四万十町(しまんとちょう)


 

上山【かみやま】542

 

四万十町大正(田野々)

33.197382,132.975898

 

上山(上山郷/校注土佐一覧記p365)

山里の物さびしさはま柴焼く けぶりも雲にまがふ夕暮

 

※こんな遠くまで来てしまった。旅のかりねに真柴の煙が雲のようにたなびいている。煙は安芸まで届くだろうか(編集子勝手読)

※大正の三ヶ所を詠んだ与惣太の歌はすべて歌碑として残されている。土佐全域を歩いた紀行歌集である土佐一覧記を紹介した山本武雄氏の著「校注土佐一覧記」は、この大正の歌碑を冒頭で紹介し称賛している。歌碑建設に尽力されたのは武政秀美氏である。この歌は、昭和46年大正町中央公民館前に建てられた。

※図書館本系統本では伊与野(宿毛市)→呼﨑(宿毛市)→上山(大正)→矢立森(下津井)→長生(四万十市西土佐)→止々路岐→胡井志(小石)→笹山(宿毛市篠山)の順で、掲載の流れが地理的に整っていないが、広谷系統本では岩間(四万十市西土佐)→長生(四万十市西土佐)→止々路→胡井志(小石)→上山(大正)→矢立森(下津井)となって、四万十川の下流域から遡上している。

 

▽上山(校注土佐一覧記p365)

 上山郷は幡多郡四万十川上流の山間部を占め、大部分は大正町と十和村に含まれ、一部は窪川町と中村市に属している。上山村は上山郷の中心集落で、『西郡廻見日記』には「上山上村18村・上山下村24村」とある。寛保郷帳には戸数94・人数393・馬24・牛4・猟銃16と記録されている。

 「山里の」の歌は、昭和46年大正町中央公民館前に歌碑が建てられた。

 

  

「土佐一覧記を歩く⑧上山」

『大形』334号所収

大方文学学級

2023.05.10

 

 

 四万十町大正の地域交流センターの前庭の歌碑に刻まれているのが、上山で詠まれた次の歌である。

山里の物さびしさはま柴焼く 

 けぶりも雲にまがふ夕暮

                                                        川村 与惣太

里の夕餉の煙が雲とひとつになっていく。家族の団らんに加えて雲までさらっていくのか。二つの大川もこの上山の里で合わさっている。私は今日も一人寝なのだ。 (勝手読)

山本武雄は『校注土佐一覧記』の巻頭にこの歌碑の写真とともに、はじめにとして「ある朝、高知新聞を開くと『碑のある風景』に、幡多郡大正町に建てられている・・」と大正町で詠まれた三首がそれぞれ歌碑として建てられていることを紹介している。

 ①上山 旧大正町立中央公民館前(s46/大正)

 ②胡井志 旧大正温泉(46江師)

 矢立森 旧下津井ヘルスセンター(52下津井)

歌碑は施設の建設記念として建てられたが、当時の教育長や町長を歴任した武政秀美の発意であったと思われる。

川村与惣太が記した「上山」は、いわゆる北幡と呼ばれる下山郷・上山郷の上流域の山国で、長宗我部時代の在地支配単位として機能していた。その領域は広く、近世には上山郷下分(旧昭和村)、上山郷上分(旧大正町)、十川(旧十川村)、山中(旧富山村)の五十一ヶ村として大庄屋が大正(旧大正町田野々)に置かれていた。長宗我部地検帳には給地として上山分の名がほぼ全域に示されている。上山とは在郷開発領主の名前でもある。

その上山郷の古い縁起が上山郷の旧郷社・熊野神社で、四万十川と梼原川が合流するところに鎮座している。社寺の由緒書きや棟札には建久元(1190)年、田辺湛増の子・永旦が熊野三山権現本宮十二所を勧請したとあるが、いささか疑問。源平争乱の勝者である熊野別当湛増がこの地に逃れることもなく、平氏側に与した熊野田辺の傍系がこの地にわたり、上山郷の開発領主の寄進により、紀州熊野社領となったものと思われる。

この上山郷の地方文書による詳細な記録はないなかで、目良裕昭は一条教房の土佐下向と山林資源の関係について『遠流の地・土佐』(高知県立歴史民俗資料館企画展図録)の紙面で、教房の土佐下向は幡多庄の周辺海域が占めた海運・航海上の重要な位置(土佐沖航路・瀬戸内航路・琉球東アジア航路)に注目し対明貿易による膨大な利益を得ることを目的としたと述べ、その交易のモノとなるのが四万十川流域の豊かな木材資源であるとの見方を示している。

土佐藩の財政の窮地を救ったのが白髪ヒノキであることは有名な話で、他国の材を寄せ付けない白髪ヒノキは大阪木材市場跡に土佐堀・白髪橋の地物名まで刻んでいる。「土佐は山国」、上山郷と名づけられた「山の郷」である。近代になり「西の魚梁瀬、東の大正」といわれるほど国有林野事業は盛況を極めた。高知県で最後まで残った森林鉄道(正式には林用軌道)は昭和四十二年三月二十五日に終山式を迎えトラック輸送となった。トラック搬出とチェンソー導入により林野事業は活況をあらわしていた。『高知林友(昭和三十五年九月号)』によると、大正営林署には三百五十六人の雇用があった。今は事務所に数名という盛衰である。

昨年、奈良・天理教本部の「昭和普請」の記録映画を見た。芳川地区国有林野の巨大ヒノキを天理教本部の南礼拝殿主柱として搬出された記録映画で、全十五巻の十六ミリ記録映画をデジタル再編集したものである。今でも神々しく林立しているこの「昭和の献木」ついて山﨑眞弓は『地域資料叢書㉓続・四万十の地名を歩く』に「小野川利國氏の手記―旧大正町「昭和天理教大改修献木」にかかる新資料―」と題して報告している。巨大ヒノキを伐採搬出したのは昭和五年のことで、手記の作者・小野川利國氏が十三才の頃の記憶をもとに八十才になって書き下ろしたものである。この記録映画や手記は、九十年前の山の暮らし、ふるさとの姿、林業の現場を知ることができる第一級の史資料である(当該報告書の詳細はホームページ『四万十町地名辞典(https://www.shimanto-chimei.com/)』を参照)。

与惣太が記した地名・上山は郷名を示す広域地名で、詠まれたところの村名は田野々である。長宗我部地名帳にも記録される中世以前の地名・田野々は平成の合併で大正へと大字の変更がされ消えた地名となった。地物としては田野々小学校など残っているが、大正時代に東上山村を大正村に名称変更した「大正」を刻むために、結果として中世以前の歴史ある地名が百年前の年号あやかり地名に二度負けたことになる。

平成の合併では多くの自治体名称や歴史的地名が消えた。中村、佐賀、大方もしかりである。『市町村合併法定協議会運営マニュアル・基本編』で新市町村の名称基準がしめされ「人口規模の最も大きい市町村の名称が選ばれる危惧」を回避する行動となり「名称の知名度、対外的にも覚えやすい名称」による命名へと誘導されることになった。波多国五郷の一つ、「大方」も合併優先の配慮から「黒潮」となった。全国で進められる学校統合も新学校名に混乱が起きている。地名・地物の命名のあり方について明確なルールを示す重要な時期と思えるがどうだろう。

地名はコミュニケーションの符号であるとともに、大地に刻まれた過去の営為を記憶する語り部でもある。 

 (武内 文治)