宮内

みやうち


20150608初

20180528胡

【沿革】

 長宗我部地検帳に「宮内村」とあり枝村として柳ノ川、払川がある。

 その後の地誌である州郡志(1704-1711)、南路志(1813)ともに「宮内村」と書かれる。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、窪川郷上番の高岡郡窪川村・西原村・若井村峯ノ上村金上野村見付村大奈路村根元原村神ノ西村・大向村・高野村・根々崎村・若井川村、窪川郷下番の宮内村・仕出原村・大井野村・口神ノ川村・中神ノ川村・奥神ノ川村・檜生原村・寺野村・川口村・天ノ川村・秋丸村・野地村・家地川村、仁井田郷の東川角村西川角村、これら28か村が合併し新設「窪川村」が発足し、宮内村は大字となった。

 大正15年(1926)2月11日、窪川村は、町制を施行し「窪川町」となった。

 昭和23年(1948)4月1日、幡多郡大正町の一部(折合)を編入した。

 昭和30年(1955)1月5日、高岡郡窪川町、東又村、興津村、松葉川村、仁井田村が合併し新設「窪川町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。

 地区内は、宮内1・宮内2・払川の3つの行政区にわかれている。宮内1は上組・中組・下組の3組に、宮内2は上班・下班の2班に、払川は1つの班・組編成となっている。  

 

【地誌】

 旧窪川町の中央部北寄り。仁井田川との合流点、南流する四万十川右岸に開けた平地。太平洋戦争中は飛行場もあったほど広い農地が広がる。主に農業地域。集落は西部山麓に展開する。山麓を県道322号松原窪川線が通る。三島神社・高岡神社・白皇神社がある。

(写真は1975年11月撮影国土地理院の空中写真。写真中央、南流する四万十川の右岸が宮内地区) 

 

【地名の由来】

 


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 荒神ノ元、池渕ノ内石神ノ元一貫田今大神田、今大神々主屋式、今宮土居屋敷今宮才能祝イ田ン右近次郎屋敷後口田、後山ノ内、後山ノ内障子ケ谷、渦ジリウスツル井、ウルシバタ、ウルシバラ、宇和本モ切レ、大切レノ内、大田屋敷大奈路、大平山、大平山ノ内、大宮神主屋式大宮田岡崎ノ内沖屋式、開放、神楽田ノ内、影ノ平数生田ン、上ミ影ノ平ノ内、神ノソネ、上ミ丸田、仮谷、貫五郎、北谷山、北谷山ノ内、黒原、黒原山、源氏山、源幣谷源幣山ノ内、高畔、孝和ケ谷山、九日田ン、小太夫畑、五反畑、古苗代、五輪ケ平、才野田、西原桟敷坂出屋敷左近次郎屋敷笹ノ才能五月田、サワイダ、地獄ケ瀬ノ内、清水ケ窪、下モ屋敷正月田白皇神主前白皇神主田、白皇山、白皇山ノ内、志和桟敷新ガイ神道、杉ケ久ホ、杉ノ窪ノ内、助吾郎屋式、セキノモトノ内、説得田ン善浄寺、善浄山、添水ノ窪、ソリタノ内頼ム田ン、田渕畑、付キ合イ、柘ケ垣、傳之丞屋式、トウホンダ、燈明田ン、兎生山、兎生山ノ内、トウラウデンノ内、鳥居ノ奈路中石原七日田ン、仁井屋敷、西轟山、二中屋敷、登尾山、登り尾山ノ内ハザコ、長谷山、長谷山ノ内、馬附田、針木窪、東轟山、東轟山ノ内、彼岸田、日ノ谷山、日ノ宮田、ヒヤウタンダノ内、平曽、藤井山、札ケツジ、札ヶツジ山、フツ井川山、フナイタゲクボ、馬場枋ノ木谷山、前澤、又三郎田松葉、三島ノ元、宮多田、宮ノ奥、宮ノ窪、元大安寺、八木屋敷、屋敷田、八代地、柳ノ川セイ元、柳ノ川山、山ノ下、弓揚ノ元、弓場ノ元、除ケ添ノ内、芳ケ谷山、四時田ン、レキノ元、渡リ上リ【135】

 

 

(字一覧整理NO.順 宮内p26~29)

土地台帳の調査は、四万十川右岸の上流部の字「日ノ宮田」から始まり、仕出原との境まで来ると、払川に進む。

 1日ノ宮田、2日ノ谷山、3弓場ノ元、4宮多田、5レキノ元、6上ミ丸田、7頼ム田ン、8西原桟敷、9付キ合イ、10弓揚ノ元、11屋敷田、12源氏山、13ウスツル井、14前澤、15日ノ宮田(再掲)、16善浄寺、17坂出屋敷、20九日田ン、21大宮田、22説得田ン、23燈明田ン、24山ノ下、25三島ノ元、26一貫田、27古苗代、28右近次郎屋敷、29左近次郎屋敷、30石神ノ元、31助吾郎屋式、32元大安寺、34田渕畑、35後口田、36登尾山、37大宮神主屋式、39小太夫畑、40五反畑、41荒神ノ元、42傳之丞屋式、45又三郎田、46今大神々主屋式、48五月田、49針木窪、50正月田、51清水ケ窪、52正月田ン(再掲)、53笹ノ才能、54神ノ埇(カミノソネ)、55今宮才能、56仮谷(屋)、57祝イ田ン、58七日田ン、60志和桟敷、61馬場、62宮ノ窪、63渡リ上リ、64松葉、65柘ケ垣(ツゲガカキ)、66ハザコ、67貫五郎、68高畔、69今宮土居屋敷、70数生田ン、71芳ケ谷山、72影ノ平、73白皇山ノ内、74鳥居ノ奈路、75四時田ン、76源幣山ノ内、77白皇神主前、78下モ屋敷、79中石原、80白皇神主田、81沖屋式、82宇和本モ切レ、83神道、84北谷山ノ内、85長谷山ノ内、86平曽(ヒラソ)、87大奈路、88黒原、89大平山ノ内、90兎生山ノ内、91馬附田(バフダ)、92札ケ辻(フダガツジ)、95サワイダ、96ウルシバタ、97トウホンダ、98セキノモトノ内、99上ミ影ノ平ノ内、100神楽田ノ内、101大田屋敷、102ウルシバラ、103柳ノ川セイ元、104宮ノ奥、105藤井山、106ソリタノ内、107ヒヤウタンダノ内、108渦尻(ウズジリ)、109八代地、110後山ノ内、111後山ノ内障子ケ谷、113大切レノ内、114八木屋敷、115彼岸田、116フナイタゲクボ、117地獄ケ瀬ノ内、118杉ケ久ホ、119杉ノ窪ノ内、120添水ノ窪、121池渕ノ内、122トウラウデンノ内、123除ケ添ノ内、124才野田、125今大神田、126今大神屋敷、127仁井屋敷、128岡崎ノ内、129新ガイ、130登り尾山ノ内、131二中屋敷(ニチュウヤシキ)、132フツ井川山、133枋ノ木谷山、135善浄山、136登り尾山、138白皇山、139源幣谷、140五輪ケ平、141北谷山、142長谷山、143黒原山、144東轟山、145西轟山、146大平山、147兎生山、148札ヶ辻山、149孝和ケ谷山、153開放、154柳ノ川山、155仮谷、157東轟山ノ内

※「75四時田ン」は字一覧では「よじでん」とルビを振っているが、比定されるホノギは「シトキテン」とある

※「70数生田ン」は字一覧では「かずおでん」とルビを振っているが、ホノギの「修正田」が転訛して、スウセイデンとなり数生田の漢字を充てたのではないか

 

【ホノギ】宮内村/枝村:柳之川・払川之村

〇仁井田之郷地検帳 五(高岡郡下の2/検地日:天正17年3月13日)

検地は、仕出原を終えて、宮内の払川の支流柳ノ川から始まる。

 ▼宮内村之内柳之川之谷(p511~512) ※柳ノ川の上流部は仕出原区域。大字「仕出原」で掲載

 シモムカイ谷、ウルシハラ、大タ、高樋ノナロ、クタシハ、ハサコ、ウツケカキ、トリコエ、コエカトノモト、庵ノヤシキ

※ウルシハラは宮内と仕出原のどちらにもある字名

※ハサコは宮内分の字「ハサコ」に比定 

 ▽同村柳ノ川テクチ(p512~514)

 アンヤシキ、白王ノマエ、ホウスタ、サウキヤウタ、渡アカリ松葉、二升マキタ、ヤシキノマエ、今宮土居ヤシキ、東ヤシキ、ソリタ、榎ノ木ノクホ、修正テン、神原テン、カミクホ、岩本タ、ウ子サキ、若松タ

 (3月15日)

 ▼同村之内払川之村(p514~517)

 カケノヒラ、沢ミソ、五良四良作、中石原ミソ、コエカト、札幣テン、トウホンタ、大良九良作、アシ川口、クシ地ホキ、トトロクチ、大奈路新開ヒラソ、五良頭タ、シントウ、樋ノ口、新兵衛タ、畠タ、岡ノ庵タ、ヲキヤシキ 

 

 ヲモキレ、神願ヤシキ、中マヤシキ、ヲキヤシキヲキタ白王神主田、中井、名本田、名本ヤシキ、中ヤシキ、シモヤシキ、新ヒラキ、鳥居ノナロ、エイチタ、シラヲウクチ

 

 ▼爰ヨリ玄命谷のセイモトヨリ付(p517)

 ケンメイ谷シトキテン、ヒノクチ、ミソタ、カケノヒラ修正テン

※ホノギ「修正テン」は転訛して字「数生田」となったのか

 

 爰ヨリ又宮内之本村(p518~530)

 渡アカリ、ヨウシメ原、七日日テン、ハシツメ、馬場カシラ、フシヤテン、ハハソイ馬場ノ東ワキ、コサイノヲ、ハハ、ヨテン、道ノモト、トウトウ、茶アンノモト、神願タ、マツノモト、クロハナ、マツノクホ、クロハサ、札幣テン、渡アカリ中イシ原、フマテン、イハイテン、ツ井ハセ

 

 ツコモテン、七日日テン、ワカイフン、シハサシキヒカンテン、ツコモテン、霜月テン、ササノサイノウ、杢兵衛サイノウ、子子サキサイノウ、今宮サイノウ、龍王サイノウ、カキソエ、正月テン、クモテン、ヒシリサイノウ、大ミナクチ、ホウシヤシキ、カリヤ、牛クワサキ、アツキヲカ、左衛門次良タ、小大夫、コマタ、シヤウコウタ、ミタケ、野タ、ソカテン、五月テン聖宮、ヨテン、ハリキノクホ、ツチハシ、ヲモキレ、岡サキ今大神テン、ヲモ井テクチ、島タ柿ノ木タ、古ヤシキ、惣衛門タ、又三良タ、道善タ、サカタ、アイ、ホソヲサ、大宮神主土居ヤシキ、カジロウ、岡門前、岡庵寺中

 

 地千アン、シヤウキンタ、ウシロタ、西ツタ、次良衛門タ、マトハ、キヤウテン、七日ヒテン、跡母タ、ヌイハリテン、三反タ、栗ノ木谷、一貫タ次良衛門タ西原タ大田コシキカテンウシロタ、チヤウハンタ、マチハフン、道法ヤシキ、ミソタ、ミヤウシヤウタ、五良タ、左兵衛分、古苗代、シキフタ、九良兵衛タ、ナカレ川、ハシノモト、ホソヲサ、田中ノマエ、カラスタ、ヒラソ、シンホチツクリ、大宮タ、シンボチ作、ウワキレ、道法タ、ノホリヲクチ、千シヤウフツノマエ、ナミ木、セツトクテントウミヤウテン、ヲハシヤウタ、サコタ、ヤシキ、竹ノソト、八合マキ、ウスツル井、ヲイヤタ、ウツ井川、的場タ、ホソヲサ、丸タ、平兵衛タ、コエイチ、七日ヒテン、シヤウチクチ、藤六タ、孫六タ、テンシヤウアン寺中、スカウタヤシキ、東ヤシキタ、ウナカシテン、札幣テン

 

 ▼同村カミノハシシフテウチヨリ付(p530~536)

 ホウノ木ノモト新開、メクラタ、地コクカ瀬、ハイノセマチ、ウツシリ、サカミタ、木ノ下新開、西原サシキ、ハラ、ホリノモト新開、タノムテンヲモキレ、在京タ、ヲンコクテン、南キトクチ、新開ヤシキ、坊主タ、道ノモト、カミ丸タ、ミコタ、ホソヲサ、弓場ノ本、中ヤシキ、右近兵衛タ、シヤウチクチ、大工ヤシキ、藤衛門畠、新三良ヤシキ、左衛門次良ヤシキ、大セマチ、ヒカンテン、丸タ、ヲトタ、中新開、クホ、左近兵衛サイノウ、ツホクリ、永タ、カタシノ木、付合二中ヤシキ、新屋ヤシキ、的場畠、サカイテヤシキ、アセチヤシキ、森宮神主ヤシキ、タ子畠、西畠、細工ヤ畠、左近大夫畠、左兵衛畠、ヲキヤシキ石神ノ本、シウミ畠、カウ辺ヤシキ、馬四良畠、法泉畠、桜ノタン、左近次良ヤシキ、シモヤシキ、ウラヤシキ、西ヤシキ、サカ畠、ミソタ、ウシロヤシキ、カキソエ、ホリタ、田フチ畠、中野ヤシキ、馬アライテン、ハシノ本、中野キトクチ、サトウ畠、ハシノ本

 

 ▼同宮内村(p536~540)

 カモン作、兵衛三良ヤシキ、ハシノモト、コモテン、タフチヤシキ、彦左衛門ヤシキ、道善畠、九良兵衛ヤシキ、左衛門次良畠、介衛門畠、池ノフチヤシキ、土橋ヤシキ、ツル井ノモト、源三良キトクチ、ヲトヤシキ、カキノ木ノ下、大夫ヤシキ、ミスミ畠、次良衛門畠、又三良ヤシキ、小太夫畠ユハノモト、氏神ノ下、キトクチ、ヒシリ畠、中宮ヤシキ、源次郎ヤシキ、アセチヤシキ、氏神ノシタ、次良衛門ヤシキ、エノ木ノ下、新屋ヤシキ、子子サキ畠、減左衛門ヤシキ、平兵衛畠、アソヒハ、中井ヤシキ、川フチ、川辺畠、ムクロウシヤシキ、介五良ヤシキ、レウノヤシキ、四良左衛門ヤシキ、大安寺寺中、五段畠、介三良ヤシキ、権三良畠、次良衛門畠、岩本畠、ツチハシサンハク、マトハ畠、五良四良ヤシキ、フロノタン、辻堂畠、ハリキノクホ、ハリキ、中瀬シミツクチ、コウノソ子

 

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【通称地名】

 

 

【山名】

山名(よみ/標高:)

 

【峠】

峠(地区△地区) ※注記

 

【河川・渓流】

柳ノ川(字/ホノギに「柳之川之谷」とある。)

源幣谷(字/ホノギに「玄明谷」)

シントウ谷(ホノギ/ホノギに「神道田」がある。)

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

 

【城址】

 

 

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

白皇神社/81しらおうじんじゃ/鎮座地:白皇山 ※村社(払川集落)

三島神社/83みしまじんじゃ/鎮座地:善淨山 ※村社(本村集落)

 


現地踏査の記録

20170101胡

1)仮谷(カリヤ)という字の由来

 南路志に「〇行宮(カリマチ)社 俗にかりやの宮という。 里民今かりやと云へる所にいにしへ有て、上代宮社御造営の度毎に此社へ外宮遷宮なし奉りけるとそ。今ハ礎石たに残らすなりぬ。」の記述がある。

 宮内の南側に仮谷の字がある。この辺りは仕出原と境が入り組んでいるところで、明治23年の大洪水によりなったと云われている。五社さんの近辺には宮内の飛び地の字「宮ノ奥」、「藤井山」、「前澤」がある。

 長宗我部地検帳にも「カリヤ」があり、検地の流れからも字「仮谷」に比定できる。南路志の記述のとおり遷宮時の「かりやのみや(仮屋の宮」が転訛し仮谷の漢字をあてがったのだろう。近くには谷もなく地形地名でないことは明らかである。

 周辺は家屋が立ち並んでいるが、この字仮谷の区域は建物が何もなく、遷宮のときを待っているようである。


地名の疑問

20161231胡

1)「神田」のオンパレード

 神社の運営にかかる費用を賄うのが「〇〇田」。ホノギにも字名にもこの「何とか田」が多く見かけるが、宮内は「五社の内」だけあってたくさんある。全部拾い上げて、その意味や役割を考えてみることにする。(記載途中)

 

2)五社さんは、仕出原か宮内か

  

3)本土決戦特攻基地 宮内飛行場

 

 小丸太を結んだ川沿いの南北の滑走路は長さ1.180m、幅は70m。飛行機の掩体壕(えんたいごう)は「朴の木谷」、「三嶋神社横の谷」、「柳の川谷」の山肌に横穴を掘ったという。

 本土決戦にむけた宮内の特攻基地は正式には第三高知基地と呼ばれた。高知海軍航空隊基地(現在の高知龍馬空港)は米軍の空襲により壊滅状態で、第2の「浦戸海軍航空隊基地」、第3の「窪川特攻基地」は本土決戦に向けた緊急な整備計画であった。

 特命による基地建設派遣隊員120名が1945年春から突貫工事を始めたという。

 この飛行場の記録は国立文書館アジア歴史資料センターのHPに「引渡目録」として記載されていると藤原義一氏(平和資料館・草の家学芸員)は延べ、4軒の民家が接収され、市川和男さん宅は飛行場の本部となったと聞き取り調査を報告している。(続・戦争のころ高知で⑲~㉑)

 

 この聞き取り調査の最後の部分を「ブログ高知」から引用します。

『 終戦の翌日、八月十六日、窪川飛行場では、機上作業練習機・白菊を再度組み立てて、日章の高知海軍航空隊に帰還しました。一般隊員は現地解散でした(『高知海軍航空隊史』)。

 市川和男さんの母が、手記を残しています。

 「……この軍隊の置き土産は、四戸の家にはものすごい蚤(のみ)と、天井もまっ黒になるほどの蝿(はえ)の巣だった……」

 高知海軍航空隊分隊長・大尉だった伊藤平次さんが、その年の冬、兵器引き渡しのため高知海軍航空隊兵舎(日章)にやってきたアメリカ兵とのやりとりを、つぎのように語っています。「窪川の飛行場の写真も見せてくれましたよ。窪川を爆撃しなかったのは、必要がなかったというだけです。」(『高知空港史』)。

 窪川にやってきた占領軍は、窪川飛行場に残っていた練習機を集めて、油をかけて燃やしてしまいました。

 平和資料館・草の家の車輪とエンジンカバーは、そうした中でも残っていた機上作業練習機・白菊の残骸です。

 飛行場に荒らされた宮内の田んぼは、戦後処理のなかで「開放地」として元の地主に払い下げられました。

 一九四八年(昭和二十三年)から四九年の二年ほどをかけ、復元しました。

 

 【参考文献で、文中で紹介しなかったもの】

 ○ 『窪川子ども風土記』。窪川子ども風土記編集委員会。

 ○ 『窪川町史』。窪川町史編集委員会。窪川町。

 ○ 『写真集 くぼかわ今昔』。写真集「くぼかわ今昔」編集委員会。窪川町企画課。表紙の写真。

                (二〇〇八年六月二十九日・初版)』  →詳しくは「藤原義一氏のブログ高知」を

 

 米軍は宮内飛行場の情報もしっかり持っているのに攻撃しなかったのは何故か。伊藤平次さんは「米軍にとって必要がなかった」と語っているが、木の小丸太棒(直径5cm)を組んでシュロの縄で結んだ「スダレのような飛行場」が滑稽に思えたのだろう。

 それより疑問なのは、宮内への設営理由である。四万十河岸段丘でここらでは広い農地といえるが第三の飛行場としての適地はいくらでもありそうである。山が近く飛行場としての適地とはいえない宮内の地を選択したのは、ひとつは兵站としての北幡ルート(愛媛からの太平洋側の陸上決戦支援)を想定し、もう一つは海から一定距離を保つことができる位置であったことだろう。

 窪川は、波多国と土佐国、幡多郡と高岡郡の境界であり、南予と土佐の往来の中継点でもある。この地は昔から地政学上の重要な構成要素を持ち合わせているのだろう。 

 


出典・資史料

■長宗我部地検帳(1588天正16年:佐々木馬吉著「天正の窪川Ⅰ」)

 天正の頃の宮内村は、本村と枝村として柳ノ川部落・払川部落をかかえていたようである。検地を始めたのは、天正16年3月15日のことであり、同月20日までの実に6日間にわたって行われている。(同p194)

・神社

 三島神社(村社/字善浄山鎮座)/合祀:春日神社、竈戸神社、琴平神社、秋葉神社

(別称:寺院名の善定院)    八幡宮、六十余社

・寺院

 大安寺、善定院、岡庵、伝正庵

 

■州郡志(1704-1711宝永年間:下p285)

 宮内村の四至は、南限川越根々崎村東西十町南北二十五町其土黒

 山川は、小久保川谷、拂川谷

 寺社は、地蔵堂、六十余尊社とある。

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高457.542石、戸数63戸、人口253人、男133人、女120人、馬36頭、牛13頭、猟銃0挺

 

■南路志(1813文化10年:③p307)

176宮内村 仁井田郷本堂之内、又云蹉跎分神願番二村之一 地四百五十七石四斗六舛七合

〇子々崎村 新開発枝村也

五社大明神 祭礼九月十九日

東大宮三島大明神 神主佐竹大内蔵 祢宜 宮本筑前・宮本山城

 本地、弘法大師秘作不動明王

 〇徃昔仁井田五人衆東庄司助兵衛尉越智宗澄支配也 (詳細は本文参照)

今大神 神主佐竹久之進 祢宜宮本河内

 本地、弘法大師秘作清浄観音

 〇徃昔仁井田五人衆西庄司和泉守越智宗勝支配也 (詳細は本文参照)

中宮伊豫大明神 神主岩崎長門 祢宜 佐々木越後・宮本上総

 本地弘法大師秘作阿弥陀

 徃昔仁井田五人衆窪川七郎兵衛尉藤原宣秋支配也 (詳細は本文参照)

西今宮 神主佐竹助太夫 祢宜 佐々木大和・宮本能登

 本地弘法大師秘作薬師

 〇徃昔仁井田五人衆西原紀伊守藤原貞清支配也 (詳細は本文参照)

聖宮俗曰森宮 神主佐竹逸城 祢宜 宮本越中・岩本掃部

 本地、弘法大師秘作将軍地蔵

 〇徃昔仁井田五人衆志和権之進藤原宗茂支配也 (詳細は本文参照) 

 〇仁井田之社鎮座傳記 甲把瑞益述 (詳細は本文参照)

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

p59:宮内、四万十川、払川、県道松原窪川線

p47:宮内、四万十川、払川、県道松原窪川線、三嶋神社、白皇神社

p40:宮内、払川、払川、払川橋

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

 宮内、払川、四万十川(渡川)、

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

払川(四等三角点:標高361.98m/点名:はらいがわ)宮内字栃ノ木谷山1652番地

  

■高知県河川調書(平成13年3月/p58)

払川(はらい/四万十川1次支川払川)

左岸:宮内字札の辻1150

右岸:宮内字札の辻1151-1 

河川平均延長:3,210m / 5.63Ak㎡ / 4.1 Lkm

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

 宮多田橋(宮内用水路/宮内字宮多田8-1)  

 

■四万十町広報誌(平成23年3月号)

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ぶら〜り散策0214【宮内】20110301.pdf
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