■概要
田野町の起源は、古代は那波郷に属していましたが、鎌倉時代の初め高田法橋が高田山に来着し、奈半利川の治水に努め、田野郷を墾いたと伝えられています。
中世期には、地頭の大野豊前守が、戦国の世は媛倉右ヱ門が治め、藩政時代には、甲浦代官の知行所となりました。当時代中期より資本主義経済が台頭し、田野五人衆、又は七人衆と称する藩の御用商人が、奥地の山林資源の開発により富強となり、田野千軒が浦として繁栄しました。幕末の嘉永6年(1853年)に安芸郡奉行所が岡地に設置されるとともに、藩校田野学館が併設されて安芸郡における政治経済文化の中心地として栄えました。
明治維新後区制が敷かれ、明治21年(1888年)郡区、町村制法により田野村として発足し、大正9年(1920年)には町制を敷いて、田野町に改称し現在に至っています。
■自然・環境
県都高知市から東へ約55km。奈半利川西岸河口に位置し、南は、土佐湾に面し、東西2.2km、南北4km、総面積は6.53㎢。四国で一番小さな田園の町が田野町です。
気候は温暖で、ほとんど降雪はなく、澄んだ空と、緑の自然環境に恵まれています。
■歴史・文化
田野町の起源は、古代は那波郷に属し、鎌倉時代の初め高田法橋が高田山に来着し奈半利川の治水に努め、田野郷を墾いたと伝えられています。
中世期は地頭の大野豊前が治め、戦国の世は媛倉右ヱ門が治めました。
藩政の時代には甲浦代官の知行所となり、当時代中期より資本主義経済の台頭により、田野五人衆、又は七人衆と称される藩の御用商人が、奥地の山林資源の開発によって富豪となり、田野千軒が浦として反映しました。
幕末嘉永6年(1853年)に安芸郡奉行所が岡地に設置され同時に藩校田野学館が併設、安芸郡における政治経済文化の中心地として栄えました。
明治維新後、区政が敷かれ明治21年(1888年)郡区、町村制法により田野村として発足、大正9年(1920年)町制を敷いて田野町に改称し、現在に至っています。
■計画
1687年(貞享4年)
「四国徧禮道指南」
真稔著
▼たの浦
▼八幡宮
▼大師堂
1808年(文化5年4月25日)
▼「伊能忠敬測量日記」
▽「伊能測量隊旅中日記」
伊能忠敬著
▼田野浦
1808年(文化5年3月26日・4月25日)
「奥宮測量日誌」
奥宮正樹著
▼田野村
1834年(天保5年)
「四国遍路道中雑誌」
松浦武四郎著
▼たの浦
2003年(平成15年)~
「土佐地名往来」(高知新聞)
片岡雅文記者
▼田野
▼土生岡(はぶのおか)
川村与惣太が旅した1770年頃の土佐一国557ヶ所の地名。
その地名を一つひとつを「校注 土佐一覧記」から引用し、掲載順にまとめました。
①地名【ちめい】000掲載順No
②所在地
③所在の十進座標 ※クリックすると電子国土Web表示
④与惣太の短歌
⑤校注土佐一覧記に記載された地名の概要
(校注一覧記掲載P)
⑥ ※編集人の注記として、追記したもの
与惣太の旅した地名を探しながら平成のその土地を編集人が歩き、その地の250年の今昔を文献史料と現在発行されているパンフレット、下手な写真等により「考現学」としてまとめようとするものです。
また、編集人だけでなく閲覧者の確かな目でほころびを直し、外から見た「土地」のイメージを描こうとするものです。
掲載する内容は
①掲載地名の現在の地名と景観(地名の入った写真)
②地名の由来等、既存の文献史料(一部)をまとめ
③高知県集落調査等の統計資料
④観光パンフレット等の記事
⑤編集人のつぶやき
33.427323,134.008098
姫倉右衛門尉子千代勝居之
田野と言ふ名をかくして
宵の間は氷らぬ水のほどみえて
沢田の面にあさるをし鴨
▽田野
奈半利川下流西岸に開け、村と浦に分けられ、村分は奈半利川の治水により開田が進み、さらに台地の開墾が行われた。
田野浦は田野村の海岸部に成立した浦で、近世初期に奈半利川上流地方と魚梁瀬山の木材の積み出しで栄え、土佐藩の献上材も当浦から積み出されている。
天和3年(1683)の浦々水主船数定書には、田野浦の水主213・船89で、内廻船・市艇が72。その中で十反帆以上の大型船が39艘を占めている。
▽古城
古城記には大野豊前守居之とあり、一説には姫倉右衛門尉の子千代勝が居たとみえる。
州郡志には塁趾として大野豊前守と、高田山に高田法橋の築城した古城の二つが記されている。
(校注土佐一覧記p88)
このサイト欄の
『平成の土佐一覧記』は
本年10月、田野町の
現地調査実施後に執筆予定
■統計(田野村→田野町)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 755 | 1、290 | ||
人数 | 3、069 | 5、124 | ||
馬 | ||||
牛 | ||||
猟銃 | ||||
船 | ||||
網 |
33.431620,134.006424
此山田野にあり
色かへぬ松に紅葉を染わけて
山は赤地の錦なりけり
北部山地が立岡・土生岡・高田・岡地と南下して赤地で平野部となる。田野中学校東部の小丘を呼んでいる。
(校注土佐一覧記p90)
33.433590,133.995867
此山も田野にあり。秋の夜此峰より安田東島の沢田にうつる月かげを見待る時
爰も又田ごとの水にうつろひて
心にうかぶさらしなの月
戦国時代初期に京都の公家が大野台地の南部に城を構え、大野豊前守と称したとも伝えている。現在は大野台地として開墾が進み農業地帯となっている。
(校注土佐一覧記p90)
■統計(大野→大野)
項目 | 寛保郷帳 | 昭 和 | 平 成 | |
年代 | 1743年 | 1960年 | 2018年 | |
戸数 | 66 | |||
人数 | 328 | |||
馬 | ||||
牛 | ||||
猟銃 | ||||
船 | ||||
網 |
難読地名
長田(おさだ)、上瀾(かみただれ)、唐流(からり)、北大内(きとーち)、錣畑(しころばた)、淌濤(しょうとう)、立町(たつまち)、築地(ついじ)、長田坑(ながたぐろ)、枦地(はぜち)、土生岡(はぶのおか)、百々(どど)