香南市の字と図面と地検帳

写真は『野市町史 上巻』p217から引用
写真は『野市町史 上巻』p217から引用

20200913

香南市の地名の特徴

■条里制の遺構 ー「坪」地名ー

 香長平野に広がる条里制遺構が刻まれた地名として坪付地名がある。現存する小字の「坪」地名は、一ノ坪・二ノ坪といったような数詞坪付と中ノ坪・井ノ坪といった固有名詞坪付の二種類がある。この数詞坪付が野市町と赤岡地区に残っている。

 条里制とは大化の改新による律令制のもとに農村の基本的地割制度で、班田農民の口分田を分与する作業を効率的に行うため、大区分として六町(654.54m)間隔で正方形に区切った「里(こざと)」が大区画で、縦横に区切られた里の横列を条(じょう)、縦列を里(り)と呼ぶ。北から三段目の東から五列目が三条五里と呼称されるようになる。

 この里の一辺を六等分にして一町(109.09m)四方の区画に区切られたものが「坪(つぼ)」である。この坪の配列は地方ごとに一定のルールがあるようだが、長岡郡・香美郡の香長条理地帯では「西行千鳥法式」。つまり、東北隅を「一ノ坪」として西向け六ノ坪まで進み一段南に降りて七ノ坪から今度は東に向けて十二ノ坪まで行く。この繰り返しで坪に数詞を付す。

 この基準となる「一ノ坪」は、高知県下で22カ所、字名として刻まれている。

香南市赤岡町赤岡、香南市野市町東佐古、香南市野市町本村(市ノ坪)、安芸市土居、香美市土佐山田町京田(市ノ坪)、南国市領石(市ノ坪)、南国市下野田(一ヶ坪)、南国市西山(一ノ坪丸)、南国市大埇、南国市立田(市ノ坪)、南国市田村(裏市ノ坪)、南国市片山(市ノ坪)、南国市稲生、南国市十市、高知市介良、高知市福井町(西市ヶ坪・東市ヶ坪・北市ヶ坪)、いの町伊野、土佐市甲原、土佐市波介、宿毛市平田町黒川(市ノ坪)、宿毛市山奈町山田(市ノ坪)   ※梼原町東向の壱坪、四万十市田野川の市坪は含めていない。

 数詞坪付は、分与する作業としては良かったものの、地名の本来の役割である位置を相互に理解し合うのには不便であることから、しだいに改名されていったものと思われる。 

 四国内には、新居浜市多喜浜にイノ坪、ロノ坪といった通称地名が残っているだけである(角川地名大辞典・愛媛県/小字一覧)。

『香我美町史』附録地図から一部転用。現在の字境とは大きく相違する
『香我美町史』附録地図から一部転用。現在の字境とは大きく相違する

■岸本の「丸」地名

 香我美町岸本は、明治の土地税制の際にホノギをイロハ順と十二支順に付し接尾語に丸を加えた58の新字名とした。

 接尾語に丸が付された小字は高知県下全域に764字あるが四国のほかには見られない命名である。

 語尾語としての「丸」の使われ方は、①男の幼名(牛若丸・森蘭丸)、②船名(明神丸・第五福竜丸)、③山名(五郎丸。徳島県に多い)、④丸薬名(正露丸)、⑤城郭地名(本丸・二ノ丸ほか)などがある。

 明治14年(1881)頃から高知県香美郡町村誌は編纂を始めたが、その岸本村に「三字地ニ分ツ」とあり、新町・宇田町・本町(徳善町)を記述している。それには「小字チノ丸」などと書かれていることから三字地の境を確認することができるので、その記述を引用する。

新町「西方赤岡村江見町秋葉神社ノ祠前ニアル小路ヨリ以東小字チノ丸ニアル南北ニ通シタル小路迄ヲ新町ト云」

宇田町「処(新町)ヨリ以東小字ヨノ丸ノ辻ニ到ルヲ宇田町(うだまち)ト云」

本町「処(宇田町)ヨリ以東小字脇磯(わきいそ)ニ至ルヲ本町(もとまち)或ハ徳善町(とくぜん)ト称ス」

 また、明治12年(1879)に高知県が調査した『高知県神社明細帳』には岸本の神社の鎮座地を次のように記録する。

飛鳥神社:岸本村新町リノ丸

恵美須神社:新町浜ルノ丸(宇田町浜の恵美須神社に合祭)

恵美須神社:宇田町浜ルノ丸

諏訪神社:本町ムノ丸(岑本神社に合祭)

恵美須神社:本町ツノ丸(宇田町浜の恵美須神社に合祭)

八王子神社:本町クノ丸

八幡神社:本町子ノ丸(本町の八王子神社に合祭)

岑本神社:本町ヱノ丸

恵美須神社:ワノ丸 

神母神社:神母ノ木谷(本町の八王子神社に合祭)

 岸本村が従前のホノギを廃し、イノ丸、ロノ丸の丸地名を付した記録はみあたらない。ただ、岸本の月見山には姫倉城があり、中ノ丸、詰ノ丸、二ノ丸、三ノ丸、四ノ丸といった城郭をしめすホノギがみえることから、明治の地租改正にあたり「地主制の確立こそ地租改正の結果であり明治農政を表現するもの」(『高知県農地改革史』p126)として一地一名制を進め、その地に住む住民の「一国一城の主」としての税制と土地への帰属意識を高める一種の瑞祥地名ではないかと推考する。 

 この岸本のイノ丸、ロノ丸といった命名方法は、野市町西野や深渕にもみられる。深渕の「イノ丸」は物部川沿いの河川敷。西野の「イノ丸」は野中兼山遺構の三又(灌漑水路の分岐。十善寺溝、町溝、東野溝)付近。長宗我部地検帳にはみられないホノギで、この灌漑により野市(野一。野市町西野・東野・下井)の新田開発が勧められた際に、西野(イノ丸~ヨノ丸)、東野(タノ丸~子ノ丸)、下井(ナノ丸~ウノ丸)に割り振られたのであろう。イロハ地名は原野に地物はなく特定されないことから機械的に振られた地名なのだろう。三又やイロハ地名は野市の開拓を象徴する「生業の景観」である。

 香南市立図書館が所蔵する『天保七申年(1836)八月支配中諸差出』には、「丸」地名の記録はなく、明治9年(1876)から実施された地租改正にともなう土地丈量帳(丸別に集計)が保存されている史料では初出と思われる。野市開発の歴史をまとめた河野通信氏の「土佐史談」への論考にも見いだせなかった。

■ イロハとは

 英語のアルファベットには二つの意味がある。一つは「ABCの26文字」で二つ目が「初歩」である。これに相当する日本語は「五十音」と言えるだろう。それでは、「五十音」とは、「アイウエオ」、それとも「いろは」、どちらになるか。

 答えは「いろは」。何故なら「歴史のいろは」とはいうが「歴史のアイウエオ」とは言わない。アイウエオには「初歩」の意味を持っていないことになる。ただし、一般的に五十音といえば、アイウエオの母音とカ行、サ行と続くアイウエオ順のことである。

 明治になって近代的な国語辞書『言海(大槻文彦著)』が発刊された。見出し語をそれまでのいろは順からアイウエオ順に置き換えた象徴的な辞書である。辞書の命である検索性をアイウエオがすぐるとした結果である。アイウエオの歴史はこの辞書以降と思っていたら、どちらも平安中期ごろに生まれたらしい。アイウエオは国語の音韻や文法、仮名遣いの研究など学問分野で使われ、いろはは寺小屋の手習い、町火消の組名の順序など庶民に親しまれ日常的に使われてきた。この使われ方が「いろは」優位説となった一因だろう。

 古い料亭の下足箱には、いろは順に並んだものがある。帰り際に下足札名と自分の下足箱と符合させるのが大変だ。最初から呪文のように唱えなければならない。「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰そ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」。大工の柱番号も縦軸がいろは、横軸が1、2の数詞となっていたのだが、今はアイウエオに変わったのだろうか。

 いずれにしてもアイウエオ順が辞書の主役となるのは明治中期以降である。ただ、日常ではいろは順がまだまだ主流のようで、電話番号簿がいろは順からアイウエオ順となったのが大正14年(1925)。翌年、電話加入者に切り替えの便利性の調査をしたら、81%の人たちがいろは順を望んでいたという。アイウエオ順は16%の少数派だった。

 明治期における、いろはからアイウエオへの変遷の歴史は『国語辞書事件簿(石山茂利夫著/2004年/草思社)』に詳しい。

香南市の公図から字境を線引。『香我美町史』徳王子地区全図とは大きく相違
香南市の公図から字境を線引。『香我美町史』徳王子地区全図とは大きく相違

■徳王子の「源氏物語」地名

 「明治九年の地租改正のときに旧小字(ホノギ)を廃して新たに区画を設け、源氏物語各巻名を付した」と日本歴史地名体系に書かれている。山本幸男著の『香我美の地名考』は、この地名の名付け親は、澪標に在住された山崎盛尊さんであり、山崎さんの親族が健在であとして「本来のホノギを廃したことの功罪については、ここではふれません」と述べ、地名改変を断罪することなく説明を終えている。

 明治の初期は郷村制から町村制へ移行する大変革期で、明治3年には王子村・徳善村・中ノ村・土居村の四村を王子郷と称し、翌年の明治4年には王子・徳善の二村で香美郡第5区、明治8年には王子・徳善・山南・山北の四村の第3大区3小区、明治11年には山南・山北が合併を解消し王子と徳善の合併が進められ、明治16年に徳王子村が発足したことになる。

 この経緯は『香美郡町村誌・徳王子村』に詳しく書かれているが、そのなかに「二村古来頗ル相混シ区域分ツヘカラス地租改正ノ如キモ為メニ混合〆丈量シ即一村全面ナルモノヲ作ルモ亦王子徳善相混〆一村ノ如キモノトシ且元標モ亦一所ニ建設ス」とある。当時の事情は知る由もないが、山崎翁が合併混乱のさなかに夢を持たせる意図から源氏物語巻名を持ち出したのかもしれない。いずれにしても、中世以前から歴史を刻んだ225の地名を消した罪は大きい。

 消えた地名は、『香我美町史(昭和60年4月1日刊行)』の付属地図に「徳王子地区全図」として源氏物語地名と共に旧字名を記録している。その地名から長宗我部地検帳のホノギを比定しつつ明治9年以前の景観を復原してみる。 

 若一王子宮の勧請時に仮宮を立てた「仮谷(借屋村。以下「ホノギ」を括弧書きとする。)」、その若一王子宮の神田とおもわれる「弓田」「送り田」「ニシキ田」「修理田(修理田)」「サイトデン」「神楽田(神楽テン)」「メサイテン」「御供田」「モチ田」「長願田」「村サイ田(村サイ田)」などがある。また、条里制の名残りとなる「大坪」「中ノ坪」「井ノ坪」という坪地名や、農民を悩ませた汐入地は安永五年(1776)庄屋松田弁右衛門が地内中央部に井流を開削し、以後度々の流路変更をしつつ、昭和49年(1974)に香宗川放水路が完成するに至り完全解消となった。「横手塩入(横テ塩入)」「横手北沢ノ塩」「塩入」「黒岩塩入」「スカウ塩入」の字を刻んでおり、「中ツ町」「橋本直掛」「送り田」「スミダ」「ヨコタ」「コメダ」「タテシリハゼ」「スカウ」「弓田」「角ツクリ」「野中」なども地検帳にはそれぞれその語尾に「塩入地」のホノギとして書かれている。桐壺、帚木、空蝉の南側はほとんどが、農民の労苦が刻まれた塩入地である。

 このように多くの地名を消し去った源氏物語巻名地名ではあるが、それに影響されたのか、山南に風流な笠松・小柳・姥御前・蛍野・鈴虫・月見山・木葉・葛葉・藪雀・鶯・初音・花納・恋ノ袖・高砂・新枕と字名をたどれば逢瀬の恋物語となるようだ。

 

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