大正

たいしょう


20150522初

20170218胡

【沿革】

 文治5年(1189)紀州から田那部一族がこの大正に移り住み上山郷の開発領主になった(熊野神社の棟札)と「南路志」に記録されている。当地には上山城(土居林城)、遅越城、和田林城と三つの中世城址がある。一条家に使え北幡の雄として権勢をふるったものの一条家が長宗我部に敗れ、元親の命による朝鮮出兵も不首尾となり、元親は、上山一族の宗家上山加賀の田野々村給地を没収し直轄地とした。

 この上山加賀の没落当時の記録として、天正検地の仕直検地である「慶長2年2月2日 土佐国幡多郡上山郷地検帳」が残されている。その宗家であった上山加賀の居所が当地字土居屋敷である。

 長宗我部地検帳には本村となる「田野々村」と、「津々羅川村」と「トトロサキ村」の二つの枝村として表現している。

 それ以降の地誌である州郡志(1704-1711)では「上山本村」18か村、「上山本村下分」4か村と区分されていたが大庄屋の居住地はこの地にあり北幡(四万十市の一部を含む)の拠点であった。

 南路志(1813)では「上山村」と「田野々村」を分けている。

 明治22年(1889)4月1日、明治の大合併により、幡多郡田野々村、北野川村、烏手村、相佐礼村、弘瀬村、折合村、市ノ又村、上宮村、芳ノ川村、打井川村、上岡村、下岡村、瀬里村、四手ノ川村、西ノ川村、中津川村、大奈路村、下津井村、江師村、下道村、木屋ヶ内村、小石村の22か村が合併し「東上山村」が発足し、田野々村は大字の一つとなった。

 大正3年(1914)1月1日、幡多郡東上山村は 村名を改称し「大正村」となった。

 昭和22年(1947)8月1日、幡多郡大正村は町制を施行し「大正町」となった。

 平成18年(2006)3月20日、高岡郡窪川町と幡多郡大正町・十和村が合併し新設「高岡郡四万十町」となる。この合併協議において大字田野々を大字大正と調整され、改称した。 

 大字内は街区として大正橋通・西本町・本町・土場通・貯木場・東山通・中町通・新町、南町の9区と特別養護老人ホーム四万十荘があり、それに轟崎とつづら川の12地区(行政区)で成り立っている。各地区の班・組は、大正橋通地区が吾川・上頭、南町地区が南・石路、つづら川地区が押川・集会所・クリオ・ヤガイチ・地吉でその他の地区は未区分となっている。

 

【地誌】

 旧大正町の中央部から南西部。西は十和地域、南は標高650m級の稜線で四万十市、東は希ノ川・瀬里、北は江師に接する、ほとんどが山地。地内の地区は大正・葛籠川・轟崎の3地区からなる。

 大正地区は、地内中央の南で、南流する梼原川と北流する四万十川が合流し、穿入蛇行して西へ流れている、中央が大正地域振興局(旧大正町役場)の在地で、旧町内唯一の街区があり、大正橋通・西本町・本町・土場通・貯木場・東山通・中町通・新町、南町の9区と特別養護老人ホーム四万十荘に分かれている。東西方向の旧国道381号と、南北方向の国道439号が交差し、街区中央を通っていたが、新たに梼原川左岸沿いにバイパスができた。JR予土線が通り、土佐大正駅がある。田野々小学校、大正中学校、大正学校給食センター、認定こども園たのの(田野々幼稚園・田野々保育所)、県立四万十高校、民俗資料館、大正郵便局、四万十森林管理所東山・田野々・下津井担当区事務所、四万十町森林組合大正支所、大正診療所、高知銀行大正支店、窪川警察署大正駐在所、大正生コンエ場などのほか四万十交通大正営業所、無手無冠酒造会社、そのほか建設会社、製材工場、自動車修理工場がある。各種商店も多く四万十町商工会大正支所がある。もと郷社の熊野神社は伊弊冊尊・事解男尊・速玉男命を祭神とし、秋の大祭の牛鬼の行事は広く知られる。同社所蔵の文化財として、県指定有形文化財(彫刻)の木造地蔵菩薩立像・木造如来形立像があり、境内には町天然記念物の熊野大杉・ナギがある。田野々小学校近くに国指定重要文化財(建築物・近世以前・民家)の旧竹内家住宅がある。河内神社、縦ノ木神社、曹洞宗五松寺がある。中世の豪族、田那部氏の上山城跡があり、関連する和田林・土居林・遅越山の各城跡が昭和58年9月以降、逐次調査されつつある。森ノ駄場( 舌状台地) に石斧・スクレイパーを出土した縄文遺跡がある。

 葛籠川集落は、集落のほぼ中央で奥留川がつづら川に合流し北へ流れる。流域に水田、集落が細長く開け、農林業が盛ん。北東部を国道439号が、葛龍川沿いを町道が通り、小学校跡に集会所があり、一ノ又渓谷には温泉旅館の一位荘がある。国有林630haがあり、一の又原生林があり、近くに緑資源幹線林道清水東津野線(四万十市側が未開通)が通じている。河内神社があり、氷室天神社(少彦名命)を合祀。金比羅宮もある。

 轟崎集落は、地内中央をつづら川が北東へ貫流、北東端で、湾曲し北流する四万十川に合流している。合流点に水田・集落が立地。農林業が盛ん。四万十川右岸を国道381号が通り、バス運行1日7便。住宅地やデイサービスセンター百年荘・製材工場・商店がある。リバーパーク轟や轟公園の整備、道の駅四万十大正を含め交流・観光の拠点となっている。合流点の左岸へ轟崎橋を渡ると四万十市へ向かう国道439号がのびている。河内神社がある。

 平成18年の町村合併時に大字の名称を田野々から大正に改めた。

(写真は1975年11月3日撮影国土地理院の空中写真。写真中央部が大正地区)

 

【地名の由来】

 上山郷の中心がこの大正(旧地名・田野々)であった。

 明治の大合併で上山郷は東上山村と西上山村に分かれた。その東上山村は、類似した村名の西上山村、同じ幡多郡の東山村と書簡の誤送などを解消するため、村名改称の議を村議会に諮り、大正3年(1914)1月1日、大正村が誕生した。これが「大正」の地名の由来である。元号にあやかる村名は、明治村は25か所、大正村は8か所、昭和村は17か所と結構多い。明治の合併で新設された大分県南海部郡明治村は、昭和31年(1956)隣接2村と合併し今度は昭和村となったくらいだ。さすがに「平成」を冠する自治体名はない。

 平成18年(2006)3月20日、新設・高岡郡四万十町の発足に合わせ、大正の地名を残したいという田野々地区の有志から要望を受け、田野々地区の区長会や住民アンケートを実施し、大正田野々が多かったが長すぎる地名ということで、結果として大字田野々を大字大正と改称した。

 中世からの由緒ある土地に刻まれた「田野々」地名は、あっさりと「大正」に譲ってしまった。現在の国土地理院の地形図には田野々と大正を併記しているがいずれはすたる運命だろう。それでも田野々の地名は「田野々小学校」「認定子ども園たのの」と施設名に残っている。

詳しくは →たのの(田野々)

 詳しくは →地名のお話→Vol.14:消えた地名(2)大正編


地内の字・ホノギ等の地名

【字】(あいうえお順)

 阿川駄場、足高山、アラセノ上ヘ、池田石路、イデノ谷、出ノ谷、出ノ谷口、ウツケ薮、馬ノサコ、梅ノ木才、ウヤガタ、ウログチ、ウログチノ上、榎サコ、江原下ヤシキ、大栗、大田、大立バイ、大谷平、大平、大平山、大藤、大向山、奥田、尾崎、押川、尾曽越ノ下タ、小畑山、カゲヒラ、影平山、カヂヤシキ、門田、上頭、亀ノ森、亀山、カラ谷、神主屋敷、北亀ノ山、北栗尾、北路、北森、キノツノ、クハ木谷、久保屋敷、栗尾、小井手ノ谷、孝作り、郡山、九日田、五松寺中、御所ノ森、ゴダイ、小フヂ谷、コヲダ、今宮、作兵ノ畝、椎山、シキマキ山、シダヲ、清水、下奥田、下谷山、杓子、地吉、城山、新土居、杉ノ畝、スケノ沢、住吉、セイモト、瀬里越ノ下タ、ソヲヅ、竹ノ谷、竹ノナロ、谷ノヲク、ダバ、玉屋床、タンバ木、忠六山、長楽寺、ツエノ畝、坪サコ、坪ノ尾、テバコ、寺田、天神ダバ、天神山、トイグチ土居屋敷、藤後谷、轟崎、ドヲカク、中谷、中屋敷、西尾崎山、西竹ノ奈路山、ハゴノサコ、ハザコ、橋詰、ハマゴ、東ダバ、ヒソ山、ヒソヲ、ヒソヲノ畝、日ノ路、平谷広岡、富家萩、札ノ越、フヂノダバ、舟田、古酒屋床、古屋ノ谷、ホキノ平、マタジウ、溝ノ平、南路、南セイ、南ノ川、南ノヲク、南溝ノ平、宮クビ、宮ノ畝、宮ノ谷、宮山頭、向ヤ式、目白谷、樅ノ木、森ノ駄場、ヤカイチ、ヤナ場、山神、山ノ沖、要次田、ヨケチ、横道、横山、六月田、ヲキヤシキ、ヲモヤ敷、ヲモ田【147】

※字マスターのクワ木谷、御所ノモリ、梅ノ戈、コウダ、シャク子、タレハ木、西屋シキ、ミゾノ平は修正

※字マスター「日ノ路」の読みは「ひのみち」ではなく「ひのじ」ではないか。同じく「古屋ノ谷」の読みは「ふるやのたに」ではなく「こやのたに」ではないか

※字マスターの「孝作り」、「出ノ谷」、「出ノ谷口」、「藤後谷」読みが違う。

 

(土地台帳・切絵図番順)

・轟崎分

1榎サコ、2瀬里越ノ下タ、3轟崎、4奥田、5キノツノ、6ホキノ平

・田野々分

7ヨケチ、8ウログチノ上、9ウログチ、10六月田、11長楽寺、12宮ノ谷、13南路、14谷ノヲク、15南セイ、16北路、17ヲキヤシキ、18天神山、19宮山頭、20横山、21大栗、22作兵ノ畝、23クハ木谷、24南ノヲク、25馬ノサコ、26セイモト、27○、28下奥田、29門田、30要次田、31神主屋シキ、32石路、33九日田、34カヂヤシキ、35ウツケ薮、36御所ノモリ、37トイグチ、38孝作り、39マタジウ、40久保屋敷、41山ノ沖、42ソヲヅ、43城山、44五松寺中、45寺田、46土居屋シキ、47梅ノ木才、48橋詰、49広岡、50新土居、51池田、52平谷、53亀山、54椎山、55坪サコ、56亀ノ森、57北森、58森ノダ場、59北亀ノ山、60古酒屋床、61樅ノ木、62尾崎、63上頭、64ゴダイ、65目白谷

77杉ノ畝、78シキマキ山、79影平山、80小畑山、81江原下ヤシキ、82ヒソヲ、83大田、84足高山、85郡山、86ツエノ畝、87今宮、88大向山、89○、90〇

・吾川分

66忠六山、67西尾崎山、68尾曽越ノ下タ、69ヤナ場、70アラセノ上ヘ、71阿川ダ場、72宮クビ、73ハゴノサコ、74大立バイ、75ハザコ、76ウヤガタ

・轟崎分

91ドヲカク、92大平山、93舟田、94古屋ノ谷、95宮ノ畝

142天神ダバ、143フヂノダバ、144富家萩、145南ミゾノ平、146ミゾノ平、147スケノ沢、148タンバ木、149清水、150シャク子、151坪ノ尾

・つづら川分

96竹ノナロ、97押川、98下谷山、99ヤカイチ、100テバコ、101コヲダ、102コウダ、103中屋敷、104横道、105中谷、106ヲモヤシキ、107住吉、108地吉、109ヲモ田、110山神、111ヒソ山、112檜ノ木尾山(国有林)、113笠木山(国有林)、114五郎木場山(国有林)、115岡崎木屋山(国有林)、116三ツ喰瀬山(国有林)、117松尾山(国有林)、118古尾穴山(国有林)、119西竹ノ奈路山(国有林)、120ダバ、121東ダバ、122○、123○、124玉屋床、125札ノ越、126日ノ路、127市ノ又山(国有林)、128影平市ノ又山(国有林)、129日ノ平市ノ又山(国有林)、130カラ谷、131シダヲ、132南ノ川、133向ヤ式、134小井手ノ谷、135出ノ谷、136栗尾、137北栗尾、138大藤、139小フヂ谷、140ハマゴ、141大谷平 

※「出ノ谷口、イデノ谷、梅ノ戈、大平、カゲヒラ、クワ木谷、竹ノ谷、タレハ木、西竹ノ奈路山、西屋シキ、ヒソヲノ畝、藤後谷」は重複・不明の部分

 

【ホノギ】

〇田野々村(大正橋、土場、貯木場、西本町、本町、東山、中町、新町、南町)

 田野々村(山郷地検帳p71~81/検地日:慶長2年2月?) (※地検帳に虫食いが多く見られる)

 イケタヒラオカヤシキハシツメ、■スキノ下、ホリノ内、ヲリキタ、トイクホヤシキ、シンヒラキ、マトハ、シントノ

 イシチカチヤシキ、大良タ、ナカレタ、ヒラ谷、ワウトシテン、五月田、辻堂ノ前、ヲカモト、ドウノ前、■ラタ、■ウツハナ、シン■■、ダバ、神田、宮ノ谷セイモト、ウヤカタ ハサコ、西ノ谷、ウヤカタ、下ノ谷

 (p85/切畑分)

 カシツカ、ヲソコエノ下、ワタセノモト、コヱ、カケヤフ、トウゴ谷、カミツ

 ▼田野々村(幡多郡上山高山ハタ地検帳p379/検地日:天正16年1月16日)

 南ノヲク石地岡本谷カミソ ※カミソは現在の「上頭」のこと

 アコウ村(p379) ※アコウは現在の「吾川」のこと

 アコウ

 

〇津々羅川村(つづら川集落)

 ▼津々羅川村(山郷地検帳p81~83/検地日:慶長2年2月?)

 ■モダ谷、タケチ■■、ヲ■ヤシキ中谷ムカイヤシヤカイチ、谷クチ、ウスタテ

 

〇トドロサキ村(轟崎集落) 

 トトロサキ村(上山郷地検帳p83/検地日:慶長2年2月?)

 トトロサキキノツノ

 

 

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【通称地名】

 

 

【山名】

 

 

【峠】

峠(地区△地区) ※注記 

 

【河川・渓流】

 

 

【瀬・渕】

 

 

【井堰】

 

 

【城址】

 

 

【屋号】

 

 

【神社】 詳しくは →地名データブック→高知県神社明細帳

皇子宮/24おうじぐう/鎮座地:城山

(旧:竈戸神社)/24.3かまどじんじゃ/鎮座地:城山

熊野神社/25くまのじんじゃ/鎮座地:ウロクチノ上 ※郷社

(旧:神明宮)/25.7しんめいぐう/鎮座地:山ノ沖

(旧:住吉神社)/25.8すみよしじんじゃ/鎮座地:ウツケ藪

(旧:島宮神社)/25.9しまみやじんじゃ/鎮座地:天神山 ※南町

(旧:山津見神社)/25.10やまづみじんじゃ/鎮座地:宮ノ谷

河内神社/26かわうちじんじゃ/鎮座地:奥田 ※轟崎集落

(旧:金刀比羅神社)/26.2ことひらじんじゃ/鎮座地:横道

(旧:天神社)/26.3てんじんしゃ/鎮座地:天神駄馬

(旧:日室天神社)/26.4ひむろてんじんしゃ/鎮座地:下谷山

河内神社/27かわうちじんじゃ/鎮座地:西竹ノ奈路山 ※葛籠川集落。鎮座地の西竹ノ奈路山は所在地と相違する

(旧:住吉神社)/27.3すみよしじんじゃ/鎮座地:住吉 ※河内神社に合祭され鎮座地は旧住吉神社境内地となったのか

(旧:金刀比羅神社)/27.4ことひらじんじゃ/鎮座地:榎サコ

樅ノ木神社/28もみのきじんじゃ/鎮座地:樅ノ木 ※村社

※神社明細帳には「椴ノ木神社」とある。椴と樅は草書体で類似しており、明細帳転載時に誤植したものではないか。

 椴松(とどまつ)は北海道を中心とした針広混交林から亜寒帯林にかけて植生するもの。命名動機は歴史環境を反映する。 

 


現地踏査の記録


地名の疑問


出典・資史料

 ■長宗我部地検帳(1597慶長2年) ※記述は編集子

 田野々村を含む上山郷の検地の特徴は、慶長地検帳といわれる、仕直検地である。長宗我部による検地は主に天正15年(1587)から天正18年(1590)であったが、当時は長宗我部の勢力拡大に伴う直轄地を確保する必要から、検地のやり直しを行った、その標的の一つが「上山郷」であった。上山一族は、一条家の傘下にあって北幡の雄として権勢をふるったものの一条家が長宗我部に敗れ、元親の命による朝鮮出兵も不首尾となり、元親は一族の宗家上山加賀の田野々村の給地(家臣としての知行地)を没収し直轄地としたのである。

 その記録が「慶長2年2月2日 土佐国幡多郡上山郷地検帳」である。上山郷は「上山六帖」といわれるが、その一冊となるこの地検帳には宇津井川村と田野々村がまとめられている。宗家上山加賀の主な領地であったことからであろうが、上山郷の他の村先だって仕直検地され、直轄地としての「散田」化(「給」と「抱」の二本立て)となった。特に「抱」地とされているものが多いのが特徴である。この経緯については、浜田数義氏の「天正地検から慶長地検へ(下)-幡多郡上山郷の場合ー」土佐史談184号(1990.10月)を参照していただきたい。

 この検地簿冊に「此紙新帳を以写書入但八枚之内」と8枚を差し替えているが、その箇所すべてが「扣」である。仕直検地で「抱」としたのを「扣」に一部を差し替えたのは謎である。 

 

 ▼土佐国幡多郡上山郷御地検帳 刊本幡多郡上の1p71~83、p85/検地:慶長2年2月2日~2月10日)

 田野々村(大正の市街地と吾川集落)の検地は宇津井川村(打井川)の検地に続き始まった。検地日は明確ではないがこの検地簿冊に「慶長二年(1597)二月二日」とあるからその数日後ということになろう。

 最初に見られるホノギに「イケタ大道ノウヱ」、「ヒラヲカヤシキ」とあることから、亀ノ森(四万十高校)の南東緩傾斜地(「下山畠」)のイケタ(字池田)から上ヤシキのヒラヲカ(字広岡)と通り、ハシツメ(字橋詰)へと向かう。次に城山の下のトイ東(字土居屋敷)から時計回りに踵を返し、クホヤシキ(字久保屋敷)、シントノ(字新土居)、イシチ、カチヤシキ(字カヂヤシキ)、ヒラタ谷(字平谷)、五月田(字六月田?字九日田)となる。次に吾川集落に渡ったのかダハ(字阿川駄場)、ハサコ(字ハゴノサコ)、ウヤカタ(字ウヤガタ)ととなり田野々村の検地を終える。

 次に津々羅川村(つづら川集落)と続く。

 この地検帳に「トイ東 一所壱代四拾代 上ヤシキ 田野々村 加賀抱 主居」とあるが、上山一族の統領である、宗家上山加賀氏の居所がトイ東で当地字土居屋敷に比定できる。上山加賀の抱地はこことシントノ(字新土居か)の屋敷地だけである。慶長2年3月24日の布令で土佐国中の庄屋が発令になったが上山郷の庄屋に命ぜられたのが上山加賀と上山四良兵衛である。また、津々羅川村には「上山惣吉良給」とあるなど、元親から不興を買った上山一族であったが上山十兵衛の活躍が「忠義公記」にもあるなど、それなりの処遇もあったと見える。

 

 土州幡多郡上山高山ハタ地検帳 (刊本幡多郡上の1p379/検地:天正16年1月16日)

 地検帳は、慶長2年の「土佐国幡多郡上山郷地検帳」(仕直検地)とともに、それ以前の天正16年の「土州幡多郡上山高山ハタ地検帳」の検地記録がある。

 天正時期の地検帳は、刊本では「幡多郡上山切畑」として上山郷全域の「高山畠」の土地種目についてまとめられている。この地検帳に記録されている村は、田野々村(大正/アコウ村を含む)、十川ノ村(十川)、大野々村(十川)、十川カラス村(古城)、コシロノヲク(古城)、地吉ノ村(地吉)、今成村(十和川口)、鍋谷村(十川)、広瀬村(広瀬)、柳瀬村(井﨑)、アイコノ村(井﨑)、ホキ村(井﨑)、小野々村(小野)、細々村(河内)、大道村(大道)で、田野々村のほかは西上山分が占めている。都合4町7反の面積である。上山郷については天正の時には切畑のみを検地したのか、それともこれ以外は事情により再度慶長時になって検地したのかは定かでない。

 「幡多郡上山切畑」とあるが切畑は、畑(火の田)の漢字が示すように焼畑である。それなのに「高山畠」の字を当てているのはどういった意味があるのか。ちなみに「畑」は山を焼いて灰を肥料として作物を栽培し地力が落ちたら他の場所へ移るという移動農法。「畠」は、白い田すなわち田に水をはらないで作物を栽培する定地農法である。畠は屋敷近くのハタケ(菜園ジリ)で、畑は、里山の開墾畑ということか。

 この中に「アコウ 一所卅代 高山畠 田野々村 アコウ村杢衛門扣 上山直分」とある。この天正時代の検地には上山の直分とあり、慶長の地検帳六冊と幾分違った所有関係を示している。

 田野々村のホノギとしては、南ノヲク(字南セイ)、石地ノ上(字石地の上側)、岡本谷ノヲク(旧大正役場前を流れる岡本谷の奥)、アコウ(大正橋集落の右岸。通称吾川)、カミソ(大正橋集落の左岸。通称上頭(かみず))がありすべて比定できるが、切畑が少ないことから、慶長地検時との重複部分を廃棄し切畑の一部となったのかもしれない。

 

■州郡志(1704-1711宝永年間)

 ・本村(p324)

 上山上村惣十八村の本村として四至には「東限瀬里村西限大川南限家之市北限後山畝東西八町南北一里三十町津野山川在西仁井田川在南過合流戸凡三十餘」

 山川に、後山、亀山

 寺社には、長楽寺、熊野権現

 古跡として「城址三所 和田林在南・遅越山在西・土居林在北 領主田那部氏丗二居之」とある。

 上山本村下分(p344)

 また、上山本村下分として四至は「東限二淀林西限遅越南限葛川北限村中家林東西九町南北五十町戸凡五十餘其土赤黒」

 山川は、後山(在村北)、津野山川(過村西入大川)、仁井田川(自東至西合流津野山川)

 寺社には、五松寺、川内大明神社とある。

 

■郷村帳(1743寛保3年)

 寛保3年に編纂した「御国七郡郷村牒」では、石高210.785石、戸数94戸、人口393人、男206人、女187人、馬24頭、牛4頭、猟銃26挺

 

■土佐一覧記(1772-1775明和・安政:山本武雄著「校注土佐一覧記」p365)

安芸の歌人・川村与惣太が上山(大正)で草枕して読んだ歌

上山

 此の山里に旅寝し待る時

山里の物さびしさはま柴焼く けぶりも雲にまがふ夕暮

※こんな遠くまで来てしまった。旅のかりねに真柴の煙が雲のようにたなびいている。煙は安芸まで届くだろうか(勝手読)

※※大正の三ヶ所を詠んだ与惣太の歌はすべて歌碑として残されている。土佐全域を歩いた紀行歌集である土佐一覧記を紹介した山本武雄氏の著「校注土佐一覧記」は、この大正の歌碑を冒頭で紹介し称賛している。歌碑建設に尽力されたのは武政秀美氏である。この歌は、昭和46年大正町中央公民館前に建てられた。

図書館本系統本では伊与野(宿毛市)→呼﨑(宿毛市)→上山(大正)→矢立森(下津井)→長生(四万十市西土佐)→止々路岐→胡井志(小石)→笹山(宿毛市篠山)の順で、掲載の流れが地理的に整っていないが、広谷系統本では岩間(四万十市西土佐)→長生(四万十市西土佐)→止々路→胡井志(小石)→上山(大正)→矢立森(下津井)となって、四万十川の下流域から遡上している。

 

■南路志(1813文化10年:③p615)

 205上山郷 寛永郷村帳四十七村  元禄郷村帳五十村

上山村 寛永帳無之。元禄帳云、地二百十石七斗八升五合

熊野三山権現本宮十二所(詳細は本文)

四十四社

川内大明神 河内

川内大明神 轟崎川ゟ南

田野々村 則上山本村也

萬龜山五松寺 禅宗洞家豫洲宇和島龍澤寺末(詳細は本文)

古城 田那邊旦増、同永旦居之(詳細は本文) 

 

■掻き暑めの記(1984昭和59年)

 池田(上p139)

 明治6年以降、各村のほぼ中央部に元標が建設された。田野々村の元標は字池田(熊野神社の東方道路横。轟崎つづら川を含めてほぼ中央)に設置されていた。

 子積みの谷(上p257)

 昔つづら川村でえんこうの子が生まれたとこから「子積みの谷」と呼ばれた。

 オメの川原(上p409)

  昔、狼と鷹と熊と三つを獲るものはマトギの名人と云われた。葛篭川村の猟師久四郎は、この三つを同時に獲て山内の殿様に献上して、絵帽子、たつつけ、はっぴの三品を項載して、マトギの名人として、其の栄誉を保持していた。山内の殿様が七十三の撃ち止めの狩猟を上山郷田野々村の眺子の川山でやったとき、ものの見事に大猪をしとめて、殿様から「久四郎あっぱれ、あっぱれ」とほめられた上に「何にぞのぞみは無いか」と言れたが其時久四郎は「コメヲ」と答えて殿様から米を八俵下されたのである。その上に「は-び」をとらすといって「山田五半巻き張りの火縄銃八匁弾」を賜うたのである。オメの川原のホノギは久四郎が殿様に「ホメられたり」「コメをと」云ったりしたことから、つけられたものであるとつたえられた。

 

■ゼンリン社(2013平成25年)

p19:黒川トンネル第二田野々トンネル、梼原川橋梁、第一田野々トンネル、田野々トンネル

大正新橋、石鎚神社

p22:大正橋、大正橋歩道橋、河内神社、樅木神社

p23:五松寺、御所ノ森谷川

p24:田野々大橋、ウログチ川、熊野神社、熊野神代橋

p25:岡本谷川、JR予土線、土佐大正駅

 

■国土地理院・電子国土Web(http://maps.gsi.go.jp/#12/33.215138/133.022633/)

黒川トンネル、吾川、大正橋、田野々、土佐大正駅、四万十コンベンションホール、大正、轟崎トンネル、轟崎、轟崎橋、道の駅、井津井谷、葛籠川、奥留川、一の又トンネル、不動山、不動山トンネル、地吉山

※東山・五松寺付近に神社記号を付してあるが寺院記号の錯誤では

 

■基準点成果等閲覧サービス(http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/index.aspx)

※左端の「点名」をクリックすると位置情報が、「三角点:標高」をクリックすると点の記にジャンプ

敷巻山(四等三角点:標高319.28m/点名:しきまきやま)字シキマキ山1366

大平山三等三角点:標高442.36m/点名:おおひらやま)字大平1391

大谷平(四等三角点:標高569.36m/点名:おおたにだいら)字大谷平1486-20

押川三等三角点:標高637.63m/点名:おしかわ)字押川1402-16

日ノ地(四等三角点:標高522.83m/点名:ひのち)字日ノ地1461-1

蛇ヶ塔三等三角点:標高594.55m/点名:じゃがとう)四万十市片魚字ジャノアナ

不動三等三角点:標高780.46m/点名:ふどう)四万十市古尾字ドヲシ

 

■四万十森林管理署(四万十川森林計画図)

桧尾山(4080林班)

桧曽畑山(4080林班)

笠木山(4081林班)

五郎木場山(4081林班)

岡崎木屋山(4082林班)

桧尾山(4083林班)

コビ穴山(4083林班)

三ツ喰瀬山(4084林班)

日ノ平市ノ又山(4085林班)

市ノ又山(4086林班)

市の又渓谷風景林(4086林班)

影平市ノ又山(4086林班)

 

■高知県河川調書(2001平成13年3月/p56)

つづら川(つづら/四万十川1支川つづら川)

左岸:大正字日の地1461番地の1地先

右岸:大正字カラ谷1465番の8地先

奥留川(おくどめ/四万十川1支川つづら川2支川奥留川)

左岸:大正字地吉1439番地の21地先

右岸:大正字西竹ノ奈路山1457番の23地先

 

■四万十町頭首工台帳:頭首工名(所在地・河川名) 

轟崎

宮の畝(大正字宮の畝924・ワルヤ谷川

南水平(大正字南水平1492・水平谷川

溝平(大正字溝平1459-15・溝平川

 

つづら川

地吉山(大正字地吉1438・地吉谷川)

中谷(大正字中谷1007-1・中谷川)

中屋敷(大正字中屋敷1004-2・中屋敷谷川)

一ノ又(大正字カラ谷1465-1・一ノ又川)

南ノ川(大正字南の川1471-1・南ノ川

コウダ(大正字テバコ972・テバコ谷川

イデノ谷(大正字イデノ谷1475-イ・イデノ谷川

小藤谷(大正字小藤谷1148・小藤谷川

大藤谷(大正字大藤1154・大藤谷川

押川(大正字押川1401・押川

 

■四万十町橋梁台帳:橋名(河川名/所在地)

〇田野々

孝作リ橋(/大正字)

新土居橋(/大正字)

山ノ沖橋(/大正字)

カジヤシキ橋(/大正字)

ゴショノ森橋(/大正字)

寺田橋(/大正字)

山ノ沖3号橋(/大正字)

山ノ沖4号橋(/大正字)

寺田2号橋(/大正字)

城山橋(/大正字)

山ノ沖2号橋(/大正字)

池田橋(/大正字)

坪サコ橋(/大正字)

ウログチ橋(/大正字)

田野々大橋(/大正字)

大正橋(/大正字) 

大正橋歩道橋(/大正字)

〇つづら川

葛籠川橋(/大正字)

宮ノ畝橋(/大正字)

横道橋(/大正字)

地吉口橋(/大正字)

轟崎葛籠川線1号橋(/大正字)

井津井谷橋(/大正字)

押川橋(/大正字)

デバコ橋(/大正字)

竹ノナロ橋(/大正字)

東ダバ橋(/大正字) 

一位橋(/大正字) 

栗尾橋(/大正字)

栗尾2号橋(/大正字)

栗尾3号橋(/大正字)

 

■四万十川流域の文化的景観「中流域の農山村の流通・往来」(2010平成21年2月12日)

 ・ 25市ノ又渓谷風景林

 市ノ又渓谷風景林は、四万十川の支流、葛籠川(つづらがわ)の原流域の国有林「市ノ又山」にある。 樹齢200年をはるかに越えるヒノキ・モミ・ツガなどの巨樹が樹立している。その一部に遊歩道があり、豊かな大自然の姿を見ることができる。戦後の復興や日本の発展への木材の需要に対し、積極的な木材の供給に応えてきた国有林の一部である。

 ・ 34大正橋

 大正橋は、四万十町大正の四万十川から上流に約500m、支流梼原川に架かる橋である。県道窪川宇和島線の橋梁として、昭和3年3月に完成した。朱色に塗られていることから住民に「赤鉄橋」と呼ばれている。

 大正(旧田野々)には、「上頭の渡し」と呼ばれる渡し場があった。これは、上山郷上分と上山下分(四万十町十和地区)及び下山郷(四万十市西土佐地区)に通じる重要な往還用の渡しであった。この橋の完成により、西土佐・宇和島方面へ自動車の通行が可能となった。 大正橋は、四万十川に沿って延びる国道381号線の橋梁として大きな役割を担い、流域の経済の流通や文化の交流・発展に大きく寄与した。

 四万十川の景観と流通往来の歴史を理解するうえで重要な建造物であり、国の登録文化財に指定されている。

架橋年度:昭和3年 / 管理:町 / 構造:鋼製3連ワーレントラス橋 橋長138m・幅員4.6m 親柱花崗岩製

 

■四万十町広報誌(平成19年6月号) 

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知っているようで知らない私たちの町0801【大正(田野々)】20070601.p
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