大正中津川

たいしょうなかつかわ


20150422初

20180524胡

【沿革】 

 長宗我部地検帳には「森河内村」と「中津河村」とあり、それぞれ地高をまとめていることから、枝村ではないような検地記録である。 

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)南路志(1813)ともに「中津川村」とある。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、中津川村は大字となった。

 大正3年(1914)1月1日、幡多郡東上山村は、 村名を改称し「大正村」となった。

 昭和22年(1947)8月1日、幡多郡大正村は、町制を施行し「大正町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。合併時、町内に同名の大字があることから、調整され名称を中津川から旧町名を冠した「大正中津川」に改めた。

 

【地誌】

 旧大正町の北部。北は標高850m級の稜線で高岡郡梼原町、東は窪川地域、南は芳川、木屋ケ内、西は大奈路字古味野々および下道に接する。地内西部を、北部の山地小松尾山から中津川が南流している。ほとんどが山地。流域に水田、集落が立地。地内には上流域にある森ケ内集落と本村集落がある。成川集落は現在だれも住んでいない。下流域で成川谷が中津川に合流。川沿いに町道が通り、 バス連行1 日3 便。森ケ内から大正まで17.6kmの地。森ケ内から上流は林道が町境の標高875mの春分峠にのび窪川地域に通じて、梼原町松原地区へはトンネル等が新設され439酷道よりはるかに立派なふるさと林道松原中津川線が通じた。国有林1,534haがあり、国有林野事業が盛んな頃は中津川担当区事務所、製品事業所・商店があった。農林業が盛ん。河内神社、大元神社、日吉神社(大己貴命)、茶堂がある。商工会青年部主催の「びんび祭り」は22回継続開催された。

 平成22年、農家民宿はこばのあかあさんは「農林漁家民宿おかあさん100選」の第1回選定者となった。この「はこば」、四万十町一番目のどぶろく特区としてお酒を醸造している。

 「農家民宿 はこばの四季」が第59回(h26)高知県出版文化賞を受賞。この本は、著者の山﨑眞弓さんが「はこばの食」を手がかりにして36戸、住民73人の中津川に通い「私の中津川時間」で中津川の四季のくらしを掘り出し綴った愛情の記録です。初めて訪れても「ただいま」という中津川。

 集落づくりの地元熱意は強く、平成8年の中津川小学校の休校を機に、「電脳中津川小学校」が開校、任意団体の「やまびこ会」も自然発生的に発足し、その活動には目を見張るものがある。「集落再生モデル事業」、「もみじまつり」や「どろんこ運動会」の活動を進めるなかで、中津川集落活動センター 「こだま」が平成28年2月14日に始動した。

 平成18年の町村合併時に町内に2か所の大字となることから名称を中津川から大正中津川に改めた。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央に流れる川が中津川。上流が森が内集落で下流域が本村集落)

 

【地名の由来】

 地名の父、吉田東吾著の「大日本地名辞典」には、「中津川」地名が全国各地に22箇所みられる。その多くは山奥深い谷川であり、奥山の村落である。ナカの音のごとく幾つかの集落の中を意味するところが見うけられる。

 「民俗地名語彙辞典(松永美吉著)」では中津川について『山奥の在所の地として折々きく。その最も奥まったのは秩父の中津川である。』と説明し、ツについては『土地の便、不便。交通の良否を「ツが良い」と岡山、山口、秩父などにある。このように「交通位置」のツから、船着き場や港の意となった。』とある。

 「地名用語語源辞典(楠原佑介・溝手理太郎編)」ではナについて『①場所を示す接尾語。「土地」をいう古語のナ。②接頭語もあるか。』とし、ツについては『①港。渡し場。ト(門)と同系か。②泉などの水のある所、また単に海岸をいうか。③近世に①の意から転じて「人の集まったところ」特に大都市をいう。④場所を示す接尾語。ト(処)と同系か』と述べている。中津については『①ナカ(中)・ツ(津)で「中心となる港湾の所在地」②ナカ(中)・ツ(場所を示す接尾語)で、中心となる地。』とある。

 また「地名語源辞典(山中襄太著)」ではナカについて『親村から子村が四方へ分れ出た場合に、その中央にある親村を中村、本村、元村、本郷、元郷などと呼び、また単に中、元、本、茂登などとも呼ぶ。』と述べている。

 大正町史は『山間部狭間の土地を流れる川によるといわれ、流域に「本村」と上流域の「森ヶ内」、下流域の「成川」の集落が存在していた。』と由来を述べている。

 

 大正中津川の場合、村落の中心地として「本村」が栄え、上流には小高い所の新たな開墾地として「森が内(盛り河内・カイチ。渓間の小平地)」ができて子村となり、下流に「成川(緩傾斜がナルで、なそーなった所の川)」が次に開拓され、三集落に流れる郷村の名を「中津川(中津に流れる川)」としたのではないか。

 山の暮らしは、長い歳月で山を培う開拓者であるとともに、山を畑としてその実りを頂戴し加工して山道を縫って売り歩く数年サイクルの総合商社員であり、山の中で必要なものを自らがやりとげる技を磨き合う職人集団でなりたっている。

 山人(縄文人)は、1年サイクルの農耕民族(弥生人)とは違う暮らし方である。 

 

 国土地理院の地形図を見ると「中津川」は、川名であるとともに集落名にもなっている。

 川名は単なる記号ではなく、地名の一つであるとともに、川名が教える先人の知恵の坩堝でもある。

 古代から生活の適住地は水との関係から成り立っている。洪水から身を守り、日常の暮らしや農耕に必要な川水を確保できる土地に集落が形成され、その邑に名称がつけられ、その流域を特徴づける地域名や流域の形状や生活や信仰を反映した固有の名に「川」を付して川名としてきた。

 それでは、中津川は、「中津」という地域名に河川をしめす「川」を合成して川名としたのか。

 中世末期の文献史料となる長宗我部地検帳に「中津河村」とあり、枝村として「成川」がある。また、近世の文献史料となる「土佐州郡志」をみれば、「中津川村」とあり、村内の地勢として川名のあるのは成川谷と小松谷の二つである。

 このことから、この流域の中心的な集落は「中津川」であることは明白であり、正式名称は命名法のルールからは河川名は「中津川川」となるところである。実際は河川台帳も「中津川」である。四万十川水系には松葉川地域にも中津川の地区があり、その地区を流れる川は中津川川である。流域に複数あることから区別したのかもしれない。

 

 いずれにしても、中津川は、山が育んだ地名といえよう。

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 アイビヤ、朝日山、井手ケ谷、ウシノダバ、薄木、畝ノ鼻、梅ノ木才、ウルシハラ、扇平、大ヒラ、大平山、岡ノ越、奥森ケ内、門田、上ミ久保、ガヤノ木、北峯山、久木ノ森、楠木佐古山、クボノ、久保野下モ、越ノ畝、小松尾、サワタリ地蔵院、下モガヤノ木、下モ駄場、杉ノ段、タカノ畝、高薮、長坊谷、長ボヲ、ツルイノ本仲ケ市、仲ケ市山、中屋敷成川、西峰山、二タゴ松、二タ子松山、仁ノ畝、東ノ前、東峯山、向佐渡、向ダバ、向イ宮、森ケ内山、横平、横平山、六郎北平、六郎谷、六郎谷ノ下モ【53】 

 

(土地台帳・切絵図番順)

 10北峯山、11東峯山、12向佐渡、13ウルシハラ、14長坊谷、15東ノ前、16越ノ畝、18ウシノダバ、19門田、21地蔵院、20ツルイノ本、25仲ケ市、26アイビヤ、28クボノ、30下モガヤノ木、31ガヤノ木、32向ダバ、35二タゴ松、36高薮、37大ヒラ、39梅ノ木才、40奥森ケ内、41上ミ久保、44仁ノ畝、45下モ駄場、46中屋敷、47杉ノ段、48西峰山、50六郎谷、52サワタリ、横平、2薄木、17長ボヲ、22扇平、23岡ノ越、24畝ノ鼻、仲ケ市山、27久保野下モ、34二タ子松山、大平山、38タカノ畝、42森ケ内山、49六郎北平、六郎谷ノ下モ、51向イ宮、53横平山、54朝日山、55楠木佐古山、3成川、9井手ケ谷、1久木ノ森、8小松尾

※29クボノ山、33向ダバ山、43仁ノ畝山は切絵図には掲載されているが土地台帳にはない。

※大平山、六郎谷ノ下モ、横平は土地台帳に記載はあるが、切絵図にはない。

※4奥成川、5木戸木、6小荕、7大荕は全山国有林のため土地台帳には無記載がない。

※越ノ畝を「コエノセ」、畝ノ鼻を「セノハナ」、タカノ畝を「タカノセ」と地元では呼ぶ。税務資料は「畝」を「ウネ」。

※二タゴ松、二タ子松山を地元では「フタゴ」と呼ぶが、税務資料では「ニタゴマツ」「ニタゴマツヤマ」である。

【土地台帳の調査】

 現在の土地台帳の調査は「北峯山、東峯山、向佐渡」と中津川地区の外側の農地から始まり、中津川本村集落の入口となる「ウルシハラ、長防谷」から旧中津川小学校の「地蔵院、ツルイノモト」を終え、「仲ケ市」から中津川を遡上し森が内集落に入る。森が内集落では中津川左岸から右岸「梅ノ木才」に渡り集落を一周して中津川右岸を「薄木」まで下りいったん農地・宅地を終了する。ここから山林の調査として同じコース「北峯山」から「楠木佐古山」までたどることとなる。大正中津川の最終地番となる字は「成川」であるのは、国有林野の払い下げを受けたことから新規地番となったのではないか。

 

【ホノギ】森河内村・中津河村

〇土佐国幡多郡上山郷御地検帳:幡多郡上の1p124~132/検地:慶長2年3月22日)

 ▼是ヨリ森河内村

 中ヤシキ、宮ノワキ、上クホタカヤフ

 ▼是ヨリ中津河村(中津川村)

 中カイチ地蔵院ヤシキ、河内神田、なり田、岡ヤシキ、ツルノモト、むろや、林上、下谷かけて、ウシハラサハタリ成川、奥ウスキ奥谷かけて 

 

ダウンロード
大正町切図(0819中津川).pdf
PDFファイル 368.1 KB
ダウンロード
818大正中津川・集成図2.pdf
PDFファイル 834.9 KB
ダウンロード
818大正中津川・集成図1.pdf
PDFファイル 933.6 KB

【通称地名】

 

 

 【山名】

 

 

【河川・渓流】

 

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

  

【ため池】(四万十町ため池台帳)

 

 

【城址】

 

  

【屋号】

 いんきょ(林伸次宅)、しんや(新屋)、あたらしや(井原宅)、なか(徳広誠男宅)、ひがし(小野川清美宅)、かしだる(小野川小萩宅)

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

河内神社/47かわうちじんじゃ/鎮座地:向イ宮 ※村社

(旧:大元神社)/47.2おおもとじんじゃ/鎮座地:岡ノ越 ※本村集落

(旧:日吉神社)/47.3ひよしじんじゃ/鎮座地:タカノ畝 ※森が内集落。タカノ畝とあるが神社明細帳では「カタノ畝」

(旧:厳島神社)/48いつくしまじんじゃ/鎮座地:東峯山 ※神社明細帳では鎮座地の付記として「成川口」と通称地名を記録

(旧:熊野神社)/48.2くまのじんじゃ/鎮座地:畝ノ鼻 ※本村集落

※神社明細帳には記載がないが、山の暮らしの集落だけあってあちらこちらに大山祇神社が祀られている。 

※「鎮守の森は今(竹内荘市著)」に「福徳神社」「大山祇神社」が掲載されている。

 1773福徳神社(大正中津川/祭神不明/平家の落人を祀るといわれている)

 1774大山祇神社(大正中津川/祭神不明/本村の裏山に鎮座) 

 


現地踏査の記録

■奥四万十山の暮らし調査団『土佐の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅰ-』(2018平成30年)

大正中津川(p56)  初めて訪ねても「ただいま」という桃源郷

 旧大正町の北部。北は標高850m級の稜線で高岡郡梼原町、東は窪川地域、南は芳川、木屋ケ内、西は大奈路字古味野々と下道に接する。地内を、北部の小松尾山から中津川が南流している。ほとんどが山地で流域に水田、集落が立地。地内には上流域にある森ケ内集落と本村集落がある。旧成川集落は現在だれも住んでいない。下流域で成川谷が中津川に合流。川沿いに町道が通り、バス運行1日3便。森ケ内から大正まで17.6kmの地。森ケ内から上流は林道が町境の標高875mの春分峠にのび窪川地域に通じて、梼原町松原地区へはトンネル等が新設され酷道(国道)439号よりはるかに立派なふるさと林道松原中津川線が通じた。国有林1,534haがあり、国有林野事業が盛んな頃は中津川担当区事務所、製品事業所・商店があった。農林業が盛ん。河内神社、大元神社、日吉神社(大己貴命)、茶堂がある。商工会青年部主催の「びんび祭り」は22回継続開催された。

 平成22年、農家民宿「はこば」の田辺客子さんは「農林漁家民宿おかあさん100選」の第1回選定者となった。この「はこば」、四万十町一番目のどぶろく特区としてお酒を醸造している。書籍『農家民宿 はこばの四季』が第59回(2014年)高知県出版文化賞を受賞。この本は、著者の山﨑眞弓さんが「はこばの食」を手がかりにして36戸、住民73人の中津川に通い「私の中津川時間」で中津川の四季のくらしを掘り出し綴った愛情の記録です。帯書きには『初めて訪れても「ただいま」という中津川』とある。

 集落づくりの地元熱意は強く、平成8年の中津川小学校の休校を機に「電脳中津川小学校」が開校。任意団体の「やまびこ会」も自然発生的に発足し、その活動には目を見張るものがある。「集落再生モデル事業」、「もみじまつり」や「どろんこ運動会」の活動を進めるなかで、中津川集落活動センター 「こだま」が平成28年(2016)2月14日に始動し、開所式には尾崎知事も出席。サプライズで小萩さん(当時96歳)と知事との模擬結婚式も行われた。なんとも楽しい集落である。第2と第4の日曜日はワンコインcafe、お得ですヨ。

 平成18年(2006)の町村合併時に町内に2か所の大字となることから名称を中津川から大正中津川に改めた。

(一)『地検帳』に見る村落景観

1、集落

 検地は、下津井村の枝村である舟瀬村(現在のオゴシ集落)から矢立往還(松原往還)の足川越へから森河内村(大正中津川地区の森が内集落)に入っている。慶長時代のこの集落の村名は、”森河内村”と呼ばれ、当時は”中津河村”の枝村ではないような検地記録である(ここでは二つの村を一緒に記述する)。検地を行ったのは慶長2年3月22日(1597年5月8日)のことである。

 検地は、森が内集落の「中ヤシキ(中屋敷)」(林貞一宅)から始まり、「上クホ(上ミ久保)」、「タカヤフ(高藪)」と進み、中津河村の「中カイチ(仲ヶ市)」から本村の「地蔵院ヤシキ(地蔵院)」に入り「ツルノモト(ツルイノ本)」、「ウシハラ(ウシノダバ)」、「サワタリ(佐渡り」を終え「成川(成川)」の集落へ進み「奥ウスキ(薄木)」でこの村を終えている。

 検地高は、本田出田ともで、森河内村が1町8段、中津河村が6町4段となっている。

 検地にみられる寺社は、明確にはないが「宮ノワキ」、「地蔵院ヤシキ」、「河内神田」のホノギがある。地蔵院跡は現在中津川小学校跡地となっている。検地は「中カイチ(仲ケ市)」から本村集落の「地蔵院」となっているが、その途中「畝ノ鼻」に大本宮の社があったと棟札に記されている。検地数年前の棟札であることから、検地見落としとなっていることが不思議である。『南路志』には「中津川村 川内明神サワタリ、大本明神ワキノコエ、三王権現ムカイサカ」と三社を記している。

 この「地蔵院ヤシキ」(中ヤシキ)の隣が「河内神田」、「なり田」と上田が続く。「なり田」は現在の字門田と思われ本村集落の中心地にあたる。

2、土地開発・水利

 上山郷地検帳における「森河内村」は上山分の所有関係となる。作人は市大夫、忠左衛門、九良衛門、九良二良、小五良の5人、本田出田合わせて1町8段28代の小さな村である。

「中津河村」は現在の本村集落と集落としては消滅した成川集落からなっている。所有関係では全て上山分となっており「京蔵扣」など数名の扣地もみられる。京蔵は本村集落の中心となる「地蔵院ヤシキ」(中ヤシキ)に居をかまえ村一番の耕作面積を有している。作人は京蔵、与太良、源兵衛、二良三、助衛門など14人、本田出田合わせて6町4段24代の村である。地検帳の脇書きから土地開発や水利の状況はうかがえない。本村に「ツルイノモト(ツルイノ本)」があるが村人が利用するツルイであろう。

 大正中津川在住の郷土史家・徳広誠男氏(1930年生88歳)は土佐藩体制における中津川の状況を次のようにまとめている。

 貞亨元年(1684)5月10日の『御留山改帳幡多郡』の中に「中津川村 本田8町2反46代家数21 山守役名本才亟(百姓三人役給附)」とあり、慶長検地以降、約100年間人口も耕地面積も殆ど変化が見られないことから、中津川は土地の開墾はほぼ完了しこの地域に生存可能な人口となったものと思われる。

 土佐藩では民衆支配を行う組織を、地域によって。町方(都市部)浦方〈漁村〉郷方〈農山村〉と分け(中略)郷方には通常村ごとに庄屋、庄屋を補佐する年寄〈老〉組頭が置かれていたが、小村の多い山間部には(中略)「郷」という行政組織をつくったが上山郷もそのひとつである。

 中津川村に庄屋が認められるのは、先述の「御留山改帳幡多郡」に山守役名本才亟とあることからわかる。これより20年前の「西山分御留山立木見聞帳」に12、3年以前から小松尾山の開発が行われていた伐採跡の記録がある。中津川地区の御留山の美林に目をつけ早くから本格的な開発が行われた可能性がある。開発に伴い後背基地としての重要性から、村組織は成立していたと考えられる。「御留山改帳幡多郡」に中津川の御留山の詳細な調査が見受けられるが、その中に久木の森山は散林として調査が行はれていないことからすでに開発が終わっていたのではないかと推考する。  

 上山郷は「上山山分」と呼ばれていたが此の「山分」は地域性から来た区分の呼称である。この地域の耕地は零細で生産力に乏しく、木材・薪・楮・蕨粉等が生産の主流であったと思われます。

3、往来要衝の地

 大正中津川の交通路は峰越しの道が主体で主要街道として矢立往還がある。「大正大奈路」を起点として、「八足」・「古宿」・「木屋ケ内」・「赤岩」の各別れを経由して「桜の峠」で「古味野々分」・「中津川道分」となる。この往還は「下津井分」を経て「姥のふつくろ」を経由し「森ケ内分」を過ぎて梼原町「松原」へと続く。駄賃馬が通れるよう幅も広く比較的緩やかな道となっている。慶長検地も「下津井村・舟ノ瀬(尾越集落)」から「森河内村(大正中津川・森ヶ内集落)」へと当時の峰越え道を移動している。

 上山郷の中心となる田野々への交通は矢立往還であったが、交易の多くは伊予から志和・中土佐への往還道である。『下津井お留山記・上』に「久礼浦出しの桧、樅、栂の挽板類わ大松ヶ畝から津野山川の左岸に渡し、下津井から中津川へ担ぎ越し同所から山の峰つたいに松葉川の米奥付近に担ぎおろして其処から仁井田え担ぎこし床鍋え出て逢坂谷を降り、久礼の浜え着けたのであります。」とある。駄賃でなく肩に担ぐ人力輸送であることには驚く。その道具を含め山の暮らしの展示は四万十町郷土資料館でみることができる。

 この尾根越しの道は二つあり、一つは鷹の峠(森ヶ内)をのぼり北峰山を越えて松葉川(枝折山から米の川)のコース、二つは「サワタリ(佐渡り)」から「成川」に進み、「宮ヶ谷」から尾根筋を「松が峠」まで登り、尾根伝いに「杖立て」「おひその森」を経由して折合・檜生原をとおって枝折山の西側で松葉川往還に合流するコースとがあった。徳広氏は『大正中津川 むかしみち巡り』で次のように書いている。

 塩などは此の道経由で運ばれて来たと考えられます。亦藩政時代の行政管理、山の見回り役人の通行ルートでありました。藩政の頃中村奉行所から出張して来た山廻りの役人の送り迎えが、行なはれました、折合の地下役達が案内してくる役人を、中津川の山番や地下役達が、羽織袴で出迎え草鞋弁当を用意し、焚き火をしてお茶を沸かして待ち受けました。折合に越す時には同様に折れ合い村の山番達が出迎えたとの事です。現在茶沸かし駄馬と呼ばれて居ます。中津川谷沿いの集落をつなぐ道が有ります。森が内の茶堂から、大畝・がやの木・サバと越え・中かいち・岡の越えと繋がる旧往還です。佐渡・弁財天を経て久木の森の峠を越え「ほばしら淵」の下を渡り赤岩に入り、古宿・八足・栗の木瀬・竹の谷を経て大奈路に通じて居ます。此の道は集落間を最短距離で結んでいますが、赤岩からしもは川渡りが多く一雨降れば通行不能となります。矢立街道沿いの村は簡単ですが、向かい側の村は代替えの道が必要に成ります、古宿・八足の芳川越の道はこの様な事から開発されたと思はれます。亦古宿・赤岩は尾根道を通じて松が峠に通じて居ます。明暦(1715)の頃松葉川の小野川一族が古宿に移動した事が、墓石の調査で読み取る事が出来、古くからの重要な道で有った事が考えられます。また中津川の開発は成川から始まったと考えられ、松が峠道が、重要な役割を持って居るのでは無いかと考えられます。

(二)昭和期の村の姿

1、地名

中津川(なかつかわ)

 地名の父、吉田東吾氏の『大日本地名辞典』」には「中津川」地名が全国各地に22箇所みられる。その多くは山奥深い谷川であり、奥山の村落である。ナカの音のごとく幾つかの集落の中を意味するところが多いようだ。

 『民俗地名語彙辞典』では中津川について「山奥の在所の地として折々きく。その最も奥まったのは秩父の中津川である。」と説明し、ツについては「土地の便、不便。交通の良否をツが良いと岡山、山口、秩父などにある。このように交通位置のツから、船着き場や港の意となった。」とある。

 『地名用語語源辞典』ではナについて「①場所を示す接尾語。「土地」をいう古語のナ。②接頭語もあるか。」とし、ツについては「①港。渡し場。ト(門)と同系か。②泉などの水のある所、また単に海岸をいうか。③近世に①の意から転じて「人の集まったところ」特に大都市をいう。④場所を示す接尾語。ト(処)と同系か」と述べている。中津については「①ナカ(中)・ツ(津)で「中心となる港湾の所在地」②ナカ(中)・ツ(場所を示す接尾語)で、中心となる地。」とある。

 また『地名語源辞典』ではナカについて「親村から子村が四方へ分れ出た場合に、その中央にある親村を中村、本村、元村、本郷、元郷などと呼び、また単に中、元、本、茂登などとも呼ぶ。」と述べている。

 『大正町史・資料編』は「山間部狭間の土地を流れる川によるといわれ、流域に「本村」と上流域の「森ヶ内」、下流域の「成川」の集落が存在していた。」と由来を述べている。

 大正中津川の場合、村落の中心地として「本村」が栄え、上流には小高い所の新たな開墾地として「森が内(盛り河内・カイチ。渓間の小平地)」ができて子村となり、下流に「成川(緩傾斜がナルで、なそーなった所の川)」が次に開拓され、三集落に流れる郷村の名を「中津川(中津に流れる川)」としたのではないだろうか。

 山の暮らしは、長い歳月で山を培う開拓者であるとともに、山を畑としてその実りを頂戴し加工して山道を縫って売り歩く数年サイクルの総合商社員であり、山の中で必要なものを自らがやりとげる技を磨き合う職人集団でなりたっている。山人(縄文人)は、1年サイクルの農耕民族(弥生人)とは違う暮らし方である。

 国土地理院の地形図を見ると「中津川」は、川名であるとともに集落名にもなっている。

 川名は単なる記号ではなく、地名の一つであるとともに、川名が教える先人の知恵の坩堝でもある。古代から生活の適住地は水との関係から成り立っている。洪水から身を守り、日常の暮らしや農耕に必要な川水を確保できる土地に集落が形成され、その邑に名称がつけられ、その流域を特徴づける地域名や流域の形状や生活や信仰を反映した固有の名に「川」を付して川名としてきた。

 それでは、中津川は、「中津」という地域名に河川をしめす「川」を合成して川名としたのか。中世末期の長宗我部地検帳に「中津河村」とあり、ホノギに「成川」がある。近世の文献史料となる「土佐州郡志」をみれば、「中津川村」とあり、村内の地勢として川名のあるのは成川谷と小松谷の二つである。

このことから、この流域の中心的な集落は「中津川」であることは明白であり、正式名称は命名法のルールからは河川名は「中津川川」となるところである。公称河川名となる河川台帳には「中津川」とである。渡川水系(四万十川)には松葉川地域にも中津川の地区があり、その地区を流れる川は「中津川川」である。流域に複数あることから区別したのかもしれない。いずれにしても、中津川は、山が育んだ地名といえよう。

二つの中津川

 四万十町には城戸木森(しろとぎもり)という点名の一等三角点がある。その稜線の西側と東側に「中津川」という地区があり、また「森が内」という集落がある。昔の往来は峰越えであることからまさに隣村ということになる。平成の合併により同じ行政区に「中津川」という二つの大字は設置できないことから、旧大正町は「大正中津川」に、旧窪川町は「窪川中津川」と旧の大字に旧町名を冠することになった。

六郎谷(ろくろうだに)

 大正中津川の本村集落のすぐ上流、「畝ノ鼻」の西側対岸の字名「六郎谷(下道との稜線境・西峰山の東麓)」がある。六郎谷は「ロクロ谷」とも読める。大正町史にはつづら川、下津井、中津川の御留山に木地師の跡とみられる墓やホノギがあると記し木地師古文書 (中平吉男氏所蔵)も記載している。木地師は御留山であっても8合目以上は自由に移動と木材利用が可能でありこの地にも移り住んでいたと思われる。木地師の姓である「小椋」氏も町内に居住する。町史には「小松尾山内に木地師の墓があり、木地の駄場というホノギがある」と書かれている。中津川あたりは木地師の材料となる栃の木の植生もみられることから採取地若しくは作業場があり、木地師の大切な道具であるロクロにちなんで名づけられたのかと推考する。木地師の里は東近江市永源寺町の蛭谷と君ヶ畑であるが、この永源寺町へは旧大正町から多くの林業労働者が出稼ぎに出向いた土地である。木地師の刻んだ地名は「ロクロ」「六郎」「小屋」「古屋」「キジ」は全国に分布する。

【ロクロ・六郎】六郎山(弘瀬)、六郎谷(大正中津川)、ロクロヲバ(大道)

【小椋・大蔵】大蔵屋敷(作屋/ホノギ・大蔵やしき)、大倉田(影野/ホノギ・大蔵タイ)

【コヤ 】小屋ヶ谷(若井)、古屋ノサコ(寺野)、小屋ノヤシキ(南川口)、コヤ(天ノ川)、小屋谷口(勝賀野)、小家ノ谷(米奥)、コヤノ谷(上秋丸)、古屋ヶ谷(与津地)、古屋ノ谷(大正)、コヤノ谷(上岡)、コヤカ谷(打井川)、コヤカ谷(上宮)、コヤノ畝(大正北ノ川)、コヤノ谷(市ノ又)、コヤノ谷(小石)、小屋ノ畝山(木屋ヶ内)、木屋ヶ谷(昭和)、奥古屋(大井川)、源佐小家場山(戸川)、コヤカ谷(古城)、古屋ヶ谷(地吉)、コヤ(井﨑)、コヤノツ(井﨑)

門田(かどた)

 大正中津川・本村集落の圃場整備されている部分の田がこの字。田の面積は2,500 ㎡くらいある。地元ではカミダと呼んでいたという。ホノギ「河内神田」と「なり田」のことだろう。

『民俗地名語彙辞典』は門田について「中世土豪の屋敷地前面にあった田畑が門田。住居を中心とした一区画の屋敷地がカドであり、その前面にある田だからカド田であった」という。中世土豪や豪農、旧家の屋敷地前面にある田畑。高知県に多く、地検帳では上田が多い。飢饉に対応するため早稲を多く植え、地区の惣田として利用されたという。免田の一種でモンデンともいう。村落における「門田」は、中世の村落の構成と機能を理解するうえで重要な地名の一つとなる。なお、地形地名のカドタ(角・隅・端の田)もあるので現地で確認する必要がある。大正中津川での位置的に比定されるホノギは「河内神田」と「なり田」である。「河内神田」の脇書きに「惣中作」とある。

【カドタ】門田(奈路/ホノギ)、惣衛門門田(寺野/ホノギ)、門田(大正)、カドタ(打井川)、カドタ(市ノ又)、名本のかど田(芳川/ホノギ)、門田(大正中津川)、門田(木屋ヶ内)

姥の懐(うばのふつくろ)

 南に開けた陽当たりのよい土地柄、丁度乳母に抱かれているような温かい土地をイメージしてしまう。それと同じように『楢山節考』にみる棄老伝説や山姥伝説を思い浮かべることだろう。懐(ふところ)は、地元ではふつくろといった。

この中津川の通称「うばがふところ」を徳広誠男氏は「なんともその名にふさわしい地形の地名である。」と語り地図で位置を示してくれた。大正大奈路からの矢立往還は、梼原川と中津川の分水嶺となる山並みを縫うように設えており、上山郷の奥分や津野山郷の往来を支える幅一間の主要馬道である。その道の「下津井分」から松原方面に向かうところの稜線が南に開けた平坦地となっており、陽だまりにつつまれた揺籃の中で昼寝をしているようなこの一帯を通称地名として「姥ケ懐」と呼ばれているという。心地よい言葉の響きである。ここから中津川側に降りつけば森が内集落となるところである。

「姥ケ懐」地名は全国に分布することから、多くの地名学者が論考を寄せている。秋田地名研究会の木村清幸氏は秋田地名研究年報第20号 (2004年)で『「姥懐」という中世地名について』 と題し発表している。要約すれば次のようになる。

秋田県内の姥ケ懐地名を現地踏査した結果として、これまでの地名由来とする

 ① 鏡味完二氏の説:このような地名の所には山姥や姥神に関わる伝説がある。

 ② 中山太郎氏の説:自然の風を防ぎ 南に面して日当たりが良く 乳母の懐にいるような地所

 ③ 日本国語大辞典:没落した武士の若殿と乳母が住んでいたという伝承を持つ地

 ④ 地名用語語源辞典:ウバは「崖」の意か。崖に露出した陶土を産する場所の地名

の説では説明できないとして、文献史料を示し、中世後期には使われていた地名と断定。これまで「うば・ふところ」という読み方に対して、いろいろな漢字が当てられた結果「姥懐」「姥ケ懐」を筆頭に「優婆懐」「祖母懐」「乳母懐」から「右左懐」「姥袋」など様々な漢字となっている。

 木村氏は、漢字の呪縛から解き放つように、「うば・ふところ」を「うばふ・ところ」と読み進めた。つまり「鳥旄(うぼう)」と「惣所(ところ)」とを繋ぎ合わせたうえで「うばふところ 」が転訛したものとして、解釈を進め「これまで述べてきたようにこの地名が頻繁に使われていた中世期の交易活動その観点からこの地名の由来を見直すという視点の方が肝心であると」結論付け、「姥ケ懐」の地名が「日和山(物見山)」に地名変更されており「中世物流の一端を示す歴史的な痕跡地名」と事例をあげて説明している。「鳥旄(うぼう)」とは 竿頭に鳥毛のようなもので飾る旗鉾(はたほこ)で、仁淀川町の秋葉さんの「鳥毛ひねり」のようなものかと思う。

 また、松葉川地域の日野地地区を現地踏査していると「優婆浮図所」の案内板を見つけた。松葉川・日野地の柿谷には「コウラバタケ」というしゃれこうべにつうじるところがあり、その谷筋を登ると不思議な巨石が横たわっている。この地「優婆浮図所」は、日野地の葬後の共同墓地で「うばがふつくろ」と呼ばれた。亡くなった人を習俗に従って野捨てはするが弔う場所と考えてきたと云う。梵語で「優婆」は信徒のことで男子は優婆塞、女子は優婆夷と呼び、「浮図」は浮屠とも書き、死せる人のこと。つまり、「優婆」(うば)の「浮図」(ふつ)の「所」(ところ)の信徒の亡き骸を埋葬するところが転訛して、「うばがふつところ」が「うばがふところ」となったのか。

 「うばすて」は中世あるいは近世初頭までおこなわれてきた一般庶民の葬送の儀式である。慶安4年(1651)土佐でも火葬が禁じられ野捨ての葬儀方式は改められ埋土葬となり、家に位牌を安置し丁重に祖霊を祀ることとなる。

 「物流の痕跡地名」と「葬送の痕跡地名」、中世と近世の境界に消えた地名が「姥ケ懐」ということか。どうも四万十町では葬送の地が正解のように思える。

【ウバガフトコロ】ウバガフトコロ(魚ノ川)、姥ヶ懐(大井川)、優婆浮図所(うばがふつくろ/日野地の通称地名)、うばがふつくろ(大正中津川の通称地名)

※魚ノ川「ウバガフトコロ」付近にイチクルシ山、板ノ谷、隠谷、宮ノ屋式、峰越えで床鍋・入谷がある。イチ、イタ、カクレ、ミヤ、イリの音から佾の修験関連地か

【高知県内の字】ウバガフツクロ(安芸郡東洋町野根)、姥母ヶ懐(安芸市下山)、乳母ケ懐(香美市土佐山田町加茂)、姥ケ懐(香美市土佐山田町平山)、ウバガホトコロ(香美市香北町韮生野)、姥ガ懐(香美市物部町五王堂)、姥ヶ懐(高知市介良・池)、ウバガホトコロ(土佐市出間)、姥ヶ懐(土佐市波介)、姥ケ懐(高岡郡佐川町丙)、ウバガフトコロ(高岡郡佐川町西山組)、姥ケ懐ロ(高岡郡佐川町瑞應)、姥ヶ懐口(津野町姫野々)、姥ケ懐(高岡郡中土佐町久礼)、ウバガホトコロ(黒潮町奥湊川・上田の口)、乳母ヶ懐(四万十市伊才原)、ンバガホトコロ(中村市安並)、姥フツクロ(土佐清水市布)、乳母懐(土佐清水市足摺岬)、姥ケ懐(土佐清水市大浜)、姥ノフトコロ(宿毛市山奈町山田)

ツルイ

 「ツルイ」について、下村效氏が『土佐史談』誌上で「地検帳で中世・近世の村落を分析しようとすれば、まず、その景観の復元作業が必須となるが、そのためにはこの”ツルイ”とは一体、どのようなものであるかを見極めなくてはならない。(中略)ツルイは井の原初的形態 」として、ツルイを三類型に整理している。

▽第一型 谷のツルイ

 小渓の淀みに石などで足場を構え、上部を水汲み場、下部を洗い場とする、最も素朴な水場

▽第二型 山清水のツルイ

 崖の際に湧出する泉を石で囲った水場

▽第三型 泉井戸のツルイ

 崖から少し離れたところに石で囲んだ井筒がある。

▽第四型 派生型

  掛樋で簡便に導水し、水槽・水瓶の設えをする

 つまり、①小渓流に近く②ツルイの水位は低く、深い竪井戸(釣瓶井戸)ではない③個々の屋敷外にあり共同井として利用の3点が当時のツルイであると述べ、須崎市の長宗我部地検帳にでてくる「ツルイ」地名を悉皆調査をしている。その結果をまとめたのがこの四型類型であるという。氏に学んで是非、四万十町の「ツルイ」地名も悉皆調査しなければならない。

【ツルイ】ウスツル井(宮内)、ツルイガスソ(家地川)、ツルイガ谷(七里・柳瀬)、ツル井ノモト(七里・西影山)、鶴居ノ原(七里・小野川)、ツルイガ谷(七里・志和分)、鶴井谷・鶴井谷口・鶴井ノ平(上秋丸)、ツルイノクボ(市生原)、下ツルイ(上宮)、ツルイノ谷(弘瀬)、ツルイノ谷(大正北ノ川)、ツルイ谷(相去)、柳ノツルイ(江師)、ツルイノ本(大正中津川)、カミツルイ・クボツルイ(下道)、ツルイノ谷(津賀)、ツルイノ谷・ツルイノ奥(昭和)、ツルイ本(河内)、奥釣井・釣井ノ口(地吉)、シモツルイ(十和川口)、ツルイ畑(広瀬)、ツル井ノヒタ(井﨑)など27字

【高知県内の字】釣井(室戸市吉良川町甲)、ツルイ(安田町正弘)、ツルイノシリ(安芸市入河内)、ウシツルイ(香美市香北町古井)、ツルイ田(大豊町久寿軒)、釣井尻(高知市春野町芳原)、城ツル井(土佐町土居)、上ツルイ(いの町池ノ内)、ツルイノ上(いの町大内)、鶴井(仁淀川町峠ノ越)、市釣井(越知町鎌井田清助)、ツルイノシリ(佐川町大田川)、ツルイジリ(須崎市池ノ内)、ツル井ノ畝(黒潮町伊田)、石釣井(四万十市蕨川甲)、ツル井(土佐清水市下ノ加江)、ツルイ(宿毛市押ノ川)、鶴井・鶴井ヶ谷(宿毛市小筑紫町湊)、ツルイヤシキ(宿毛市橋上町橋上)、鶴井ヶ谷(宿毛市平田町戸内)、ツルイ・ツルイダバ・ツルイ山(宿毛市平田町黒川)など208字

アイビヤ(あいびや)

 大正中津川の本村集落から森が内集落へ向う旧往還道、旧中津川小学校から「岡ノ越」を越して「仲ヶ市」を通るところの東峰山西側に所在。

 語尾に「ビヤ」が付されるのは珍しいが、本間雅彦氏は『牛のきた道』 で「ビヤを冠したカナ地名の34例が高知県にみられる。全国のビヤクビ地名122例、漢字の枇杷や琵琶やビワ・ビハでもない、「ビヤ」を牛の古称であったと結論せざるを得ない」と解釈している。ビヤの転訛とみられる「宮」を加えると町内随所に字名(例えば宮首・ミヤクビ)として見られ、牛か神社か現地での検証がいる。

 「アイ」は四万十町内に「相ヶ峠(日野地)、「相後(井﨑)」の地名がある。

 「アイ」には、①〇と〇の間の意味②二つ以上のものが合う所③相で共同作業、共同所有の意味④川や沼に沈殿している泥⑤近方の漁場⑥村界のアイ(相)の神⑦動詞揺く(あゆく)から崩壊・山崩れ跡⑧鮎の転、などの解釈があり、アエの転訛も考えられる。アエ(饗場)は動詞アヘルから「客をもてなすこと」をいい、神社や朝廷に食料を供給する地、神領地、御料地を「饗庭」という。和えるという調理法もある。野菜や魚に味噌や酢、胡麻などの調味料をまぜあわせることであるが、饗えるに共通した思いが見える。

 アエ(饗)で、飲食のもてなし、饗応、馳走のこととすると、アイビヤは「中津川の謝肉祭」となるのか、こんな勝手な地名解釈は禁じ手であるが不思議な地名である。

2、集落

 大正中津川は下津井とともに国有林野を擁する地であり山とともに生きた村である。村の暮らしで重要なのが入会地である萱芝山。毎年春には村中共同で火入れが行われた。肥料と飼料と屋根葺き用の萱のためである。昭和25年頃までは茅葺の屋根が主流であったという。徳広氏が当時の萱葺き作業を次のように書いている。

 草屋根は15年位の周期で葺き替えを行います。葺き替え作業は総べて結いでありました、葺き替えには屋根がやの全量―7割位の萱を用意し古萱をうまく使って葺き上げます。部落総出の大変な作業で有りました。当時の家には入り口の近くに囲炉裏が有り、年中薪を炊いて居りました。(中略)屋根全体が煙抜きの働きをして居り、それが萱の腐敗を防ぐ作用をして居たのです。草屋根は夏は涼しく、冬は保温が良く最も日本の風土に適した屋根構造で有りました。しかし維持管理は大変で萱を用意するのに大変な労力を要しました。そして草地が明治43年個人所有に成り森林化が進んだ為、萱の用意が困難に成ります。草屋根の新築は無理な環境となり、附属した建物には杉皮葺きが一般的でした。

 私が体験した萱葺の葺き替え作業は5か所で行いましたが、古い萱を一度剥ぎ取り下地の竹の整備を行い新しく縛りなおして後ふきはじめます、庇の近くは全て新萱を使います上に進むに従い古萱を混ぜて葺く訳です。古萱は真黒に煤けて居り、体中真黒に成っての作業です。葺く作業は屋根の内側に針取りの役割の者が3人位待機し外の葺き手は1m50位の先を尖らせ縄をさす穴を開けた竹針に腰に付けた縄をさして針を突き刺します、中の針取りが横に組み付けられた竹を取り回して葺き手に合図すると葺き手が針を抜きてまえの縄に依り込み、繰り回して2廻りにして締込「蠅がしら」で締め括ります。この場合い最良の場所を葺き手に上下の支示をして作業を進めます。葺き手が葺き上げるに従い中の樽木から出した蔓で竹の足場を固定します、上まで葺き上げると棟造りに移ります。棟の造りは短めの萱を横済みにして形を整えますが、最後の仕上げはかなり職人的です。

 昭和27年には中津川林道が開通し、江師で製造された瓦が運ばれ瓦を葺く家が見られるようになり、昭和35年頃には萱葺きの屋根のほとんどがスレートかトタン葺きになったという。昭和47年(1972)に国指定の重要文化財となった「旧竹内家住宅」は森ヶ内集落にあったもの。当時の萱葺きの葺き替えする作業写真が中津川集落活動センター「こだま」に展示されている。

3、生業

 大正12年に中津川官行斫伐事業所が開設され大正営林署による伐採搬出が本格化することになる。この成川斫伐の面積は536haという広さである。当時の中津川小学校の卒業生が17名だったという記録もあり村は山の好況に沸いていた。

昭和初期の伐材・運搬作業の貴重な映像がある。昭和5年奈良の天理教団本部が教会本殿の御柱を全国巡って探しこの地の成川山で21本払い下げたという。この折に天理教本部が撮影した映像で公開の許可は得ていたものの四万十町でフィルムを保管している。

 徳広氏は従事した人の話として「根こぎ倒しとゆう伐倒が行われ、35尺・40尺の長材を成川口までは川を木馬に載せカグラ巻きで引き出し、成川口から大奈路までトロッコで搬出しました、大奈路から流材の予定で水待ちをしましたが、其の年には出水が無く、道路を車力で運送しました。窪川の町中の狭い道で、大変な苦労をして搬送した話が伝えられている」と語っていた。

 徳広誠男氏の「中津川国有林の開発」に国有林をともにした中津川の歴史が書かれている。

昭和13年:中津川農寺実行組合が結成され、国有林の檜株を原料として、第一工場を「えびやけ」に第二工場を「成川口」に建設「檜油」の生産を開始。

昭和15年:「小薊山」にて官行の伐採と製炭の事業が始まります。林製材が現場で購入搬出し森ケ内で水車を使って製材を行いました。其の頃の道路運搬は馬車が主力でした。

昭和18年:松根油工場を「小薊」と「成川口」に建設いずれも原料は国有林にて採掘しました。

昭和25年:中津川林道を国直営で3・6mのトラック道に拡張する工事が始まり28年に完成します。

昭和29年頃:パルプ材の需要が高まり、本州製紙が中津川の民有林の松山を買い占め、久保野に現地事務所を置き伐採搬出の事業が行はれ、多数の作業員が出稼ぎに入山し地元の労働者も、多数参加します。

昭和30年:小松尾山の人工林の収入間伐が開始され、現地販売による、伐採搬出が行われ順次、薊山、成川山と進行します。これらの作業従事者は地域作業員が従事しました。

昭和37年:大正製炭組合が結成され、黒ヌタ山の広葉樹を払い下げて製炭が行われます。

昭和38年:出ケ谷山広葉樹を先行伐採として製炭組合が払い下げパルプ材として生産されます。

昭和40年:中津川林産組合が設立され国有林の造林事業の出来高請負を実行する事と成る。翌41年同組合による広葉樹の先行伐採が認められます。

昭和41年:中津川国有人工林の斫伐の為中津川製品事業所開設され、久保野に事務所と作業員宿舎の団地が形成され中津川小学校の生徒は急増します。

昭和57年:事業合理化の為中津川事行所は西の川に移転

4、交通・流通

函場(はこば) 明治7年(1874)、高知県内に78 箇所の郵便取扱所が増設され、田野々駅郵便取扱所が大正(田野々)字久保屋敷に設置された。配達物の拠点として町内10 箇所に「函場(はこば)」が設置された。当時の中津川は田辺幸吉宅が函場となった。その地で営まれている農村民宿「はこば」の屋号はここから採られた。『農家民宿はこばの四季 』には経営者の田辺荘市・客子夫婦の生き方や中津川の暮らしが綴られている。

森林軌道 明治22年、須崎町の三浦物産株式会社が小松尾・薊山国有林636ヘクタールを払下げ大奈路・田野々土場間16キロに軌道布設し木材生産を開始した。このトロッコ軌道は三浦の運材に支障のない範囲で歩道として利用しており交易・物流の大切な役割を担っていた。大正11年には事業が終了。成川・大奈路間は営林署に全線譲渡され道路整備が行われた。この間の詳しい経緯は中津川部落総会の会議録に詳しい。

町道整備 昭和15年薊山に製炭木材生産の事業所が設置され、馬車輸送が始まり、狭隘なる箇所、橋梁などが整備されます。昭和25年国直営で3.6米のトラック道に拡張事業開始、27年に完成その後営林署により整備管理され、峰越し林道として、久保谷林道に接続されます。営林署の事業終了後、町道に委譲され順次舗装整備されて行きます。

5、生活

 昭和6年から13年までの中津川部落総会(区長田辺幸吉)の議事録が保管されている。

 昭和6年の総会議事録は「代議員選挙、区割り賦課法改正に関する件、区費徴収法改正に関する件、昭和5年度決算報告、茶堂・寺・避病舎修理に関する件、初会変更に関する件、区員に加入申し込みの件、昭和6年度熊野神社の輿付、昭和6年度区割り等級決定(6級に区分)」とある。地区の財政運営の基礎となる区費決定は重要な事項であり旧割法である「戸6・地4」を「戸5・地3・見立て2」に改正しきめ細かな算定方法となっている。区割りは6等級(1級1名・2級8名・3級14名・4級8名・5級11名・6級免除11名)で6人の賦課委員が選任され世帯戸別に区費額が決定さる。地区管理の茶堂・道路等の維持管理についても共同体としての役割が明確にされている。他年度の議事録には代議員補欠選挙、兵士歓送迎の件、死亡人ありたる家に対し費用軽減に関する件、財界不況の為講会開催に関し対策協議、防空訓練・警戒警報に関する件、森が内、本村離別問題に関する件、宮地と田辺嘉一郎氏所有地境界確定の件、道路工事・橋立替の件、太鼓の修理などが様々な課題の協議がされている。会議は概ね午後7時に開会し深夜に及ぶ熱心さである。実施にあたっては代議員会を開催し細部にわたり検討するなど、今以上に民主的で共同意識の高い運営となっている。また「総会の時間励行すべし」として欠席者に宴会1円・総会50銭、遅刻者に30銭の罰金を科している。総会の協議事項には「兵士歓送迎の件、防空訓練・警戒警報に関する件」があるなど軍靴の足音は山奥まで響いている。

 この議事録のなかに昭和7年に「中津川講 会員総会」の段がある。芳川、大奈路からも出席者があり合わせて44人が出席し30票で田辺助次氏が当選している。9種類の講を運営しそれぞれ2回に分けて徴収している。講の名称が使途を伺うことができる。

一月                 七月   岩田講

二月  瀧次講   平田講      八月   瀧次講  平田講

三月  丑馬講   自転車講     九月   丑馬講  岩田講

四月  瓦講             十月   養蚕講  瓦講

五月  磯馬講            十一月  磯馬講  自転車

六月  岡野講   養蚕講      十二月  岡野講

 相互扶助の金融である「講」は各地にあり、四万十町内でも一族一統の集いの場など形を変えて現在も続けられている。

 昭和11年の議事録には「中津川部落えの電灯事業実行促進方運動の件、電柱は各戸より寄付し所要の本数を揃えるに決定」が議件としてある。徳広誠男氏は「薄暗いランプとの決別はまさに文化と呼ぶに相応しい物でした。森が内は12年度に成ります。“此れで何ぼでも夜なべが出来る”年寄はそんな風に喜びましたが、ラジオを聞いて座るのが、新しい生活の変化でした。」と述べる。

 徳広誠男氏はこの会議録の解説文として次のように「昭和」をまとめている。

 昭和13年より各町村で大量の満州移民が始まります。(中略)此の流れに乗り昭和14年2月田邉利勝が他地区の移民と合流し出国(中略)大正村の分村移民は着々と計画され昭和18年に出発します「団長伊予木定」中津川から田邉正雄・上甲元吉・竹内国四郎の3家族14人が吉林省九代県飲馬河に入植します。(中略)中津川に昔から有った組の制度が正式に隣組と言はれる様に成ったのもこの頃です。食糧増産の為桑畑は次々と麦畑・芋畑に変って行きます。(中略)非常時、という一語が全てに優先しました、そして批判的な意見に対しては、非国民と論破されます、天皇を神と信じる者は殆ど無かったと考えられますが、其の頃の日本は完全に統制された社会でした。戦争の終結も世界に例の無い整然とした物でした。整然と停戦され、続々と若者が復員しそれは第一次のベビイブームの始まりで有りました。余りにも決定的な敗戦に国民はむしろあっけらかん としていたように感じられます、進駐軍に対し不思議なくらい敵意を感じず、むしろ好意に近いものを感じたのが、不思議で有ります。

 昭和を語れる人は少なくなった。徳広誠男氏が残す「記憶遺産」を今後まとめていきたい。

(文責:武内文治)

聞き取り調査日:2016年2月16日

聞き取り者:奥四万十山の暮らし調査団/武内文治

話す人:徳広誠男さん(昭和5年生まれ)

 

 脚注や写真・表は 書籍で→当hpサイト(地名の図書館→奥四万十山の暮らし調査団叢書→土佐の地名を歩く) 

 

_/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/ _/

 

■奥四万十山の暮らし調査団『四万十の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅱ-』(2019令和元年)

 

大正中津川の「関札」のこと ―『はこばの四季』追録 ―

山﨑 眞弓   

 

大正中津川にはいくつの関札があったのか

 2014年に刊行した拙著『はこばの四季』(南の風社)には四万十町大正中津川在住の郷土史研究家・徳弘誠男さんの貴重な昔語りを掲載させていただきました。その中に「関札」があります。集落のあちこちにひっそりと掛けられている「関札」を集落マップの中にも落とし込みましたが、当時実際に確認したのは3所だけ。ずっと気になっていました。

 2020年1月にあらためて再確認することができました。なんと8カ所ありました。場所は地図1と表1のとおりです。今は本村集落と森ケ内集落合わせて大正中津川と呼ばれていますが、本村と森ケ内の境にも「関札」があり、かつては別の集落であったことの名残があります。「関札」がいつごろからの風習なのかも興味深いところです。

そして今となっては確かめることは難しい成川集落を考慮すると大正中津川には少なくても10か所の関札があったのではないかと想像します。

 「関札」は毎年、その年の当家が担当となり春祈祷を受けたのちにもとのところに掛けておくことになっています。

 

「関札を探せ!」-ゲーム世代の民俗学ワークショップ-

そこに住む人にとっての「集落」

 あらためて大正中津川の「関札」の位置を確認するに至ったきっかけは高知大学地域協働学部1年生による大正中津川地域調査(2020年1月13日実施)です。この地域調査のねらいは「住民がわが集落として認識している空間」を自分たちも体感しようというものです。

 地域協働学部の学生は座学として「地域というもの」について様々な視点からの講義を受けます。例えば地域の中で小学校がどのような存在であったのか、開発あるいは地域の産業構造の変化が地域にどのような変容をもたらしてきたか、ジェンダーを含む家族のありようなどなど。そして1年生からさっそく高知県内の各地域で実習(地域活動への参加など)に入ります。

 講義に演習に忙しい学生たちを見ていてふと学生たちは地域(集落)をどうとらえているのだろうか、と思いました。住民の方々にとって「わが集落」とはどういうもので、その「わが集落」に外から人が入ってくるのをどういう気持ちで受け止めているのか。そういうことを学生たちは想像したことがあるだろうか。

 そこで、集落の空間、それも代々引き継がれてきた歴史を持った集落の空間を具体的に感じ取る体験を演習としてやってみたいと思いました。何か具体的に体感できるもの。頭に浮かんだのが「関札」でした。この演習の中でゲーム感覚でやってもらったのが「関札を探せ!」と名付けたワークショップです。

 概要を説明しますと、①まず住民の方の案内で1,2カ所の「関札」を確認。「関札」とはどういうものかを覚えてもらいます。②それ以降は、一定のエリアを指定して学生たちだけで「関札」を探します。

 学生たちは中津川の川沿いの道路、矢立街道に至る藪の道、林道を嬉々として走り回り、「関札」を見つけると大きな歓声をあげました。そして、道の先にあった住居跡、小さな祠、落ち葉でふかふかした尾根の道の感触を、驚きをもって報告してくれました。住居跡からは住民が減少している現実を、祠は信仰のありかであり、尾根の道はかつての往還であったことも話しながら歩きます。

 赤線とよばれる「里道」に気づいた女子学生がいました。家と家の間の細い道。山の斜面の畑を通る山道。「今まで実習でいろんな地域に入っていたのですが、こういう道はその家にだけのプライベートな通路だとなんとなく思っていました。これって道路だったのですね!」と目が輝いていました。彼女の「地域を見る視点」はここからきっと変わるでしょう。演習のねらいは「境を意識すること」でしたがそれを越えて集落の生活の血管のような「小道」を見出してくれたのはとても嬉しいことでした。

 半日程度のワークショップだけでは「関札」から歴史や民俗学的な関心まで至るのはとても無理です。しかし学生の振り返りレポートからは彼らが「集落という空間」を楽しい思い出とともに体感できたことがうかがえました。

 そして、この機会に大正中津川集落の現時点での「関札」の位置を確認できたこともとても有意義でした。

集落(ムラ)境にまつわる行事のこと

行政区分とムラ(集落の空間)

 ちょうどいい機会なのであらためて、「関札(結界札)」についてもう少し詳しく調べてみました。

 「関札」は集落の境(ムラ境)に掛けられます。

 「ムラの領域はしばしばムラに入ってくる道路上で顕在化するものであり〈中略〉、ムラ境はムラと外を結びつける道路の数だけある」というように、「ムラ境」は道の上にあります。

 このように「定住地(集落)のみをムラとして、ムラとムラをつなぐ道の境を意識していた時代」から、やがて「村を一つの行政区画とするようになってから其の田畠山野までを総括して村と称する」(柳田1910)ようになります。

今や「村境」は地図上に引かれた線であり、そうなってから相当な時間が経っているのですが、それでもなお住む人々が感じているムラ(集落の空間)は行政区分とは隔たりがあるように感じます。「関札を探せ!」もまさにこのムラ(集落の空間)を体験しようというものでした。

道切り行事

 萩原秀三郎氏は「ムラ境」をこの世と異界(あの世、神)の接点として信仰と絡めて論じていますが(萩原1988)、昔のムラの内と外は、私たちよその者が思うよりもずっとはっきりと区別されていたのではないかと思います。「関札」は「結界札」とも呼ばれます。「結界」とは「ムラ境」の向こうは異界、私たちとは相入れぬ者たちの住む場所ということを意味します。

 この「ムラ境」では疫病やその他の厄災がムラに入り込むのを防ぐために行われるのが「道切り行事」。祈りを込めた「魔除け」が「関札」や「草鞋」です。

 『高知県史 民俗編』にはこのように記されています(高知県編1978)。

 このような境界は集落に近い出入口であり、ムラ境をめぐる各種の民俗がみられる。悪霊の入村を防ぐ道切の注連縄をここに張り虫送りもここを終点とし、伊勢講·金毘羅講などの代参者の送迎、かつての出征兵士の送迎もここで行われた。だからここは聖地だと考えられ、各種の祈幕札が立っているのをよく見かける。正月に行われる春祈鳶の時、悪霊の入村を防ぐためコンゴウゾウリという大草履を吊るすのは、このようなムラの入口である。盆月(7月)や彼岸に遠くより訪ね来る者を接待するための茶堂も、このようなムラの入口に建っている。

 「ムラ境」はそういう重要な意味を持つ場所です。                       

高知県内各地の道切り行事

 「道切りの行事」は大正中津川だけでなく高知県内各地にあります。二つの資料ではこのように記載されていました。

○『高知県の祭り』(高知県教育委員会)

 高知県内の193地区の祭り・行事を31のテーマに分類しています。

 「関札」は「五悪霊防御(防ぎ 悪霊送り·神送りを目的とする祭り·行事) :テーマ番号15」に分類され、これに該当するのは13か所 です。また詳細に見てみると、テーマ15に分類されていないものの中にも「関札(それに代わるもの)」を掛ける行為が含まれている祭り・行事も3か所 があります。

 「関札」の祈祷は多くは春(1月)に行われていますが、土佐市波介のように「虫送り」の夏祈祷の場合もあるようです。

○『十和千祭』

 隣接する十和村内のさまざまな祭りの記録の中、冒頭の「村祈祷、春祭りなど」の中に関札(結界札)の行事を見ることができます。紹介されている「村祈祷・春祭り」14か所 のうち4か所 に関札(結界札)や藁草履を飾る様子があります。

 もちろん、調査時点では無かったとしても、この4か所以外の地域(組、村)に関札(結界札)がもとからなかったということではなく、かつては全集落にあったと考えるのが自然ではないかと思います。

グローバリズムの時代と「関札」 

 「関札」の稿を準備しているまさに今(2020年2月)、新型コロナ肺炎が隣国の中国で発生し見る間に世界中に広がっています。空港や港という「国の境」で「関札」ではなく「検疫」が疫病を食い止めようと頑張っていますが、それも難しい状況になってきました。「隔離」、「拒否」、「禁止」という穏やかならざる言葉があふれ不安を煽ります。

 「病気が人を介して伝染する」というのは今風の言い方であって、昔は「疫病」は目には見えない恐ろしいものでした。疫学的な知識もなく予防法も治療薬も無く、集落の人々はさぞ怖かったことでしょう。

 科学の時代の私たちですから原因や対策はある程度知っているのですが、今回のように情報不足になると昔の得体のしれないものへの恐怖がよみがえります。今みんなが「広がりませんように、一刻も早く終息しますように」と祈っていると思います。

 「関札」の「祈り」は、どんな科学の進んだ時代になってもずっと続いていくのではないかと思います。

「鉄巖坊さま」に見る「往来」

 「ムラ境」には「祈り=関札」とともに「往来」があります。

 非常時は「祈り=遮断=関札」、平常時は「往来」。往来はムラの持続や発展に影響をしてきたと思います。

 徳廣誠男さんが書き留めた中津川民話の記録 から『鉄厳坊様 の由来』を引用させていただきます。「鉄巖坊さま」はサワタリ橋を通って矢立街道に至る往還の「関札」の近くにあります。道を通って往来する人と集落の人々との関わりが見える昔語りです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「中津川民話 鉄厳坊様の由来」

 中津川の桜の峠行きの道脇に鉄厳坊という小さな祠が有ります。江戸時代には祈祷を行いながら各地を放浪する修験者がかなり居たようです。 

 何時の頃かは資料が有りませんが、修験者の一人が茶堂で行き倒れに成りました。地域の者が心配して見に行くと息絶え絶えの中で「俺はもう死ぬるが死んだら済まんが始末をしてくれ、その代わり皮膚病の者を必ず直してやる」そう言い残して息絶えました。男はひどい皮膚病に羅って居たのです。 

村人は往還の上に生えて居た樫の木の本に葬り、 鉄厳坊様と呼んで祀られました。私が記憶している鉄巌坊様は樹齢200年直径1m20cm位の樫の大木に抱かれ、社殿も2m四方位で日本瓦葺きの立派なものでいかにも神々しい佇まいでした。

 人々の信仰も厚く、遠く窪川·松葉川の人たちが願掛けにきていた事を覚えて居ます、私も少年の頃、漆にかぶれてお願を掛けた事が有ります。お礼に布切れの旗を奉納したようです。いまその古い旗の数を見ればいかに信仰を集めていたか想像できます。

 昭和40年頃台風で樫の木が倒され社殿も破壊されました。幸い拝殿だけは健在でしたので残木を使って小さな社殿を作り現在に至っています。 尚此のとき、被害をうけてかなりの数の古旗が廃棄されたのが残念です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 行き倒れの人を祀った祠や言い伝えは各地にあります。見知らぬそれも病に倒れた人を昔の集落の人々はどういう気持ちで迎えたのでしょう。自己中心的な現代の私たちからすると歓迎の気持ちとは遠い感情も浮かびますが、昔の集落では別の感じ方もあったのかもしれません。しかしいずれも想像でしかありません。残っているのはその時集落の方々がとった行動と記憶です。それが「鉄巖坊さまの祠」であり「昔語り」です。

 安らかに眠ってくださいという気持ちとたぶん畏れも込めて祀られた「鉄巖坊さま」は祈りに応えてくれるありがたい存在になりました。そして、遠く窪川・松葉川から願掛けに来たという人々も昔はやはり往還を山越え歩いてやってきたのでしょう。

 昔語りとはいえ、語り手の徳廣さんご自身がご利益を体験している、ある意味リアルタイムの話でもあります。

てんぐカーブの「関札」に込められているもの

 「道切り行事」、「関札」は基本的には素朴な「祈り」なのですが、一方で「内ではないもの」を異質なものとして排除することにつながることもあります。歴史的に全国的に見ると、そうした暗い面が強く出てしまった事象も少なくないのだそうです。ムラが閉鎖的だというのはよく言われる話です。

 そういうこともあったのかもしれない、しかし私は『はこばの四季』の中で移住者の西本五十六さんが語るあるエピソードを思い出します。

 実は、西本五十六さんが大正中津川に定住を決心した当時、新居を構える予定の場所は「関札」の外にありました。距離的には集落の中にあるのと変わりない、しかし「関札」を基準にするとそこはなんと結界の外になります。さて、それでどうなったか?

 集落の中で話し合いが重ねられた結果、「関札」の場所が移され、新居は里内に入ることになりました。西本さんはこのエピソードを「これってちょっといい話でしょう」と語ります。ちょっとどころじゃない、これがとてつもなく深い話なのを西本さんもご承知でそうおっしゃっています。

 この粋なエピソードを聞いたとき私はすごく感動しました。昔から続いてきた風習-それも信仰にもとづいた-を変えることは集落の方々にはかなり抵抗があったことでしょう。目に見える「関札」と同時に心の中にも「関札」があります。慎重にかつ決断をもって動かされた「ムラ境」。それは「寛容」と呼んでもいいものだと思います。

それ以来、私は中津川集落に来るたびに、かつての場所から少し移動した関札の姿を探します。大正中津川の入り口てんぐカーブの「関札」には「祈り」とともに「寛容」が込められているのです。

 

 脚注や写真・表は 書籍で→当hpサイト(地名の図書館→奥四万十山の暮らし調査団叢書→四万十の地名を歩く) 

 

 

 

 

_/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/ _/_/_/_/_/ _/

補遺(徳廣誠男談)

  • 長宗我部地検帳の中津河村のホノギとして「ムロヤ」とある。今は使われていないがミステリーな地名。検地の流れから現在の「ウシノダバ」付近ではないか。
  • 通称地名に「カシダル」がある。小野川小萩宅の屋号でもありその付近をさす。
  • 高知県は危険渓流「カシ谷川」と公称地名として表示しているが、この付近の「カシダル」の聞き取り錯誤ではないか。地元呼称は「ホリンタネ」である。昔、山腹大崩壊後の砂礫層に大きなホリのような谷となっていたことに由来する名称。中津川では「谷」を「タネ」と音韻する。
  • 長防谷が中津川に合流するところは大きな渕になっていて、子供たちの格好の遊び場となっていた。現在は渕は消えてなくなっている。
  • サワタリ橋の橋名決定の際に、集落協議で当初は「宮の前橋」で決まりかけていたが結果「サワタリ橋」となった。
  • サワタリ橋を渡り茶堂をとおりまっすぐ抜けると矢立往還の中津川分かれに向かうが、途中、佐渡りを左に折れ田圃の真ん中を横切り再び中津川を向佐渡りに渡り成川方面に向かう道があった。この所謂「サワタリ」は川の中にある大岩に差し掛けた簡便な木橋であった。この岩は河川工事で撤去している。
  • 「薄木」の国有林から伐採された「ウスキヒノキ」は、日本一の銘木とよばれた。
  • 「越の畝(コエノセ)」の田辺和子宅付近に熊野神社があった。現在は河内神社に合祀されている。
  • 長宗我部地検帳の検地は中カイチ(仲ケ市)」から本村集落の「地蔵院」となっているが、その途中「畝ノ鼻」に大本宮の社があったと棟札にきされている。検地数年前にされていることから、検地見落としとなっていることが不思議である。
  • 旧中津川小学校前の字「門田(893番地)」を「カミダ」と呼んだ。
  • 成川集落に通称「宮ノ谷」がある。ここから尾根を登り「松ケ峠」、「杖立て」、「おひその森」を経由して折合に向かう山番の通行ルートがあった。現在は森林管理署の管理道となっている。
  • この「宮ノ谷」が成川に合流したすぐ上流左岸(768番地)に礎石の後があるが、ここが河内神社の跡ではないかと推定する。日吉神社(森が内)、熊野神社(越ノ畝)、大本宮(岡ノ越)の比定されている神社から消去法による所以である。明治の神社合祀により、現在の河内神社(向イ宮鎮座)に遷宮されたのではないか。中津川では大山祇神社と福徳様は以前のまま残っている。

地名の疑問

1)二つの中津川

 四万十町には城戸木森(しろとぎもり)という点名の一等三角点がある。その稜線の西側と東側に「中津川」という地区があり、また「森が内」という集落がある。昔の往来は峯越えであることからまさに隣村ということになる。

 平成の合併により同じ行政区に「中津川」という二つの大字は設置できないことから、旧大正町は「大正中津川」に、旧窪川町は「窪川中津川」と旧の大字に旧町名を冠することになった。

 

2)中津川は村名か川名か

  河川名称の付け方は、流域を示す地域名称等に「川」を付したもので、「河」も「江」も「掘」も「溝」もない。河川は水の移ろいとともに上流から下流までその土地の人々に呼称の変化はあったものの、河川の記号となる「川」はこれだけである。古来から○○谷や△△沢と呼ばれた川名にもご丁寧に「川」を機械的に付している。アイヌ語で川を示す「ペッ(別)」や「ナイ(内)」にも「川」をつけるという、馬から落馬風の馬鹿丁寧さである。

 山名が地元に畏敬され親しまれる古来からの呼称が生かされて「山(やま)」、「山(さん)」、「岳」、「嵓」、「峯」など豊かに表現されているのに比べ、河川の命名は貧弱である。

 「日本全河川ルーツ大辞典」には、日本の13,00余の河川名称のなかに、川以外の河川名称として○○沢(岩手県の特徴)玉川上水(東京都の人工河川)、潟堀(佐賀県のクリークの古称)の数例がみられるだけで、大多数が○○川である。このなかに同じ○○川であっても、高知県には、「ゴウ」と読む例が、安田川の支流に「東川(ひがしごー)」と「七七川(ななごー)」がある。

→詳しくは、当HPの「地名のお話」サイトを

VOL7:四万十川の名称の由来

VOL4:暮らしのカワ

VOL3:中津川川

VOL2:中津川地名考

 

  ここで疑問となるのが「中津川の正式名称」である。正式名称とは、役所が決めた名称でなく、古来からその土地の人々の呼称である。地元では、中津川川とは呼ばない。前後の文脈、語感、ニュアンスで集落を示す「中津川」なのか、川を示す「中津川」なのかを判断することになる。

 厄介なのは「役所のルール」である。役所は河川法に基づいて河川現況台帳により河川の管理区間と名称等を定め、一つの名称で「管理」することになる。地名が文化財であることは知る由もない土木の集団である役所にとって、「川」の呼称は特定する記号でしかないのだろう。橋の命名もしかりで、河川名称に1号橋、2号橋とつける思考停止の命名法である。

 ちなみに、川名の中津川は、「渡川水系四万十川1次支川梼原川2次支川中津川」である。同じ水系に「渡川水系四万十川1次支川中津川川」が窪川中津川地区にあることから区別する配慮かもしれない。

 ただし、県管理の準用河川である中津川であるが、県が森が内集落に架橋した「ふるさと林道松原中津川線」の「ふるさと橋」の橋名板には「中津川川」とあるのはダブルスタンダード。

 


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1597慶長2年)

(地検帳幡多郡上の1p124~132/検地:慶長2年3月22日)

 検地は、下津井村の枝村である舟瀬村(現在のオゴシ集落)から矢立往還(松原往還)の足川越へから森河内村(大正中津川地区の森が内集落)に入っている。

 慶長時代のこの集落の村名は、”森河内村”と呼ばれ、当時は”中津河村”の枝村ではないような検地記録である。(ここでは二つの村を一緒に記述する。)

 検地を行ったのは慶長2年3月22日(1597年5月8日)のことである。

 検地は、森が内集落の「中ヤシキ」(林貞一宅)から始まり、「上クホ」、「タカヤフ」と進み、中津河村の「中カイチ」から本村の「地蔵院ヤシキ」に入り「ウシハラ」、「サワタリ」を終え「成川」の集落へ進みこの村を終えている。

 検地高は、本田出田ともで、森河内村が1町8段、中津河村が6町4段となっている。

 検地にみられる寺社は、明確にはないが「宮ノワキ」、「地蔵院ヤシキ」、「河内神田」のホノギがある。

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p325)

 中津川村の四至は、東限幾登幾森西限矢立坂南限臼杵北限津野山松原村東西四十五町南北一里凡二十三其土黒

 山川は、大荕山・小荕山(皆在村東禁伐)、成川山・岫之森(皆在村南禁伐)、小松山・井手谷(皆在村北禁伐)、臼杵山・扇山(在村東南)、成川谷・小松谷(流過村南西)

 寺社は、地蔵院、川内大明神、大元大明神

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高83.182石、戸数30戸、人口123人、男62人、女61人、馬10頭、牛2頭、猟銃4挺

 

■南路志(1813文化10年:三巻p625)

 243中津川村 地八十三石一斗八升

川内大明神 サワタリ 祭礼十一月吉日撰

大本明神 ワキノコエ 同上

三王権現 ムカイサカ 同上 

 

■掻き暑めの記(1984昭和59年)

 ・佐渡(上p140)

 明治6年以降、各村のほぼ中央部に元標が建設された。中津川村の元標は字佐渡に設置されていた。

 ・あざめ山(上p287)

 中津川国有林、小松尾山を今から百七、八十年前に、信州の牛窓という山師がきて仕成をしたことがある。あざめ山に松の良材が大量に生立しておった。木目の通りが非常に良く柾目の良材が生産された。

 ・金輪木の畝(上p287)

 この間切り材を、其まま小場落しをすると丸太材の木口が木株や岩石に衝突して割れる、そげることがあるので、折角の良材を台無しにするというので、そこの山上へ鉄や「フイゴ」など鍛冶道具まで、担ぎあげて現場で鍛冶をやって直径三尺以上もある丸太の両端木口に合して金輪をつくらして木口にはめこんで、小場をしたということである。その為に木口の割れもなく、山出しが出来た由である。

 ・綱うちの段(上p287)

 この山はあまり、急傾斜の山で元切り間切りの際に材の切り離しをやると、すぐ谷底まで落込んで取り出しに困難するというので、間切り材を綱でくくり止めて切り離し、適当な位置まで吊り下げては集材をしたということである。

 ・はちののぐち(上p297)

 矢立坂の「はちののぐち」まできたころ二匹の山犬がごっそり出て来て、多仲の着物の裾を食わえて往還下の草の中に引っぱりこんだ。多仲は山犬の為すに委せていたところ二匹の山犬は多仲を後にかばう様にしている。その前を魔物は大きな地響をして通ったが、幸に魔物の害は受けることなく、そのあとから二匹の山犬の手引きに依って大奈路舟戸渡場まで帰りついた。

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

p6:大正中津川、森ケ内、中津川、森ヶ内橋、筋橋※1、サワタリ橋、河内神社

p2:大正中津川、森ヶ内Ю、松原中津川トンネル、林道松原中津川線、ふるさと橋

p8:大正中津川、中津川、成川橋、中津川トンネル、中津川橋、久木の森風景林

※1:筋橋は、橋名板でも荕橋となっているが、地元では「あざめ・アザミ」と呼ぶことから「莇橋」ではないか

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

大正中津川、中津川、森が内、西峯山(718.0m)、東峯山(618.4m)、大畑山(789.0m)、小松尾山(850.3m)、中津川、成川、筋橋(※橋名板は荕橋。莇橋

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

城戸木森(一等三角点:標高908.65m/点名:しろとぎのもり)字城戸木20林班

小松尾山(三等三角点:標高850.26m/点名:こまつおやま)字小松尾山26林班

出ノ谷(四等三角点:標高724.29m/点名:でのたに)字出ノ谷山25林班

森内山(三等三角点:標高789.03m/点名:もりうちやま)字西峰山732-106※1

西峰(四等三角点:標高750.29m/点名:にしみね)字西峰山732-37

森が内(四等三角点:標高360.38m/点名:もりがうち)字上ミ窪677-2番地

北峰山(四等三角点:標高663.29m/点名:きたみねやま)字北峰山610-1

東峰山(三等三角点:標高618.75m/点名:ひがしみねやま)字東峰山615-58

中津川(四等三角点:標高300.21m/点名:なかつがわ)字岡ノ越645※2

西峰山(三等三角点:標高718.31m/点名:にしみねやま)字西峰山735-55

美馬山(四等三角点:標高313.09m/点名:みまやま)木屋ケ内字上ミ滝平山695-5※3

中津川(四等三角点:標高509.04m/点名:なかつがわ)字東峰山616-1

※1:点名は森内山とあるが、国土地理院の地形図による山名は「大畑山」

※2:大正中津川地内に「中津川」という点名が2箇所ある。

※3:点名「美馬山」の点の記に記載された所在地が木屋ケ内となっているが「大正中津川字朝日山766-9」

 

■四万十森林管理署(四万十川森林計画図)

薄木山、成川山、奥成川山、木戸木山、大荕山、小荕山、小松尾山、出ノ谷山

※久木の森山は、旧大正町に売却された。

 

■高知県河川調書(2001平成13年3月:p55)

中津川(渡川水系四万十川1次支川梼原川2次支川中津川)

起点:梼原川合流点

左岸:大正中津川字森ヶ内山702番の4地先

右岸:大正中津川字北峰山611番の33地先

河川平均延長:12,100m / 33.47Ak㎡ / 15.0 Lkm

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

中津川橋(不明/大正中津川字)

成川橋(不明/大正中津川字)

本村橋(不明/大正中津川字)

堀ヶ谷橋(不明/大正中津川字)

筋橋(不明/大正中津川字)

大奈呂中津川線1号橋(不明/大正中津川字)

薄木橋(不明/大正中津川字)

中津川成川線1号橋(不明/大正中津川字)

中津川成川線2号橋(不明/大正中津川字)

中津川成川線3号橋(不明/大正中津川字)

成川橋(不明/大正中津川字)

東ノ前橋(不明/大正中津川字)

サワタリ橋(不明/大正中津川字)

越ノ畝橋(不明/大正中津川字)

越ノ畝2号橋(不明/大正中津川字)

森ヶ内橋(不明/大正中津川字)

中津川大橋(不明/大正中津川字)

中津川8号線1号橋(不明/大正中津川字)

中津川8号線2号橋(不明/大正中津川字)

 

■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名)

熊の巣(西峰山792-8・熊の巣川

オクイデ(西峰山732-4・オクイデ川

下イデノ谷(西峰山732-55・イデノ谷川

寄合畑(北峰山611-11・筋川)※1

ニタゴ松(ニタゴ松376・大平谷川

甲下(西峰山733-39・甲下谷川)

久保野谷(西峰山734-18・久保野谷川)

アイビヤ(アイビヤ319・仲ヶ市川

樫谷(ヒガシノマエ57・樫谷川

アラバイ(長防谷20・長防谷川

宮谷(成川769・成川) 

 

■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)

 ・ 2中津川

 中津川は、中津川北部の小松尾山を源とし、下流域で成川谷と合流し、大正大奈路で梼原川に注いでいる。中津川地区は良材の宝庫であり、藩政期には御留山が広範囲に存在した。明治期から大正期にかけて官材の伐木が活況を呈し、森林軌道や林道が整備されるまでは、中津川を利用した堰出し・管流し等の方法による木材の搬出が行われ、四万十川流域の林業経営を支える重要な役割を担っていた。川沿いには久木ノ森山風景林があり、自然の豊かな渓谷は、「びんびまつり(アメゴ釣り)」や「紅葉祭り」等のイベントが催される、地域の貴重な資源である。

 ・ 3久保谷風景林

 

 久保谷風景林は、森ヶ内風景林の上部、四万十町と梼原両町の行政界周辺に位置し、標高は400mから831mに及ぶ124.51haの区域である。林相は、四万十町側がスギ・ヒノキの人工林と天然生針広混交林、梼原町側が92~217年生のモミ、ツガ、ヒノキに広葉樹を交えた天然針広混交林からなっている。昭和47年12月発行の「高知営林局史」によると、この天然生林は809ha、蓄積28,400m³を有し、高知県東部魚梁瀬のスギを主とした天然生林に対し、モミ・ツガを主とした四国西部の宝庫として知られた区域である。昭和40年に開設された久保谷製品事業所によって開発され、国有林事業の発展を支えたが、7年間で資源の半ばを伐採し、人工林地として様変わりした。この頃より急速に高まってきた自然保護・風致保全の要請に応えるため、昭和48年(1973)に、通称春分峠付近のモミ・ツガ林を「久保谷風景林」として設定した。久保谷山は、大径のモミ・ツガ・ヒノキ・などの針葉樹とアカガシ(県内2番目という胸高直径5.53m、樹高15m、推定樹齢500年のアカガシも存在する。)・ウラガシ・ツクバネガシなどの樹高20~30mの常緑広葉樹が混生し、四国中西部における温暖帯上部の代表的かつ貴重な天然林の森林である。また、行政界付近の「春分峠」から望む四国山地の山なみや四季折々に変化する景観、一斉人工林の森林美等、眺望の優れた地域でもある。

 ・ 17河内神社

 河内神社は、中津川本村対岸の小高い丘に鎮座する。急傾斜の石段の参道を登る丘の頂上に社殿がある。もとは下流のサワタリという場所にあったというが、明治23年の洪水で社殿を流失し、現在の社殿は昭和31年に再建したもの。耕地の少ない山村集落では、棚田が生活・生業を支える糧であり、棚田を開墾・管理と生産には多大な知恵と労力が必要である。その過酷な条件が、耕作の安全や豊穣を祈る信仰、祭事など、農耕における様々な伝統文化を育んできた。その中心的な役割を果たしているのが河内神社である。河内神社は、家内安全や五穀豊穣のほか、住民の交流や地域文化を醸成する場であり、祭事を通じて地域の連帯を深め、憩う場所である。また、戦争の出征に際しては武運長久を祈願し、南米への移住では見知らぬ土地での安全を祈って旅立った。山村に暮らす過酷な生活・生業のなかにあって、四季折々、神に祈りを捧げる人々の篤い信仰は、自然がもたらす恵みへの感謝とともに自然と共生していく意思を表す場所である。

 ・ 18中津川の茶堂

 茶堂は、サワタリ沈下橋が架かる中津川右岸、中津川本村の対岸にある。慶長2年の地検帳にもみえ、敷地面積や配置も古い時代のままである。現在はトタン葺きであるが、昔は茅で葺かれていた。対岸に町道が整備されるまで、茶堂の位置する場所は集落の入り口にあたり、大奈路・木屋ヶ内・下津井・梼原への街道へ通じる往還に通じていた。茶堂には弘法大師像が祀られ、旧中津川小学校の裏手にあったという寺地蔵院も合祀されている。かつて、各集落の入り口には茶堂が建てられ、地域の人々の信仰と交流の場となっていた。また、茶堂は外来の商人や旅人が自由に休憩、宿泊できる場所であり、集落を通行する旅人を接待し、異文化との交流や情報を得る場所としても利用された。3方を開放した建築様式は、外来者の行動を監視するためともいわれ、藩政期、地域外からの旅人を接待しつつ、一方で監視する厳しさが想像できる。茶堂では、今も先祖供養や御接待などが行われ、住民の交流を深める場である。茶堂は、中津川集落における流通・往来と信仰と交流の歴史を物語る景観である。

建築年代:明治~大正期 / 構造:木造・平屋建・切妻造・トタン葺 桁行3間・梁間2間

 ・ 18久木ノ森山風景林(2001年の森)

 久木ノ森山風景林は中津川の渓谷沿いに約16万㎡の面積を持つ。良材の宝庫で知られた地域を伝える、多様な天然木で構成された貴重な森林域である。大正奥地中津川には広大な御留山が広がり、住民の管理・伐採・搬出という役目のもとで、良材が梼原川・四万十川の水運を利用して京阪神へ移出され、藩の林業政策を支えた。明治以降、御留山は国有林に引き継がれ、四万十川流域の林業の歴史を繋いできたが、久木ノ森山風景林もその1つである。平成13年に、この森林を旧大正町が「2001年の森」として購入。「2001年の森設置条例」を制定し、自然環境の保全、水資源の涵養など森林のもつ公益機能の啓発を図るとともに、人々の憩いの場として位置づけた。桧の高齢木・複層林・混合林のモデル林として保護・育成するとともに、町の活性に結びつけようと、風景林では「ビンビ祭り」や「もみじ祭り」等の交流事業が催され、渓谷でのキャンプや川遊びが楽しめる。「久木の名水」が沸く森でもある。久木ノ森山風景林は、四万十川流域の林業の歴史や森林の持つ価値を身近に学び体感できる存在であり、未来に伝えるべき重要な景観である。

管理:町 / 面積:160000平方メートル

 ・ 20大正中津川集落(本村・森ヶ内)

 中津川集落は、梼原川の支流である中津川の上流山間部に位置する。現在は、地区中心部の「本村」と北部上流域の「森ヶ内」のふたつの集落で構成されているが、かつては、成川谷に「成川」集落も存在した。本村は、中津川右岸の東西120m・南北350mのオオギノヒラ山麓の河岸段丘に展開する里山の集落で、急峻な山々に囲まれた河岸段丘上に開墾した水田や山肌を切り開いた畑地で農業が営まれている。

 森ヶ内は中津川最奥の集落で、7戸の民家が山間に点在している。慶長2年(1597)の上山郷地検帳にみえる森河内村の検地面積は一町八反余、切畑若干が記載されている。急峻な山肌に開拓された棚田や畑が深山と密接した暮らしぶりを示す。

 長宗我部の時代から土佐の木材は良材とされ、藩政期、土佐藩は多くの山々を御留山とし積極的な林業政策を展開した。旧大正町内には21か村が存在していたが、そのうちで御留山が存在しないのは4か村のみで、いかに、この地域が良材の宝庫であったかが理解できる。中津川集落も、御留山が広範囲に存在した地域で、「皆在村東採伐禁止」として小松山・成川山他の山名が記されている。藩政期には林業政策による御留山の管理・伐採・運搬などを課し、「山林諸木竝竹定」などの布告で厳しい統制令が布かれ、私有林の伐採や焼畑も制限されるなど、中津川集落も山林を守る藩の施策のもとで厳しい統制を強いられた。

 まとまった平地が少なく、棚田や段々畑、焼畑による自給自足的な農業が主体であり、林産物生産が重要な生活基盤であった山村集落において、これらの、住民の自由な山野利用や木材の伐採を厳しく禁じた措置は非常に過酷なものであった。そのような苦難のなかで、中津川住民は御留山をはじめとする森林を管理し、良材の産地を育ててきた。この厳しい生活の様子は、この集落から旧大正町田野々(四万十町大正)に移築された国重要文化財・旧竹内家住宅に見ることができる。御留山は、明治時代に入り「官林」となり、その後の変遷を経て今日の「国有林」に引き継がれている。中津川集落では、厳しい風土のなかで開墾した棚田等での農業が受け継がれ、先人からの営みが続けられている。また、林業を生業とする者も多く、「四万十桧」を産出して積極的な林業を展開し、四万十川の清流の源である森林の保全という重要な役割を果たしている地域である。

 ・ 16町道大奈路中津川線

 ・ 21町道久木ノ森線

 町道大奈路中津川線は、四万十川水系における最初の森林軌道であった。明治34年から小松尾山の立木処分で年期売払を受けた民間業者によって、大正中津川から大正大奈路までの18kmに林道を整備し軌道を敷設したものである。また、町道久木ノ森線も、その町道大奈路下道線の一部であったが、改良工事に伴うトンネルの開通によって新たに路線として認定されたものである。これらの町道は、梼原川の支流の中津川に沿って緩やかな勾配で延びており、その名残を伝えている。

 森林軌道は、大正14年に営林署に買い上げられた後、役目を終えて軌道が廃止され、林道としての改修を経て町道に引き継がれた。この森林軌道の敷設や林道の整備によって、木材の大量搬出が可能となり、国有林事業が大きく発展した。

 町道は、現在も国有林や民有林からの木材の搬出や森林管理に利用されるとともに、大正大奈路と大正中津川を結ぶ主要な道であり、住民の生活・生業を支えるうえで必要不可欠な存在である。

 ・ 22サワタリ橋

 サワタリ橋は、梼原川の支流・中津川に架かる小さな沈下橋で、中津川本村と対岸の水田や河内神社、茶堂とを結んでいる。また、かつては、中津川本村と大正大奈路、木屋ヶ内、下津井へ至る尾根上の「やたて街道」に通じ、中津川集落と集落外とを結ぶ重要な場所でもあった。集落の大半が藩政期は御留山として、明治以降は国有林として管理されてきたうえに平地が少ない山間にあって、対岸に開墾された水田は山村集落における生活・生業を支える貴重な耕地である。現在、町道中津川1号線として管理され、対岸の耕地や信仰の場であるとの往来を支えており、山地農地を基盤とした生業を続ける集落住民に欠くことができない存在である。

 ・ 23町道中津川成川線

 町道中津川成川線は、町道大奈路中津川線から成川山や木戸木山国有林に通じる道である。中津川の奥山の国有林から木材を搬出するための林道として整備され、町道に引き継がれたものである。現在も、国有林をはじめ流域の林業経営を支える道として利用されている。

 

■地域資料叢書17 土佐の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅰ-(2018平成30年)

大正中津川

 平成22年、農家民宿はこばの客子さんは「農林漁家民宿おかあさん100選」の第1回選定者となった。この「はこば」、四万十町一番目のどぶろく特区としてお酒を醸造している。「農家民宿 はこばの四季」が第59回(2014年)高知県出版文化賞を受賞。この本は、著者の山﨑眞弓さんが「はこばの食」を手がかりにして36戸、住民73人の中津川に通い「私の中津川時間」で中津川の四季のくらしを掘り出し綴った愛情の記録。帯書きには『初めて訪れても「ただいま」という中津川』とある。

 集落づくりの地元熱意は強く、平成8年の中津川小学校の休校を機に「電脳中津川小学校」が開校、任意団体の「やまびこ会」も自然発生的に発足し、その活動には目を見張るものがある。「集落再生モデル事業」、「もみじまつり」や「どろんこ運動会」の活動を進めるなかで、中津川集落活動センター 「こだま」が平成28年(2016)2月14日に始動し、開所式には尾崎知事も出席。サプライズで小萩さん(96歳)と知事との模擬結婚式も行われた。なんとも楽しい集落である。第2と第4の日曜日はワンコインcafe、お得ですヨ。

 平成18年(2006)の町村合併時に町内に2か所の大字となることから名称を中津川から大正中津川に改めた。

 地名の父、吉田東吾氏の『大日本地名辞典』」には「中津川」地名が全国各地に22箇所みられる。その多くは山奥深い谷川であり、奥山の村落である。ナカの音のごとく幾つかの集落の中を意味するところが多いようだ。

 『民俗地名語彙辞典』では中津川について「山奥の在所の地として折々きく。その最も奥まったのは秩父の中津川である。」と説明し、ツについては「土地の便、不便。交通の良否をツが良いと岡山、山口、秩父などにある。このように交通位置のツから、船着き場や港の意となった。」とある。

 『地名用語語源辞典』ではナについて「①場所を示す接尾語。「土地」をいう古語のナ。②接頭語もあるか。」とし、ツについては「①港。渡し場。ト(門)と同系か。②泉などの水のある所、また単に海岸をいうか。③近世に①の意から転じて「人の集まったところ」特に大都市をいう。④場所を示す接尾語。ト(処)と同系か」と述べている。中津については「①ナカ(中)・ツ(津)で「中心となる港湾の所在地」②ナカ(中)・ツ(場所を示す接尾語)で、中心となる地。」とある。

 また『地名語源辞典』ではナカについて「親村から子村が四方へ分れ出た場合に、その中央にある親村を中村、本村、元村、本郷、元郷などと呼び、また単に中、元、本、茂登などとも呼ぶ。」と述べている。

 『大正町史・資料編』は「山間部狭間の土地を流れる川によるといわれ、流域に「本村」と上流域の「森ヶ内」、下流域の「成川」の集落が存在していた。」と由来を述べている。

 大正中津川の場合、村落の中心地として「本村」が栄え、上流には小高い所の新たな開墾地として「森が内(盛り河内・カイチ。渓間の小平地)」ができて子村となり、下流に「成川(緩傾斜がナルで、なそーなった所の川)」が次に開拓され、三集落に流れる郷村の名を「中津川(中津に流れる川)」としたのではないか。

 山の暮らしは、長い歳月で山を培う開拓者であるとともに、山を畑としてその実りを頂戴し加工して山道を縫って売り歩く数年サイクルの総合商社員であり、山の中で必要なものを自らがやりとげる技を磨き合う職人集団でなりたっている。山人(縄文人)は、1年サイクルの農耕民族(弥生人)とは違う暮らし方である。

 国土地理院の地形図を見ると「中津川」は、川名であるとともに集落名にもなっている。

 川名は単なる記号ではなく、地名の一つであるとともに、川名が教える先人の知恵の坩堝でもある。古代から生活の適住地は水との関係から成り立っている。洪水から身を守り、日常の暮らしや農耕に必要な川水を確保できる土地に集落が形成され、その邑に名称がつけられ、その流域を特徴づける地域名や流域の形状や生活や信仰を反映した固有の名に「川」を付して川名としてきた。

 それでは、中津川は、「中津」という地域名に河川をしめす「川」を合成して川名としたのか。中世末期の長宗我部地検帳に「中津河村」とあり、ホノギに「成川」がある。近世の文献史料となる「土佐州郡志」をみれば、「中津川村」とあり、村内の地勢として川名のあるのは成川谷と小松谷の二つである。

 このことから、この流域の中心的な集落は「中津川」であることは明白であり、正式名称は命名法のルールからは河川名は「中津川川」となるところである。公称河川名となる河川台帳には「中津川」とである。渡川水系(四万十川)には松葉川地域にも中津川の地区があり、その地区を流れる川は「中津川川」である。流域に複数あることから区別したのかもしれない。

 いずれにしても、中津川は、山が育んだ地名といえよう。

 

 →詳しくは当hpサイト(地名の図書館→奥四万十山の暮らし調査団叢書→土佐の地名を歩く)にPDF掲載

 

 

■四万十町広報誌(平成19年9月号) 

ダウンロード
知っているようで知らない私たちの町0818【大正中津川】20070901.pdf
PDFファイル 251.5 KB


フォトギャラリー

ダウンロード
昭和6年から昭和13年頃の中津川部落の総会等の議事録(徳広誠男がまとめたもの)
20170825徳広資料(10中津川部落議事録).pdf
PDFファイル 341.7 KB

関連Web

■中津川集落活動センター「こだま」

http://shimantolife56.wix.com/sec-nakatugawa

 

■農家民宿はこば

http://park7.wakwak.com/~hakobas/