地名のお話

四万十町地名辞典の編集子が、備忘録としてメモする「地名のお話」

暮らしには話題とならない「地名」ですが、ちょっと寄り道してください。


Vol.25:地名文化財 No6「東」

 広い区域を、東西南北や上中下と地名の頭に冠して区分することは便利である。確かに分割地名は、ひとつの時代、かつ一定の地表空間における、配置やそれらの相互関係を示している。当時、どこを基準として方向地名(分割地名)がつけられたのか。方向地名からその時代における集落や郷の中心地や生業、往来の姿を読み取れることができるのが面白い。

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Vol.24:地名文化財 No5「五」

 指が五本あることから、「五本の指に入る」と表現して、基本的には優れている人やモノを掲げ、いわばその世界のすべてであるように示される。五方、五行、五体、五臓、五感、五穀、五大陸、五街道、五摂家などなど。

 また、五月(さつき)、五月雨(さみだれ)、五月蠅(さばえ/うるさい)のように「五」を「サ」と発音するのはどうしてか。サナエ(早苗)は稲の苗で、サミダレ(五月雨)は五月の稲の成長を進める雨 →もっと見る 地名文化財「五」

 

Vol.23:土佐の旅人(2)伊能忠敬

「一身にして二生を経る」という伊能忠敬の生き方は、60歳を越して退職したものにとって「越し方行く末」のバイブルである。伊能忠敬は、偉人でも天才でもなく普通の人といわれる。ただ普通でないのは、好奇心が強いこと、凝り性で続けること、そういった面では三日坊主の編集子にとっては変人かもしれない。→もっと見る VOL.23土佐の旅人(2)

Vol.22:地名文化財 No4「藤」

 今日は司馬遼太郎さんに会ってきた。といっても高知県立文学館の特別企画「没後20年司馬遼太郎展」である。丁度、「この国のかたち」を読み直していたところだったのであり、この日4月30日は、関連企画の木洩れ日コンサートでNHKドラマ「坂の上の雲」のエンディングテーマ曲スタンド・アローンのバイオリン演奏もあるという。

この県立文学館の所在地が藤並の森。藤並神社跡である。 。 →もっと見る VOL.22地名文化財No4「藤」

Vol.21:地名文化財 No3「焼畑」

 民俗文化映像研究所の姫田忠義所長が、自ら撮影した記録映画「椿山ー焼畑に生きる」を携えて大正中央公民館にやってきたのは10年位前であった。この映像の「椿山」は石鎚山系の南方、池川町を流れる土居川の上流域の急峻な渓谷の斜面にある。この椿山の焼畑を中心とした一年の生活と集落の人々の生きざまを4年間にわたって記録した民俗映像である。日本での焼畑は終焉している。これが最後の焼畑記録映像であろう。 →もっと見る VOL.21地名文化財No3「焼畑」

Vol.20:地名文化財 No2「白と黒」

 文化や暮らしの違いから色の意味が記憶の中で変化して固定化され、それが地名などの命名動機として反映されてしまう。
例えば、白は、出発、清潔、勝利、軽量、一般をイメージし、黒はその対象となる、老化、汚れ、敗者、高級、権威をイメージし、モノを描くイメージとしてその色を取り入れ、彩色したり、赤ちゃんを名づけの動機になり、地名の由来ともなってきた。   →もっと見る VOL.20 地名文化財 No2「白と黒」

Vol.19:地名文化財 No1「樋(ひ)」

 毎月1題お話する地名のキーワード。今月は「樋(ひ)」。お米を統治する国、その源には田を耕す人がいる。その耕す人が基とするのが土と水で、水の確保が新田開発の橋頭堡となり、その導水に使 うのが「樋」である。字統で調べたら国字ということで甲骨文字はない。「峠」も「畑」も「匂」も「杜」も「辻」もそうだ。編集子の好きな和字でもある。

  →詳しくは VOL.19 地名文化財 No1「樋(ひ)」

Vol.18:神の歳時記 神田いろいろ

 古来より、日常は辛い山や畑や田んぼでの仕事。神の前に同化する日こそハレであり、非日常の米を食することができる。その昔の「月一日の休養日」。それが、正月の若水迎えから田打ち正月の儀式から霜月の収穫祭(新嘗祭)と種籾の聖別儀式など折々の神事となってきたのだろう。  →詳しくは VOL.18 神の歳時記 神田いろいろ

Vol.17:大川の渡し「舟」地名

 川は水運の要であるとともにあちらとこちらを遮るモノでもあった。その遮断性を克服するのが、山は「峠」であり、川は「渡し」である。この「渡し」を地名に刻んだひとつが「船戸」である。船戸に関連した四万十町内の地名分布は、次のとおりである。  →詳しくは VOL.17 大川の渡し「舟」地名

Vol.16:川の名はこうして付けられた(1)

 川の名称が、どのような由来で命名されてきたか。

 四万十川の名称の由来の論争は数々あったが、だれが、どうやて、どんな思いで命名しているかを、命名の癖のもととなる文化の流れとして近隣の九州文化圏(5県)、瀬戸内文化圏(3県)の一級河川の川名ルーツなどを第一弾として示し検証してみる。  →詳しくは VOL.16 川の名はこうして付けられた


Vol.15:峠の地名

 峠は不思議な世界である。風が変わり、景色が変わる「向こうの世界」がここから始まる。村人にとっては、災いを止める所でもある。旅人にとっては、疲れを癒す湧き水があり茶屋がある。古くは、市もある賑わいの場、風葬をおこなう葬制の場、獣往来の狩猟の場。脱藩の道となる新天地への決意の場・・・「峠」は、なんでもありの「ワンダーランド(おとぎの世界)」。町内の峠関連地名を一覧   →詳しくは VOL.15 峠の地名


Vol.14:消えた地名(2)大正編

 田野々は、合併前の旧大正町の大字地名で、合併時に旧大正町の名称を、役場所在地であるこの地に残したいという思いから、田野々を大正に改めた。中世以前の歴史的地名「田野々村」が大正時代に年号を村名として思いつき改名した「大正村」に負けた。その経緯を「消えた地名」の墓標とする。   →詳しくは Vol.14 消えた地名(2)大正編 


Vol.13:消えた地名(1)窪川編

 昭和40年に窪川の市街地で導入された「住居表示」。街区をまとめ家ごとに住居番号をふるというもの。殿町、元倉町、戎町、横町、元町などが消えた。川北・川南も使われなくなった。窪川街分の市街地が川南から川北へ「遷都」するさまを古地図で紹介 →詳しくは Vol.13 消えた地名(1)窪川編 


Vol.12:土佐の旅人(1)松浦武四郎

 幕末から明治時代にかけての探検家・松浦武四郎。蝦夷地を六度も踏査した「北海道」の名付け親でもある。全国を駆け巡っている。彼が16歳のとき伊勢松阪から江戸まで東海道を行脚し帰りは中仙道を、17歳には四国遍路を旅し、四万十町も記録している。伊能忠敬に負けない「旅人」である。  →詳しくは Vol.12 土佐の旅人(1)松浦武四郎


Vol.11:危ない地名

 黒潮町の上川口では、地名から津波の浸水域を調べる活動が始まった。上川口には、1854年の安政地震の記録『大汐筆記』が残されている。それをもとに安政の津波を記載地名を現地で復元し、今後の集落の防災活動に活かそうとするワークショップが、「日本最大の34.4m」の年、11月におこなわれた。 →詳しくは Vol.11 危ない地名   


Vol.10 「仁井田郷談」の地名

 「仁井田郷談」は、明和7年(1770)に儒者であり医師であった甲把瑞益が、戦国時代を中心にして、仁井田郷の由来、区画検地(石高調査)、仁井田五人衆七人士の居所分限郎従とその興亡を記したもので、郷土史研究の原典ともいうべき貴重な著述である。窪川の村の地名や変遷がよく理解できる。   →詳しくは Vol.10 「仁井田郷談」の地名


Vol.09:中世山城の地名

 「中世の城跡のにおいがプンプンする」と見定めた山を駆けずり廻るのは窪川北琴平町在住の城郭探検家・中川豊氏。多くの城郭のつくりの形状を踏査する経験知から臭覚・視覚を研ぎ澄ませたことだろう。これまでの文献資料にはなかった新発見の城郭を自ら探しあて往時の景色を思い浮かべるのが楽しみという氏の目は少年のように輝いている。

  →詳しくは VOL09:中世山城の地名


Vol.08:桂井和雄氏の地名研究

 高知が誇る民俗学者であり地名研究家。編集子は自称「地名ハンター」と云ってますが、氏はまさに高知県の大先達です。

「桂井和雄土佐民俗選集その2」のあとがきに高木啓夫氏は、桂井和雄氏の広範な研究分野のなかで特に地名の探求について「地名の発音に実地踏査による地形を勘案しつつ考察をなし土佐の地名研究の基盤をなした」と延べ、主として語彙を軸とする研究法だと論じている。   →詳しくは VOL08:桂井和雄氏の地名研究


Vol.07:四万十川の名称の由来 

 四万十川の名称の由来が定かでないのは不思議である。土佐の小京都といわれる中村(現四万十市)に流れる四万十川。室町時代後期応仁の乱により幡多庄・中村に下向した一条教房が、京の都を偲んでまちづくりをしたという。大川を桂川、後川を鴨川に見立てたということであるが桂川が元はなんと呼ばれていたかという記録は残っていない。暴れ川である四万十川は、過去の記録も消し去ったものであろうか。   →詳しくは VOL.07:四万十川の名称の由来


Vol.06:五郎丸という 山の話 

 2015年ワールドカップラグビー日本代表の快進撃は、世界を驚かせたばかりでなく「Japan Way」の取り組みが日本人の誇りにもなっていった。そのなかでも有名になったのは五郎丸の所作で、子供たちだけでなく、大人まで真似する手のしぐさとなった。それにあやかり、「五郎丸」という山が徳島県と高知県の境にあるとテレビが放送していた。丸は徳島県特有の山を意味する名称ゆえか、徳島県側からは登り口があるという。  →詳しくはVOL.06:五郎丸という 山の話


Vol.05:「イチ」の付く地名の謎 

 高知県出身の民俗研究者、筒井功氏の著書『日本の地名』では「イチ(漢字は、ほとんどが市か一)の付く地名は各地におびただしくある。小地名まで含めたら、その数はおそらく万単位に達するだろう。なぜ、こんない多いかが、まず謎である。イチの語はおそらく「神をあがめる」の意の「斎(いつ)く」のイツと語源を同じくしているのではないか。

   →詳しくは VOL.05:イチ地名の謎


Vol.04:暮らしの水と川

 川の解説を『古くは「ヰ」が「川」を意味したのに対し、「カハ」は日本の各地で「井戸・掘・池」を表す用語として使われてきた。これはヰとカハの意味内容が転換したわけではなく、我々の祖先にとっては「水そのもの」が重要であって、河流を源流から河口部まで一本の流れとして認識する必要はなかったのではないか。』と述べている。

   →詳しくは、Vo.04 暮らしのカワ


Vol.03:中津川か中津川川か

 芳川は芳川川、希ノ川(四手ノ川)は四手の川川、窪川中津川は中津川川とある。大正中津川に流れる河川の公称は「渡川水系2次支川中津川」となっている。    →詳しくはVol.03 中津川川


Vol.02:中津川の地名考

 山の暮らしは、長い歳月で山を培う開拓者であるとともに、山を畑としてその実りを頂戴し加工して山道を縫って売り歩く1年サイクルの総合商社員であり、山の中で必要なものを自らがやりとげる技を磨き合う職人集団でなりたっている。

中津川は、山が育んだ地名ではないか。  →詳しくは、Vol.02:中津川地名考


Vol.01:地名に学ぶ 大正中津川地名辞典の序論

 中津川の検地は下津井の「ソウカイ」「イノヽ」「舟ノセ」から足川川沿いに松原往還を越え森が内分れから森河内村に入り中津河村を終えて三月廿四日に下道村へと移っている。当時の田畑宅地を固有する地名はホノギとよばれ、現在の公称地名の字にあたるものであるが、慶長時代に使用されていた地名が現在も使われている。  →詳しくは、Vol.01:地名に学ぶ