20211208記
「天理教総本部・昭和大改修への献木」について、山﨑眞弓(高知大学客員教授)さんが天理教高知大教会を取材。その内容をもとに第一報としてまとめてみました。
この高知の献木の大部分が大正の天然ヒノキです。当時撮影された貴重な映像記録や現場で従事した人々(100余名)の名簿も現存します。
『天理教高知大教會史 第三巻』には、高知の献木について詳しくまとめられており、「小野川利國さんの覚書」は、当時の山の暮らしを綴った生活誌として貴重な資料です。
「天理教総本部・昭和大改修への献木」とは、昭和5年7月26日の天理教本部直属教会長会議が開催され、教祖五十年祭(昭和11年1月)・立教百年祭(昭和12年10月)執行の公示とともに、教祖殿改修と神殿増築の発表が行われた。この普請を「昭和普請」と呼ばれた。これに必要な用材を高知大教会が一手に引き受けることとなった。 用材は、南礼拝場の御柱・天然桧40本のほか、小屋組用の栂材など全てを土佐材150万才(5,010㎥)の献納となる大事業である。
この天理教本部南礼拝場の御柱・天然桧の大部分は、芳川山(旧大正営林署国有林)から搬出された。
この高知の献木事業は「献木映画」として、昭和6年9月27日の芳川山における起工式から伐採・搬出、四万十川の流材の様子などの各場面を映像で記録されており、高知県林産業の貴重な資料となるもの。無声映画であるものの、活動弁士による解説台本(映画説明書)とともに15巻(1巻15分)が現存している。
芳川山・献木の主な出来事 ※【教会史p○】とは『天理教高知大教會史 第三巻』記載ページ
昭和5年7月26日【教会史p3】
天理教本部直属教会長会議で、教祖50年祭・立教百年祭の執行告示とともに、「教祖殿増築」と「神殿増築」の発表が行われる。
昭和6年2月下旬【教会史p18】
天理教高知大教会は第一次献木探査隊の三班及び別動隊を組織。第一班は大正営林署・窪川営林署管内を担当。主任は山本岩治、補佐に高岡分教会長佐々木眞通となった。
昭和6年4月17日【教会史p36】
中津川桧材の売買契約書を締結。三月初旬、旧大正村中津川・成川山国有林(17林班)で21本の桧を発見によるもので、契約額6500円(換算すると2千万円相当)
昭和6年4月20日【教会史p40】
大正営林署・森林主事郷正美氏から「芳川山ニ原始林アリ」の書状。この数日後、高知大教会宛てに「ヒノキタイボクイクラデモアル ゴアンシンアレ」と二度目の探査となった主任の山本岩治からの入電が届く。しかしその後の発見は芳しくなく残された部分は全くの「入らずの山」として山師も猟師も踏み入れない奥山だけとなった。
昭和6年5月4日【教会史p54】
第三次踏査が、主任・山本岩治と有光権治・濱田道久によって芳川山で行われる。
昭和6年5月13日【教会史p58】
「ゴヨウザイ タイハンソロイマシタ ゴアンシンコウ ヤマハマ」の電報が高知大教会二代会長に届く。探査員は、芳川山国有林内の適材48本の伐採について大正営林署の承諾を得た。
昭和6年6月18日・19日【教会史p60】
高知大教会二代会長は、蒲原勇、西源とともに、芳川山発見木の現地調査を実施
昭和6年6月26日【教会史p63】
天理教本部において起工式が執行された。
昭和6年6月27日【教会史p62】
用材精選を一任された有光権治は、48本中35本が合格木とし、加えて調査中に新たな良材の発見もあり、最終的に40本を選定し、払い下げ申請を行うこととした。
昭和6年8月15日【教会史p88】
大正営林署長(吉枝爲徳)と署員2名による芳川山・実地毎木調査を実施。予定本数の40本に対して、38本払下げ刻印済みとなり、保留の2本も後日再調査で払下げ可能の予約となる。
昭和6年8月27日【教会史p93】
芳川山桧材の売買契約書を大正営林署長と締結。大正村芳川字中川内山外五ヶ山(恵官者山・窪野郷山・屋舗山・大西谷山ほか)の天然桧40本、契約額が10,904円(換算すると3千3百万円相当)
昭和6年9月27日【教会史p101】
9月下旬に芳川山通称屋鋪ノ駄場に伐採・搬出の拠点となる芳川山献木事務所と人夫小屋を建設。
芳川山伐採起工式が高知大教会献木事務所(芳川山国有林内・屋鋪ノ駄場)で執行され、翌28日は伐採式による斧始めを挙行した(祭主・高知大教会二代会長、事業責任者山本岩治・濱田道久、杣頭小野川精馬など)。この起工式から十六ミリ撮影機による映画の撮影が始まった。
昭和6年12月4日・5日【教会史p143】
天理教本部二代真柱様のご用材調査検木に芳川山を視察。天理教本部を3日に出発し4日朝高知に到着。同日午後4時に大正村大奈路に着き芳川山・屋鋪ノ駄場の献木事務所へと向かう。その途中谷間の巨木「天三十二号特大」を検木した。翌5日伐採木の検木調査を進め、「入らずの山(700m)」直下の巨木「「天二十八号特大」に二代真柱様自ら「昭六 一二 五 検木登山記念」と刻み込んだ。途中、変形の桧の古木を発見し払下木に加えることとなった。後日、この木は縮緬目と呼ばれる見事な木目の桧材で本部雛形かんろだいのご用材として使われたという。
昭和7年1月3日【教会史p149】
芳川山桧材40本の伐採が終了。山中の搬出については軌道を敷設し、江師から下田港までは筏による流材となる。
昭和7年2月下旬【教会史p166】
芳川山搬出用レール(2.5km分)が大奈路に到着。大奈路から中津川・成川事業所までは大正営林署のトロッコを利用し、成川事業所から芳川山の栃木ノ駄場までは人力による山越え搬送となる。成川から折合に向かう往還道を登り、芳川別れの手前(一ノ谷の手前の尾根)を栃木ノ駄場に向かって降りたものと思われる。レール運びに半月かかった。栃木ノ駄場から江師(川ノ内集落)・四万十川支流梼原川合流点まで12kmあるため、2.5km分のレールを敷設し運材する工程を4回繰り返さなければならない。第1回目中継土場(献木事務所の屋鋪ノ駄場)、第2回目中継土場(国有林恵官者山の下流域、芳川字サビコを比定)、第3回目中継土場(芳川集落の宮ノ谷川合流点下流お茶堂の間)、第4回目中継土場(川ノ内集落上流の江師字小崎の下側)の4地点と小野川利國氏は『私の思い出』に記述している。
昭和7年4月12日【教会史p189】
二代会長が搬出状況を視察するため芳川山へ赴任
昭和7年6月17日【教会史p189】
芳川山桧材40本を江師までトロッコ軌道搬出完了。ここから四万十川河口の下田港まで100kmの川下りである。
昭和7年7月5日【教会史p193】
芳川山桧材の運送契約書を締結。幡多郡下田町下田港から奈良県丹波市町省線丹波市駅連絡天理教専用側線まで、桧長丸太材63本(300立法末)とある。
昭和7年7月6日~8日【教会史p192】
献木探査開始から1年半。芳川山の献木40本は3日で下田港に到着した。
昭和7年7月19日【教会史p193】
全ての献木は丹波市駅側線に到着
昭和7年7月27日【教会史p194】
天理教本部礼拝場作業場で、芳川山桧柱材の「曳き込みひのきしん」を実施した。
昭和7年10月1日【教会史p208】
中津川材が大奈路貯木場に出揃う。中津川材21本は筏に組んで梼原川の増水をまったが叶わず、陸送に変更となった。
昭和7年12月17日【教会史p209】
中津川材21本の陸送が始まる。大奈路から久礼港までの馬車による陸送で山本岩治が責任者となり、小野川精馬、津野軍司が指揮した。
『天理教高知大教會史 第三巻』に記述される地名や地物をGoogleマップで表しました。
右の写真をクリックすれば。詳細を見ることができます。
<https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Hws_DB_JxrzIj2PS_xtOgm_9MtERCNV8&usp=sharing>
現地を踏査したルートは「YAMAP」アプリで確認できます。
<https://yamap.com/activities/15042603>
天理教「昭和普請」における高知の献木・芳川山に関係する地名・地物と人々
(『天理教高知大教會史 第三巻』から引用)
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「昭和普請」における高知大教会の献納材の一覧(『天理教高知大教會史 第三巻』から引用)
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【提供/天理教高知大教会】
私の思い出
大正町大奈路 小野川利國 手記
私は昭和五年三月二十七日、大正村大奈路尋常小学校を卒業しました。四月より仕事しないといけないのですが、何の仕事をするか考えもしなかったのです。学校では同級生は十八名、男九名、女九名居りましたが、成績はいつもビリの方で、卒業もズビ抜けの生徒でした。
高等小学校に進学した人は一名でしたが、当時の子供は、小学校を卒業したら子守さんに行くか、男子は山仕事に行くか、各家々が現金収入がないので、一銭でも働いてお金を取って家計を助ける仕事をせねばならなかった。
私は三年生の時分から、毎朝、谷からの水汲み、畑の芋のつるを返しとけ、麦の中の草を引けと、母の言いつけで出来ることは、家事の手伝いを毎日しました。
当時、父も祖父母も居らず、母と養女と、兄と私の四人家族でした。母は毎日、営林署土場の倉庫の木炭整理の仕事に行っていました。一日の賃金は七十五銭くらいだったと思います。それで私も卒業と同時に仕事に出ることにしました。
大奈路の地元には昔から山仕事の達人がたくさん居りました。大きな材木を山から搬出する仕事の名人がたくさんいるうちでも名人という先遣りの人、小野川精馬さんが芳川の国有林で仕事をするようになったので、『利國、茶沸かしの仕事に行け。』と言って貰ったので、行くことにしました。
まずは仕事着を作るのに、当時は大奈路にミシンで作業服を仕立てる人、武内夏恵さんが居りましたので、股引(足首に小ハゼ一枚が付いた通称バッチ)二本とシャツ二枚。一枚作るのに四十銭くらいだと思います。地下足袋に素足(靴下なし)でした。小さな道具(錠、輪切り鋸)も揃えて、部落の先輩たちと現場へ行った。
さて、当時は芳川部落へ行くのには車は入らないところで、自転車も乗り入れることは出来なかった時代でした。私たちが国有林内に行くには、「竹ノ谷」へ入って小野川誠幸さんところの前の尾根を、自分の荷物は全部背中に背負って山越えした。通称その道は「せこノ尾根」と昔から言っておりました。ここを越して下って行くと芳川の川奥に下ります。ここに人家がある。佐々木松次さん、佐竹常太さんと両家を借りて国有林内の「屋鋪ノ駄場(やしきのだば)」という場所に事務所と人夫小屋を建てに通い、寝泊まりできる家を造ることから始めたのでした。
この事業は、奈良県天理市の天理教総本部の増改築工事の用材として、天然木の桧で、長さ(当時の単位は全部尺でした)四十尺、十三メートル無節で末口が六十センチメートル以上、全部根本を掘って倒した。本数は芳川山で四十本。折合とで総数六十本でした。
※注:折合五本
私の仕事が始まりました。毎朝五時に起き、まず大きな石油缶でお茶を沸かし、炊事婦さん(かしきさんと言った)の作ったご飯を人夫さんの寝床の各個人にんのところに配る。人夫さん各人の場所の広さは畳一畳分でした。寝るのも食事をするのもすべてその場所でした。人夫さんが起きて食べ終わったら、山の現場で食べる弁当二食分をまた配って、その間に自分も食べ、大人たちと一緒に現場へ行く。
一回目の茶沸かしは午前十時に食事をするとき、午後は二時の二回の茶沸かしが私の現場での仕事で、二時の食事が済んだら三十人~三十五人分の弁当殻※を集めて棒に差して、前と後ろに振り分けに肩に担いで小屋まで帰る。身体が余りに小さいので、『弁当殻が動きよる。』と言って笑われたりしました。
※「弁当殻」は「弁当箱」の方言
そして、夕食の準備からランプの掃除と、日暮れまで色々と用事をし、人夫さんの帰るのを待って、帰ってきたら人夫さんの小使い。購買へ行って味噌とか炒り粉とかを個人のが※を買いに何回も行ったりして、夕食が終わったら風呂に入って、私は夕食の食い反りで寝る。朝五時に留おばさん(かしきさん)に起こされるまで、白河夜船の高いびきでした。
※「個人のが」は「個人のもの」の方言
毎日の日課は変わらず、先輩たちの仕事の要領も次第に分かって、見よう見まねでやれることがあればやる。また小使いもあれこれ取ってこいとか、山仕事の道具の使い方も色々とある。木一本切っても切り方がある。すべて先輩のやることを見て記憶した。桧材の切り方も現場で見た。杣さん二人、根本を掘る人三名、計五名で二日くらい掛かった。
杣さんの指示により倒す方向を定める。材の胴体を傷めないように倒さないと、杣さんの責任になるので、根本を三ツ指(三本足)で立てらすようにしてから、倒す方向に片側の枝だけを切り落として、倒す方の側の枝は残して胴体のなやしに使用して倒す。
いよいよ倒すときには、杣さんは遣り声と言葉を言う。これは昔から山の神様と、また、人が下から上ってくるかも分からんので、この声を三回言うて倒し始める。『この木は左チョウナー! オオナガセに行くぞー!』と、三回大声で必ず杣さんが言いました。
そうして、桧は倒して寸法通り玉切ったら根本の方を先にして、土の上には一度も下ろさないで集積所まで出して行く。途中、傾斜のないところでは「かぐら」という道具を使って引き出した。
また、色々と女で出来る仕事もあって、人夫の奥さんも働いており、この「かぐら」巻きは女十人くらいが一組で仕事をした。「栃木ノ駄場」まで集まるのに、場所によっては、尾根で切った材は、谷までワイヤロープ十八ミリで材をくびって【縛って】立木に巻き付けてソロリソローリと吊り下げて谷まで出してきた。谷間の平坦地に着たら、雑木を切って丸太にして横に並べて、その上に載せて、岩石とか土とかに触れさせないように、空木道を造る。当時、山で木道を造るには全部谷間に自生する蔓でくびり合わした。
※「くびって」は「結んで。縛って。くくって」の方言
木道のできたところは「かぐら」という道具を大工さんで作って、女性の人で十人掛かって、ワイヤロープを取り付けて八人掛かりで巻いて、人夫さんが材の先端を二メートルくらいのところまでツルで張り上げて、ズルリズルリと出してきた。この用材は特殊材で、何処にでもある木ではないので、四十本全部場所が違っているので、日数も掛かるわけです。
「屋鋪ノ駄場」より四キロ余り奥に「栃木ノ駄場」がある。各そこぞこより集めた材を、ここを起点として軌道を造ることになった。軌道を造るのに何処から資材をここに入れるかと思っていた私は、先輩に聞いたら、中津川の下に成川事業所がある。一ノ谷までの営林署の機関車で成川まで揚げて、尾根をレールを肩に担いで山越えして運んできて、「栃木ノ駄場」で大工さんの上岡政藤さんが組み立てして、連結トロッコにした。二台ヘ一本の材を積み込んで、曲がりカーブをスムーズに出すために二台にしたのだそうです。また、軌道のレールの敷設は専門の技術者でないと出来ない。中津川の林盛枝さんでした。この人は、曲線の箇所を見てきて、(レールを曲げる機械)を掛けて、人夫さんに『持って行って合わせて見よ。』と言うと、二本の線がピッタリ合うほどの名人でした。「栃木ノ駄場」より次第に下がってきて、六林班の出口より七、八十メートルくらい登ったところに「とがたび」と言う小さな滝壷がある。その滝壷の上に軌道が掛かったときに、私は午後の二時の食事が終わって弁当殻を肩に担いで帰るときに、滝壷にアメゴが十匹くらい太さ三十センチ余りのがいたので、豆粒くらいの小石を落とすと、虫かと思ってバシャッと泳ぐ。毎日帰るときには五、六分くらい眺めて帰ったことでした。そんなにアメゴがおったけんど、誰一人としてそのアメゴを捕って食べるごとにしなかった。人夫さんたちも良心的に仕事に夢中であったと思う。
当時の人夫さんの一日の労働時間は、朝は夜明けとともに現場に行き、まず目的地(丁場)に着いたら、寒い時期でしたら焚き火をして、個人々々の道具の手入れをする。例えば斧、鋸、舵などの、またトビ口、ツルの先を焼直しして、材を引っ張る道具を毎朝手入れする。それから作業をする。何時ということなしで夜明けから日暮れまでが一人役でした。賃金は上賃が一円十銭前後でした。
私が朝五時起床で、午後七時頃まで走り使いをして一日の賃金四十三銭でした。六ヶ月くらいして四十五銭になり、二年間くらい働きました。この間に一度も家に帰って遊びたいとか、朝寝をしたいとか、また山で寂しくて泣くとか、全然一度もなかった。勉強はしなかった。出来なかった。休みは、お正月三が日、部落のお祭り、お盆休み三日間の一年間に十日くらいで、日曜祭日も休みなしで、年中無休でした。
当時の食費代とかは、お米が大奈路で一升の金額が十五銭くらい(はがき一銭五厘、切手三銭、たばこバット七銭、散髪十五銭、地下足袋七十五銭、お酒一升七十五銭)だったそうですが、芳川の現場では一升二十一銭だったと思います。
毎日のお弁当(食事)は一日四回食べました。人夫さんたちは炊事婦の炊いたお弁当(量り飯)一人八合食べました。私は一回に一合五勺、四回で一日六合、副食は毎日味噌、炒り粉、漬け物、たまに塩鯖の辛いのを。副食品は全部個人々々で準備しなくてはならなかったので、一週間くらいの間に一回は自宅に帰って、副食品を準備して朝三時頃起床して、松明を明かりにして団体で「せこノ尾根」を越して仕事の時間までに到着、一日の仕事に時間の切れないようにしていました。
当時は、人夫さんの賃金は一人ひとり差がありました。一銭二銭のお金で仕事をしました。それで私の一ヶ月の食事代を差し引いて、
一日賃金四十三銭×三十日=十二円九十銭
一日食費お米六合×十二銭六厘×三十日=三円七十八銭
一月賃金 差引残高九円十二銭
このお金(九円前後)を母に渡しました。
「栃木ノ駄場」を起点としてのトロッコ軌道、広葉樹で軌道を造って「屋鋪ノ駄場」の人夫小屋の前の河原が第一回目の中継土場でした。「栃木ノ駄場」から「屋鋪ノ駄場」までの距離は四キロ前後であっただろうかと思うので、川ノ内の四万十川まで中継土場が五回。五回目の最後が川ノ内の四万十川になります。
昭和六年十二月頃であったと思いますが、天理教総本部の大管長(二代真柱様)がお出でのときの写真がありますが、大管長のすぐ後ろに居りますのが私で、前列で杖を持っている方たちは大管長の随行の方々です。十一人居ります人たちが作業員です。作業員は全員で四十人くらい居りますが、芳川部落より通勤で、毎朝自宅を五時頃出発して、道中松明の明かりで私たちと一緒になって現場へ行きました。
大管長さんが根本から掘り倒した材に腰を掛けているところの写真ですが、真下で何か見ている人は、大正村古宿の林徳長さんです。杣さんで、この桧を切り倒した一人です。杣さんが四名居りました。
前後になりましたが、後に見えている削ぎ葺き屋根の家が事務所で、その裏側が人夫小屋です。
第一回目の中継上場である家の前に、ここから奥の材が揃ったので、第二回、第三回、第四回と出して行きました。昭和七年の春先になると、谷渕ではあるし、山椒やイタドリ、木の芽が出る時期が来ると、茶沸かし場に『河原の窪みのある石を焼いちょけよ。』と言われた。食事のとき、弁当をあけてみんなのおかずを、味噌も漬け物も何もかも焼き石の上に載せて、お茶を少しかけて、石の熱によって焼けた味噌を山椒などに付けて、みんなが車座になって食事をしたことは、今思い出しても楽しかった時期です。
ある時、十時の茶沸かしが済み、食事をして、石叔父(広田石次)と蔓を採りに行こうと言うて近くの小さな谷間に採りに行った。しらくち(蔓の名前)がかなり大きな木にぶら下がっているので、蔓に取り付いて木に登った。
そして、切って落としたところが、さて今度は下に降りることが出来なくなった。上がるときは簡単に上がったが、降りることを考えていなかったので困って、『石叔父よーい。来てやー。』呼びよったら、石叔父が気が付いてくれた。『利よー。もっと上にあがっちょれ。じいがこの【隣の】木を切ってそこの「枝の」股へ掛けちゃるけん。叩かれんところまで上がれ』。自分は上へ上へと上がった。石叔父が(はいの木)を切り掛けてくれた。その木は小さい木で、叔父ゃんにぶら下がって降りた。
このとき、蔓一本採っても、一から先輩たちのすることを見よう見まねで覚えねばと思った。鋸、舵、木の根本の切り方、倒す方向など、すべて動作を見て覚えた。
三回目は、民家を借りて寝泊まりしました。佐々木福治さん処でした。その時分お家の裏へ少し上がって行くとイタドリがあって、採ってきて小野川昌さんに酢味噌和えにして貰って食べたことが記憶にあります。第三回目が芳川の部落の二股のところと少し下がったお茶堂の中程に広場があって、そこが三回目の中継土場でした。
四回目は、川ノ内近くの小崎の下側で、歩道の向かいに田んぼがあるところの広場で、中継土場はここで終わりで、川ノ内口で四万十川です。元木と末木とで筏にして、下田港へと出しました。四万十川川口の中村市は当時町でした。
芳川山では終わりましたが、私の住まいの大奈路より中津川谷の途中に、古宿谷国有林があります。その谷からも出しましたが、ここからは三本か、五本までと思います。
そして、古宿の出しが終わると、窪川町折合国有林事業所がありました。
何本出したか記憶がない。五、六本くらいではなかったかと思う。大正村と窪川町とで全部で六十本くらいでした。
折合の出した場所は、折合事務所のすぐ上の谷で二本。事務所より下側の、お檜曽さんに使った谷と思います。その谷で、三本か五本くらいと思います。折合では軌道まで出して私は終わりでした。昭和八年五月か六月までです。二年ニヶ月でした。一日四十五銭が二銭上がっていました。
昭和八年十月頃、四万十川を毎年営林署事業所の材木、中津川、久良川、高取事業所の材を中村町下田まで、バラ流しにしておりました。私の住まいの下に成川事業所の上場がありましたので、学校に行く時分には仕事場で悪いことをして叱られたりした。夏は筏にしてよく下田まで出した。
また大正、窪川には馬車引き、荷車引きが居り、中上佐町久礼まで馬車に積んで材木を出した。昭和の初め頃まででした。馬車引きは、大奈路を朝三時頃出発して、日帰りするのに、午後の九時、十時頃になると話に聞きました。
話の方向が変わっていきよりました。
私も、八年十月頃、大正村での流材も今年で最後の川流しとなるとのことで、また茶沸かしで、後でトビ口と二十四インチの赤塗りの自転車を買って貰って、小さい身体で皆さんに付いて行きました。
大正村下道一キロ半くらい奥の久良川事業所の材を、人夫さんが四万十川の川入れ材とし、浅瀬の箇所は、その材木で堰き止めて、材を浮き上がらせるようにしては、次々と流した。人夫さんは百人くらいの人々で、先盤、中盤、後盤の三組に分かれて立ち返しで、堰出しといって、順次流して、田野々の鉄橋の下もそうして堰をして水を止めたときは十二月初旬であったと思うが、八年の年は子持ち鮎が堰の材と材の水漏れのところに吸い寄せられて、随分採れ、焼いて食べたことでした。
四万十川の六ヶ所の荒瀬、轟の瀬、二股乗り、四手三島瀬、四手上側の大在の瀬、十川上側の小貝の瀬、最後の茶壷の瀬を四万十川の荒瀬と言いました。もう一ヵ所、川登りの七・八間と言う堰もありました。中村町での宿屋は鉄橋の元にあったと思います。
流材の仕事が終わった昭和八年二月の終わりか三月の初めであったかは忘れましたが、最後の日の前日に入野の松原へ行くことになって、皆さんと一緒に行きました。そのとき、海と言うところを生まれて初めて見ました。
翌日中村を出発して大正村大奈路に帰りました。七年の流材のときの私の賃金については、七十五銭くらいと思うが、記憶がない。
これまでの間は、すべて山仕事ばかりで大奈路地区、また近くの部落の先輩の人たちが仕事があるからと言ってくれたり、呼びかけて頂いたりして、手を抱えて遊ぶような日はない。皆さんがよく助け合ってくれました。
年が経ち、月日が経つうちに賃金も一円五銭というところまできました。色んな仕事をしました。
古宿山の国有林で営林署の軌道の工事が始まり、土方仕事もやりました。仕事は大正村内では色んな仕事で休みはなかった。二人で石垣をついた昔話をしたことでしたが、大正内で仕事がないときには、先輩の方々と組を作り、働きに行き、次第に腕前が出来、度胸も出来た十八歳くらいから、奈良県吉野郡上野地方面に仕事に出ました。五、六人くらいの組で、小さい身体で木馬引きもやりました。木馬引きは、登りは泣く泣く、帰りは楽々です。材木の重量でワイヤ通しですので、舵を取っていればよいので、帰りは楽です。
昭和十年頃、土場で仕事をしたとき、ワイヤロープの継ぎ手を自分なりにしていたら、大阪の人が近くにいて、『それはロープ継ぎだからすぐ抜ける、巻き差しにせよ。』と教えてくれた。それでワイヤロープを継ぐことを覚えた。後々非常に私にはプラスになったので、十津川村の木材の搬出には、索道でも八百メートル、千メートルを越すような設備もやっておりました。
私の思い出
大正町大奈路 小野川利國 手記
私の母は、明治二十年八月二十日生まれでした。母の百姓の仕事などを私が知ってきた時期については、何歳くらいからかはあまり記憶にない。「子は親の姿を見て育つ」と言われているが、母は無学であったと思いますが、百姓仕事をしても一年間の全部、時期々々によって、てきぱきとやったように思った。
私は毎日々々、畑や田んぼに行って足手まといになったことと思うが、自分たちはおしめが要らなくなった時分から、小学校卒業頃まで、全部の子供たちは、パンツなんか着けている子供は一人もいなかった。生徒全員が昭和五年頃まで着けていなかった時代でした。夏、川に水泳に行ってもみんな真っ裸でした。
母が家の仕事をするときは、いつも付いて行き、母の仕事を付いてやり、百姓の一年中の仕事内容を見よう見まねでした。母は女同士の方々が部落内に六、七人いたと思う。その人たちと色々と仕事々々によって手間仕事に行ったり、また来て貰ったりしていたときでも、私は付いて行ったりした。
百姓をする道具すべての使い方は、思い出しては使った。百姓の道具といえども、何んぼでもあった。母からは『利國、勉強したか。』と言う言葉はほとんど聞いたことがなかったと思う。
母が仕事に行く朝は、私が出来るような家の用はすべて言いつけて行った。母の言いつけの内容については、春夏秋冬四季を通じてすべて違い、時期に応じた仕事でした。
五年生時分であったと思うが、学校から帰って『麦をダイガラで臼引きしちょけ。』と言いつけられたときに、麦は一度踏んで、干して、またもう一度臼踏みをしないと飯にはならん。一度目の麦踏みをして、庭に筵を敷き天日に干して、早速下の川へ水泳に行って遊んでいたら、武政佐市叔父と、下村始叔父とが、ウナギ突きに二人で来たので、付いて行って見よう思って、ウナギの穴を探しては川下へと行った。川の内口の近くまで行って、佐市叔父が『大きながが居るぞ。』と始叔父に言って、二人お互いに穴に近寄りよった。
私は何気なく空を見上げると黒雲が出始めていた。これは大変と思って川上へ走って帰り始めたら、雨がボロボロと来始めた。麦が雨で叩かれると思って一生懸命走って帰ったけれど間に合わず、麦は濡れてしまっていた。母に随分叱られたことでした。
母は頭の髪はいつもきちっとしていたと近所の方々が話していたことを聞いたことがあった。学問のことについては何も言わなかった。祖父、祖母、また父のことについては一切私たちには話さなかった。ただ、『内らあは、大木の下で、小木が育つようなものであるから、人を見習え。』とよく言われた。
兄丑馬については、学校では成績はよかったであろうと思う。昭和三年卒業生で、一年間か分からないが、田野々青年学校に確か自転車で通学したと思います。
翌五年四月からだったと思うが、トタン細工職人になる考えだったようです。幡多郡中村町東下町、堅田ブリキ店に弟子入りに行くことにしたときに、自転車に二人乗りで田野々の熊野神社の下まで行って、渡し場で別れた。兄は徒歩で杓子峠を越えて中村へ行き、何ヶ月して帰ったかは記憶がない。
兄は家を建て替える考えをいつ頃から思いついたであろう、と思うことは、自分が小学六年のときでしたか、はっきりとした記憶がないが、寺の上の兄の持ち山に、杉、松、家道具になる木があった。竹ノ谷の武政重太郎叔父(杣でした)を雇って切って、杣さんの道具(ハツリ)で、上道具(用材)を取って乾燥さした材を木馬を造って、三尺くらいので、寺の上まで学校より帰ったら、引っ張り下げて来たことを私がした記憶がある。
その時分に製材業者が移動性で鉄道の枕木を挽く人が、製材機を人力でかき揚げていたので、その業者に頼んで色々と家道具を造ったものと思うが、兄が若年で、年齢も十三、四歳で家の建て替えを思いついたこと自体が私には納得がいかない。未だに不思議に思う。
母には話していたであろうが、母は私には何も言っていなかった。そして、昭和七年に、大奈路の大工さん近森広さんでした、小さな家でしたので、代金は四十五円だったと聞いたように思います。当時五円の金子を他人から借りるとしたら、保証人が二人必要でしたから、昭和初期の当時の記憶としては、一銭二銭は大切なお金子でした。
この時代に兄は、小さいとはいえ、家を建て替える考えを、年齢もいかない小学校を卒業したばかりで、材料の段取りから、よくやったと思うのです。
兄はプリキ細工をしもって、田舎芝居が好きで、同輩や後輩の友達を集めては、夜遅くなるまで、芝居の稽古をして、練習が出来たらしく、お寺で一度やって皆さんに喜ばれたことがありました。
そして、兄は大奈路部落、また校下の青年団長も長年しておりました。学校の卒業式などには、先生、部落の区長さんたちと参加した。昭和十二年に写した写真、田野々の永野健さんも参加しています。
同じ兄弟でも十人十色と申しますが、母が、丑馬は外面はよいが、内面が悪いと私に時々言っておりました。外では他人には面白い話をするのに、内では母にも口荒いことを言っておりましたからと思う。
私は前後になりますが、学校へ行っても山、川、何処へ行っても素足でした。寒い時期毎年正月前後に足袋を履くくらいでした。それで向こう腔に生傷の絶えたことがなく、尚かつ、青年になっても兄と一緒に、青年会があろうが、青年大会があろうが、一度も参加したことがなかった。
ただただ毎日々々先輩達と仕事々々で、今日こそ休みたい、遊びたい、朝寝をしてやろうとか、このようなことは一度もなかった。先輩の人たちからは、『遊びたい時期に、よう辛抱すらあや。』と言われ、『尻軽くよう働く子じゃ。』と言うてくれた。昭和初期の頃の地元の先輩たちの賃金は、腕前、また目先の見える人で、一日一円二十銭が最高額でした。一円十五銭、一円十銭、一円八銭とか、一銭二銭の差であったが、とにかく、当時の人夫さんは陰日向なく仕事をした。無言の内で仕事の仕合でした。一寸でもずる仕事をする人は賃金が下がる。勤務時間は夜明けから、夕方は夜星と言う時間でした。
一日の食料は大人でお米毎日八合、一日四回の食事で、主食は炊事婦さんが、午前三時半から起きて炊いて、朝食、昼食の弁当二回、夕食でした。副食は全部個人々々で作っていました。
私たちは、味噌、炒り粉、漬け物、年がら年中、たまに塩鯖くらいが副食でした。私の賃金は始めは四十三銭でした。四十五銭になったのは六ヶ月くらいしてだったと思います。
『大正町誌』伊与木定編 /昭和45年(1970)
(p494~501引用)
天理教徒の献木 昭和五年大和天理教本部の本殿建築用材を高知県下信徒七万より献木をすることに決まり、その用材を大正営林署管内で払い下げを受けることになった。適材調査の為大正営林署の山本課長より大奈路の小野川精馬に芳川国有林内にて該当木を調ベて見て呉れとの話があり、小野川は芳川国有林十二林班の内を尋ねる中「ツブロ」の六本トガにて長さ五十尺の末口二尺二寸以上の適材二本を発見し課長に報告した。課長も見分してこれは良材なりと直ちに大和の天理教本部へも報告したところ中山管長自ら次席の松田副管長を従えて来高、高知教会から山本、浜田両人同伴総勢十二名が大正村まで急行実地調査の結果適材であることが確認されて一同大喜びとなり、早速芳川「屋敷ダバ」に天理教献木取扱事務所ならびに人夫小屋を建築して用材の伐採搬出の支配、本部との連絡に当ることにした。
所要献木の内訳は、
桧丸太素材長五十尺末口二尺二寸 四本
桧太丸素材長四十尺 一尺五寸ヨリ
末口
桧丸太素材長三十尺 二尺マデ 六十二本
計 六十六本
右の様な特種の丸太材である関係上該当の丸太材は大正営林署管内の国有林にても何処でもあるというわけでもないので、六十有余日の日時をついやして小野川精馬が中津川、芳川国有林内を調査の結果、
中津川鳴ル川 国有林内
桧丸太素材長 三十五尺~四十尺
末口径一尺五寸より二尺迄 二十一本
古宿杉ノ尾 国有林内
桧丸太素材長 三十五尺~四十尺
末口径 一尺五寸より二尺迄 二本
(是は五十尺もののウラ木より伐採)
桧丸太素材長五十尺 末口径二尺二寸 一本
芳川 国有林内
桧丸太素材長五十尺 末口径二尺二寸 三本
(胸高廻り一丈一尺五寸有ッタ)
桧丸太素材長 三十五尺~四十尺
末口径 一尺五寸より二尺迄 三十九本
計 六十六本
右によって伐採することになったのである。比の木材は丸太材を磨き丸太として天理教拝殿に使用するものであっ
てツルやトビを打たれない無傷たることを条件にして伐採搬出という困難なものであった。
営林署側の希望もあって一日、此の山の材の伐倒山出し運送の見積りについて梅谷、藤谷市松、小野川精馬、東の山師某等と四名が集合して話合い見積もりを立てた。その見積額
拾壱万五千円あり、九万円あり、八万円あり、三万五千円あり(これは小野川精馬見積り)、営林署の考としては三万五千円ではあまり安価すぎるがとの言葉が出たが、ともかく各人の搬出方法つまり山出しから道路又は川までの運材の方法をたずねた。
竹の谷へ木馬道を作って出すというものあり、テッポー堰で堰流しをもって出すというものあり、種々の意見が出たが、小野川氏は川原を利用して下流へ出す、その方法は芳川谷の川原をとりあげて木馬道を作り、木材を木馬に積んで挽き出すことが一番有効であることを主張した。木馬の牽引方法はカグラ巻きである、下田口の浜で地引網を引き揚げるのに男が二十人かかっても引揚げることの出来ない地引網を僅か男女五、六人でカグラをもって楽々と巻き揚げをしている。この葦引力の強いことを、四万十川の木材筏流しの際に度々下田の浜で実見しておったので、それをもって木馬の挽き出しに利用することを発表した。当時営林署では伐採の材木の間切りをした木材を谷合に落し込み、それを軌道まで揚げるのに才当り五十五銭を要していたが、カグラで巻き揚げる万法を利用して才当り十七、八銭で揚げて居るのでこの実状からみても「カグラ巻き」が一番であると主張した。その結果営林署山本課長から小野川精馬に一っさいを依頼して伐倒、木場落し、搬出をする事に決定された。
元切りには根本を掘り出して根コギ倒しにし鋸や手斧を使われない、根張りは仙がハツリ廻したところへはツルやトビを打ってもよいがその他は絶対トビもツルも打たれない、木場出し運材にもトビもツルも御法度なのでテコを以てコネ出すことにした。
この方法は小野川氏の弟繁城が津野川の渋屋左門と二人で九州の日向で国有林の丸材の木場や小出しにツルを使用せずテコを持ってやったことがあり、そのやり方を聞いて居たので、トビやツルを使わず、テコを使用することにして丸太材に傷をつけないようにした。
最初に芳川川奥谷国有林の桧丸太材長三十五尺から四十尺もの三十九本及びツブロの桧丸太長五十尺末口二尺二寸胸高廻り一丈一尺五寸の大木三本を根コギ倒しにして間切り、木造りのうえ谷合いまで「カグラ」利用で吊りおろしをなして、それより下流芳川谷の川原を大きな岩石を取り除きならして軌道二キロを敷設してトロッコをかまえたのである。
丸太材は全部を筵巻きにして藁縄をもって充分に締めつけて材に傷のつかないようにしトロッコに載せた。それを徐々に引き出して二キロメートル末端のレールのところにトロを停止して後方のレールを撤収して前方に送り出して軌道二キロメートルを敷設して再び丸太材積のトロッコを挽き出したのである。このようにして同じことを繰り返えすこと六回、昭和六年六月に芳川口の川ノ内檮原川辺まで丸太材四十二本を搬出したのである。直ちに同所で丸材全部を筏に組立て、先き櫂、トモ櫂を取付けて筏の中央には天理教七万人信徒献木の大旗を翻して出水を待ったが、折柄適当の出水となって檮原川を乗り出し四万十川に出た、津賀のニソウ乗り三島轟小貝のカヅラ切りの難所も無事に乗り切って下り十川の下流では意外の大出水となったが小野川氏自ら先き櫂を繰縦して四万十川を二十余里無事に乗り切って下田口に着いたのである。
七万の信徒が一念凝って神に献ずる木材の送出である御蔭か山出しから下田口までの間幾多の難所も何の故障もなく送り出すことが出来たのである。
これに勢を得て次は古宿杉の尾国有林から桧長五十尺末口二尺二寸一本このウラ木三十五尺二本を出したのである。杉の尾国有林の軌道は急カーブがあって長大材の積出しは不可能のため杉の尾谷に横棧をならべて丸太材を木馬に乗せて「カグラ巻」によって古宿橋まで搬出トロッコに積載大奈路まで出した。
中津川鳴ル川国有林からも桧丸太材長三十五尺から四十尺もの二十一本を出した。ここの村も山元から鳴ル川口までは「カグラの巻き挽き」によって木馬にて出したのである。
鳴ル川口からはトロッコに載せて大奈路までは何んなく搬出して西の川渡舟場の所にて筏に組んで出水を待ち芳川材同様下田口まで流送を予定したが出水の様子がない。如何に待っても降雨の模様がないのでどうすることも出来ない。そこで止むなく流送の予定を変更して再び丸太材全部を道路上まで揚げて車力をもって久礼港まで陸送することに変更したので丸太材全部は西の川渡舟場から横づりにして「カグラ挽き」によって巻き揚げてしまったのである。
しかし県道は檮原川沿は元の郡道である関係上道巾もせまいカーブも悪い、窪川町の旧郵便局前都築酒店との間が直角廻りである為長大物件は車力では廻らないであろうとの宣伝もあり床鍋からの久礼坂もカーブが沢山で悪い道であると心配されたが、何んとか工夫がつくであろうと考えて、仁井田の車力挽き津野軍次に陸送を請負わしたのである。
軍次は四輪車力を前と後に配り分けて後輪車軸をずっと後方にさげて丸材を積んで中心をとる様にして三十五尺の丸太材を陸送するように準備して馬四頭人四人付で初挽き出したが、初めての長大物件の搬出ではあり屈曲せる廻りの多い旧郡道の道巾も狭まいので車力上丸太材の先端を幾度か内廻りカーブで山手の崖に突き当らんとすることあり、馬も人も車と共に転倒してその下敷にならんとする危険におかされつつヂョーヅ渕の上まで来たとき人馬もろとも車力も一所に道路下の檮原川へ墜落しかけたのである。さすがの軍次おぢもおぢけがついて、「ショウマッコト今日は馬四頭に人四人を殺しよった、もう嫌ぞ」と車力運送を断わる始末となったので、そんなことでいくかと話合いの上小野川精馬も共に車力挽きに協力をすることにして、まづ一番に車台の改良工夫を為して武市鍛冶屋に特別注文で事力の後輪廻転盤を製作して積載の長大丸太材の前方と後方とに区分して車輸を取り付け、前部車愉も後部車輪もカーブにおいて右左の回転を自由自在なものに改善して丸太材を積載して挽き出すことにした。
こん度は馬六頭に人六人付で挽き出したが存外車輸の廻転が具合よく運搬が出来て窪川町大井野まで貨車を進めて行った時に、窪川橋では県土木の監督から馬一頭に人一名付の車力と貨物なら通行さすが一度に馬六頭に人六名車力丸太材では橋上を通行さすことまかりならん。そのままでやるなら下の川を渡れという、きつい達しであるのでこれでは止むを得んと一まづ六頭の馬をといてのけ、車力の方には馬一頭に人一名をつけて置き五頭の馬は新開町の方へ先に通過さしてから車力に取り付けた六分のワイヤーを五頭の馬各々に結びつけ大井野づけに残した丸太積みの車力を挽かしたのである。
このやり方にはむづかしい県土木の御役人さんも文句をつける余地がなく無事窪川橋を通過することが出来たのである。(その当時は窪川橋は木橋の吊橋であった)
次は窪川本町通りである。丁度新正月の前ときておるし町側には門松がずーっと飾ってある。警察から若い巡査が
来て曰く「門松一本を倒しても許さんぞ、シメ縄一本引っかけても許さんぞ」と注意を受けたが、予て問題の都築酒店の角まで無事に進んだのである。このカーブが直角廻りで長大物件が廻りにくいので大変であった。旧窪川郵便局前の電柱に馬車積載丸太材の先端が一尺位の間隔となり、車力の後方丸太材の端が改田屋旅館の家に間隙五寸という前後にきわどい間隔となったので、窪川警察署長も出てきて監視の目前で馬を進めたが、天理教祖様の御利役か、うまくどちらにも接触する事なく通り抜けてほっとした。附近の町民達見物の連中も拍手をして喜んで呉れた。
呼坂も都合よく抜けて床鍋から久礼坂ソヘミミズのうねくりした中程のsカーブで前方山手の崖に丸太材を突きかける危険も幾回かあったが小野川自ら手綱を取り手木を廻して事無きを得車力を進めて久礼町の入り口も無事挽き入れて久礼の港の海浜まで搬出することが出来たのでほっと胸をなでおろした。
折合国有林からも桧丸太材長三十五尺もの十九本を出した。 この材は安芸の浜渦という人が伐採搬出を請負って出したものである。この木材を久礼港へ出すのは、窪川橋や窪川の町内通過と久礼坂の難所在恐れて搬出しなかった。川口から車力に積んで大正村まで陸送、田野々落合の川で筏に組んで下田口まで流送した。この材の内一本を北の川青木谷県道カーブを内廻りの際に廻はり兼て県道下の谷間に落下してしばらくの間橋にかかった様になっていたことがある。
こんな状態から想像してもこの丸太材の搬出が如何に困難なものであったかがわかるのである。
下田港および久礼港から海上を大阪港に運ばれてそのまま大和天理教本部に送り込み千畳敷の拝殿建築村として丸太材その儘を使用してある。土佐大正国有林の桧丸太材としてかがやいている。
桧丸太材以外に桧の角材も使用されてあるが他に松材五百石位を使用している。この松は中津川鳴ル川国有林生産のものであって、四国でも鳴ル川の松か、檮原の芹川の松かといわれた良材である。
右の事業に対しての日数は約丸一ヶ年を要し使用人夫、毎日四十人を使役、賃金は当時普通賃金九十銭から一円位であったが、この事業には壱人役壱円二拾銭を出した。この材は高知県の天理教信徒、七万人が一人一円宛、七万円ラの奉仕によって献木は実現されたものである。
芳川口から流送した筏には七万人献木の大旗を押立てて流送するし久礼出の木材にも献木の旗を立てて出した。
本事業には山元から港口まで幾多の危険や困難に遭遇したが一人の怪我人も事故も起きずに無事献木搬出の大任を果すことの出来たのは天理の神の御守のおかげであると小野川精馬翁の思い出を誌す。
(下記の写真は『天理教高知大教會史 第三巻』に掲載されている写真を本文説明のため再掲したもの。)