20170430胡
▼高知県立文学館と「没後20年司馬遼太郎展」
今日は司馬遼太郎さんに会ってきた。といっても高知県立文学館の特別企画「没後20年司馬遼太郎展」である。丁度、「この国のかたち」を読み直していたところ、この日4月30日は、関連企画の木洩れ日コンサートでNHKドラマ「坂の上の雲」のエンディングテーマ曲スタンド・アローンのバイオリン演奏もあるという。
企画展の入り口には、大きな「二十一世紀に生きる君たちへ」のパネルがあった。小学校六年生の教科書のために推敲に推敲を重ねた文章だそうだ。
「この国のかたち」で述べている日露戦争から太平洋戦争の敗戦までの40年。彼は「異胎の時代」と呼んでいる。この「巨大な青みどろの不定形なモノ」、異胎がガン細胞のように20世紀を蝕んでいったという。この20世紀に生きた者として21世紀への願いを込めた司馬さんの遺言である。
「私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。
君たちは、ちがう。
二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。」(二十一世紀に生きる君たちへ」
丸谷才一氏は「司馬さんには、昭和の戦争時代は書けませんね」といったが、彼の歴史小説の作品から見ても理解できる。
渡辺京二氏の「逝きし世の面影」は、開国前後の日本のようすを訪日した「異人」の滞在記を読み解き、江戸から近代へ移ろう日本の姿を描きあらわしている。その江戸時代に培われた「陽気な人びと」「簡素とゆたかさ」「親和と礼節」「自由と身分」「裸体と性」「子どもの楽園」、これは「逝きし世の面影」の章の題名である。この章名だけでも江戸時代の暮らしが浮かびあがってくる。彼は「明治維新」が江戸時代の豊かさを食いつぶしたという。その末期が日露戦争であると。
司馬遼太郎が書くことのできない日露戦争後の日本。どうして「異胎の時代」が生まれたのか、近代が異胎なのか、参謀本部が異胎なのか。
彼は明治維新について、次のように述べている。
-大和政権による統一性の高い国家ができてしまうのである。この間、戦国乱世ふうの大規模な攻伐があったようにはおもえず、キツネにつままれたような印象をうける。
もっとも、この奇現象は、近代においても経験している。1869年(明治二年)の版籍奉還がそれである。一夜にして統一国家ができてしまった。
「明治維新」から150年の節目として「志国高知 維新博」が開催されている。龍馬だのみの高知観光から一歩前に進むことを期待したい。その龍馬をメジャーにした第一人者は司馬遼太郎氏だろう。編集子も高校生時代に麻疹にかかったように読んだ。
ついでといってはなんだが、NHKドラマ「坂の上の雲」のナレーションは、心地よく耳に残っている。
渡辺謙の声が、忘れかけた日本人に呼びかける、まさに司馬から見た「明治」である。
ーまことに小さな国が,
開化期を迎えようとしている。
小さなといえば,明治初年の日本ほど
小さな国はなかったであろう。
産業といえば農業しかなく,
人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかなかった。
明治維新によって
日本人は初めて近代的な「国家」というものを持った。
誰もが「国民」になった。
不慣れながら「国民」になった日本人たちは,
日本史上の最初の体験者として,
その新鮮さに昂揚した。
この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ,
この段階の歴史は分からない。
社会のどういう階層の,どういう家の子でも,
ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば,
博士にも,官吏にも,軍人にも,教師にもなりえた。
この時代の明るさは,こういう楽天主義から来ている。
今から思えば,実に滑稽なことに,
米と絹の他に主要産業のないこの国家の連中が,
ヨーロッパ先進国と同じ海軍を持とうとした。
陸軍も同様である。
財政の成り立つはずがない。
が,ともかくも近代国家を作り上げようというのは,
もともと維新成立の大目的であったし,
維新後の新国民達の少年のような希望であった。
この物語は、
その小さな国が
ヨーロッパにおける最も古い大国の一つロシアと対決し、
どのように振舞ったかという物語である。
主人公は,あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが,
ともかく、我々は三人の人物のあとを追わねばならない。
四国は伊予松山に、三人の男がいた。
(中略。秋山真之、秋山好古、正岡子規)
彼らは明治という時代人の体質で,
前をのみを見つめながら歩く。
上って行く坂の上の青い天に,
もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば,
それのみを見つめて,
坂を上っていくであろう。
※「坂の上の雲」のエンディングの映像は、小蓮華山から白馬岳にむかう稜線。いつも涙が出てしまう。渡辺謙の語りとスタンドアローンの曲が汗かきながらの稜線の天空散歩した思い出がいつもシンクロする。「前をむいて歩く」という普段のしぐさを忘れない。たまに道草する楽しみも忘れない。(ユーチューブには著作権の関係で、この場面の映像が掲載できてない、残念。稜線の映像。)
※ぜひ一度この稜線を歩いていただきたい。白馬岳へは大雪渓ルートが有名だが、栂池高原からロープウェイで高度を稼げる白馬大池→小蓮華山の天に向かって歩く「坂の上の雲」気分は最高。全ルートでも7時間くらいで、大池山荘に途中一泊すれば楽々ですよ。
この「志国高知 維新博」のクラスターとして開催されたのが「没後20年司馬遼太郎展」で、開催されている高知県立文学館の広報誌が「藤並の森」、つまり館の所在する地名である。
やっと本題の地名の話になった。
▼藤並の森 「高知県立文学館」
木洩れ日コンサートがおこなわれる「藤並の森」と呼ばれるこの地は、文化3年(1806)、土佐藩初代藩主山内一豊、夫人千代、二代藩主忠義を祭神として高知城内に勧請された藤並神社の境内地であった。文化年間当時、初代藩主を神として祀ることが各藩でおこなわれそれを見倣ったもの。藤並神社は、高知大空襲で焼失し、昭和45年山内神社に合祀され、跡地に県立図書館、県立文学館が建てられている。太鼓橋を渡る手前に大きな石柱「県社 藤並神社」とある。緑地は藤並公園として整備され、縁台将棋でも有名なところでもある。
「藤並」は、山内家の祖が藤原氏の出身であること、第5代藩主山内豊房が城下・潮江村の藤並の森に春日神社を造営したことによるものなどの由来があるという。
藤並神社が造営される前は、野中兼山邸のあった所。第二代藩主忠義に仕えた兼山も第三代忠豊の世になり寛文3年(1663)には失脚。土佐山田の中野に隠棲し三か月後に没することになる、いわゆる「寛文の改替」である。改易となった後野中邸は一時期二代藩主忠義の継室青巌院が二の丸から移り住んだとある。40数年後宝永2年(1705)の高知城絵図には侍屋敷とだけあるが、詳細は分からない。
高知城周辺には「薫的さん」と「元親公」と「兼山公」の3つの怨霊があるという。
編集子が思うに、この地に兼山公の怨霊が棲みついていて、それゆえ放置され雑木林(伏し並)となったのではないか。兼山の怨霊を鎮めるために初代だけでなく兼山が仕えた二代藩主忠義までを祭神として鎮めたのではないか。伏並の地に造営したとこから、藤並神社と命名されたと勝手に考えてしまう。
▼フシの意味
松尾俊郎氏は「日本の地名p194」で「フシは柴(しば)の古語。古くはフシヤマ(柴山)とか、アオフシガキ(青柴垣)などという言葉が使われている。柴は山野に生える小さな雑木の総称で、ソダ・シバなどともいい、燃料などとして大切であった。諸所にある伏原のちめいも、恐らく柴原のことであろう。」と述べている。
鏡味完二氏の労作「日本地名学(p142)」には、『「フジ」の音から、花の藤(Fudi)のフヂ、淵のフチ、縁辺のフチ、虹を意味する方言・フチ、山の急に険しくなる所(澪/ミオ)の方言・フチなどがあり、『垂れ下がる状態』という共通する概念がある。富士山(Fuziyama)のフジと同一命名心理に基づいている急傾した地形をフジという地名の例は多い。フジは古語で『長いスロープの美しい形態』に与えられたものと解する。』とある。確かに高知城の「縁」からフチと読み解いてもナミが理解できなくなってしまう。藤並公園には藤棚が設えてあるが、これは後の者が藤並神社の漢字を読んで「藤」を植えることになったものであろう。堀であるので淵は変である。
中村の郷土史家・岡村憲治氏は「西南の地名」で「藤ノ川:渕のある川沿いの集落の意と考えるられ、平家落人の伝説などがある」と述べ、西土佐村藤ノ川(現四万十市)、窪川町藤ノ川(現四万十町)、土佐清水市藤ノ川の写真を掲載している。岡村氏は藤地名の多くを樹木ではなく淵に由来するものとしている。
今では藤と言えば花を連想するが、地名が刻まれた当時はフジカズラではなかったか。藤蔓は、結ぶ・巻く・束ねるロープの役割として貴重な有用生活資材であった。特に稲作の藁を調達できない山間部では葛を大切に利用してきた。祖谷のかずら橋は有名で橋の構造材にも利用してきた。そういった意味からも「藤」の地名の多いことは理解できる。
▼土地台帳の「フシ(藤・伏・淵)」地名(四万十町内)
岡村氏が示したように、四万十町には東又地域に「藤ノ川」という大字がある。藤ノ川は、八千数川の下流域にあり、本流である東又川との合流点に集落が形成されている。
フチの解釈に「花の藤(Fudi)のフヂ、淵のフチ、縁辺のフチ」があるといったが、藤ノ川は、二つの川の縁(フチ)に形成された集落であることから、edge(エッジ)という意味ではないか。
四万十町内には、藤ノ川のほか次の「藤」字名がある。
藤ノ越(ふじのこし/見付)、藤原(ふじはら/東川角)、藤ケ谷(ふじがたに/家地川)、伏者ヶ谷(ふせがたに/七里・越行)、藤内(ふじのうち/中村)、藤平畑山(ふじひらはたけやま/窪川中津川)、藤内山(ふじのうちやま/奥呉地)、藤山(ふじのやま/奈路)、藤ノ越(とうのこし/八千数)、藤後谷(ふじごたに/大正)、藤ノ上(ふじのうえ/昭和)
※「藤ノ越」は、見付から東又へ越える柴山の峠道と理解したい。東洋町には伏越関がある。高知新聞連載の土佐地名往来で片岡氏は「伏して越えなければならない難所」と述べているが、漢字から読めばそうなる。伏越関のある野根は紀州・日向とともに日本三大備長炭の産地で、ウバメガシがジャングルのように行く手を阻んでいる。ウバメガシこそこの地に生い茂る柴山、フシヤマではないか。伏す(ふす)でなく伏山(柴山)と理解したい。
※ただし、八千数の「藤ノ越」は「トウノコシ」とルビを振っている。トウはまさに、タオ・タウから来た国字・峠である。タウが峠であるのに重複して越は変であるが、地名ではよくあること。トウノコシが読みとして正しければ、フシと読んだ柴山は誤りとなる。
※四万十町内の「藤」地名の多くは伏山のことではないか。ただ一つ四万十川左岸にある藤ノ上(昭和)は淵の上と理解できるか。
※藤内山(奥呉地)の「内山」は、集落共有林のことである。焚きつけの柴山を共同利用する山ではないか。竹ノ内山(口神ノ川)、惣内山(東北ノ川)、大内山(窪川中津川)、表ヶ内山(窪川中津川)、森ヶ内山(窪川中津川・大正中津川)、川内山(瀬里)、藤内山(とうないやま/相去)と町内には「ー内山」の地名は多い。
▼苗字の「藤」 苗字の85%は地名に由来
苗字研究の第一人者丹羽基二氏の著書「苗字と地名の由来辞典」には、「苗字の数は30万あり、その85%は地名に由来する」という。まさに姓と地名は兄弟である。
元々「名字(なあざな)」として公家の邸宅のある地名を呼ぶことから発展していったという。近世以降「苗字」となったが、当用漢字表に「苗(みょう)」がなかったことから名字と再度書かれるようになったのが経過である。
民法では「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。(750条)」とあるように「氏」と呼ばれ、文部科学省などでは「名字」が使われる。
その「苗字」の多い順に佐藤、鈴木、高橋がある。また、斎藤の「斎」は31の異字体があるから、驚きだ。田辺・渡辺の「辺」もしかりである。
江戸時代から武士の身分証明ともいえる「苗字帯刀」の権利が、明治5年(1872)に平民苗字許可令が発布され、「国民」みなが苗字を名乗ることが公的に許された。それまで私称として使っていたものを苗字とした者、屋号を苗字とした者、住まい周辺の地形の形状から池内、山下、井上、谷脇・・・とした者。それはいろいろ。僧侶や神官がつけたのも多いといわれ、「ゴッドファーザー」の思いが多分に影響されたのだろう。
姓の代表的なものとして学校で習ったのに「源氏」「平氏」「藤原氏」「橘氏」の「源平藤橘」四姓である。
藤原の姓を名乗る人々がみんな、四姓の一つである藤原(中臣鎌足)をルーツとしているとは思えないが、藤原や「藤」の字を当てた苗字が多いのも確かである。ちなみに鎌足の生まれた藤原の地(橿原市の藤原、のちの藤原京付近)に由来するという。
この「藤」の漢字を当てている苗字を四万十町で拾ってみた。(昭和57年の電話帳)
安藤(4・0・12)、伊藤(6・2・42/伊東・井東を除く)、遠藤(14・0・0)、加藤(4・0・0)、清藤(2・1・0)、五藤(3・0・0)、近藤(5・4・0)、佐藤(9・0・0)、斎藤(3・0・0)、柴藤(0・1・0)、下藤(0・2・0)、須藤(0・1・0)、藤井(2・0・0)、藤石(0・0・1)、藤尾(1・0・0)、藤岡(5・0・0)、藤川(13・0・0)、藤倉(0・1・0)、藤崎(3・0・0)、藤沢(6・0・0)、藤宗(3・0・0)、藤田(44・1・0)、藤谷(0・1・1)、藤近(1・0・0)、藤墳(1・0・0)、藤戸(17・1・0)、藤原(17・3・6)、藤間(1・0・0)、藤村(2・1・1)、藤本(3・0・4)、藤山(0・1・0) ※転勤者もいるので2までの数値は除外した方が理解しやすいか)
※四万十町内の「藤」苗字で一番多いのが、伊藤50戸、藤田45戸、藤原26戸、藤戸18戸、安藤16戸