏村」とある。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡大野村、地吉村、烏村、川口村、戸川村、井崎村、広瀬村の7か村が合併し「十川村」が発足し、烏村は大字となった。

 昭和32年(1957)8月1日、幡多郡郡昭和村、十川村が合併し新設「十和村」となった。合併調整に合わせて大字の名称を「烏」から「古城」に改めた(同じく黒川を里川、四手を昭和、細々を河内、大野を十川に改めた)。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。

 地区内の班・組編成は、長沢(ながそう)、下組(しもぐみ)、本村(ほむら)、山瀬(やませ)、追和(ついわ)の5組となっている。

  

【地誌】

 旧十和村の北西部。北は愛媛県鬼北町(旧日吉村)、東は戸川、南は十和川口、西は地吉に接する。四方を山に囲まれ、北に愛媛県境の高森地蔵山、南に西土佐境の雨地蔵山、東にほり切り山、西に高平山がある。およそ農林業地帯。南部を東流する長沢川は中央を南流する烏川をあわせて四万十川に注ぐ。県道106号十和吉野線が長沢川左岸を通る。シイタケ栽培を主な生業とし、ほかに茶・クリ栽培などを行う。シイタケ栽培の技術は全国的にも先進地である。昭和52年には日系米人33名のほかにも中国視察団、各国の大使館員などの視察団を受け入れた。地内には、本村、長沢、下組、追和、山瀬の各集落がある。地内長沢には廃校となった古城小学校があり、校庭には開校百年記念碑・秋元延枝先生功徳記念碑がある。生活改善センターなどがある。八幡宮の秋の大祭には牛鬼の行列や花取踊りが奉納される。地内追和組には石鎚神社があり、7月1日に山開きが行われる。下組のヒナタゼには伝説上の人物吉良兵部守の兵部ケ城がそそり立つ。民俗芸能には県無形民俗文化財の大念仏踊り、町無形民俗文化財の三番叟・山瀬の虫おくり・山瀬の花まつりなどがあり、また牛鬼の面づくりは、町の選定保存技術に指定されている。旧地区名は烏であったが、昭和の合併時に改称された。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真上部から烏川が南流し、東流する長沢川の左岸流となる。この合流域と烏川流域が古城地区)

 

【地名の由来】

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 アサリヤヲシ、浅猟師山、アゼチ、アタカモリ、アツキハタ、アリノキ、イシカガミ一ノ谷、一ノ又、イナヤノ前、井ノ木立目、イノスダ、岩クスベ、上ヤチウジ、打石ノ平、ウヅシリ、ウ子サキ、ウハシカ谷、ウバホトコロ、ウマヂ、ウルシサコ、大津岩、大ツエ口、大平、カイテ、カイノキ、カキノキサコ、カグラ、カゲヂ、カヂヤトコ、カツ子、カドノクボ、カマキリ山、上エコゴエ、上大カヱリ、上ミコジロ、上ミゴミ、上迫山、上ミソ子、上タキヨリ、上ミ野口、カミノコエ口、上ノヒラ、上ハヲトナシ、上ミマキノ谷、上ヤシキ、上ヤツキ、上ミワサワビラ、カモノハタ、カラスデ、カラスデノ上、北カイテ、北ナラ谷、クスノヒラ、クセエナ、口大カヱリ、口大津岩、口カイノキ、口ボソ谷、口ヲウカエリ、久保田、クルマバ、クロタキ、ケタ、ケタノウエ、小越エコジロ、古城山、コソクバタ、コテキ口、コテキ山、ゴボヲサコ、コヤケ谷、コヤ谷口、コリトリブチ、サクラ、サクラノ上、サベカミ、シダガ谷、シダガ谷口、シモクボ、下モコミ、下サコ、下モタキヨリ、下モダバ、下ナラ谷、下モ仁王作り、下ノチ、下モハイコエ、シヨタイ白王谷シラミクワ新ザイコ、シンダイコ口、シンヤ、スゲノサコ、セリワリ、タカ畠ケ、タカヒハタ、高平山、タキノウ子、タキノウ子山、タキノ下、タキノヒラ、タキヨリ、タクミ谷、ダシコヤ、立目山、タナカヤマ、ダバサキ、太夫畠、タル口山、地蔵山、チラリンドウ、ツエスワリ、ツ子ダバ、ドウダ、トウツキ、トノバタ、土用田、トリバタ、ドヲガイチ、ドヲケ畠、ドヲシウ口、中尾ノウ子、中カアラ、長サコロチ、長沢、ナカタ、中タキヨリ、中ノサコ、中畠、中山、ナラ谷ナル川ニイヤ仁王作リ、仁王山、西アサリヤヲシ、西浅猟師、西セリワリ口、西高平、西ドヲシウ、ヌタノサコ、野口、ハイコエ、ハゴノヒラ、ハサ、ハシ谷、ハノヒラ、ハヤシダ、ヒイシロ山、東上ノ平、東ナラ谷、東ワサジ、ヒツキリ、ヒナタセ、ヒ子ノ、ヒノキクチ、ヒメカニウ子、平松、フクフタ、フルバタ、マカリ谷、槇ノ平ラ、マキノ山、又口山、松ケ峠、マトバ、水久保、三井尻リ、三井尻リ口、ミヅクボ、南カゲヂ、南ヤゴロ屋敷、宮ノ向、宮ノワキ、向イ田、ヤケソ川、ヤゴロ屋敷、ヤチウジ谷、ヤナギノクボ、ヤマセ、山瀬山、山ノ上エ、ユミウリ、ヨコノテ、ヨコ山、リヨチ、ロンデン、若宮、ワサジ、ワサワラビ、ヲウカエリ、ヲキノカハ、ヲサキ、ヲソコエ、ヲトカサコ、ヲトシロ、ヲトシロノ上、ヲトナシ、ヲモ谷山、ヲリツキ【203】

 

【ホノギ】

 〇土佐国幡多郡上山郷地検帳・上山郷十川村地検帳(幡多郡上の1/検地:慶長2年3月11日)

 ▼十河内烏村(p345~358)

【下組】

 北ノ高山マユミカタウ限、ナラ谷、八幡神田、カミタ、ノヒラ、ヒナタセ、丸山、道クチ上谷、仁王ツクリ、コロハシハ、シラヲ谷、カスカム子、ユスノモト、堂カイチヒナタセ、ヲンチタ

【長沢】

 尾越石ノカカミ、清水ノ本、タムカイ、イチノ谷口、マトハハヤシ、古ヤ、ヨマホチ、河なろ、カケノチ、西ノサカリ、ヒノクチかけちハサ

【本村】

 桃源庵寺中、新屋成川小ヤノ谷、白王神田、若宮、横ヤシキ、タルクチココヱ、ミツマタ谷

【山瀬】

 シヤウタイコ、カヤテクチ、山ノハキ、カイチノ奥新開、ヒトセマチタ、下サコ楠ヒラヲトナシ、北ノ峯ハヒトツフロカトウ

【追和】

 中尾坂本、テイハ、高畑、柚木ノ本、ソリ、マカリ谷

 ▼小城村ー烏村(p358~361)

【長沢】

 ナヤノマエ小城下田、亀越口、下サコクチ、下タハ長サハ、ハサノスソ、井ノモト、居ヤシキ、ヤケソ、ヤケソ川タキノ下 

 

土州幡多郡上山高山ハタ地検帳(幡多郡上の1/検地: 天正16年1月16日)

 ▼高畠(p914

  野ツチ、ナラ谷、竹ノセ、堂カヘヱチ、ヒヤタせ、イナヤノ舞、八良衛門ヤシキ、シラメクハヤケソノ川、カチウ谷、新サコナルカワ谷、宮ノ谷

 

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914古城集成図.pdf
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【通称地名】

鈴野:

 

【山名】

 

 

【河川・渓流】

下組谷川(防災マップ425-72-227)

マキノ谷川(ゼンリン社)

 

 ヒナタゼ川(ゼンリン社)

烏川(河川調書)

 本村谷川(防災マップ425-72-228)

 一の又川ゼンリン社)

 山瀬川(河川調書)

  カイデ川(ゼンリン社)

   和霊谷川(ゼンリン社)

 追和川(ゼンリン社)

 

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

  

【ため池】(四万十町ため池台帳)

 

 

【城址】

  

 

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

八幡宮/26はちまんぐう /鎮座地:又口山 ※村社。長沢集落

※明治5年には一旦郷社(烏、大野、川口、広瀬、井﨑、戸川、地吉の惣祭神)。同12年、星神社が郷社。その摂社となる。

白皇神社/28しらおうじんじゃ/鎮座地:上ミソ子 ※本村集落

山祗神社/31やまずみじんじゃ/鎮座地:カマキリ山

八坂神社/32やさかじんじゃ/鎮座地:中尾ノウ子 ※追和集落

八坂神社/33やさかじんじゃ/鎮座地:上エコゴエ ※神社明細帳では「字上エコマエ鎮座」とある。

八坂神社/34やさかじんじゃ/鎮座地:ハゴノヒラ ※神社明細帳では「字ハヒノヒラ鎮座」とある。

須賀神社/35すがじんじゃ/鎮座地:マトバ ※本村集落

金刀比羅神社/36ことひらじんじゃ/鎮座地:上ミソ子 ※本村集落

山祗神社/38やまずみじんじゃ/鎮座地:中山 ※山瀬集落

海津見神社/39わだつみじんじゃ/鎮座地:ヲトナシ ※山瀬集落

厳島神社/40いつくしまじんじゃ/鎮座地:中カアラ 

 


現地踏査の記録


地名の疑問

1)地内の集落に「追和」「山瀬」「本村」「長沢」「下組」とあるが、「奥組」はどの範囲を指すのか

 

2)追和集落の名称はいつどうして改められたのか

 

3)山瀬平に宮大夫が鈴を落したという地名「鈴野」はどこか

 

4)字名「三井尻」が山瀬と本村にあるがどうしてか

 


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1597慶長2年)

(地検帳幡多郡上の1p345~361/検地:慶長2年3月11日)

 戸川村から十河内烏村(下組)のホノギ「ナラ谷」「ヒナタセ」「仁王ツクリ」へと検地は進む。地検帳には烏村検地の途中に「小城村」とある。

 所有関係では多くは上山分とあり、森野弥五良給の給地が47筆見られる。

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p334)

 四至には、烏村として「東限仁王作西限長澤南限日南向背北限手岩東西二十五町南北六十町戸凡五十八其土黒」

 山川は、伊乃幾立目山、日南向背山、一之股山、立目山、小城山(皆禁伐)、烏谷(自北流南)

 寺社は、東源庵、八幡宮、白皇社、若宮、山神社とある。

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高113.817石、戸数51戸、人口264人、男131人、女133人、馬9頭、牛0頭、猟銃14挺

 

■南路志(1813文化10年)

226烏村 地百十三石六斗一升七合

八幡大神宮 亦口 祭礼十一月十日

森野権現 久保ヤシキ 同上

荒神 横ヤシキ 同上

白王権現 同 同上

林神 右宮山 

山神

山神王 サンシン山

関所 与洲いぬかい村江出

桃源庵 退轉、大野村真光寺末

 

■ふる里の地名(1982昭和57年)

【追和】

市ノ又山迫岩(※ママ)と山瀬の入口で、一番初谷で一の又山と字名となった。元禄7年御畠山指定された。

※昔は「追和」を「迫岩」「津岩」といったのか。字名に「大津岩」とあるので追和は佳字化したのかもしれない。

ウジシリ川端で川水がウヅマキするところで字名がついたところ。

※「ウジ」とは九州地方で猪、鹿などの山中における獣道。別所に「上ヤチウジ」がある。獣道に関連はないか

カツ子:昔はガドネからカツ子に変った。

ユミウリ:山が弓形になっているため、ユミウリと字名になった。

中畑:山と山の間に畑があるので中畑と言う。

マカリ谷:マガッテ入っているのでマガリ谷と言う。

下モタキヨリ:岩山で滝※になっている。

ユリトリブチ:日待の時、並びに御神祭の時に水行を行なった所。昔は、刀等も洗った所と言われ、ユリトりプチと字名をつけた所。

若宮:一、若宮神社を祀っていた所から若宮となった。今も社御跡がある。現在は合祀している。

  二、現在も林清義宅においては小さいほこらをこさえて祝神として祀っている。牛も祀っている。

ロ大津岩:津岩(※ママ)の入りくちにある山。

大津岩:津岩(※ママ)の奥に当る(石鎚神社)のある所の方を言う。

サクラノ上:昔し、サクラの大木があったところの上にあたる。

サクラ:サクラの大木のあったところ。

ヲトシ口:津岩の端の一番高い山で、水の落し口で、日照のたえることない山である。

セリワリ:山と山とで岩の滝※が近い所、セマイところ、東に当るところ。六十六番も同じで西に当るととろ。

ヤナギノクボ:萩の花の多い所で盆地的な所でハギノクボと言う。

※「ヤナギノクボ」の説明に「萩」の植物地名とするのは理解できない。

ナカタ:津岩の中心地で中田という。

シンヤ:分家した家、屋敷、芝手次宅。

※「シンヤ」の屋号が字名となったものは意外と多い。【新屋(与津地)、シンヤ(瀬里)、新屋畑(西ノ川)、シンヤ(古城)、新家(地吉)、シンヤ畑(広瀬)】

タカヒハタ:東向きの日当りの良い畠け。

リヨチ:津岩では、地質の最も良い所。

ワサワラビ早やくワラビが出来て、一番先きにワラビ掘りができた。

中尾のウネ:西と東間に出合ウネ。

 

【山瀬】

クロタキ:滝※が遠い所から見るに、黒く見えるためクロタキとなった。

大平:盆地で平い所である田畑のあったととろ。山瀬平に鈴野と言う所があり、宮大夫が鈴を落したことがある。

三井尻口:山瀬の三井尻口に宮太夫がいた。官太夫言人は、病気をなおしたり、こさえたりする人。住民困り郷中の人が集りコムラ打ちして、ころしたと言う。現在はほこらをこさえて祀っている。竹内友喜の祝い神として祀っている。

大夫畠:宮太夫が開いた土地で大夫が所有していた畠である。

松ノ峠:山瀬から津岩へ向けて越す峠。

フルパタ:山瀬では一番最初に開いた畠。

ヲリツキ:愛媛県日吉村犬飼から山越して山瀬に降着いた所。

ドウシウロ:田の端に大きな石があり、そこで山ぢいが鉄砲で何回も打ったが玉をとられ、刀の先きを折って打ったら命中して其の石の上で死んだと言われる。

地蔵山:幡多郡西の鎮めの地蔵として部落で祀っている。3月24日、(東は津クラ江川、南オササ森、北は大道の奥、中央堂ケ森)昔は愛媛県日吉村犬飼部落迎いからも3月24日には参拝者多くにぎわった。

浅称師山(※ママ):早朝に称師に行く所で字名がついた。

※字名は浅猟師山である。浅称師は誤植か

ヲトナシ:滝があるのに下の山の上から聞けば、滝の水の音が全然聞こえないので、音無しと言う字名となった。音無神社(神体は竜玉宮)

※【ヲトナシ(影野)】

大ツエ口:山津波の跡、お堂があって地蔵を祀っている。(山瀬組)

西高平:平たい山、昔の御留山。

 

【本村】

新ザイコ:新在部の持山であったため、新ザイコとつけたもの。

イワクスベ一、現在、星神社の社がありおまつりをしている。現在は氏子制になっている。その社に延面に岩があり、その岩の上で星が数日間光り、そのためにくすぼることからイワクスベとなった。

二、其の星神社の下に清水が出ていて、組社星神の御供の餅ちをむす時にとこの清水を迎えて、その水で餅をむし又清め水にも使用する。現在も行っている。この水でなければ餅がむせないと言われる。

ヲソゴエ:旧道で坂道のため高い道を越えたことから字名となった。

ワサジ:日当りが良くて作物が早やく実る。

カキノキサコ:昔は柿の木、大木があったことからカキノキサコとなった。

ヌタノサコ:イノシシがヌタウチをした跡があることからヌタノサコとなった。

ナル川:谷間の流れる水の音のきこえしところ。

※「ナル川」地名は各地にある。高知県はナロが多く、奈呂、奈路など二字で表すのに対して、愛媛県はナルを成の字を宛てる(民俗地名語彙)。【成川神社(金上野)、ナル川(打井川)、ナルカイチ(打井川)、成川(大正中津川)、ナル川(古城)】。ちなみにナロ【奈路(若井川)、壱合奈路(見付)、大奈路口(宮内)、鳥居ノ奈路(宮内)、高樋ノ奈路(仕出原)、大岩ノナロ(口神ノ川)、茶屋ノ奈路(口神ノ川)、大岩ノナロ(中神ノ川)、天神ノナロ(桧生原)、ナロ(南川口)、吉野奈路(野地)、アリノキナロ(家地川)、下タナロ(折合)、長者ヶ奈路山(折合)、ナロ畑(折合)、穴ケナロ(七里)他多数】

長サコ口:長い山の窪みから長サコ口となったもの。

ツネパタ:ツネの人のいて其の人の持ち地と考えられる。吉良福市もちー兵馬。

コヤ谷口:伝染病が流行した時に病人で何人か除けごやを作って避難したことからコヤが谷となった。

上ヤシキ:古城本村の上の端上畑であるため上ヤシキと言う。

上ソネ:自皇神社の社で現在は合祀し跡地となっている。

タカ畠:けわしい段々畠からタカ畠となった。

タル口山:滝つぼがあり、その滝をタルと昔は言うたことからタル口山となった。

タパサキ:火奈路と言うところは、火事が多くてタバサキを改名した上をミヅクボと改名字名としたものである。上に水があれば火難除のためミヅクボと字を変更した。ミヅグボとダパサキは関連している。

マトバ:弓のけいこ場で的を打ったところ、小高い山と山の間に畠がある。その山を目標に弓のけいこをしたことからマトバとなった。

一の谷:本村に入る一番始めの谷。

イシカガミ:大道の日光院が石に鏡を作りこむために刀の先きで掘りこんだ石が現在ある。イシカガミと字名がついた。現在は合祀して祀っているが、昔は其石の前に七五三(しめ)縄を張って祀った。

 

【長沢】

古城山:古城よりか上の山に当る。

オトガサコ※:山の狭い所で山の窪みがあり、音がすることからオトガサコとなった。

※字名は「ヲトカサコ」

高平山:谷がなくて平の山。正徳3年、御留山となっている。

カミコエ口※:古城に田中弥十郎と言う人がいてこれから奥に人がいないかと言うことで3日間、古城又口で座って板の流れて来るのを待っていたら、西の谷から木板が流れて来たのでこれから奥に人がいる事が解り、味方か敵かを兵部様に聞いたら、神と言ったので西の谷に入り亀越をこえて行き人に会い烏と地吉の開拓を負けないように開くことを話しあったと言う伝説がある。亀越が神の越となって今も神の越と言う。 ※字名は「カミノコエ口」

コジロ・上コジロ:小さい古城があったところではないかと聞いている。

ウルシサコ:ウルシの木が多くあったことと、狭い掘りがあってウルシサコと字名がついた。(ウルシはぬり物に使用原料)

カモノハタ:加門と言う人が住んでいたのではないかと言われる。

アタガモリ:愛宕神社を祀っていることからアタガモりと言う字名となった。現在は、愛宕神社と八十八ケ所が祀られている。

ヲサキ:ウネサキでヲサキと字名がつけられた。

イナヤノ前:居納家の前のことではないかと思われる。

又口山:長沢川と鳥川との出合いであることから字名が又口となった。

カアラ:厳島神社とエビス様を祀ってあって中島様と言う。

長沢谷:湿田が長く続いたため長沢といい、近くに谷が流れてきている。

二イヤ:別れ家。安藤時義宅の方を言う。

タナカヤマ:山と山の中にある田。

シダ力谷:シダが多いことから。

ヤケソ川:川の両側を全体的に山焼をしていたことからヤケソ川字名がついたと言われる。

※「ヤケソ」は焼畑地名。【ヤケソ(金上野)、ヤケソ谷(金上野)、大ヤケソ(仁井田)、ヤケソ(希ノ川)、ヤケソ谷(久保川)、ヤケソ(大道)、ヤケソ川(古城)】

※焼畑は、山野の草木の除伐作業から始まる。その作業の切るから「切」、刈るから「刈・狩」、焼き払うことから「弥久・焼・八木」、枝を集めて「木場・コバ・小畠」、伐木を搬出する「ソリ・サス」などの地名が多く残る。

ヨコ山:横に広い山。

 

【下組】

上マキノ谷:兵部ケ城は吉良駿河守限義の嫡子、吉良兵部広義が烏村日向に居住していたので、その裏山に光が持地であったと言われ兵部ケ城と言う地名となったものである。吉良兵部広義は源義朝の子、源頼朝の舎弟で保元の乱(1156~1158)の析、義朝没落し土佐の国介良に流された源希義の後胤吉良駿河守隈義の一子である父駿河守隈義の時代、永禄6年(1563)3月16日、長曽我部元親に攻められ、介良城は落城し、遂に浪々の身となり上山郷鳥村日向瀬(現十和村古城日向瀬)に居住していたと言われる。

上大ガエリ:大の人が歩いて通った足跡、ところが駄場になっていることから大人の駄場となった。

ナラ谷:なろい、平い土地、駄場のこと。

東ナラ谷、北ナラ谷:ナラ谷の両端に当る山。

ウハシ力谷:シカと言うばあさんが住んでいた所で、ウバシカ谷とつけたと言う。

シダガ谷:シダ多い所でシダが谷となったもの。

コヤヶ谷:伝染病が流行した時に、其の病人を隔離した小屋でコヤヶ谷となったものである。毎月1日の24日にここら辺りの山へ行かれんと言われる伝説があるし、この日に音を聞くと必ず病気になると言われる。

カグラ:昔し、伝染病等が発生した時、神事を行った場所と言われる伝説がある。

ハイコエ:石滝の所で道が悪くて、はいこえて通ったところ。

下ハイコエ:下ハイコエの下にあって水神渕があって、大地震あり他に水が全然なく、ここにだけ水があって住民はこの水を飲料水として使用した。現在においても一日、7月7日らお祭りをしている。

ハノヒラ:山仕がおが(大きなのこ)をもってきておいた場所で現在オガバと言われる。日光院が泊宿としていたところと言われる。

下ゴミ、上ゴミ:大水の出る毎にゴミの集まる所からゴミとなった。

ドオヅキ:この山でヒヨシ木の音を聞いたら必ず病気をすると言われる伝説がある。

ダシゴヤ:山仕事をする人夫小屋。

シエスワリ:山津波あり落ちて座した所。現在も山がくずれている。

ドヲガイチ:岡田と言人が開拓した所。(兵部の府の指揮により開拓されたものと言われる)

ヤブロウヤシキ:弥五郎と言人が住んでいたところ。

ヤツキハタ:アヅキを作って良く出来た所でアヅキバタと字名がなった。

仁王作、下仁王作り:影地のために作物が2俵位いしか作れなかったことから仁王作となった。

ヒナタゼ:日当り良い土地。

 

▽徳弘勝氏の特別寄稿

烏について(p79):山里の地形方言ーに土佐山村で岩がちな地形をガンマク。ユワガラ。広島でガラジ(石地〉といい、淡路島では、カラス(石原〉というらしい。全国方言辞典(東條操編)をみたら次のようにありました。 

 がらす 小石の土地、石原、又は小石。淡路島。「ス」はスミカの「ス」ではないでしょうか。

長沢におそわる(p87):土佐郡本川村長沢の古名は、「中沢」と『南路志』にしるされている。十和村の長沢はどうか。古城のサワと地吉のサワが落ちあうところをしめている。「中沢」だったのではあるまいか。

ナカ(中)という語は古く、ナだけで中をいった。アリカ・スミカのカと同じで地点や所をさした。原義は、層をなすもの、並立するもの、長さのあるものなど三つにわけ、その両端でない中間にある所を意味したと説明されている(大野晋)。

烏村(p99):「サコグチ」「ダバ」「長サハ」二つをへて40筆。サコは小さい河谷。ダバは山あいの小平地。サワは谷川。このサワは雨がふれば流れていたにすぎなかったと思われる。なにせ鳥村(カラスムラ)だったゆえに。つまり涸る・ス(栖)村だったように考える。 香美郡野市町の鳥川は雨があれば流れ、なければ水のない涸るス(栖)川だったと土地ではいっている。

 せまいながらも小城村民は、追和(ついわ)、山瀬(やませ)、本村(ほんむら)、下組(しもぐみ)の集落がちらばる。

 ニつ揃って一組の岩の在所が追和であった。山瀬は山から吹きおろしてくる風のつけた名前であろう。冷害凶作をもたらすヤマセを津軽では「七日ヤマセ」とよんでおそれる。

  

■ゼンリン社(2013平成25年)

 p7:古城、長沢、本村、長沢川、烏川、ヤケソ谷川、県道十和吉野線、烏川橋サジンボウ橋、金峰神社、古城八幡宮

p8:古城、長沢川、一の又川、県道十和吉野線、ダバサキ橋、白皇神社

p10:古城、下組、長沢川、マキノ谷川、ヒナタゼ川、仁王橋ひっこえ橋下組大橋

p4:古城、山瀬、山瀬川、和霊谷川、カイデ川、海津見神社、奥組集会所

p5:追和、追和川、石鎚山大権現本山

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

 古城、下組、長沢、本村、追和、山瀬、長沢川、烏川、石鎚山

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

※左端の「点名」をクリックすると位置情報が、「三角点:標高」をクリックすると点の記にジャンプ

追和(四等三角点:標高425.99m/点名:ついわ)古城字ヲトシロノ上1309-12番地

平戸(四等三角点:標高559.11m/点名:ひらど)古城字一の又山1300-11番地

樽口山(三等三角点:標高453.85m/点名:たるぐちやま)古城字樽口山1345番地

本村(四等三角点:標高381.90m/点名:ほんむら)古城字ウハシカ谷1252-イ番地

(三等三角点:標高512.02m/点名:からす)西土佐半家字城ノ下2196番地

 

■高知県河川調書(2001平成13年3月:p53

烏川(四万十川1次支川長沢川2次支川烏川)

左岸:四万十町古城字セリワリ387番の3地先

右岸:

山瀬川(四万十川1次支川長沢川2次支川烏川3次支川山瀬川)

左岸:四万十町古城字アサリヤヲシ499番地先

右岸:四万十町古城字ヲリツキ497番の1地先

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

サジンボウ橋(烏川/古城)14.00

山神橋(/古城)6.00

オリツキ橋(/古城)5.00

ダバサキ橋(烏川/古城)19.00

ウマジ第2橋(/古城)11.00

中平橋(/古城)5.30

大津岩橋(/古城)2.80

第2追和橋(/古城)3.60

カイデ橋(/古城)6.40

長沢橋(/古城)8.00

マキノ谷橋(/古城)12.80

ヒナタゼ橋(/古城)6.00

 

■四万十森林管理署(四万十川森林計画図)

 

 

■四万十町広報誌(平成23年5月号)

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