よくある地名の語源 「し」


20210519更

しおりやま(枝折山)【窪川中津川△奥神ノ川/標高806.3m】

 

しがき(シガキ・猪垣・鹿垣)【萩ノシガキ(打井川)、クイノシガキ(打井川)】

 猟をするとき身を隠す場所。鹿や猪のよく通る道筋に待ち構えるのに都合のいい場所。伊与木定氏の朗著「掻き暑めの記上p399」に詳しい。高知県方言辞典には①猪の作物荒らしを防ぐために築いた石垣②鳥獣を撃つ場所③猪の通る道とある。小石の裏山の通称「黒作畑」には猪等からの防御施設としての石垣や土塁がある(四万十町指定史跡)。

しげとしやま(重利山)【久保川△津賀/標高640.3m】

 

しぞうやま(地蔵山)【大道△愛媛県鬼北町/標高1128m】

 

しでざき(四手崎)【昭和地区の集落・組】

 

しでとうげ(四手峠)【昭和地区の峠】 

 四万十川は昭和地区轟集落あたりから大きく戸口集落、四手崎集落を穿入蛇行して、昭和地区市街地に至る。その首根っことなるところの峠越えとなる旧往来が四手峠。現在はその峠の下を国道381号線の三島トンネルが通る。四手(シデ)は昭和地区の旧村名。村名は改称されたが峠の名として国土地理院地形図に残る。

じぶた(治部田・地部田)【治部屋敷(本堂・与津地)・治部ハタケ(平野)・治部藪(打井川)・シブチ(打井川)、治部田(上宮)】

 四万十町の地名は「治部」の漢字が当てられているが、律令制における治部省に関係するかは不明。語尾に田とあるのでシブの温転か。

 鉄分の多い水田を渋田(しぶた)と呼ぶ。水地で年中乾くときもない田をジルタという。松尾氏はこれらの説に異をとなえ「シボムが語源で狭い谷や谷口のような地形」と述べる。また楠原氏は「形容詞の渋いから、円滑でない状態、なめらかでない地形を示すところ」と述べる(地名用語語源辞典)。

 大正地区には地部田の姓もある。

しまど(島戸)【興津地区の集落・行政区・総代】

 

しもぐみ(下組)【戸川地区の集落・組】

しもむかい(下向)【金上野】

 

しもやしき(下ヤシキ)【多数】

長宗我部地検帳は、地高の次に田畑屋敷の等級が示される。下ヤシキは、作人などの低い等級の宅地

しゃくしとうげ(杓子峠)【大正△四万十市片魚】

 

しゅんぶんとうげ(春分峠)【四万十町と梼原町の境】 

 標高約730m、久保谷山国有林内にある梼原方面(松原)、窪川方面(窪川中津川)の林道が合流する峠。少し松原に向かうと大正方面(大正中津川)の分岐となる。「総延長15km余の林道が開通したは、昭和43年のこと。竣工式はこの地で行われた。そして、その日がちょうど春分の日(3月20日)だったことから、時の営林局長の森尾洋一さんが命名した。「鈴ヶ森」へ向かう登山口。

 

しょうじ(ショウシ・障子・庄司・庄次・小路・正路)【障子ヶ内(奈路)、障子越(金上野)、庄次畑(八千数)、庄次谷山(若井川)、庄次ヶ谷(相去)、小路ノウ子(浦越)】〔庄司ヶ市(梼原町島中)、障子ヶ谷(香美市土佐山田町楠目、大川村南野山、宿毛市押ノ川)、庄次ヶ谷(土佐市太郎丸、四万十市西土佐橘)、庄司ヶ奈路(津野町杉ノ川)など多数〕 

 「ショウジ」地名は県内でも各地に分布する。漢字は障子、庄司、庄次、小路、正路が多く、時に笑シ、城師、正寺が当てられている。

 語尾に付く文字は「谷」が多く「藪」「ナロ」「平」「淵」などの地形景観を示す場合もある。一方では「屋敷」「畑」「ヶ市・ヶ内」「作」といった、支配形態を示す場合もあるので、現地で確認する必要がある。

 地名用語語彙辞典も①細流。泉②小路。幅の狭い道③小字・小名④荘園管理の従事者・庄司にちなむ⑤岸壁を障子に見立てるとある。

 ショウジ・谷は、ショウズ(水の湧き出る所)からきた地名だろうか。往来周辺に付けられた地名はショウジ(幅の狭い道)として小路・正路を当て、そそり立つ岸壁や岩山を障子にみたてて障子滝、障子越としたかもしれない。

 ショウジには、荘園の管理に従事した役職「庄司」「荘司」によるものもある。庄司屋敷、庄次畑、庄司ヶナロ、庄司ヶ市などはその名残りかもしれない。庄次作、庄次畑は耕作人を付した焼畑地名かもしれない。

 宿毛市平田町黒川に平田俊遠の墓(字・日林寺)がある。宗福寺を拠点として荘園の維持管理をする地方官吏であった平田俊遠の職名が庄司であったことから「庄司」と呼ばれた。宗福寺の谷奥に「障子奥」「障子奥ダバ」の字名があるのは、この職名に由来するものと思える。この黒川の地の向いに式内社「高知坐神社(たかちにますじんじゃ)」がある。往古、幡多の中心は平田であったのではないか。 

しょうじょう(猩々・猩々山)【上岡】

 上岡の集落の対岸、四万十川右岸の口打井川にまたがる町有林が「猩々山」である。不思議な地名で印象に残る。

 猩猩(しょうじょう)は、古典書物に記された架空の動物。能の演目から、猩々が真っ赤な能装束で酒に浮かれながら舞い謡う印象が強くそのイメージが定着しているという。

 身近にショウジョウトンボ(オス・猩々蜻蛉)、ショウジョウバエ(別名小蠅・猩猩蠅)など「ショウジョウ」が付けられた昆虫がいる。いずれも赤い体、酒に寄ってくる、小さいイメージから命名されたようだ。

 このショウジョウに似た音韻で「侏儒(シュジュ)」があり、芥川龍之介の『侏儒の言葉』が有名だ。侏儒は背の低い人の蔑称や思慮の浅い人さす意味がのだが、龍之介は自分を謙遜していたのかもしれない。いずれにしても「小さい」というイメージは共通している。

 四万十町には、この小字(町有林)だけで、猩々の伝承説話はない。

 九州に「猩々坂(しょうじょうざか)」がある。近世には肥後と薩摩・大隅を結ぶ主要道の一つとなる峠坂(標高500m)で『国誌』には「太タ曲折レタル長キ坂ナリ、此坂ノ上ニ時光仏トテ小石ヲ積タル所アリ、不知所以、往来ノ者小石ヲ投テ達者ヲ祈ルト云」とある。また、京都市中央区小川通三条下ルに「猩々町」があり、『坊目誌』には「この町西行に酒やあり。表のひさしのうへに猩々をつくりて出しきたればをのづから家の名になれりといふ」と書いてある。

 

じょうろく(丈六・常六)【四万十市】

 四万十市に大字地名の常六がある。不思議な地名であるが、一般的にジョウロクは一丈六尺の略で釈迦の身長を仏像(立像)の基準とされたという。そのことから「丈六」が仏像の別称ともなっている。「立像を安置した『丈六堂』の所在による地名か」と地名用語語源辞典は説明する。

 

じよしやま(地吉山)【里川△大正/標高637.6m】

 

しりなし(尻無)【香南市夜須町西山ほか】

 『地名用語語源辞典』は「砂州、砂丘などのために流れが伏流する川をいう。」と説明する。高知県下の小字に「尻無(シリナシ)」が51か所ある。語尾に谷・畝・森・岩・山がつくなど、お尻のように盛り上がった地形地名ではないか。無はナス(成)の意で、逆に「有」の意味と思われる。全国にも尻無川は多い。 

  

 

 

しろいがわ(白井川)【十川地区の集落】

 

 

 

しわごう(志和郷)【中世の広域地名】  

 中世の仁井田庄が仁井田庄八郷八番と言われたころの八郷の一つ。志和本村、大鶴津村、小鶴津村、小矢井加村、大矢井加村、(以上5か村を古代より志和五郷)、志和峯村、与津地村の志和郷7か村。この地域を志和の五郷七村と言われた。現在は、小矢井加村、大矢井加村が中土佐町に属し、残りは東又地区の区域となる。

しわぶん(志和分)【大字・七里の集落・行政区】  

しんざいけ(新在家)【新在家(土居)】

 新開、新田、新屋敷、新庄、新地など同類の開墾集落名の一つ。「新」は新しい意味で、「在家」は、中世に領主の所領内に居住し在家役を負担した農民、その居住地としての村落構成の単位。七里には本在家集落があり、土居地区の隣の弘見地区には字・今在家がある。

しんざいけごう(新在家郷)【中世の広域地名】 

 中世の仁井田庄が仁井田庄八郷八番と言われたころの八郷の一つ。新在家郷12か村は、土居村(新在家村)、平野村、黒石村、奈路村、弘見村(別名、張木村)、数家村、神野々村、八千数村、飯ノ川村、道徳村、本堂村、親ケ内村で、これを新在家番・東番とも言われた。東又村と命名した由来は、この地域を東番と記され「ひがしばん」と呼称された故か。現在の東又地域のうち藤ノ川、向川は窪川郷13か村に、志和、小鶴津、大鶴津、志和峰、与津地は志和郷7か村に属していた。数家・神野々が数神村となったのは明治9年の合併によるものである。

しんかい(新開)【七里(柳瀬)】

 

しんでん(新田)【新田(若井川・秋丸・窪川中津川・与津地・藤ノ川・平野・相去・昭和)、上新田(六反地)】 

 

しんでん(神田)【神田(宮内ほか各地)】 

 

しんばやし・しんりん(新林)【新林(弘瀬)、新林山(戸川)】

 江戸時代に新たに植林した森林。『ふる里の地名』に戸川の字・新林山について「焼き山を止めて林になったため新しい林と言う意味である。」、「焼畑をやめて山林になった時期、新林より後になった場合は”若山、若林山”と区分している。」と説明している。「土佐藩林業経済史(p69)」には御留山をはじめとした山林の用途に応じた種目を列記しているが、新林については簡便に「野山の一種として山地新林林がある。」とだけ書かれている。安芸市、越知町、土佐市にも「シンバヤシ」がある。

(20230121現在)

ちめい

■語源

 

■四万十町の採取地

 

■町外の採取地