20160610胡
■34.4ショック
平成24年(2012)、高知県が発表した南海トラフの巨大地震による津波浸水予測「日本最大の34.4m」。
東日本大震災大津波の教訓を踏まえ住民行政が一体となって取り組んでいた矢先の「想定内」を大きく上回るショッキングな数値であった。が、黒潮町の大西町長を先頭に、住民がそれを跳ね返す取り組みを進めているのは頼もしい限りだ。
黒潮町の上川口では、地名から津波の浸水域を調べる活動が始まった。上川口には、1854年の安政地震の記録『大汐筆記』が残されている。それをもとに安政の津波を記載地名を現地で復元し、今後の集落の防災活動に活かそうとするワークショップが、「日本最大の34.4m」の年、11月におこなわれた。
■土地に刻まれた記憶 上川口のワークショップ
「地名の意味を語源からとらえるだけでなく、地形や立地、文献などから解釈すれば災害地名としての性格や開発と災害との関係などを理解することができる。」とワークショップの運営に携わった楠瀬慶太氏は述べている(土佐民俗第96号(2013)「高知県の地名にみる災害と開発の記憶」)。
「長宗我部地検帳」で近世初期の上川口村の村落景観を復元すると浦分(浜)には集落はなく、郷分(段丘)を中心に集落が立地しており、1605年の慶長の南海大地震では浸水などの被害をほとんど受けていなかったと判明した。
浦分に市街地が形成された今、「高台移転」は黒潮町にとっても大きな課題である。集落の合意は困難な作業でもある。富めるものだけの安全であってはならない。
地名が語る過去の記憶を集落全体で学び合い、時間をかけて合意形成を図る。そんなワークショップの運営に、「忘れられた日本人」に書かれていた文章を想いおこす。対馬の海辺の集落、伊奈の村の「寄り合い」の仕方で、難しいことは全員が集まって、じっくり時間をかけて、決めるといった内容だ。 昔からの固い絆は、今では煩わしいとも感じるだろうが、この「古い秩序」は一人も疎外することはない。寄り合いに助言する専門家はいないが「古い秩序」という先人の知恵が生きる。
この「時間をかける」という生き方、「全員で決める」という方法は、喉につまった骨をとり、ぽっかり空いた潰瘍を癒す、まさに「忘れられた日本人」の処方箋ではないか。
△高知県黒潮町上川口/海岸段丘に「くじら保育所」「幡多青少年の家」「王迎団地」
■東日本大震災における地名の問題
大震災後の気仙沼、あの燃える海の記憶は焼き付いている。その気仙沼の入口となるところに大島がある。大島には過去の津波にもとづいて付けられた地名があるという。
川島秀一氏(漁村民俗)は「津波常襲地の地名と伝承」で次のように述べている。
大島は、大津波で島は三つに分断され、島内に灯があったのが休石屋敷一軒だけだといわれている(※電子国土Webで光明寺)。光明寺は25mの高台である。田中浜から浦の浜に津波は通り抜けたのだ。地図では「竹ノ下」とあるが、もとは「鯛の下(たいのした)」で、鯛がおびただしく打ち上げられたところ、光明寺の前に「船こぼれ」と呼ばれる畑があり津波で押し上げられた船がここに留まったところとされる。「合柄」はもとは「合殻」で大量のカキ殻が打ち上げられたところと言い伝えがある(「地名は警告する」谷川健一編p4)。
また氏は『日本列島が「津波」という災害に何度も見舞われ、それに人間がどのように向き合い、どのように捉えてきたか。津波の事象や伝説、地名、民俗語彙を集めることで、すこしずつ理解されていく。津波に備えるのは、防潮堤や街づくりだけではなく、過去の津波観に学び、津波と闘ってきた強い思想や精神を見出していくことも大切』という。上川口の取り組みが、県内各地に広がることを期待したい。
※編集人は、志和・興津の現地踏査後に危ない地名の第2段を報告します。
■災害地名 「土地の履歴書」
このように、地名の中に、津波などの地形変化を命名され伝承された地名が多い。
近年、これを「災害地名」と分類し呼ばれるようになった。その地名に隠された「土地の履歴書」を読み解くために、東日本大震災以降多くの本が出版された。災害地名の書籍や古地図は、造成地の地盤沈下の恐れなどを回避するため、土地の購入時の「防災の知恵」としても利用されている。
地名と災害の関わりについては、在野の土木技術者である小川豊氏、地名学者の谷川健一氏などが有名であるので先に紹介する。ただし、なんでも書籍どおりに置き換えるのはそれこそ危険である。地名が所在する現地を歩き、地元の人に聞き取りをすることが地名を読み解く一歩である。
▽参考となる書籍
・「災害と植物地名」小川豊著 (1987昭和62年/山海堂)
・「あぶない地名-災害地名ハンドブック」小川豊著 (2012平成24年/三一書房)
・「地名は警告する」谷川健一編 (2013平成25年/冨山房IN)
■身近な災害地名
地名の起源は、山や川、魚や獣のいるところ、近寄っては危険な崖や沼のなどを特定するための記号として一音節から始まったといわれている。その後、基礎的な日本語名詞の大半が二字音となり、同音異義が増えてくる不便さから三字音となった。
例えば、山本譲二の「みちのく一人旅」。みちのおく→みちのく→陸奥→むつ、といった音韻変化となります。
地名を意味不明にした原因は、漢字の伝来と和銅六年(713)の詔勅によって「好字二字を以て地名を表記せよ」で二音二字に改められた経過である。
このことが「地名」由来を困難にし、「語呂合せ」の解釈をもたらす「罪」となった。
危険地名としてよくでてくるのが、「梅」、「栗」、「桜」、「柿」といった植物地名。
埋めがウメ、刳りがクリ、裂くがサクラ、欠くがカキといったように、被災の記憶を「ウメノクボ」、「クリガサコ」、「サクラタニ」、「カキノキダバ」と呼び、「梅ノ窪」、「栗カサコ」、「桜谷」、「柿ノキ駄場」といった漢字をあてる。
次によくでてくるのが「倉」、「押」、「ソリ」、「切」、「ツル」、「クエ」など
■四万十町の「危ない地名」
現地踏査は、後ほどですが、町内の関係しそうな字地名は次のとおり
高知県防災マップ(土砂災害危険個所)とマッチングすれば、イメージがわくのでは
『梅・栗・桜の一文字が地名にはいっていれば、「災害地名」』 というコピペ風な無責任なブログやHPがよくあるので注意を。
ウメ(梅)
梅ノ木谷(金上野・仕出原・仁井田・大井川)、梅ノ窪(野地・弘瀬)
梅ノ木窪(与津地・本堂・市ノ又)、梅ノモト(大正北ノ川・相去)、梅ヶ端(平串)
クリ(栗)
栗ガサコ(中村・仁井田・魚ノ川・志和・打井川)、栗木サコ(家地川・志和)
栗木谷(弘瀬・小野)、栗ノ木窪(七里・六反地・平野)、栗ノ木カイチ(若井川)
栗尾(大正)、大栗(大正)、栗ミノ窪(川ノ内)、桜木ノ元(大井野)、桜ノ本(作野)
サクラ(桜)
桜ノ窪(窪川中津川・本堂)、桜谷(高野)、桜ヶ谷(根元原)、桜サコ(希ノ川)
桜ノナロ(上宮)
カキ(柿)
柿ノ木窪(下呉地・替坂本・仁井田)、柿ノ窪(藤ノ川・昭和)、柿谷(作屋)
柿ノ木谷(広瀬)、柿ノ本(本堂・八千数)
クラ(倉・刳る)
倉谷(窪川)、倉木谷(六反地)、大倉(本堂)、倉掛(土居)、倉本(大井川)
その他、本倉踏切(茂串町)、荒倉神社(里川)、倉木谷池(仁井田)
オス(押)
押川(金上野・大正・十川・大道)、押谷(桧生原・奥神ノ川)、押場(里川)
ソリ(反)
ソリ(飯ノ川・芳川)、曽利(大井川)、大ソリ(江師・地吉)、ソリヤシキ(烏手)
ソリ田(若井川・井﨑)、曽理田(仕出原)
※ソリ・ソーリ・ソウリは崖地や急傾斜地を指す地形名だが焼畑をいう地名
※ソリクボは高知県でアゲと同じく高くて乾きの良い田所をいう(民俗地名語彙辞典・上)高地の田をソリといい、ソリタは高くて高くて用水の掛かりにくい田
※小川豊氏は「ソリ」の項の説明がない。
キリ(切)
大切(窪川・市生原・見付・根元原・東大奈路・根々崎・東川角・西川角・七里ほか)
壱町切(口神ノ川・中神ノ川)、五反切(根元原)、三反切(窪川中津川)
久保切(窪川中津川)、ヌケ切山(窪川中津川)、窪切(日野地)
キリキリ谷(家地川)
※キレ・キリの字は、窪川台地では田のセマチの広さを示しているようである。
※窪川でも窪川中津川など山間地では「クボキリ」、「ヌケキリ」と崩壊地名のようである。
未定稿ですが「とりあえず」アップ