昭和13年(1938)出版の『小島の春』はベストセラーになり映画化もされ「長島愛生園」は一躍有名になった。作者は愛生園の勤務医小川正子。その一篇『土佐の秋』の冒頭に「昭和九年・・園長先生から土佐の幡多郡大正村まで患者収容に山田書記と行くように」とある。
土佐の山間をめぐる救癩土佐日記だ。
現在、長島愛生園の勤務医・山本洋Drからこの本を紹介され、この春訪ねた。
2023年4月1日
■小川正子(おがわ・まさこ)は、明治35年(1902)3月26日、山梨県(現在の春日居町桑戸)生まれ。家は製糸工場を営む素封家(そほうか)。19歳で官僚の樋貝詮三(ひがい・せんぞう)と結婚。結婚生活はわずか二年三か月で終了た。経済的な自立が必要なため、大正13年の春、東京女子医学専門学校に入学。医師を目指した。正子は病院見学のためハンセン病の施設「全生病院」を訪問し、光田健輔(みつだ・けんすけ)の話を聞き、彼女はハンセン病という病に大変関心を持ち、これを機に、救らい活動に生涯を捧げることとなった。
<テキスト>
土佐の秋
一 英語の囁き
昭和九年の八月末に園長先生から「土佐の幡多郡大正村まで患者収容に山田書記と行くやうに、又その家族の健康状態をも視て来よ」との御言葉があった。園長室の大きな机の上にひろげられ
た土佐の地図はまだ見ぬ國への憧れをそそり立てて、遂に「高岡郡の山間の癩を川に沿って少しでも視て来たい」と申上げたところが、「それならば青山看護長に行って貰ひ、是非とも映画を持って行き、癩の伝染と予防思想を山の中に吹き込んで来るように」とお許しをいただいた。
もう六時半、一時間あまり待ってもトラック一台来はしない。最終の田野々行の乗合はもうとつくに来ねばならぬ時間、常日ならば田野々の山林に通う貨物自動車も沢山通る時刻だというのに今日は久礼の祭りで皆休業なそうな。(中略)山本巡査は田野々まで三里の道の遥けさを知っておられるので気が気でない。
四万十川の中流の流れゆるやかな土佐の山中の夕月の夜に自転車の上で果たされた。道が段々悪くなって自転車の轍の跡にはいり込むと、ヒヤッとする程体が飛び上ったりズドンと落らたりする。その度毎に名講演がが空中でジャンプしてはふるえた声が山の樹の中に消えてしまう。いつか谷間のあちこちに灯が見えてやっと田野々の村に入った、若者はいつか降りて私のために車を曳いて呉れていた。宿が近くなった所で若者は名も告げずに「私も元気で働きます」と言って帰って行ってしまった。街道に向いてる家々の軒を漏れて道に射して来る光はランプであった。田舎に珍らしい程さっぱりした宿屋もランプであった。夕月も向うの谷に落ちて暗い夜を寝る。
灯をつけぬ自転車二つ
夕月の光ひそけき田野野峡行く
※昭和九年:1934年
※園長先生:長島愛生園の初代園長/
光田健輔(みつだ・けんすけ)
※幡多郡大正村:現在の四万十町
※田野々まで三里の道:正子が乗合自動車を待っている「木材工場」は距離から判断すると打井川の製材所か
※田野々:平成の合併で「田野々」は「大正」の大字の名称変更をした。
20230506記