黒潮町(くろしおちょう)

 

役所所在地:高知県幡多郡黒潮町入野5893番地

郵便番号:789-1992

電話番号:0880-43-2111(代表)

FAX:

メールアドレス:somu@town.kuroshio.lg.jp

URL:http://www.town.kuroshio.lg.jp/


平成の土佐一覧記

 

与惣太の旅した地名を探しながら平成のその土地を編集人が歩き、その地の250年の今昔を文献史料と現在発行されているパンフレット、下手な写真等により「考現学」としてまとめようとするものです。

 また、編集人だけでなく閲覧者の確かな目でほころびを直し、外から見た「土地」のイメージを描こうとするねらいもあります。

 掲載する内容は

①自治体の概要(公式HPから引用・振興計画・観光パンフレット等)

②旅人の記録

③地名【ちめい】000掲載順No(校注土佐一覧記)

④所在地

⑤所在の十進座標 ※クリックすると電子国土Web表示①掲載地名の現在の地名と景観(地名の入った写真)

⑥与惣太の短歌 (校注一覧記掲載の地名と郷村名と掲載ページ)

⑦地名の由来等、既存の文献史料(一部)をまとめ

編集人のつぶやき 

※一定の時期が来たら、郡ごとに編集して冊子にして公表します。

■ 黒潮町HP「まちの紹介」から

 

■黒潮町について

2015年3月25日 8時30分 公開     2016年10月1日 0時00分 更新  

黒潮町(くろしおちょう)は、高知県幡多郡「大方町(おおがたちょう)」「佐賀町(さがちょう)」が合併し、平成18年3月20日に誕生しました。

「人が元気、自然が元気、地域が元気」 を合い言葉に、2町の速やかな一体化を促進し、新しいまちとして出発しました。

 

■町の概要 

高知県幡多郡黒潮町は、四国/高知県の西南地域にあり、幡多郡の中では東部に位置します。黒潮町の町の面積は188.58平方キロメートルです。(国土地理院「全国都道府県市町村別面積調」より(H26.10.1現在))

 

気候は、南国特有の温暖で年間平均気温17度、降雨量2800mm前後と、雨が多くなっています。こうした気候を活かして、大方地域では早くから施設園芸や花卉、水稲を中心に栽培が行われ、農業が盛んです。

また佐賀地域では「土佐カツオ一本釣り漁業」が盛んであり、近年は完全天日塩も代表的な特産物となっています。農業では、シメジやエリンギなどの栽培が行われています。

 

美しい砂浜や磯が続く海岸線と緑豊かな山々の広がる黒潮町では、自然資源を活かした「ホエールウォッチング」、「天日塩づくり」、「カツオのタタキづくり」などの体験型観光と、土佐西南大規模公園を活用したスポーツツーリズムの推進により、県内外から多数の方が訪れています。

 

自然あふれる黒潮町には、「私たちの町には美術館がありません。美しい砂浜が美術館です。」をコンセプトに、4kmの砂浜を「美術館」に見立て、「美しい松原」や沖に見える「くじら」、流れ着く「漂流物」など全てを作品とした砂浜美術館があります。春には「Tシャツアート展」や「シーサイドはだしマラソン」、冬には「漂流物展」などほぼ一年中何かを見たり、遊んだり、楽しむことができます。

 

■黒潮町の「木・花・鳥」について

黒潮町の「木」・・・黒松/オガタマ

黒潮町の「花」・・・ユリ/ヤブツバキ

黒潮町の「鳥」・・・しろちどり/メジロ

 

■町名「黒潮町」の由来

 平成17年(2005)3月22日の大方町・佐賀町合併協議会で決定。事前に新町名を両町民(中学生以上)に公募し171種、570通の応募があった。幹事会がその中から「1幡東町(115件)」、「2黒潮町(44件)」、「3大賀町(16件)」、「4大佐町(20件)」、「5くじら町(18件)」、「6幡多町(17件)」、「7大洋町(6件)」、「8波多町(6件)」を提案し、合併協議会委員の推薦として「9大方町」、「10佐賀町」を加え、都合10作品から上位3作品を合併協議会委員の投票で一人3点無記名投票し、その投票数の多い上位3点の中から決選投票することになった。

選択された3作品は「1番が幡東町13 票。2 番が黒潮町12 票。3 番が大賀町7 票」。

決選投票の投票結果は、投票総数18票、黒潮町9票、幡東町5票、大賀町4票で、「黒潮町(くろしおちょう)」を決定した。

合併協議会の新町名称の提案資料には「両町とも太平洋に面しており、黒潮の恵みを受けている町だから。勇壮なイメージがある」と主な理由としている。町民が応募したながで最多名称は「幡東町」で提案資料には「昔から幡東地区と呼ばれていることから、既に定着しており馴染みやすい」と説明している。

結果として町民公募や3作品選択と相違する新町名となった。

(大方町・佐賀町合併協議会第5回協議会資料・同会議録から)

 

■文化・観光

・砂浜美術館(Tシャツアート展/潮風のキルト展/ほか)

コンセプトは「私たちの町には美術館がありません。美しい砂浜が美術館です。」

ありのままの風景、それが砂浜美術館の常設作品です。

・カツオ一本釣り

黒潮一番地。漁獲高日本一を誇る「カツオ一本釣り船団」。ナブラと漁師の格闘技

・黒潮印の「さしすせそ」(黒潮町缶詰製作所の缶詰/天日塩/くじらっきょう/黒糖/水飴/など)

津波想定34mに負けない、あきらめない黒潮町を象徴するイッピン群。

・大方あかつき館

上林暁文学館とともに町立図書館も併設した高知西南地域の人と文化の交流基地。

 

■計画等 

ダウンロード
39701黒潮町総合振興計画(h25-h29後期計画).pdf
PDFファイル 21.5 MB
ダウンロード
39701黒潮町総合振興計画(h20-h24前期計画ダイジェスト).pdf
PDFファイル 4.9 MB
ダウンロード
39701黒潮町勢要覧(2009年3月本編).pdf
PDFファイル 10.5 MB
ダウンロード
39701黒潮町勢要覧(2009年3月資料編).pdf
PDFファイル 6.3 MB


旅人の記録

1687年(貞享4年)

「四国徧禮道指南」

真稔著

▼いちのせ村(市野瀬村)

▼たち花川村(橘川村)

▼こほしの川村(拳ノ川村)  

▼かいな村(荷稲村)   

▼こぐろの川村(小黒ノ川村)  

▼ふばすら村(不破原村)  

▼ふばわら坂(不破原坂)

▼くま井村(熊井村)

▼くまこえ坂

▼ふじなわ村(藤縄村)

▼しらいし

▼中つの村(中野川村)

▼佐賀浦町

▼白濱村

▼なだみね坂

▼いた村

▼有井川村

▼川口村

▼うきつ村

▼ふきあけ川

▼入野村

▼かきぜ川

▼たの浦

▼いでくち村

 

 

1808年(文化5年5月23日~29日)

▼「伊能忠敬測量日記」

▽「伊能測量隊旅中日誌」

伊能忠敬著

▼風谷鼻(郡界)

▼鈴浦

▼鈴村

▼熊野浦

▼伊与木郷

▼佐賀浦

▼鹿島

▼白浜

▼伊田

▼有井川村

▼上川口浦

▼浮津浦

▼鞭村

▼入野四ヶ浦 

▼田野浦村

 

1808年(文化5年5月25日)

「奥宮測量日誌」

奥宮正樹著

▼鈴浦

▼佐賀

 ※奥宮は佐賀から城下に帰る。

 1834年(天保5年)

「四国遍路道中雑誌」

松浦武四郎著

▼一ノ瀬村

▼立花川村

▼こぼ(ぶ)しの川村

▼かいな村

▼こくろの川村

▼ふバわら村

▼熊井村

▼駒越坂

▼藤縄村

▼獅子石村

▼中津の村

▼佐賀浦町

▼いよき谷

▼白濱町

▼なだミね坂

▼いだ村

▼いがわ村

▼川口村

▼うきつ村

▼ふき上川

▼いのり村

▼かせぎ川

▼たの浦

▼出口村

 

 

 

2003年(平成15年)~

「土佐地名往来」(高知新聞)

片岡雅文記者

▼市野瀬

▼荷稲

▼熊井

▼塩屋

▼野田の坂

▼会所

▼王迎橋

▼加持

▼大方

▼飯積山

▼田野浦

▼御坊畑

 

 

 



 

 

鈴【すず】440

 

 

 

黒潮町鈴

33.126896,133.155413

 

鈴(鈴浦/校注土佐一覧記p306)

御祓する川瀬の波の涼しさは はや水かみに秋や立つらん

 

 

 

▽鈴

 鈴村と鈴浦に分かれており、鈴村、鈴浦ともで寛保郷帳には戸数55・人数257・馬15・猟銃3・船11が記載され、鈴浦は州郡志に戸数およそ40・船9とある。『西郡廻見日記』には戸数47・人数197・船8・網14が記録されている(校注土佐一覧記p306)。 

 

 

伊与木【いよき】438

古城【こじょう】439

 

黒潮町伊与喜

33.106300,133.096576

 

伊与喜(伊与木郷/校注一覧記p305)

此所より過ぎこし方をかえりみて

伊与木弥平次居之 

さらでだにへだたる物を旅衣 たちこし方の山の夕霧

此所に旅寝し侍る時 草枕かりの宿りの芦すかき

 

▽伊与喜

 一般的には現佐賀町のうち佐賀地区を除いた地域で、州郡志には戸数280余とあり、享和元年の『西郡廻見日記』には戸数243・人数1,146・馬231・猟銃57が記載されている (校注土佐一覧記p305)。

 

▽古城

 伊与木城はフルシロにあり、文明11年(1479)に築城され藤原信隆が京都から招かれ、城主となり伊与木氏を名乗っていた。一条氏没落後、元親の四国平定に武功をたて、また五代の弥平次は強弓でならし、豊後戸次川、文禄の役に出陣し痘瘡で病死している(校注土佐一覧記p305)  。

 

 

 

 

佐賀【さが】441

古城【こじょう】442

 

黒潮町佐賀

33.080557,133.103914

 

佐賀(佐賀村/校注土佐一覧記p306)

光富権之助居之

忘れきや軒にふるまふ笹がにの いとかき絶てくるよしもなし

 

▽佐賀

 伊与喜川(伊与木川)の河口に開け、古くは鹿島ヶ浦と呼ばれ、沖合に鹿島がある。州郡志には戸数280余、うち浦分 130とある。 (校注土佐一覧記p)

 

 

畑野【はたの】443

 

黒潮町御坊畑

33.021978,132.982163

 

畑野(不明/校注土佐一覧記p308)

古歌

「みぞれ降る板間吹く風寒き夜は 畑野に今宵我ひとり寝ん」 

 

菫咲く畑野の原の夕雲雀 なれもゆかりの草に臥すらし

 

 

 

▽畑野(校注土佐一覧記p308)

 現在、畑野の地名はない。御坊畑か。

 

万葉集の旗野

 この古歌は万葉集(2338)『霰ふり いたく風吹き 寒き夜や 旗野に今夜(こよひ) わが独り寝む 』。勝手読みは「あられとともに強い風が吹いている今夜もひざっ小僧かかえて一人寝か」。旗野は奈良明日香村に波多神社がありここではないかという説がある。秦氏の関連地名はここ高知県の幡多郡とともに全国に分布する。

 

畑野庄

 高知県史跡有井庄司の墓の説明版に、尊良親王の遠流の地として「土佐畑の庄にお着きになった」とある。与惣太も尊良親王の関連地を旅することになり、当時「畑の庄」と呼ばれていたことから「畑野」と記録したのではないか。「幡多荘」は建長2年(1250)、九条道家より四男の一条実経に伝領され、以後一条家領となったもの。幡多荘の領域は幡多郡のほぼ全域に加え高岡郡の仁井田庄も含まれていた。

 与惣太がこの古歌を引用していることから、ここは「御坊畑」というより「幡多」「波多」と読みたい。

 

 

入野【いりの】444

 

黒潮町入野

33.023561,133.008428

 

入野(入野村/校注土佐一覧記p308)

古歌

「小男鹿の入野の薄初尾花 いつしか妹が手枕にせん」

  人丸(ほか多数)

此入野に一宮尊良親王の旧跡あり(略) 

今も猶此里ばかり忍び音も 鳴かで有井の山郭公

 

▽入野

 古代の大方郷入野。土佐湾西岸の最大の砂浜で入野の松原として有名である。この松原は元親の家臣谷忠兵衛が罪人に防風林として植林させたのが起こりといわれ、宝永4年(1707)の地震津波で大被害を受けたが、村の各戸が黒松6本あて毎年植えて復旧した。

 入野は元弘の乱によって後醍醐天皇の第一皇子尊良親王が流され、元弘3年帰京するまで大方に住まわれた(校注土佐一覧記p308)。 

 

入野とは

「入野」は入りこんでいる野、まわりを山などに囲まれて人目につかない野のこと。西日本に分布する地形地名。「入」のみの地名もあり「エリ」に転訛する場合もある。

 

入野の枕詞「小男鹿」

『さを鹿の入野のすすき初尾花いづれの時か妹が手まかむ』万葉集(秋相聞2277/作者不詳)を勝手読みすると「入野のすすきの初尾花のような愛しい人よ、いつになったら腕を枕に共寝することができようか」。「小男鹿」は野を分け入る鹿のことで入野の枕詞。ここの入野は京都市西京区大原野の入野神社あたりか

 

「有井川」には尊良親王の配流中、忠節を尽くした南朝忠臣有井三郎左衛門豊高の墓(高知県史跡)がある。

 

 黒潮町教育委員会の説明文によると『元弘2年(1332)3月下旬お船は遠流の地土佐畑の庄にお着きになり王無の浜で大平弾正らに迎えられ、初め「奥湊川大平の館」次に「佛が森中腹の行在所」へ、三度目の行在所として「有井庄米原の里」にお遷しした』とある。

 

有井川【ありいがわ】445

 

 

黒潮町有井川

33.040876,133.071578

 

有井川(有井川村/校注土佐一覧記p313)

又有井川とて川あり

古言は今に流れて有井川 音にこそたてね山郭公

又浜辺に小袖貝とていろいろの文彩ありて見る人鐘愛にたえたり

いつしかと入野の浜に今日は来て うら珍しく拾ふ袖貝

 

此わたりの鶉には庭鳥のごとくなる冠りありて世の常のうづらにことなり、里人都鳥といふ

聞て猶あと忍べとや都鳥 いまも有井の里に鳴らん

又玉なしの浜といふもあり

秋風のみぎわの芦を吹き敷きて 葉に置く露の玉なしの浜

此郷中に尊良親王の御殿の跡とてそのかたわづかに残り侍る。

訪ひみるも昔の跡はかすかにて それとばかりの谷の岩ばし

 

 

▽有井川(校注土佐一覧記p313)

 大方町伊田と上川口の間に流れる川で、有井川村は州郡志には戸数30とある。保元の乱では藤原師長の配所とも伝えられ、先に述べた尊良親王を迎えた有井庄司三郎左衛門豊高の墓がある。

 また「小袖貝」の伝説があるが、俗名「ふじはまぐり」のことで、アサリに似た大型の二枚貝である。貝殻の模様に富士山、月、雲、松原を連想させるものがあり、尊良親王にまつわる哀話に結びついて伝説化された。

 親王の船を待ち望んで有井庄司が立った上川口との境の坂を待王坂といい、親王にまつわる伝説が多い。 

 

名を伏した「玉なしの浜」も今は堂々と「王迎」

 小袖貝の模様といい、鶉を都鳥と呼ぶことといい、玉無の浜といい、僅か数か月の親王の在所であったが里人は多くの物語を伝えていたことだろう。与惣太も大切に聴き取り記録している。

 「玉なしの浜」と与惣太は記録しているが、王と書くのをはばかって玉としたものだろうか、それとも北条方の監視重圧から逃れるため名を伏して玉無(たまなし?)としたのだろうか。将棋では上位の者が王将、下位の者が玉将を使うが、ともに「ぎょく」と呼ぶ。土佐くろしお鉄道中村線の駅に「海の王迎え駅」がある。国土地理院地形図にも「王迎」「王無」とある。「王無」は「王待」の転訛か。今の世では隠すことなく王を迎えたところと宣言している。

 王迎の団地の字名は「大ナシ谷(大梨子谷)」。ナシ(梨)は無を連想することから、無を有に変えて「アリノ木」とする地名が多い。ここは団地造成のおりに佳字としてもっと積極的に「王迎」と変更したものだろう。新しい地名ではあるが歴史を踏まえた命名ともいえる。

 

 

加茂神社【かもじんじゃ】446

 

 

黒潮町入野東浜

33.022815,133.014522

 

 

 加茂神社(校注土佐一覧記p315)

此社は入野松原にあり。八幡と同宇に祀る。南は賀茂北は八幡なり。二十一座之一社也

朝日かげのどかに匂ふ花の香も 神の社は一入りして

 

 

 

▽加茂神社(校注土佐一覧記p315)

  入野松原のあり『延喜式神名帳』にある幡多三座の一つで、本村の加茂神社と早咲にあった八幡宮を一つにして現社地に祀っている 入野松原のあり『延喜式神名帳』にある幡多三座の一つで、本村の加茂神社と早咲にあった八幡宮を一つにして現社地に祀っている。

 

 

 所在地を「入野東浜」としている。入野松原は東浜と西浜に区分しており神社は東浜にある。神社明細帳の鎮座地は入野字東浜松原で、公称地名となる小字名は「加茂八幡」とある。 

 

 

 

橘川【たちばながわ】447

 

 

黒潮町大方橘川

33.047261,132.986948 

 

橘川(橘川村/校注土佐一覧記p315)

橘の名をなつかしみ郭公 川瀬の波におちかえりなく」 

 

 

 

 

 

▽橘川(校注土佐一覧記p315)

 御坊畑の北方で、入野郷の一村である。州郡志には戸数8とある。佐賀町にも市野瀬と拳ノ川の間に橘川という小村がある。

 

ふたつの「橘川」

 「土佐一覧記」の広谷本系には黒潮町の掲載地名は「鈴」「佐賀」「伊予岐」の佐賀分だけの3地区のみ。図書館本系の地名は8地区で、掲載順は伊与木→鈴→佐賀→畑野→入野→有井川→加茂神社→橘川となっている。掲載順からみると橘川は大方のものと推定される。

 平成の合併で黒潮町に橘川の大字が二つとなることから、大方橘川・佐賀橘川に大字名称を変更した。

 


地名の話

 

難読地名

荷稲(かいな)、坂折(さこり)、蜷川(みながわ)、浮鞭(うきぶち)



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