大正中津川

たいしょうなかつかわ


20150422初

20180524胡

【沿革】 

 長宗我部地検帳には「森河内村」と「中津河村」とあり、それぞれ地高をまとめていることから、枝村ではないような検地記録である。 

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)南路志(1813)ともに「中津川村」とある。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、中津川村は大字となった。

 大正3年(1914)1月1日、幡多郡東上山村は、 村名を改称し「大正村」となった。

 昭和22年(1947)8月1日、幡多郡大正村は、町制を施行し「大正町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。合併時、町内に同名の大字があることから、調整され名称を中津川から旧町名を冠した「大正中津川」に改めた。

 

【地誌】

 旧大正町の北部。北は標高850m級の稜線で高岡郡梼原町、東は窪川地域、南は芳川、木屋ケ内、西は大奈路字古味野々および下道に接する。地内西部を、北部の山地小松尾山から中津川が南流している。ほとんどが山地。流域に水田、集落が立地。地内には上流域にある森ケ内集落と本村集落がある。成川集落は現在だれも住んでいない。下流域で成川谷が中津川に合流。川沿いに町道が通り、 バス連行1 日3 便。森ケ内から大正まで17.6kmの地。森ケ内から上流は林道が町境の標高875mの春分峠にのび窪川地域に通じて、梼原町松原地区へはトンネル等が新設され439酷道よりはるかに立派なふるさと林道松原中津川線が通じた。国有林1,534haがあり、国有林野事業が盛んな頃は中津川担当区事務所、製品事業所・商店があった。農林業が盛ん。河内神社、大元神社、日吉神社(大己貴命)、茶堂がある。商工会青年部主催の「びんび祭り」は22回継続開催された。

 平成22年、農家民宿はこばのあかあさんは「農林漁家民宿おかあさん100選」の第1回選定者となった。この「はこば」、四万十町一番目のどぶろく特区としてお酒を醸造している。

 「農家民宿 はこばの四季」が第59回(h26)高知県出版文化賞を受賞。この本は、著者の山﨑眞弓さんが「はこばの食」を手がかりにして36戸、住民73人の中津川に通い「私の中津川時間」で中津川の四季のくらしを掘り出し綴った愛情の記録です。初めて訪れても「ただいま」という中津川。

 集落づくりの地元熱意は強く、平成8年の中津川小学校の休校を機に、「電脳中津川小学校」が開校、任意団体の「やまびこ会」も自然発生的に発足し、その活動には目を見張るものがある。「集落再生モデル事業」、「もみじまつり」や「どろんこ運動会」の活動を進めるなかで、中津川集落活動センター 「こだま」が平成28年2月14日に始動した。

 平成18年の町村合併時に町内に2か所の大字となることから名称を中津川から大正中津川に改めた。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央に流れる川が中津川。上流が森が内集落で下流域が本村集落)

 

【地名の由来】

 地名の父、吉田東吾著の「大日本地名辞典」には、「中津川」地名が全国各地に22箇所みられる。その多くは山奥深い谷川であり、奥山の村落である。ナカの音のごとく幾つかの集落の中を意味するところが見うけられる。

 「民俗地名語彙辞典(松永美吉著)」では中津川について『山奥の在所の地として折々きく。その最も奥まったのは秩父の中津川である。』と説明し、ツについては『土地の便、不便。交通の良否を「ツが良い」と岡山、山口、秩父などにある。このように「交通位置」のツから、船着き場や港の意となった。』とある。

 「地名用語語源辞典(楠原佑介・溝手理太郎編)」ではナについて『①場所を示す接尾語。「土地」をいう古語のナ。②接頭語もあるか。』とし、ツについては『①港。渡し場。ト(門)と同系か。②泉などの水のある所、また単に海岸をいうか。③近世に①の意から転じて「人の集まったところ」特に大都市をいう。④場所を示す接尾語。ト(処)と同系か』と述べている。中津については『①ナカ(中)・ツ(津)で「中心となる港湾の所在地」②ナカ(中)・ツ(場所を示す接尾語)で、中心となる地。』とある。

 また「地名語源辞典(山中襄太著)」ではナカについて『親村から子村が四方へ分れ出た場合に、その中央にある親村を中村、本村、元村、本郷、元郷などと呼び、また単に中、元、本、茂登などとも呼ぶ。』と述べている。

 大正町史は『山間部狭間の土地を流れる川によるといわれ、流域に「本村」と上流域の「森ヶ内」、下流域の「成川」の集落が存在していた。』と由来を述べている。

 

 大正中津川の場合、村落の中心地として「本村」が栄え、上流には小高い所の新たな開墾地として「森が内(盛り河内・カイチ。渓間の小平地)」ができて子村となり、下流に「成川(緩傾斜がナルで、なそーなった所の川)」が次に開拓され、三集落に流れる郷村の名を「中津川(中津に流れる川)」としたのではないか。

 山の暮らしは、長い歳月で山を培う開拓者であるとともに、山を畑としてその実りを頂戴し加工して山道を縫って売り歩く数年サイクルの総合商社員であり、山の中で必要なものを自らがやりとげる技を磨き合う職人集団でなりたっている。

 山人(縄文人)は、1年サイクルの農耕民族(弥生人)とは違う暮らし方である。 

 

 国土地理院の地形図を見ると「中津川」は、川名であるとともに集落名にもなっている。

 川名は単なる記号ではなく、地名の一つであるとともに、川名が教える先人の知恵の坩堝でもある。

 古代から生活の適住地は水との関係から成り立っている。洪水から身を守り、日常の暮らしや農耕に必要な川水を確保できる土地に集落が形成され、その邑に名称がつけられ、その流域を特徴づける地域名や流域の形状や生活や信仰を反映した固有の名に「川」を付して川名としてきた。

 それでは、中津川は、「中津」という地域名に河川をしめす「川」を合成して川名としたのか。

 中世末期の文献史料となる長宗我部地検帳に「中津河村」とあり、枝村として「成川」がある。また、近世の文献史料となる「土佐州郡志」をみれば、「中津川村」とあり、村内の地勢として川名のあるのは成川谷と小松谷の二つである。

 このことから、この流域の中心的な集落は「中津川」であることは明白であり、正式名称は命名法のルールからは河川名は「中津川川」となるところである。実際は河川台帳も「中津川」である。四万十川水系には松葉川地域にも中津川の地区があり、その地区を流れる川は中津川川である。流域に複数あることから区別したのかもしれない。

 

 いずれにしても、中津川は、山が育んだ地名といえよう。

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 アイビヤ、朝日山、井手ケ谷、ウシノダバ、薄木、畝ノ鼻、梅ノ木才、ウルシハラ、扇平、大ヒラ、大平山、岡ノ越、奥森ケ内、門田、上ミ久保、ガヤノ木、北峯山、久木ノ森、楠木佐古山、クボノ、久保野下モ、越ノ畝、小松尾、サワタリ地蔵院、下モガヤノ木、下モ駄場、杉ノ段、タカノ畝、高薮、長坊谷、長ボヲ、ツルイノ本仲ケ市、仲ケ市山、中屋敷成川、西峰山、二タゴ松、二タ子松山、仁ノ畝、東ノ前、東峯山、向佐渡、向ダバ、向イ宮、森ケ内山、横平、横平山、六郎北平、六郎谷、六郎谷ノ下モ【53】 

 

(土地台帳・切絵図番順)

 10北峯山、11東峯山、12向佐渡、13ウルシハラ、14長坊谷、15東ノ前、16越ノ畝、18ウシノダバ、19門田、21地蔵院、20ツルイノ本、25仲ケ市、26アイビヤ、28クボノ、30下モガヤノ木、31ガヤノ木、32向ダバ、35二タゴ松、36高薮、37大ヒラ、39梅ノ木才、40奥森ケ内、41上ミ久保、44仁ノ畝、45下モ駄場、46中屋敷、47杉ノ段、48西峰山、50六郎谷、52サワタリ、横平、2薄木、17長ボヲ、22扇平、23岡ノ越、24畝ノ鼻、仲ケ市山、27久保野下モ、34二タ子松山、大平山、38タカノ畝、42森ケ内山、49六郎北平、六郎谷ノ下モ、51向イ宮、53横平山、54朝日山、55楠木佐古山、3成川、9井手ケ谷、1久木ノ森、8小松尾

※29クボノ山、33向ダバ山、43仁ノ畝山は切絵図には掲載されているが土地台帳にはない。

※大平山、六郎谷ノ下モ、横平は土地台帳に記載はあるが、切絵図にはない。

※4奥成川、5木戸木、6小荕、7大荕は全山国有林のため土地台帳には無記載がない。

※越ノ畝を「コエノセ」、畝ノ鼻を「セノハナ」、タカノ畝を「タカノセ」と地元では呼ぶ。税務資料は「畝」を「ウネ」。

※二タゴ松、二タ子松山を地元では「フタゴ」と呼ぶが、税務資料では「ニタゴマツ」「ニタゴマツヤマ」である。

【土地台帳の調査】

 現在の土地台帳の調査は「北峯山、東峯山、向佐渡」と中津川地区の外側の農地から始まり、中津川本村集落の入口となる「ウルシハラ、長防谷」から旧中津川小学校の「地蔵院、ツルイノモト」を終え、「仲ケ市」から中津川を遡上し森が内集落に入る。森が内集落では中津川左岸から右岸「梅ノ木才」に渡り集落を一周して中津川右岸を「薄木」まで下りいったん農地・宅地を終了する。ここから山林の調査として同じコース「北峯山」から「楠木佐古山」までたどることとなる。大正中津川の最終地番となる字は「成川」であるのは、国有林野の払い下げを受けたことから新規地番となったのではないか。

 

【ホノギ】森河内村・中津河村

〇土佐国幡多郡上山郷御地検帳:幡多郡上の1p124~132/検地:慶長2年3月22日)

 ▼是ヨリ森河内村

 中ヤシキ、宮ノワキ、上クホタカヤフ

 ▼是ヨリ中津河村(中津川村)

 中カイチ地蔵院ヤシキ、河内神田、なり田、岡ヤシキ、ツルノモト、むろや、林上、下谷かけて、ウシハラサハタリ成川、奥ウスキ奥谷かけて 

 

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【通称地名】

 

 

 【山名】

 

 

【河川・渓流】

 

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

  

【ため池】(四万十町ため池台帳)

 

 

【城址】

 

  

【屋号】

 いんきょ(林伸次宅)、しんや(新屋)、あたらしや(井原宅)、なか(徳広誠男宅)、ひがし(小野川清美宅)、かしだる(小野川小萩宅)

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

河内神社/47かわうちじんじゃ/鎮座地:向イ宮 ※村社

(旧:大元神社)/47.2おおもとじんじゃ/鎮座地:岡ノ越 ※本村集落

(旧:日吉神社)/47.3ひよしじんじゃ/鎮座地:タカノ畝 ※森が内集落。タカノ畝とあるが神社明細帳では「カタノ畝」

(旧:厳島神社)/48いつくしまじんじゃ/鎮座地:東峯山 ※神社明細帳では鎮座地の付記として「成川口」と通称地名を記録

(旧:熊野神社)/48.2くまのじんじゃ/鎮座地:畝ノ鼻 ※本村集落

※神社明細帳には記載がないが、山の暮らしの集落だけあってあちらこちらに大山祇神社が祀られている。 

※「鎮守の森は今(竹内荘市著)」に「福徳神社」「大山祇神社」が掲載されている。

 1773福徳神社(大正中津川/祭神不明/平家の落人を祀るといわれている)

 1774大山祇神社(大正中津川/祭神不明/本村の裏山に鎮座) 

 


現地踏査の記録

20160216胡(徳広誠男談)

  • 長宗我部地検帳の中津河村のホノギとして「ムロヤ」とある。今は使われていないがミステリーな地名。検地の流れから現在の「ウシノダバ」付近ではないか。
  • 通称地名に「カシダル」がある。小野川小萩宅の屋号でもありその付近をさす。
  • 高知県は危険渓流「カシ谷川」と公称地名として表示しているが、この付近の「カシダル」の聞き取り錯誤ではないか。地元呼称は「ホリンタネ」である。昔、山腹大崩壊後の砂礫層に大きなホリのような谷となっていたことに由来する名称。中津川では「谷」を「タネ」と音韻する。
  • 長防谷が中津川に合流するところは大きな渕になっていて、子供たちの格好の遊び場となっていた。現在は渕は消えてなくなっている。
  • サワタリ橋の橋名決定の際に、集落協議で当初は「宮の前橋」で決まりかけていたが結果「サワタリ橋」となった。
  • サワタリ橋を渡り茶堂をとおりまっすぐ抜けると矢立往還の中津川分かれに向かうが、途中、佐渡りを左に折れ田圃の真ん中を横切り再び中津川を向佐渡りに渡り成川方面に向かう道があった。この所謂「サワタリ」は川の中にある大岩に差し掛けた簡便な木橋であった。この岩は河川工事で撤去している。
  • 「薄木」の国有林から伐採された「ウスキヒノキ」は、日本一の銘木とよばれた。
  • 「越の畝(コエノセ)」の田辺和子宅付近に熊野神社があった。現在は河内神社に合祀されている。
  • 長宗我部地検帳の検地は中カイチ(仲ケ市)」から本村集落の「地蔵院」となっているが、その途中「畝ノ鼻」に大本宮の社があったと棟札にきされている。検地数年前にされていることから、検地見落としとなっていることが不思議である。
  • 旧中津川小学校前の字「門田(893番地)」を「カミダ」と呼んだ。
  • 成川集落に通称「宮ノ谷」がある。ここから尾根を登り「松ケ峠」、「杖立て」、「おひその森」を経由して折合に向かう山番の通行ルートがあった。現在は森林管理署の管理道となっている。
  • この「宮ノ谷」が成川に合流したすぐ上流左岸(768番地)に礎石の後があるが、ここが河内神社の跡ではないかと推定する。日吉神社(森が内)、熊野神社(越ノ畝)、大本宮(岡ノ越)の比定されている神社から消去法による所以である。明治の神社合祀により、現在の河内神社(向イ宮鎮座)に遷宮されたのではないか。中津川では大山祇神社と福徳様は以前のまま残っている。

地名の疑問

1)二つの中津川

 四万十町には城戸木森(しろとぎもり)という点名の一等三角点がある。その稜線の西側と東側に「中津川」という地区があり、また「森が内」という集落がある。昔の往来は峯越えであることからまさに隣村ということになる。

 平成の合併により同じ行政区に「中津川」という二つの大字は設置できないことから、旧大正町は「大正中津川」に、旧窪川町は「窪川中津川」と旧の大字に旧町名を冠することになった。

 

2)中津川は村名か川名か

  河川名称の付け方は、流域を示す地域名称等に「川」を付したもので、「河」も「江」も「掘」も「溝」もない。河川は水の移ろいとともに上流から下流までその土地の人々に呼称の変化はあったものの、河川の記号となる「川」はこれだけである。古来から○○谷や△△沢と呼ばれた川名にもご丁寧に「川」を機械的に付している。アイヌ語で川を示す「ペッ(別)」や「ナイ(内)」にも「川」をつけるという、馬から落馬風の馬鹿丁寧さである。

 山名が地元に畏敬され親しまれる古来からの呼称が生かされて「山(やま)」、「山(さん)」、「岳」、「嵓」、「峯」など豊かに表現されているのに比べ、河川の命名は貧弱である。

 「日本全河川ルーツ大辞典」には、日本の13,00余の河川名称のなかに、川以外の河川名称として○○沢(岩手県の特徴)玉川上水(東京都の人工河川)、潟堀(佐賀県のクリークの古称)の数例がみられるだけで、大多数が○○川である。このなかに同じ○○川であっても、高知県には、「ゴウ」と読む例が、安田川の支流に「東川(ひがしごー)」と「七七川(ななごー)」がある。

→詳しくは、当HPの「地名のお話」サイトを

VOL7:四万十川の名称の由来

VOL4:暮らしのカワ

VOL3:中津川川

VOL2:中津川地名考

 

  ここで疑問となるのが「中津川の正式名称」である。正式名称とは、役所が決めた名称でなく、古来からその土地の人々の呼称である。地元では、中津川川とは呼ばない。前後の文脈、語感、ニュアンスで集落を示す「中津川」なのか、川を示す「中津川」なのかを判断することになる。

 厄介なのは「役所のルール」である。役所は河川法に基づいて河川現況台帳により河川の管理区間と名称等を定め、一つの名称で「管理」することになる。地名が文化財であることは知る由もない土木の集団である役所にとって、「川」の呼称は特定する記号でしかないのだろう。橋の命名もしかりで、河川名称に1号橋、2号橋とつける思考停止の命名法である。

 ちなみに、川名の中津川は、「渡川水系四万十川1次支川梼原川2次支川中津川」である。同じ水系に「渡川水系四万十川1次支川中津川川」が窪川中津川地区にあることから区別する配慮かもしれない。

 ただし、県管理の準用河川である中津川であるが、県が森が内集落に架橋した「ふるさと林道松原中津川線」の「ふるさと橋」の橋名板には「中津川川」とあるのはダブルスタンダード。

 


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1597慶長2年)

(地検帳幡多郡上の1p124~132/検地:慶長2年3月22日)

 検地は、下津井村の枝村である舟瀬村(現在のオゴシ集落)から矢立往還(松原往還)の足川越へから森河内村(大正中津川地区の森が内集落)に入っている。

 慶長時代のこの集落の村名は、”森河内村”と呼ばれ、当時は”中津河村”の枝村ではないような検地記録である。(ここでは二つの村を一緒に記述する。)

 検地を行ったのは慶長2年3月22日(1597年5月8日)のことである。

 検地は、森が内集落の「中ヤシキ」(林貞一宅)から始まり、「上クホ」、「タカヤフ」と進み、中津河村の「中カイチ」から本村の「地蔵院ヤシキ」に入り「ウシハラ」、「サワタリ」を終え「成川」の集落へ進みこの村を終えている。

 検地高は、本田出田ともで、森河内村が1町8段、中津河村が6町4段となっている。

 検地にみられる寺社は、明確にはないが「宮ノワキ」、「地蔵院ヤシキ」、「河内神田」のホノギがある。

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p325)

 中津川村の四至は、東限幾登幾森西限矢立坂南限臼杵北限津野山松原村東西四十五町南北一里凡二十三其土黒

 山川は、大荕山・小荕山(皆在村東禁伐)、成川山・岫之森(皆在村南禁伐)、小松山・井手谷(皆在村北禁伐)、臼杵山・扇山(在村東南)、成川谷・小松谷(流過村南西)

 寺社は、地蔵院、川内大明神、大元大明神

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高83.182石、戸数30戸、人口123人、男62人、女61人、馬10頭、牛2頭、猟銃4挺

 

■南路志(1813文化10年:三巻p625)

 243中津川村 地八十三石一斗八升

川内大明神 サワタリ 祭礼十一月吉日撰

大本明神 ワキノコエ 同上

三王権現 ムカイサカ 同上 

 

■掻き暑めの記(1984昭和59年)

 ・佐渡(上p140)

 明治6年以降、各村のほぼ中央部に元標が建設された。中津川村の元標は字佐渡に設置されていた。

 ・あざめ山(上p287)

 中津川国有林、小松尾山を今から百七、八十年前に、信州の牛窓という山師がきて仕成をしたことがある。あざめ山に松の良材が大量に生立しておった。木目の通りが非常に良く柾目の良材が生産された。

 ・金輪木の畝(上p287)

 この間切り材を、其まま小場落しをすると丸太材の木口が木株や岩石に衝突して割れる、そげることがあるので、折角の良材を台無しにするというので、そこの山上へ鉄や「フイゴ」など鍛冶道具まで、担ぎあげて現場で鍛冶をやって直径三尺以上もある丸太の両端木口に合して金輪をつくらして木口にはめこんで、小場をしたということである。その為に木口の割れもなく、山出しが出来た由である。

 ・綱うちの段(上p287)

 この山はあまり、急傾斜の山で元切り間切りの際に材の切り離しをやると、すぐ谷底まで落込んで取り出しに困難するというので、間切り材を綱でくくり止めて切り離し、適当な位置まで吊り下げては集材をしたということである。

 ・はちののぐち(上p297)

 矢立坂の「はちののぐち」まできたころ二匹の山犬がごっそり出て来て、多仲の着物の裾を食わえて往還下の草の中に引っぱりこんだ。多仲は山犬の為すに委せていたところ二匹の山犬は多仲を後にかばう様にしている。その前を魔物は大きな地響をして通ったが、幸に魔物の害は受けることなく、そのあとから二匹の山犬の手引きに依って大奈路舟戸渡場まで帰りついた。

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

p6:大正中津川、森ケ内、中津川、森ヶ内橋、筋橋※1、サワタリ橋、河内神社

p2:大正中津川、森ヶ内Ю、松原中津川トンネル、林道松原中津川線、ふるさと橋

p8:大正中津川、中津川、成川橋、中津川トンネル、中津川橋、久木の森風景林

※1:筋橋は、橋名板でも荕橋となっているが、地元では「あざめ・アザミ」と呼ぶことから「莇橋」ではないか

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

大正中津川、中津川、森が内、西峯山(718.0m)、東峯山(618.4m)、大畑山(789.0m)、小松尾山(850.3m)、中津川、成川、筋橋(※橋名板は荕橋。莇橋

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

城戸木森(一等三角点:標高908.65m/点名:しろとぎのもり)字城戸木20林班

小松尾山(三等三角点:標高850.26m/点名:こまつおやま)字小松尾山26林班

出ノ谷(四等三角点:標高724.29m/点名:でのたに)字出ノ谷山25林班

森内山(三等三角点:標高789.03m/点名:もりうちやま)字西峰山732-106※1

西峰(四等三角点:標高750.29m/点名:にしみね)字西峰山732-37

森が内(四等三角点:標高360.38m/点名:もりがうち)字上ミ窪677-2番地

北峰山(四等三角点:標高663.29m/点名:きたみねやま)字北峰山610-1

東峰山(三等三角点:標高618.75m/点名:ひがしみねやま)字東峰山615-58

中津川(四等三角点:標高300.21m/点名:なかつがわ)字岡ノ越645※2

西峰山(三等三角点:標高718.31m/点名:にしみねやま)字西峰山735-55

美馬山(四等三角点:標高313.09m/点名:みまやま)木屋ケ内字上ミ滝平山695-5※3

中津川(四等三角点:標高509.04m/点名:なかつがわ)字東峰山616-1

※1:点名は森内山とあるが、国土地理院の地形図による山名は「大畑山」

※2:大正中津川地内に「中津川」という点名が2箇所ある。

※3:点名「美馬山」の点の記に記載された所在地が木屋ケ内となっているが「大正中津川字朝日山766-9」

 

■四万十森林管理署(四万十川森林計画図)

薄木山、成川山、奥成川山、木戸木山、大荕山、小荕山、小松尾山、出ノ谷山

※久木の森山は、旧大正町に売却された。

 

■高知県河川調書(2001平成13年3月:p55)

中津川(渡川水系四万十川1次支川梼原川2次支川中津川)

起点:梼原川合流点

左岸:大正中津川字森ヶ内山702番の4地先

右岸:大正中津川字北峰山611番の33地先

河川平均延長:12,100m / 33.47Ak㎡ / 15.0 Lkm

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

中津川橋(不明/大正中津川字)

成川橋(不明/大正中津川字)

本村橋(不明/大正中津川字)

堀ヶ谷橋(不明/大正中津川字)

筋橋(不明/大正中津川字)

大奈呂中津川線1号橋(不明/大正中津川字)

薄木橋(不明/大正中津川字)

中津川成川線1号橋(不明/大正中津川字)

中津川成川線2号橋(不明/大正中津川字)

中津川成川線3号橋(不明/大正中津川字)

成川橋(不明/大正中津川字)

東ノ前橋(不明/大正中津川字)

サワタリ橋(不明/大正中津川字)

越ノ畝橋(不明/大正中津川字)

越ノ畝2号橋(不明/大正中津川字)

森ヶ内橋(不明/大正中津川字)

中津川大橋(不明/大正中津川字)

中津川8号線1号橋(不明/大正中津川字)

中津川8号線2号橋(不明/大正中津川字)

 

■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名)

熊の巣(西峰山792-8・熊の巣川

オクイデ(西峰山732-4・オクイデ川

下イデノ谷(西峰山732-55・イデノ谷川

寄合畑(北峰山611-11・筋川)※1

ニタゴ松(ニタゴ松376・大平谷川

甲下(西峰山733-39・甲下谷川)

久保野谷(西峰山734-18・久保野谷川)

アイビヤ(アイビヤ319・仲ヶ市川

樫谷(ヒガシノマエ57・樫谷川

アラバイ(長防谷20・長防谷川

宮谷(成川769・成川) 

 

■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)

 ・ 2中津川

 中津川は、中津川北部の小松尾山を源とし、下流域で成川谷と合流し、大正大奈路で梼原川に注いでいる。中津川地区は良材の宝庫であり、藩政期には御留山が広範囲に存在した。明治期から大正期にかけて官材の伐木が活況を呈し、森林軌道や林道が整備されるまでは、中津川を利用した堰出し・管流し等の方法による木材の搬出が行われ、四万十川流域の林業経営を支える重要な役割を担っていた。川沿いには久木ノ森山風景林があり、自然の豊かな渓谷は、「びんびまつり(アメゴ釣り)」や「紅葉祭り」等のイベントが催される、地域の貴重な資源である。

 ・ 3久保谷風景林

 

 久保谷風景林は、森ヶ内風景林の上部、四万十町と梼原両町の行政界周辺に位置し、標高は400mから831mに及ぶ124.51haの区域である。林相は、四万十町側がスギ・ヒノキの人工林と天然生針広混交林、梼原町側が92~217年生のモミ、ツガ、ヒノキに広葉樹を交えた天然針広混交林からなっている。昭和47年12月発行の「高知営林局史」によると、この天然生林は809ha、蓄積28,400m³を有し、高知県東部魚梁瀬のスギを主とした天然生林に対し、モミ・ツガを主とした四国西部の宝庫として知られた区域である。昭和40年に開設された久保谷製品事業所によって開発され、国有林事業の発展を支えたが、7年間で資源の半ばを伐採し、人工林地として様変わりした。この頃より急速に高まってきた自然保護・風致保全の要請に応えるため、昭和48年(1973)に、通称春分峠付近のモミ・ツガ林を「久保谷風景林」として設定した。久保谷山は、大径のモミ・ツガ・ヒノキ・などの針葉樹とアカガシ(県内2番目という胸高直径5.53m、樹高15m、推定樹齢500年のアカガシも存在する。)・ウラガシ・ツクバネガシなどの樹高20~30mの常緑広葉樹が混生し、四国中西部における温暖帯上部の代表的かつ貴重な天然林の森林である。また、行政界付近の「春分峠」から望む四国山地の山なみや四季折々に変化する景観、一斉人工林の森林美等、眺望の優れた地域でもある。

 ・ 17河内神社

 河内神社は、中津川本村対岸の小高い丘に鎮座する。急傾斜の石段の参道を登る丘の頂上に社殿がある。もとは下流のサワタリという場所にあったというが、明治23年の洪水で社殿を流失し、現在の社殿は昭和31年に再建したもの。耕地の少ない山村集落では、棚田が生活・生業を支える糧であり、棚田を開墾・管理と生産には多大な知恵と労力が必要である。その過酷な条件が、耕作の安全や豊穣を祈る信仰、祭事など、農耕における様々な伝統文化を育んできた。その中心的な役割を果たしているのが河内神社である。河内神社は、家内安全や五穀豊穣のほか、住民の交流や地域文化を醸成する場であり、祭事を通じて地域の連帯を深め、憩う場所である。また、戦争の出征に際しては武運長久を祈願し、南米への移住では見知らぬ土地での安全を祈って旅立った。山村に暮らす過酷な生活・生業のなかにあって、四季折々、神に祈りを捧げる人々の篤い信仰は、自然がもたらす恵みへの感謝とともに自然と共生していく意思を表す場所である。

 ・ 18中津川の茶堂

 茶堂は、サワタリ沈下橋が架かる中津川右岸、中津川本村の対岸にある。慶長2年の地検帳にもみえ、敷地面積や配置も古い時代のままである。現在はトタン葺きであるが、昔は茅で葺かれていた。対岸に町道が整備されるまで、茶堂の位置する場所は集落の入り口にあたり、大奈路・木屋ヶ内・下津井・梼原への街道へ通じる往還に通じていた。茶堂には弘法大師像が祀られ、旧中津川小学校の裏手にあったという寺地蔵院も合祀されている。かつて、各集落の入り口には茶堂が建てられ、地域の人々の信仰と交流の場となっていた。また、茶堂は外来の商人や旅人が自由に休憩、宿泊できる場所であり、集落を通行する旅人を接待し、異文化との交流や情報を得る場所としても利用された。3方を開放した建築様式は、外来者の行動を監視するためともいわれ、藩政期、地域外からの旅人を接待しつつ、一方で監視する厳しさが想像できる。茶堂では、今も先祖供養や御接待などが行われ、住民の交流を深める場である。茶堂は、中津川集落における流通・往来と信仰と交流の歴史を物語る景観である。

建築年代:明治~大正期 / 構造:木造・平屋建・切妻造・トタン葺 桁行3間・梁間2間

 ・ 18久木ノ森山風景林(2001年の森)

 久木ノ森山風景林は中津川の渓谷沿いに約16万㎡の面積を持つ。良材の宝庫で知られた地域を伝える、多様な天然木で構成された貴重な森林域である。大正奥地中津川には広大な御留山が広がり、住民の管理・伐採・搬出という役目のもとで、良材が梼原川・四万十川の水運を利用して京阪神へ移出され、藩の林業政策を支えた。明治以降、御留山は国有林に引き継がれ、四万十川流域の林業の歴史を繋いできたが、久木ノ森山風景林もその1つである。平成13年に、この森林を旧大正町が「2001年の森」として購入。「2001年の森設置条例」を制定し、自然環境の保全、水資源の涵養など森林のもつ公益機能の啓発を図るとともに、人々の憩いの場として位置づけた。桧の高齢木・複層林・混合林のモデル林として保護・育成するとともに、町の活性に結びつけようと、風景林では「ビンビ祭り」や「もみじ祭り」等の交流事業が催され、渓谷でのキャンプや川遊びが楽しめる。「久木の名水」が沸く森でもある。久木ノ森山風景林は、四万十川流域の林業の歴史や森林の持つ価値を身近に学び体感できる存在であり、未来に伝えるべき重要な景観である。

管理:町 / 面積:160000平方メートル

 ・ 20大正中津川集落(本村・森ヶ内)

 中津川集落は、梼原川の支流である中津川の上流山間部に位置する。現在は、地区中心部の「本村」と北部上流域の「森ヶ内」のふたつの集落で構成されているが、かつては、成川谷に「成川」集落も存在した。本村は、中津川右岸の東西120m・南北350mのオオギノヒラ山麓の河岸段丘に展開する里山の集落で、急峻な山々に囲まれた河岸段丘上に開墾した水田や山肌を切り開いた畑地で農業が営まれている。

 森ヶ内は中津川最奥の集落で、7戸の民家が山間に点在している。慶長2年(1597)の上山郷地検帳にみえる森河内村の検地面積は一町八反余、切畑若干が記載されている。急峻な山肌に開拓された棚田や畑が深山と密接した暮らしぶりを示す。

 長宗我部の時代から土佐の木材は良材とされ、藩政期、土佐藩は多くの山々を御留山とし積極的な林業政策を展開した。旧大正町内には21か村が存在していたが、そのうちで御留山が存在しないのは4か村のみで、いかに、この地域が良材の宝庫であったかが理解できる。中津川集落も、御留山が広範囲に存在した地域で、「皆在村東採伐禁止」として小松山・成川山他の山名が記されている。藩政期には林業政策による御留山の管理・伐採・運搬などを課し、「山林諸木竝竹定」などの布告で厳しい統制令が布かれ、私有林の伐採や焼畑も制限されるなど、中津川集落も山林を守る藩の施策のもとで厳しい統制を強いられた。

 まとまった平地が少なく、棚田や段々畑、焼畑による自給自足的な農業が主体であり、林産物生産が重要な生活基盤であった山村集落において、これらの、住民の自由な山野利用や木材の伐採を厳しく禁じた措置は非常に過酷なものであった。そのような苦難のなかで、中津川住民は御留山をはじめとする森林を管理し、良材の産地を育ててきた。この厳しい生活の様子は、この集落から旧大正町田野々(四万十町大正)に移築された国重要文化財・旧竹内家住宅に見ることができる。御留山は、明治時代に入り「官林」となり、その後の変遷を経て今日の「国有林」に引き継がれている。中津川集落では、厳しい風土のなかで開墾した棚田等での農業が受け継がれ、先人からの営みが続けられている。また、林業を生業とする者も多く、「四万十桧」を産出して積極的な林業を展開し、四万十川の清流の源である森林の保全という重要な役割を果たしている地域である。

 ・ 16町道大奈路中津川線

 ・ 21町道久木ノ森線

 町道大奈路中津川線は、四万十川水系における最初の森林軌道であった。明治34年から小松尾山の立木処分で年期売払を受けた民間業者によって、大正中津川から大正大奈路までの18kmに林道を整備し軌道を敷設したものである。また、町道久木ノ森線も、その町道大奈路下道線の一部であったが、改良工事に伴うトンネルの開通によって新たに路線として認定されたものである。これらの町道は、梼原川の支流の中津川に沿って緩やかな勾配で延びており、その名残を伝えている。

 森林軌道は、大正14年に営林署に買い上げられた後、役目を終えて軌道が廃止され、林道としての改修を経て町道に引き継がれた。この森林軌道の敷設や林道の整備によって、木材の大量搬出が可能となり、国有林事業が大きく発展した。

 町道は、現在も国有林や民有林からの木材の搬出や森林管理に利用されるとともに、大正大奈路と大正中津川を結ぶ主要な道であり、住民の生活・生業を支えるうえで必要不可欠な存在である。

 ・ 22サワタリ橋

 サワタリ橋は、梼原川の支流・中津川に架かる小さな沈下橋で、中津川本村と対岸の水田や河内神社、茶堂とを結んでいる。また、かつては、中津川本村と大正大奈路、木屋ヶ内、下津井へ至る尾根上の「やたて街道」に通じ、中津川集落と集落外とを結ぶ重要な場所でもあった。集落の大半が藩政期は御留山として、明治以降は国有林として管理されてきたうえに平地が少ない山間にあって、対岸に開墾された水田は山村集落における生活・生業を支える貴重な耕地である。現在、町道中津川1号線として管理され、対岸の耕地や信仰の場であるとの往来を支えており、山地農地を基盤とした生業を続ける集落住民に欠くことができない存在である。

 ・ 23町道中津川成川線

 町道中津川成川線は、町道大奈路中津川線から成川山や木戸木山国有林に通じる道である。中津川の奥山の国有林から木材を搬出するための林道として整備され、町道に引き継がれたものである。現在も、国有林をはじめ流域の林業経営を支える道として利用されている。

 

■地域資料叢書17 土佐の地名を歩くー高知県西部地名民俗調査報告書Ⅰ-(2018平成30年)

 →詳しくは当hpサイト(地名の図書館→奥四万十山の暮らし調査団叢書)にPDF掲載

 

 

■四万十町広報誌(平成19年9月号) 

ダウンロード
知っているようで知らない私たちの町0818【大正中津川】20070901.pdf
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関連Web

■中津川集落活動センター「こだま」

http://shimantolife56.wix.com/sec-nakatugawa

 

■農家民宿はこば

http://park7.wakwak.com/~hakobas/


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