黒潮町(くろしおちょう)


 

有井川【ありいがわ】445

 

 

黒潮町有井川

33.040876,133.071578

 

有井川(有井川村/校注土佐一覧記p313)

又有井川とて川あり

古言は今に流れて有井川 音にこそたてね山郭公

又浜辺に小袖貝とていろいろの文彩ありて見る人鐘愛にたえたり

いつしかと入野の浜に今日は来て うら珍しく拾ふ袖貝

 

此わたりの鶉には庭鳥のごとくなる冠りありて世の常のうづらにことなり、里人都鳥といふ

聞て猶あと忍べとや都鳥 いまも有井の里に鳴らん

又玉なしの浜といふもあり

秋風のみぎわの芦を吹き敷きて 葉に置く露の玉なしの浜

此郷中に尊良親王の御殿の跡とてそのかたわづかに残り侍る。

訪ひみるも昔の跡はかすかにて それとばかりの谷の岩ばし」 

 

▽有井川

 大方町伊田と上川口の間に流れる川で、有井川村は州郡志には戸数30とある。保元の乱では藤原師長の配所とも伝えられ、先に述べた尊良親王を迎えた有井庄司三郎左衛門豊高の墓がある。

 また「小袖貝」の伝説があるが、俗名「ふじはまぐり」のことで、アサリに似た大型の二枚貝である。貝殻の模様に富士山、月、雲、松原を連想させるものがあり、尊良親王にまつわる哀話に結びついて伝説化された。

 親王の船を待ち望んで有井庄司が立った上川口との境の坂を待王坂といい、親王にまつわる伝説が多い。 

(山本武雄著『校注土佐一覧記』p313)

 

令和の『土佐一覧記』を歩く

郭公と尊良親王

 この有井川の二つの歌は、次に書かれた「入野の袖貝」の歌の序詞としてくまれたものと思われる。このレトリックとなる「山郭公(やまほととぎす)」は、現在刊行されている『校注土佐一覧記(山本武雄著)』では山郭公であるが、別の写本では「山時鳥」となっている。平安初期の古文書から「ホトトギス」に「郭公」の字があてられており、近代に入ってからは「カッコウ」を「郭公」と表記するようになった。土佐一覧記に詠まれる動物は郭公が一番多く二十一首あるが、どうしてホトトギスが多く詠まれるのか。

 カッコウはその姿をたまに見かけることができるが、ホトトギスは鳴き声のみである。姿を見せずに鳴くことからよけいに印象が強く、上代人以来多くの和歌に詠まれたものに違いない。

 有井川の地を訪ねた与惣太は、自分の巣も定めないで身を隠し渡り歩くホトトギスに、流謫の地を遷ろう尊良親王(たかよし)の心象を重ねて詠んだものだろう。

 一般的にホトトギスの鳴き声は「テッペンカケタカ」といわれるが大正では「ゴッチョウタベタカ」。遠野では「包丁欠けたか」、佐渡では「本尊欠けたか」と鳴くという。「死出の田長(しでのたおさ)」の伝えもある。姿が見えない渡り鳥は各地で多様な鳴き声の物語を托卵のように育んできた。

 有井川の地内に宮地山がある。『南路志』では保元の乱で土佐に配流となった藤原師長の配所が宮地山だという。別の古文書には「宮地山 有井川村田丁に有」とあることから、先述の「死出の田長(ホトトギスの別名)」の田長が転訛して田丁になったものと考えてしまう。また、西谷集落の小谷に「テンシヨモリ谷・天上森谷」の小字があるがこれもテンチョウに読める。いずれにしても、地名は歴史を刻んだ隠し文字でもある。流れついた都人(ホトトギス)を揺籃(托卵)するように温かく迎えたのが有井川の人々であった。

 

名を伏した「玉なしの浜」も今は堂々と「王迎」

 小袖貝の模様といい、鶉を都鳥と呼ぶことといい、玉無の浜といい、僅か数か月の親王の在所であったが里人は多くの物語を伝えていたことだろう。与惣太も大切に聴き取り記録している。

 「玉なしの浜」と与惣太は記録しているが、王と書くのをはばかって玉としたものだろうか、それとも北条方の監視重圧から逃れるため名を伏して玉無(たまなし?)としたのだろうか。将棋では上位の者が王将、下位の者が玉将を使うが、ともに「ぎょく」と呼ぶ。土佐くろしお鉄道中村線の駅に「海の王迎え駅」がある。国土地理院地形図にも「王迎」「王無」とある。「王無」は「王待」の転訛か。今の世では隠すことなく王を迎えたところと宣言している。

 王迎の団地の字名は「大ナシ谷(大梨子谷)」。ナシ(梨)は無を連想することから、無を有に変えて「アリノ木」とする地名が多い。ここは団地造成のおりに佳字としてもっと積極的に「王迎」と変更したものだろう。新しい地名ではあるが歴史を踏まえた命名ともいえる。

(武内文治

 


土佐一覧記を歩く①有井川」『大形』319号、大方文学学級、2020.11

今も猶此里ばかり忍び音も

鳴かで有井の山郭公

古言は今にながれて有井川

音にこそたてね山郭公

川村 与惣太

 安芸の歌人、川村与惣太が有井川を訪ね詠んだ『土佐一覧記』所収の二首である。西寺(金剛頂寺)の別当を辞して土佐一国の辺地紀行の旅にでたのが明和九年(一七七二)のこと。五十二歳の隠居の身として東の甲浦から宿毛の松尾坂まで歌で綴った旅日記であり江戸末期の風土記でもある。この『土佐一覧記』の原本はいまだ発見されておらず、多少の違いをみせる数冊の写本がある。黒潮町では、東から「鈴」、「伊与木」、「佐賀」、「有井川」、「入野」、「畑野(御坊畑か)」、「橘川(大方橘川)」の七地区、十三首が詠まれている。

 この有井川の二つの歌は、次に書かれた「入野の袖貝」の歌の序詞としてくまれたものと思われる。このレトリックとなる「山郭公(やまほととぎす)」は、現在刊行されている『校注土佐一覧記(山本武雄著)』では山郭公であるが、別の写本では「山時鳥」となっている。平安初期の古文書から「ホトトギス」に「郭公」の字があてられており、近代に入ってからは「カッコウ」を「郭公」と表記するようになった。土佐一覧記に詠まれる動物は郭公が一番多く二十一首あるが、どうしてホトトギスが多く詠まれるのか。

 カッコウはその姿をたまに見かけることができるが、ホトトギスは鳴き声のみである。姿を見せずに鳴くことからよけいに印象が強く、上代人以来多くの和歌に詠まれたものに違いない。

 有井川の地を訪ねた与惣太は、自分の巣も定めないで身を隠し渡り歩くホトトギスに、流謫の地を遷ろう尊良親王(たかよし)の心象を重ねて詠んだものだろう。

 一般的にホトトギスの鳴き声は「テッペンカケタカ」といわれるが大正では「ゴッチョウタベタカ」。遠野では「包丁欠けたか」、佐渡では「本尊欠けたか」と鳴くという。「死出の田長(しでのたおさ)」の伝えもある。姿が見えない渡り鳥は各地で多様な鳴き声の物語を托卵のように育んできた。

 有井川の地内に宮地山がある。『南路志』では保元の乱で土佐に配流となった藤原師長の配所が宮地山だという。別の古文書には「宮地山 有井川村田丁に有」とあることから、先述の「死出の田長(ホトトギスの別名)」の田長が転訛して田丁になったものと考えてしまう。また、西谷集落の小谷に「テンシヨモリ谷・天上森谷」の小字があるがこれもテンチョウに読める。いずれにしても、地名は歴史を刻んだ隠し文字でもある。流れついた都人(ホトトギス)を揺籃(托卵)するように温かく迎えたのが有井川の人々であった。

(武内文治)