役所所在地:高知県安芸郡北川村野友甲1530番地
郵便番号:781-6441
電話番号:0887-32-1212
FAX:0887-32-1234
メールアドレス:soumu@vill.kitagawa.lg.jp
URL:http://www.kitagawamura.jp/
■地勢
高知県の東部に位置する当村は、村域のほぼ中央部を南下する奈半利川を挟んだ、東西最大幅は17km、南北最大幅は約23kmにわたる、面積196.73km2を占める地域です。同地域の奈半利川北端は、魚梁瀬ダム堰堤より約1km上流、同南端は河口より約4km上流地点にあります。
また本村は年間を通じ温暖多雨で、平均気温16.3℃、降雨量3,000~4,000mmと農産物の生産に適した気候でもあります。県のシェアの1/4を占める柚子を始め、多彩な作物の栽培が行われています。村の総面積の約95%を占める森林は、木材生産や村土の保全など大切な役割を果たしています。
■村木 「いいぎり」
山地に生え、高さ20mにまでなり、太い枝を車軸状に広げます。庭木や公園・街路樹として主に利用されています。
■村鳥 「メジロ」
低い山の広葉樹林や人家の近くの林等で繁殖します。昆虫や果物、木の花の蜜等をえさとしています。
■村花 「ナシ」
■村章
漢字の「北」と「川」を配して図案化したもので、「川」は円を形造って融合一体を意味し、「北」は翼を広げた大鵬のごとく飛躍することを表しています。
■計画等
1687年(貞享4年)
「四国徧禮道指南」
真稔著
※記録なし
1808年(文化5年4月20日)
▼「伊能忠敬測量日記」
▽「伊能測量隊旅中日記」
伊能忠敬著
▼
1808年(文化5年4月20日)
「奥宮測量日誌」
奥宮正樹著
▼
1834年(天保5年)
「四国遍路道中雑誌」
松浦武四郎著
※記録なし
2003年(平成15年)~
「土佐地名往来」(高知新聞)
片岡雅文記者
▼釈迦ヶ生(しゃかがうえ)
▼島(しま)
▼四郎ヶ野峠(しろがね)
▼蛇谷(じゃだに)
▼木積(こつも)
▼久府付(くぶつけ)
▼羽毛(はけ)
▼船九艘(ふなくそ)
川村与惣太が旅した1770年頃の土佐一国557ヶ所の地名。
その地名を一つひとつを「校注 土佐一覧記」から引用し、掲載順にまとめました。
①地名【ちめい】000掲載順No
②所在地
③所在の十進座標 ※クリックすると電子国土Web表示
④与惣太の短歌
⑤校注土佐一覧記に記載された地名の概要
(校注一覧記掲載P)
⑥ ※編集人の注記として、追記したもの
与惣太の旅した地名を探しながら平成のその土地を編集人が歩き、その地の250年の今昔を文献史料と現在発行されているパンフレット、下手な写真等により「考現学」としてまとめようとするものです。
また、編集人だけでなく閲覧者の確かな目でほころびを直し、外から見た「土地」のイメージを描こうとするものです。
掲載する内容は
①掲載地名の現在の地名と景観(地名の入った写真)
②地名の由来等、既存の文献史料(一部)をまとめ
③高知県集落調査等の統計資料
④観光パンフレット等の記事
⑤編集人のつぶやき
33.445480,134.041572
其の名を隠して
幾千世の春を限らじ生添る
松をよはひの友と契りて
北川村の南端奈半利川沿いにあり、州郡志には野友村とあるが、戸数は書かれていない。
(校注土佐一覧記p85)
このサイト欄の
『平成の土佐一覧記』は
本年10月、北川村の
現地調査実施後に執筆予定
■統計(野友村→野友)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 137 | |||
人数 | 610 | |||
馬 | 51 | |||
牛 | 47 | |||
猟銃 |
3 |
|||
船 | ||||
網 |
33.454825,134.036379
此神加茂村の新社楠の本にあり。或記伝、奈半利郷加茂村有新社。元禄初年里人於柳瀬川底拾得一石半上如人形半下如裳状因祭之為神
うけ引も早きちかひや梓弓
やしろの神の名をば頼まん
南路志には、元禄初年里人が魚梁瀬の川底で一つ石を拾い、よく見ると半分から上は人の形をし、下半身は裳をつけた形をしていた。これをご神体として祀り八城神と名付けたと記述されている。
(校注土佐一覧記p81)
■統計(加茂村→加茂)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 35 | |||
人数 | 200 | |||
馬 | ||||
牛 | ||||
猟銃 |
|
|||
船 | ||||
網 |
33.463740,134.056978
奈半利川の辺りにあり
鵜飼する奈半の川瀬を見渡せば
かがり火山の影ぞうつろふ
北川村柏木の対岸の山で、奈半利川の清流に影を映し、往時は鮎漁のため篝火を焚いた所で、それが地名となった。今ではカガリ山と呼ばれている。
(校注土佐一覧記p84)
北川村
此山は野根浦より奈半の泊まで十里の山路にて、物淋敷通ひ路なり。昔土御門院当国に遷幸の時、阿波国へ移されさせ給ふ時、折しも嵐いと寒くおぼし給ふとて、木を伐せ焼火にあてまゐらせければ御門御涙にむせばせ給ひて
うき世にはかかれとてこそ生れけめ
ことわり知らぬ我が涙かな
と御歌遊ばされし処とかや
小夜更に昔の跡を訪ひみるも
露けき谷の苔の通ひ路
室戸市と北川村の境に位置し、標高983メートルの名山である。
上古土佐への通路は伊予を経由しており、多くの日数を費やしていたが、元正天皇の養老2年(718)に官道として認可せられ、野根・奈半利間40余キロが開通した。
(校注土佐一覧記p32)
北川村
千本杉と言ふあり。老樹雲にそびえぬ
うき雲の上にぞ見ゆる山高み
しげる千もとの杉の梢は
野根山は古くから、梁瀬杉とともに土佐を代表する杉の良材の産地で、なかでも造船材や帆柱として高い評価を受けている。千本杉は四郎ヶ野峠と赤松畝の中間にあたる。
(校注土佐一覧記p34)
北川村安倉岩佐
▽一里深山
一里深山と言ふ所は中にも老木枝たれて日中日光を見ざるしげみなり
山深み夕越くれて宿とへば
苔の岩間の谷のほそ道
北川村と東洋町野根との境の四郎ヶ野峠付近を指し、千本杉に並ぶ美林があったことがわかる。
(校注土佐一覧記p35)
▽岩佐の関
山路の中半に岩佐の関と言ふあり
山高き関の岩戸はさしながら
行かふ雲の立ちもとまらず
岩佐の関は深山の奥なれば常に雲霧はれまなき所にぞありける
山深き桧原の奥の夕煙
里のしるべも雲にまぎれて
野根山街道の中間点にあり、岩佐の関と呼ばれ土佐の三関所の一つと称された。南路志には御殿ありとし、番人が五名記載されている。岩佐は州郡志には戸数13とあれる。
(校注土佐一覧記p34)
▽岩佐水
岩佐水と言ふ清水あり。かの御門きこしめして名水とさせ給ふとかや。御歌などありといへども伝しる人なし。この水のありかもさだかならず。
くみてしる人こそなかれ山深み
岩佐の水の名のみ流れて
土御門上皇が飲まれたという名水で、南路志には向の井戸・杉の井戸・西の井戸の三ヶ所があったと記載されている。
(校注土佐一覧記p35)
■岩佐
岩のついた地名は岩井、岩田、岩手、岩木などかつてその地域の幸福を願って神を祀った場所であったという。
神を祀った場所を古くは磐境(いわさか)とか磐座(いわくら)ともいった。神の鎮まります区域(境)をいう。
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 137 | |||
人数 | 610 | |||
馬 | 51 | |||
牛 | 47 | |||
猟銃 |
3 |
|||
船 | ||||
網 |
北川村・室戸市
装束が峰と言ふあり。奈半郷は麓に見え渡りぬ
雲のゐる峰こえ行けば郭公
思ひもかけぬ麓にぞ鳴く
標高1,083メートルの高峰で、野根山山系では一番高い。北川村と羽根の境をなしており、野根山街道の難所であった。昔殿様が衣装をあらためたので装束峠というと伝えている。
(校注土佐一覧記p36)
難読地名
安倉(あぐら)、奥ノ瀬戸(おくのせんどー)、尾河(おごー)、久府付(くぶつけ・くーつけ)、木積(こつも)、釈迦ヶ生(しゃかがうい)、羽毛(はけ)、馬(ばー)、堀ヶ生(ほりがうえ)、三子生(みこがうえ)、四郎ヶ野峠(しろがねとーげ)